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検索対象: 宮本武蔵(二) (吉川英治)
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1. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

者の手から逃げたいのじゃよ』 ちに帰って来られよう』 巻『四、五町ほど先へ行ったら、北へ降りる小道があるで、そこ 『それやあ造作もねえこったが : をかまわす降りて行けば、大津と坂本の間へ出るがな』 『案じるな。わしは、悪者でもなんでもない、今の婆どのも、 の 『トつか : あの元気で走れるようなら心配ないから抛っておくのだ。 と、婆はそわそわして、 今ここで手紙を書く。それを持って、洛内の烏丸家まで行って もと 『では、誰か後から追、 、しかけて来て、お許になにか訊いても、来てくれ。返事はおまえの茶店で待っている』 知らんというてくれよ』 四 しい捨てると、婆は、怪訝な顔しているその女の歩みを追い かまきり びつこ したた 越して、跛行の蟷螂が急ぐように、先へ駈け去ってしまった。 武蔵は、矢立の筆を抜いて、すぐ手紙を認めた。 お通ヘーーである。 武蔵は見ていた。苦笑しながら岩蔭を起ってしずかに歩き出無動寺にいた幾日かのあいだにも、折あらばーーーと機を心が けていた彼女への便りを、 かめ 瓶を抱えてゆく女房のうしろ姿が先へ見えた。武蔵が呼びと 『では、頼むそ』 めると、女は立ち竦んで、なにも問わないうちから、なにも知と今、女に渡し、自分の牛の背にまたがって、そこから半里 りませんと答えそうな顔つきをした。 ほどを悠々と牛の歩みにまかせて歩いた。 だが武蔵は、そのことには触れないで、 ほんの走り書きの一筆であったが、 使に持たせてやった自分 『おかみさん、おまえの家は、この辺のお百姓か、それとも本の手紙の中の文言を思い泛べーーーそれを受け取るお通の胸をも - 一り 樵か』 想像して、 『わしの家かえ ? わしの家は、この先の峠にある茶店だが』 『二度と、会えようとは思わなかったが』 」、十ム、こ。 『峠茶屋か』 『へ工』 彼の笑顔には、明るい雲が映えて見える。 、ろどこくう 『ならば、なおのこと、都合がよい。おまえに駄賃をやるが、 生々と夏を待っ地上の何物よりも、晩春の碧落を彩る虚空何 洛内まで一走り、使に行ってくれないか』 物よりも、彼の顔一つが、いちばん楽しそうであり、また、漫 『行ってもよいが、家に病人のお客人がいるでの』 剌としていた。 『その乳は、わしが届けてやった上、おまえの家で、返事を待『 : ・ : この間のあの容態では、まだ病床にいるかもしれない っているとしよう。ここからすぐ行ってくれれば、陽のあるうでも、わしのあの手紙が届いたら、すぐ起きて、城太郎とふた けげん 2 イ 8

2. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

『お武家さま。お武家さま』 うな気がして、徴笑まれる。 巻通夜のひちりきは、歩いているうち、もう余程さっきから耳「 : : : わしか』 四、五間を隔てたまま、 その笙やひちりきの音か には聞えていたのかもしれない たちおも の 『六、よ、つで、こき、います』 ら伊勢の宮の稚児の館が憶い出され、腫んだ足をひき摺って登 ばかまえばし ばんげ つらら 腰のひくい凡下だ。職人袴に烏帽子を被っている。 った鷲ヶ岳の樹々の氷花が、ふと考え出されたのであろう。 あたま はて ? と武蔵は、自分の爽かな頭脳をそこで疑って見『なんだな ? 』 あかあか 『ひょんなお訊ねをいたしますが、この道筋に、明々と点して このすすやかな心地は、実に、一歩一 ざるを得なかった。 歩、死地へ足を向けている体から来るところのーー。自分でも意起きていたおやしきはございませぬかな』 『さ。気がっかずにまいったが、なかったように思う』 識しない極度な恐怖のうつつではあるまいかと。 そう、自分に訊ねて、びたと自己の足を大地に踏み止めてみ『はて、それでは、この道筋でもないかしらて ? 』 しょ・つこくじ 「なにをさがしておるのか』 た時、道はすでに相国寺の大路端れに出ていて、半町はど先に やかたついじ かわも は、ひろい川面の水が銀鱗を立てて、水に近い館の築地にまで「人の死んだ家でございます』 『それならあった』 その明るい光りをぎらぎら映していた 「お、お見かけなさいましたか』 と、その築地の角に、人影が一つ黒く、凝と立ってこっ 「この深夜だが、笙やひちりきの音がもれていた。そこではな ちを見ていた。 いか、半町ほど先だった』 『違いございません。先に神官方が、お通夜に行っております はずで』 武蔵は足を止めた。 先に見せた人影は、反対にこっちへ歩き出して来る。その影『通夜にまいるのか』 ひつぎつく っ 『てまえは鳥部山の柩造りでございまするが、うかつにも、吉 に従いて、もひとつ小さい影が月の道を転がって来る。近づい 田山の松尾様と合点して、吉田山へお訪ねいたしましたとこ てから、それはその男の連れている大だとわかった。 わ、・も、つ、 ろ、もう二月も前にお移りになったのだそうで : : : い あたり ある 手足の先にまでこめていた或力を急に抜いて、武蔵は無言の夜は更けて問う家とてはございませぬし、この辺も知れ難いと ころでございますなあ』 まますれちがった。 『吉田山の松尾 ? 元吉田山にいてこの辺へひき移って来 犬を連れた通行人は、通り過ぎてから遽に振向いて声をかけ た家と申すか』 にわか ふたっき かぶ / 92

3. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

『なんじゃ、そのいいざまは』 四 : いったいおれの女房にする女は、おばばが 『じゃあ訊くが : 持つのか、おれが持つのか』 『 , れ』 の 『知れたことをいやる、わが身のもっ妻でのうてなんとする』 厳しい母に返って、お杉は大地に坐り直した。 : な、ならば、お、おれが選ぶのが、あたりまえじゃない この婆とても、 風『今が、汝が身にと 0 ても、性根のすえ時。 か。それを』 もう十年二十年先までは寿命も知れぬ。こういう声も、わしが 『まだそのように聞きわけのないことばかり : : : 。汝が身はい 死んでしもうた後は、二度と聞きたいと思うても聞けはせぬそ』 ったい幾歳になるのか』 分りきったことをーーーというように、又八は横を向いた 『だって : ままなのである。 しいくら親だってあんまりだっ、勝手すぎる』 この息子とこの母親とは、どっちも余り隔てを知らないため お杉は、わが子の機嫌を損じてもならないと、心の隅ではま た、気がねするように、 に、ややともすると感情と感情ばかりが先に立って、感情を出 おなご 『のう、これ。お通ばかりが女子ではなし、あのような者に未した後から言語が出るという始末だった。そのためにかえっ 練をのこしやるな。もしこの先、おぬしカ 。、、ほしいと望む女子て、お互いが理解をはぐらかし、すぐ角突きあいになるくせが あった。それはたまたまの場合だけではなく、家庭にあったむ があれば、この婆がその女子の家へお百度踏んで通うても いのち いやわしが生命を結納に進上しても、きっと貰うてやりまするかしから、そういう家風であったが、まだ習性となっているの よ ) っこ 0 がの』 『勝手とはなんじゃ、汝が身は抑、たれの子か、たれの腹か ら、この世には生れて来たか』 だがの、お通だけは、金輪際、本位田家の面目として、 『そんなこといったってむりだ。おばば : : : おれはどうして 持たすことは相成らぬ。おぬしが、なんといおうが、まかりな らぬ』 お通が好きなんだっ』 も、お通と添いオし さすがに、青ざめている母の顔へ向ってはいえずに、又八 『もし、飽までおぬしがお通と添う気なら、この婆が首打っては、空へ向いてうめいた。 それからどうなとしやるがよい。わしの生きているうちは お杉の尖っている肩のほねが鳴るようにふるえ出した、 と田 5 , っと、やにわに、 『おばばー 突っかかって来たわが子の権まくにお杉はまた、膝に角を立『又八、本性か』 と、 てて、 いって、いきなり自分の脇差を抜いて喉へ突きたてよう けん そもそも

4. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

( ーーーどうなるのだ、こうして二人は。おれの剣は ! ) 山を仰いで、彼は唇を噛んでいた。余りにも小さい自分が恥 むか じられてくる。そうして、駒ヶ岳と対い合っていることさえ苦 しくなってくる。 『まだ来ない』 耐りかねて、ぬっと立った。 それは、もう疾うに、後から見えて来なければならない筈 の、お通と城太郎へいった呟きである。 ゃぶはら さっき関所茶屋から程遠からぬ場所で、本位田又八が、お通 今夜は藪原で泊るといってあるのに、宮腰の宿場もまだ遙か の牛に鞭打って、彼女ぐるみ、何処かへ攫って行ったという事 てまえなのに、すでに陽は暮れかけているではないか。 ここの丘から見ていると、十町も先の森まで、一眸に街道はは、目撃していた旅人の口から伝わって、もうこの街道筋で は、隠れもない噂ばなしにのばっている。 見渡されるが、それらしい人影はいっ迄も見出せない。 丘にいた為、それを知らずにいたのはかえって武蔵一人であ 『はてな ? 関所でなにか暇どっているのだろうか』 捨てて行こうかとすら惑いながら、その影が、うしろに見え その武蔵は今、倉皇と、元来た道の方へ駈け戻って行った なくなれば、武蔵はすぐ心配になって、一歩も先へは出られな が、すでに事件が伝わってから半刻ほども経た後の事である。 、刀事 / もし彼女の身に何等かの危急が襲ったとすれば、間に合う そこの低い丘から彼は駈け降りた。この地方に多い放し飼い おどろ の野馬が、彼の影に愕いたもののように、薄陽の原を八方へ逃かどうか。 『亭主、亭主』 げて飛ぶ。 しよう 関所の柵は、六刻で閉まる。それと一緒に、床几をたたんで 『もしもし、お侍さま。あなたは牛へ乗った女子衆の、お連れ いた茶店のおやじは、後に立って、この喘ぎ声でよぶ人影に、 、求じゃ、こざいませんか』 者 『なにかお忘れ物でも ? 』 しいながら側 彼が、街道へ出るとすぐ、往来の一人が、そう、 と、ふりかえった。 冠へ寄って来た。 ここを通った女子と少年を探しておる 『いや、半刻ほど前に、 曾『えつ、その者に、なにか間違いでもござったか』 木先のことばを聞かないうちに、虫の知らせか、武蔵は早口にのだが』 ふげんさま 『ああ、牛に乗った普賢様のようなお女中でございましたな』 返した。 っ - ) 0 おなごしゅう はる 木曾冠者 おなご み、ら 29 ノ

5. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

あたり : この辺で』 すこし道を降りてゆくと、本願堂の門前で、また、さっきの 次郎に二人は出会った。 黙って、二人が顔を振ると、 『おかしいな ? 三年坂の辺で、見た者があると八、 = 日したのた 顔を見あわせただけで、どっちも黙って通りすぎた。お杉が が、さすれば、この辺の御堂で夜を明かすつもりにちがいない振向いて見ていると、小次郎の影は子安堂から三年坂のほう すぐ へ、まっ直に降りてゆく様子 初めは相手を置いていた言葉であったが、途中から独り言の『険しい眼づかいをするよのう。 : 武蔵のようじゃ』 ようになって、それ以上は問いようもなく、なにかまだ、ふた つぶやいているうちに、婆の視線がなにヘ触れたのか、ぎく ことみこと呟きながら、小次郎はどこともなく立ち去ってしま と、背のまるい体に衝動を見せて、 ふくろ 婆は、舌打して、 梟の啼くような声を出した。 おお 『なんじゃあの若者は、刀を負うているところを見れば、あれ 巨きな杉の樹の蔭だ。 たれかその蔭に立って、手まねき でも侍じやろが、これ見よがしの伊達姿して、夜まで女のしり している。 を追うていくさる。 : ええ、こちらはそれどころじゃない』 婆の目にだけは、闇でもわかる人影だった。 又八にちがいな お通は、お通でまた、 ( そうだ、さっき旅籠へ迷って来たあの女・ーーあの女に違いな ( ーーー来てくれ、こっち ) 手で物をいっているのはその意味らし い。なにか、憚ること 武蔵と。ーー朱実とーー小次郎とーー、そう三人の関係を、いく があるとみえる。おお、いじらしい奴・ーーというように婆のひ ら考えても解せない想像の中にのばせて、ばんやり見送ってい とみはすぐ子の心持を読んだ。 『お通よ』 : もどろ、つ』 うしろを見ると、お通は十間ほど先に立って、婆を待ってい あきら 婆は、がっかりしたように、諦めの言葉を投げて歩き出し 悲た。たしかに地主権現と書いてあ「たのに、又八は来ないし、 『ーーーそなた、ひと足先へ行かっしゃれ。そうかというて、あ ちりまづか 母滝の音の寒さは毛穴をよだたせる。 まり遠くへ去んでもならぬそよ、あの塵間塚のそばに立ってい 悲 ゃい。すぐ後から行くほどに』 お通が、素直にうなずいて先へ行きかけると、 だてすがた

6. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

『お通っ : : : 』 『小袖を訊いているのじゃない、胴着を出してたも。それから 足袋を洗うてあるか、草履の緒もゆるい。旅宿へ告げて、わら と、小部屋の隅の炉ばたからお通が答える。 草履の新しいのをもろうて来ておくりやれ』 『もう茶など注いでも無駄なことじゃ。子安堂の堂衆は帰って返辞がしきれないほど、婆のことばが次から次へお通を追 しもうたがな』 『もうお帰りになってしまいましたか。それでは、お婆様に一 なぜという理由もなく、お通はそのことばに一つも反抗はで ぶく』 きなかった。黙って見ていられる眼にさえ、心が竦むのである。 「人に出しそびれたのでわしへ振向けておくれるのか。わしの草履をそろえて、 腹は茶こばしではないそえ、そのような茶、飲みとうもない 『お婆様、お出ましなさいませ、お供をいたしまする』 と、先へ出ていうと、 それよりすぐ支度しゃい』 : え、どこぞへ、お供するのでございますか』 『提燈を持ったか』 『そちの待っている話を今夜つけてやろうほどに』 おなご 『うつけた女子よの、音羽山の奥まで行くのに灯りなしでこの 『あ : : : では今のお手紙は、又八様からでございますか』 『なんなとよいがな、そなたは黙ってついて来ればよいの婆を歩ます気か、旅宿の提燈を借りて来なされ』 『気がっきませんでした 今すぐ』 くりや 『それでは旅宿の厨へ、早くお膳部を持ってくるようにいうて と、お通は自分の身支度は何をする間もない。 しオカしったいどこへゆくのだろうか ? 参一りましよ、つ』 音羽山の奥と、つ ' ー、、 そんなこともふと考えたが訊いたら叱られるであろうと思 『そなた、まだか』 『お婆様のお帰りを待っておりましたので』 、お通は黙って灯りを提げながら三年坂を先に立って歩いて ひるまえ 行く 『よけいな気づかいばかりしていやる。わしが出たのは午前、 うち ひる 今まで食べずにおられようか。午と夜食をかねて外で奈良茶の しかし、心の裡で、彼女もなんとなくいそいそしていた。先 地 とすれば、か めしを済ましてきました。わが身まだなら急いで茶漬なと食べ刻の手紙は、又八からであったに違いない 路 なされ』 ねがね婆とかたく約束してある問題の解決を今夜こそはっきり ろ 決めてくれることであろう。どんな嫌な思いも辛い気持も、も うわずかな間の辛抱である。 ふ『音羽山の夜はまだ肌寒かろう、胴着は縫えているか』 『おト袖はもう少しでございますが : ( 話がついたら、今夜のうちにも烏丸様のほうへ戻って城太さ さっ

7. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

たたず 清水の辺で、武蔵をつかまえ、年よりの身で悲壮な真剣勝負をの間にある道の梅の樹の下に、その女は佇んでいたが、お通の 挑んでからのことである。当時、その実情を目撃していたこの顔を見て、 かご 『あの : : : 』 土地の籠かきだの荷持だのの口からそれが評判になって、 間が悪そうに頭を下げ、 ( あの婆は気丈だ ) 『 : : : あの、こちらは、宿屋ではないんでしようか。路地の入 ( えらい気丈者よ ) かけあんどん 口に、はたごと書いた掛行燈が見えたので、はいって来たんで ( 敵討に出ているのだとよ ) そんな沙汰からいっとなく、婆の人気はひろまって、一種のすけれど』 と、引っ込みがっかないように、もじもじしていう。 尊敬にさえなっている。 だから旅籠の者など猶さらのこ ひと - 一と お通は、それに答えるのも忘れて、女の顔から足の先までを と、お杉の口から一言、 おなごゆえ ( ちと仔細ある女子故、留守のまに逃げぬよう看ていてくださ見つめていた。その眸が異様に先へは受け取れたに違いない 。しよいよ、間が悪 袋路地と知らすに間違って入って来た女ま、、 れ ) とでも吹き込まれれば、それを守るに忠実なのは当然であっそうに、 『どこの宀豕でしよ、つ』 まわ いずれにしても、お通はここから今では無断で出ることは許囲りの屋根を見まわしたり、ふとまた側の梅の梢へ、 されない。文使いをやるにしても、宿の者の手を経なければ出『まあ、よく咲いている』 と、テレた顔を上げて、見恍れるような素振をしたりしてい 来ない芸だし、結局、城太郎の訪れを待つよりほかに策はなか ( そうだ、五条大橋で ! ) お通はすぐ思い出したが、また人違いではないかとも迷っ 障子の蔭へ身を退いて、彼女はまた針の目を運び始めてい 元日の朝であった。 て、記憶へ念を押してみるのだった。 た。その縫物もお杉の旅着の仕立て直しだった。 あの大橋の欄で、武蔵の胸に顔を押しあてて泣いていたきれい するとまた誰か外に人影が映して 地 な娘。ーーー先では知らなかったであろうが、お通には忘れ難い 『オヤ ? 違ったかしら』 路 なにか敵ででもあるように、あれ以来絶えず気にかかって 聞き馴れない女の声がする。 ろ いたその女性ではあるまいか。 往来から路地をはいって来て、ここの袋地内の畑や離屋に、 ふ勝手がちがったらしくこう呟いているのである。 何気なく、お通は障子の蔭から顔を出してみた。葱畑と葱畑 はなれ みと

8. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

ど、取次いでくれないか。それでなければ、ここへ呼んでくれ 扇屋の若い者は、子供と分ってほっとしたような顔をした。 けれど、先に恟ッとした驚きの反動がむかっと、その顔に筋を 立てて、 『なんだ汝は。もの貰いか。風の子か 武蔵様なんて、そ んな者は、いねえいねえ、宵の口から暖簾先へ、うす汚ねえ風 体してはいって来やがって、ササ出て行け出て行け』 つま とら 襟がみを抓んで、外へ持って行こうとすると、城太郎は、虎 河豚のように勃然と怒って、 『なにするんだ、おいらは、お師匠様に会いに来たんだぞ』 てめえ 『ばか野郎、汝の師匠だかなんだか知らねえが、その武蔵とい う人間のために、おとといから大迷惑をしているところだ。今 朝も、今し方も、吉岡道場の使が来て、それにもいってやった 通り、もう武蔵はここにはとっくにいねえのだ』 らんまん 爛漫と、楼に灯は入ったが、まだ三筋の柳町に、買手共の影 『いないなら、 , 入人しく、 いないといえば分るじゃないかオ は見えない宵のロであった。 んだって、おいらの襟くびを掴むんだ』 おお 扇屋の若い者は、何気なく入口の人影を見て恟ッとした。大『暖簾へ首を突っ込んで、気持のわるい眼で中を覗いていやが 暖簾のあいだから首を入れ、家の中をキョロキョロ覗いているるから、おれはまた、吉岡道場の廻し者が来たかと思って、ひ のれん 二つの眼に驚いたのである。暖簾の裾に汚ない草履と本剣の先やりとしたじゃねえか。忌々し、 し小僧ッ子奴が』 が見えたので、なにか途端に、勘ちがいをしたものらしく、あ『びつくりしたのは、そ「ちの勝手じゃないか、武蔵様は、何 君 わてて他の男達をよび立てようとすると、 時頃、そしてどこへ帰ったのか、教えてくれ』 の『おじさん』 『こいつ、さんざん人に悪たいをついていながら、今度は教え 羅と城太郎がはいって来て、いきなりこう訊ねた。 てくれなんて、虫のいいことを吐かしやがる。そんな番をして うち い「 0 か』 伽『ここの楼に、宮本武蔵様が来てるだろ。武蔵様は、おいら のお師匠さまだから、城太郎が来た「ていえば分るんだけれ『知らなきゃいいから、おいらの襟首を離せ』 のれん 『何するとこ』 『嫌な子だね ! 』 睨みつけて、その女は、通り過ぎてしまった。 なんでそうされたのか、城太郎はそんな不審にたじろいでは いない。懲もせず次々に、六条柳町への道と、そこの扇屋とい う家を訊いて歩いた きやら 伽羅の君 ろう つごろ てめえ わ 3

9. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

すがたに似あわない猛々しい声であって、三度目の一喝は殊 あたり 四 さら辺の闘を払うように颯爽としていたが、すでに相手のかっ こうで頭から敵を呑んでいた又八は、 先刻の大の群ではないが、威嚇したらすぐ尾をたれて逃げる 『おれか、おれは人間だ』 だろうと田 5 いのほか と、こう揶揄い半分に出て、笑う必要もないこの際に、強、 『おもしろい』 て、にんやりと顔を歪めて見せたものである。 と、相手の前髪男は、又八の予期とはちがって、ひどく好戦 果せるかな、前髪は、くわっと血を顔へのばせたらしい 的な物腰となり、 さむら、 『名もないのか。ーー名もない人間だと卑下するのか』 『見うけるところ汝も武士の端くれらしい。久しくそういう骨 しやくしやく 激越に突っかかって来るのを、又八は、綽々として、 つばい人間に出会わないので、背中の物干竿が夜泣きをしてい 『てめえのような、氏素姓の知れねえ奴に問われて名乗る名はた折でもある。この伝家の宝刀も、自分の手に渡ってからまだ さび 血に飽かせたことがないし、すこし錆も来ているから、汝の骨 と、やり返す。 で研いでやろう。 ・ , : 、、逃げるなよ、しさとなって』 『だまれつ』 退くに退けないようにして、相手は要心ぶかく、言葉で先に 若衆の背中には、中身だけでも三尺もあろうかと思われる大縛ってくるのだった。しかし、その手に乗せられてはなどとい 刀が斜めに乗っていた。 う先見は持たない又八なのである。まだ十分、先をあまく見 肩越しにのぞいているその柄がしらとともに前髪はすっと前て、 へ身をかがめて、 『広言はよせ、考え直すなら今のうちだそ、足もとの明るいう いのち 『そちとわしとの争いは後で決めよう。わしは、この樹の上にちに失せてしまえ、生命だけは助けてやる』 かくれている女を降ろし、この先の数珠屋の宿まで連れ戻るか ところで、 『その言葉は、そのまま、そちへ返上しよう。 ら、それまで待っておれ』 そこな人間殿、先程黙って聞いておれば、わしなどへ名乗って 『ばかをいえ、そうはさせねえ』 聞かすような名でないと、だいぶ勿体ぶってござったが、その 只『なんじゃと』 御尊名をひとっ伺っておこうではないか。それが勝負の作法で 次 『この娘は、おれが以前女房にしていた女の娘。今でこそ縁は もあるし』 うすいが、難儀を見すてては通れない。おれをさし措いて、指『おお、聞かせても、 ししか聞いて驚くな』 人 『驚かないように、胆をすえておたすねしよう。 二でもさしてみろ、たたっ斬るそ』 す、剣のお流儀は』 からか ゆが うじすじよう つか ずすや かっ してま 7

10. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

霧 風 れば生れて来ない。ロの唾さえ途端に渇いている舌では、 『遅いそツ、武蔵っ』 『怯れたかっ』 ぐらいなことしかい , んなかった。 にも関らず、武蔵が、唯一名にて参ったりという言葉だけは 確かに受け取って、そうだ相手は一名なのだと、急に強味が甦 えってきたらしくも見える。けれど源左老人や、御池十郎左衛 門らの老巧は、そういう裏を考えて、それをもってかえって武 ひっきよう まるで夜叉の行為にひとしい 蔵の奇策となし、畢竟武蔵の助太刀はどこか附近に姿をかくし 最初から重大視していた目的物でもあるかのように、武蔵は ているものと疑心暗鬼の眼ざしがにしな、 びゆっー なにものも措いて真っ先に、源次郎少年を斬ってしまったの つるおと どこかで弦音がした。 さんび しいようがない。敵とはいえ、物の数では 武蔵の抜きはなった刀の刃風のようにもそれが聞えて、彼の酸鼻とも残忍とも、 ない少年ではないか。 顔へ向って飛んで来た一本の矢は、同時にパッと二つになっ それを斃したからといって先の勢力が徴塵も減殺されるわけ て、肩のうしろと刀の切ッ先へきれいに落ちた。 や、かえって吉岡一門の者を極度に怒らせ、全体 と見えた視線はもうそこへ置き残され、武蔵の体は髪をでもない。い の戦闘力を狂瀾のように激昻させるにはなによりも役立ったろ 逆立てた獅子のように、松の幹に隠れていたそこの蔭のものヘ 向って一足跳びに躍っていた。 『キャツ。宀叩、つ わけても源左老人は、哭くかのような形相を作り、 しゃあツ、よ / 、もッ』 立っておれと吩咐けられた通りに、最初からそこに立ってい 顔中から喚きを発し、老の腕には少し重げに見える大刀を頭 た源次郎少年は、悲鳴をあげて、松の幹へ抱きついた。 その叫びに、父の源左老人が、自分が真二つに割られたようの上に振りかぶった儘、武蔵のからだへ打つかるような勢いで な声で、わあーツと彼方で跳び上ったと思うと、武蔵の刀によ向って来た。 せん 一尺ほどーーー武蔵の右足が退がったと思うと、その足につれ って描かれた一閃が、どう斬り下げられたのか、松の皮二尺あ まりを薄板のように削ぎ、その皮とい 0 しょに前髪の幼い首を体も両手も右へ斜めになり、源次郎少年の首すじを通 0 て返 0 たばかりの切ッ先がすぐ、 血しおの下に斬り落していた。 おく つば せわ よみが む やしゃ たお わめ 、あ、つ