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検索対象: 宮本武蔵(二) (吉川英治)
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1. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

『かすかに』 門人たちはー ! 殊にそれが師とよぶ人であるだけに、田 5 わず眼 巻『おいっ 、た、たれかはやく若先生のからだを』 を反むけてしまう。 『扣 = つのか』 『御池殿、植田殿』 の 『そうだ』 立ち淀みながら、その者たちは後を振向いて、先輩に計った。 ひとりが背を向けて、清十郎の右の手を肩にかけて立ち上ろ『あのように苦しがって、腕を斬れと仰っしやるんですから、 風 、つとすると、 っそのこと、斬って上げたはうがお楽になるんじゃありませ 『痛いっ んか』 清十郎が苦悶して、叫んだ。 『ばかをいえ』 もと 『戸板、戸板』 良平も、十郎左衛門も、一言の下に叱りとばした。 いのち と、 いいながら、三、四名の者が、並本を駈け出して行った 『いくら痛んでも痛むだけなら生命に別条はないが、腕を切っ と思うと、やがて附近の民家から、雨戸を一枚外して持って来て出血が止まらなかったら、そのままにな 0 てしまうかも分ら とにかく、早く道場へお連れして、武蔵の木剣が、どの 清十郎の体は、戸板の上へ仰向けに寝かされた。吸をふき程度に打ちこんでいるものか、若先生が打たれたという右の肩 かえ 甦してからというものは、苦痛にたえかねて暴れまわるので、骨をよく調べた上、腕を斬るなら、血止めや手当の用意をよく やむなく 、門下たちは帯を解いて、彼の体を戸板にしばりつととのえておいてからでなければ斬れん。 そうだ、誰か、 け、四隅を持って、葬式のように暗然とあるき出した。 先に駈けて行って、道場のはうへ、医者を呼んでおけ』 戸板が割れるかと思うほど、清十郎は、その上で足をばたば 二、三名が、その支度に先へ駈け出して行った。 あいだあいた たさせながら、 街道の方を見ると、並本の松の間々に、乳牛院の原の方か 『武蔵は : : : 武蔵はもう立ち去ったか。 : ウウム、痛い。右ら慕って来た群衆が、蛾のように並んで、こっちをながめてい : ウウる。 の肩から腕の付け根だ。骨が、砕けたものとみえる。 ムたまらぬ。門人衆、右の腕を、付け根から斬り落してくれ。 それもまた、忌々しいものの一つだった。植田良平は、ただ 斬れつ、誰か、わしの腕を斬れつ』 暗い顔をして黙々と戸板の後に尾いてゆく人々へ、 空へ眼をすえて、清十郎は喚きつづけていた。 『各、先へ行って、あいつらを追っ払ってくれ。若先生のこ のすがたを、弥次馬どもの見世物に曝して歩けるか』 『よしつ』 鬱憤のやり場をそこに見つけたように、門下達のおおかたの あまり怪我人が痛がるので、戸板の四隅を持って歩いてゆく う ん さら

2. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

けれど武蔵の刀は、世の常の術者が振り込むように、一振一 『出し抜かれているぞッ』 道の三方から各 4 、二十名以上の人が、地へ臨んで集まる奔刀ーーっまり斬り損じた刀の力がそれなり空間へ失われて、ま た二の太刀を持ち直して斬り込むというようなーーそんな速度 流のように疾駆し出した。 武蔵は今ーー鉄砲の轟音と同時に、下り松の幹をくるっと自ののろいものではなかったのである。 分の背でこするように動いた。弾は彼の顔から少し外れて樹の彼は、師というものに就かなか 0 たために、その修行の上 そしてその前に槍と刀を交ぜて七で、損もし苦しみもしたろうが、師を持たないために、益もあ 幹へぶすんと中たった。 本の切ッ先を揃えたまま対峠していた、七名も、ズズズズズと それはなにかといえば、既成の流派の形に鋳込まれなかった 彼の動きに釣られて樹の幹を廻ってゆく。 と。いきなり武蔵は、七人の左の端にいた男へ、青眼のことである。彼の剣法には従 0 て形も約束も、また極意も何も S ・く′一う 剣を向けたままだッと駈け出した。その男はしかも吉岡十剣のない。六合の空間へ彼が描き出した想像力と実行力とが結びあ 中の一人だった小橋蔵人であったが、余りにも迅い恐ろしい彼って生れた無名無形の剣なのである。 例えばこの際ーー彼が下り松の決闘で御池十郎左衛門を斬っ の勢い ・ : っそく た時の刀法などでも然りで、十郎左衛門はさすがに吉岡の高足 『ーーーあ、呀ッ』 、武蔵が逃げると見せて振り返りざま払った刀は、確か 浮き声をあげて、思わず、片脚立ちに身を捻じ交すと、武蔵 かわ それが京流にせよ、神陰流にせ に交し得ていたのである。 と果しなくな は、空間を突きながら、そのままタタタタッ よ、何流でもこれまでの既成剣法ならばそれで十分外し得たと お駈け出して行く。 っていい 武蔵の背を見て、 彼の刀には必 ところが、武蔵独自の剣はそうではなかった。 , 『やるなツ』 と、追い縋り、飛びかかり、一斉に斬り浴びせようとした刹ず刎ね返りがある。右へ斬 0 てゆく刀は同時にすぐ左へ刎ね返 那、彼らの結合はばらばらになり、彼らの個体もでたらめに構ってくる原動力をふくんでいるのだった。ゆえに彼の剣が空間 に描く光をよく気をつけてみると、必ず、その迅い光は松葉の えを失っていた。 武蔵の体が、分銅のように刎ね返 0 て、真「先に追 0 て来たように一根二針の筋をひいて走 0 てはすぐ返して敵を刎ね上げ ている。 御池十郎左衛門の横を撲った。十郎左衛門は、直感に、 : とさけぶ間に、その燕尾の如く刎ね返った切ッ先に わっ : ( 彼の詭策 ) ほおずき 中たって、御池十郎左衛門の顔は、破れた鬼燈のように染まっ 霧と覚って、追い足にふくみを持っていたので、武蔵の刀は、 かす 彼の反り返った胸先を横へ掠めたに過ぎない。 風 み一と くらんど なぐ はす 227

3. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

『や ? : おぬしは』 『え。おふくろと会ったって ? ・ : 実あ、きのうから俺も捜 『お忘れか、佐々木小次郎を』 し歩いているのだが』 としより 『犬神先生といわれたのは ? 』 『えらい老母だ、見上げたもの。中堂の僧も皆、同情してい キ、つを一 『貴公のことさ』 た。わしも屹度、助太刀しようと、カづけて別れた』 『おれは本位田又八だが』 杯を洗って、 すす 『そんなことは心得ているが、かって六条松原の闇で、群大に 『さ、又八。旧怨を雪いで酌み交そう。武蔵ぐらいな相手、恐 取り巻かれ、野良大どもの中に坐 0 て、百面相をしてござったれるな。広言ではないが、佐々木小次郎がついている』 くれない のを思い出したから、お犬の神様と尊称申し上げ、大神先生と頬を紅にして杯を出した。 呼んだのでござる』 だが又八は、手を出さない。 『よしてくれ、冗談じゃあねえ。あの時は、ひどい目に遭わせ 五 やがったぜ』 『その代りに、きようはよい目に遭わせてやろうと思い、迎え見栄 0 張りな小次郎も、酔うと自でに、常の容態や端麗も構 にやったわナだ、、 : カよく来てくれた。まあ、坐るがいし えから忘れてしまう。 おんなども おい女輩、この人に杯を酌せ、杯を』 『又八、なぜ飲まぬ』 『瀬田で、待っている者があるから、すぐお暇する。 『もうお暇だ』 と、おい、そう酌してもだめだぜ、きようは飲めない』 左の手が走ると、ぐっと又八の腕くびをみ、 『瀬田で、誰が待っているのか』 『いか , ん ' ・』 『宮本という、おれの幼少からの友達でーーー』 『でも、武蔵と』 しいかけるのを引っ奪くって、小次郎は早口に、 『ばかをいえ。貴様一人で、武蔵と名乗り合ったら、立ちどこ 『なに、武蔵が。 : ウウムそうか。峠の茶屋で約束したのろに返り討だそ』 『そんな争いはもうお互いに捨てたんだ。俺は、あの親友に縋 譜 『よく知っているな』 って、これから江一尸へ行って真面目に身を立てるつもりだ』 そこもと 『貴公の生い立ち、武蔵の経歴、みな詳細に聞いている。共許『なに、武蔵に縋ってだと ? えいざん の母親。・・ー、お杉どのといわれたなーー叡山の中堂でお目にかか 『世間は武蔵を悪くいうが、それは俺のおふくろが悪くいい触 送 0 たそ。そしてつぶさにあの老母から、今日までの苦心を聞からすからだ。おふくろは武蔵を思い違いしている。つくづく今 された』 度はそれが分った。同時に俺自身も悟った。おれはあの善友に : おっ すが

4. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

と、血にまみれながら、その槍をつかんで起ちかけたが、武と、武蔵が諭したので、やっと落着いた顔いろを取り戻し 蔵が軽く手を離したので、胸に槍を突き立てたまま土間へ転げ だがお前たちは、過信するな。お前たちの本分は、武器 落ちた。 もう彼の手には、次にかかって来た賊の手から引っ奪くったではない鍬なのだ。穿きちがえて、生なかな武力に誇ると、土 刀があった。それで一人を浴びせ、一人を突くと、蜂の子の出匪より恐しい天罰が下るそ』 るように、土匪はわれがちに土間の外へ跳び出した。 その群へ、武蔵は、刀を投げつけて、すぐその手へ又、死骸 の胸いたから槍を抜いて持った。 『見て来たか』 『、つ、こくな』 徳願寺に泊りあわせていた長岡佐渡は、寝すに待っていた。 かなた 鉄壁でも という勢いで彼は槍を横にしたまま外へ駈け出村の火は、原や沼の彼方に、すぐ間近く見えていたが、もう しず した。竿で水面を打ったように、土匪の群は、さっと分れた火の手は鎮まっていた。 ふたりの家臣は、 が、もう槍の自由な広さである。武蔵は樫の黒い柄が撓うほ なぐ 『はつ、見届けて参りました』 ど、それを振って居た、又突いて刎ねとばした、又上から撲り つけた。 と、ロを揃えていった。 とんなふうだ』 敵わぬと思った土匪は、土塀の門へ向って逃げ出したが、そ『賊は、逃げたか。村の者の被害は、。 いとま こは得物を持った村の者が犇めいていたので、塀をこえて、外『われわれが駈けつける遑なく、土民たちが、自分の手で、賊 の半を打ち殺し、後は追いちらしましたように御座ります』 へ転び落ちた。 『はてな ? 』 多くは、そこで皆、村の者に打ち殺された。おそらく逃げた 佐渡は、のみこめない顔つきである。もしそうだとすれば、 者も、片輪にならなかった者は少かったであろう。村の者は、 老も若きも、女も、生れて初めての声を出して、暫くは凱歌に佐渡は、自分の主人細川家の領土の民治に就ても、だいぶ考え させられる事がある。 狂い、少し経っと、わが子や、わが妻や、父母たちを見つけ合 とにかく今夜はもう遅い って、欣し泣きに抱き合っていた よくあ、 そう考えて、佐渡は、臥床へ入ってしまったが、翌朝は江戸 すると誰かが、 へ帰る身なので、 『後の仕返し。、布、 『ちと、廻りになるが、ゆうべの村を通って参ろう』 といった。土民たちは、又それに動揺めきだしたが、 と、駒をそこへ向けた。 『もう、この村には来ぬ』 ひし どよ ふしど 435

5. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

次男坊 。し』 『丈夫だと、兄上にも、久しぶりで一杯さすのだが』 などと独りりに、、つ。 退がるとまた、 清十郎は、上眼づかいに 「おいつ、誰か来て、この障子を閉めろ、病人が寒いじゃない 『弟』 か、馬鹿』 『ウム』 膝を、あぐらに崩して、火桶をかかえ込み、黙っている兄の 顔を覗き込んで、 『枕元で、酒はよしてくれ』 『いったい、勝負はどんな立合い方をやったんです。宮本武蔵『なぜ』 などという者は、近頃ちょっと聞え出した男ではありません『いろいろ嫌なことが思い出されて、おれは不央だから』 か、兄貴としたことが、そんな駈出しの青二才に不覚をとるな『嫌なこととは』 んて : : : 』 『亡き父上が、さだめし、兄弟の酒には、眉をひそめておいで になろう。 おまえも酒の上から、おれも酒の上から、一つ 門人が、ふすまの境から、 しいことはしていなし』 『御舎弟さま』 『なんだ』 『じゃあ、悪いことをして来たというのか』 しかし、わしは〈フ、心 『御酒の支度ができました』 『 : : : おまえにはまだ胆にこたえまい び - よ・つ : この病 「持って来い』 魂に徹して、半生の苦杯をなめ味わっているのだ : じよく 『あちらへ用意してございますゆえ、おふろにでもお入りにな褥の中で』 そもそもあにじやひと つまらんことをいっている。抑兄者人は線が 『湯になんか入りたくもない。酒はここでのむから、ここへ持ほそくて、神経質で、いわゆる剣人らしい線の太さがない って来い』 んとをいえば、武蔵などとも、試合をするというのが間違って 『え、お枕元で』 いる。相手がどうあろうと、そんなことはあなたのがらにない ことなのだ。もうこれに懲りて、あなたは太刀を持たないがし 『いいさ、兄貴とは久しぶりで話すのだ。永い間、仲も悪かっ と , っ たが、こういう時には、やはり兄弟に如くものはないよ。ここ 、そしてただ吉岡二代目様で納まっているんだな。 で飲もう』 しても試合を挑む猛者があって退っ引きならなくなった場合 やがて、手酌で、 は、伝七郎が出て立合ってあげる。道場もこの先は、伝七郎に 『、つきし おまかせなさい、きっと、おやじの時代よりは、数倍も繁昌さ と二、三献つづけ、 せてみせる。 おれの道場を乗っ取る野心だなどと、あなた こん

6. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

『わしは少し、町を歩いて来るからな、なるべく、部屋に居なの連中で占めている。 巻くてはいけないよ』 男たちは、帳場寄りの部屋に、女郎たちは、中庭の向うの部 屋に 『町へ行くなら、おいらも連れて行っておくれよ』 かしま の 『いや、晩はいけよ、 何しろ、賑やかを通り越して、姦しいこと一方でない。 『あしたはもう、歩けんがなあ』 『なぜ』 空 と、大根のような白い足に、大根おろしを摺って、足の裏の 『いつもいっている通り、わしの夜歩きは、遊びではない』 「じゃあ、 . 何き、 ? ・』 火照りに塗ってもらっている傾城もある。 つまび 『一一一口、い 4 に』 元気なのは、破れ三味線を借りて来て爪弾きをしているし、 ものかす 皮膚の青白いのは、もう夜の具を被いで、壁に向って寝こんで 『信、いは昼間しているからたくさんじゃないか。神様だって、 お寺だって、晩は寝てるだろ』 『社寺をお参りする事ばかりが信心ではなし冫 、。まかに祈願もあ『おいしそうだね、あたいにも、よこしなよ』 あんどん 又、行燈とさし向いで、上 ることでな』 と、喰べ物を引ッ張りつこ。 と、相手にしないで、 方の空に残して来た契りある男へ、筆を走らせている苦界の後 ずだぶくろ 姿もある。 『その挾み筥から、わしの頭陀袋を出したいが、 開 / 、か』 『開かない』 『あしたはもう江戸とやらへ、着くのかえ』 『どうだかね。ここで訊けば、まだ十三里もあるってえもの』 『助市が鍵を持っているはずじゃ、助市はどこへ行ったな』 あか 『階下へ行ったぜ、さっき』 『勿体ないね、夜の灯りを見ると、こうしているのは』 『まだ風呂場か』 『おや、たいそう、親方思いだね』 おんなしゅう 『だって : ああじれったい、 髪の根がかゆくなった。釵 『階下で、女郎衆の部屋をのそいてたよ』 をおかし』 『あいつもか』 こんな風景でも、京女郎衆と聞くからに、男の眼はそばだっ と、舌打して、 たのであろう。風呂場から上った下男の助市は、湯ざめをする 『ーーー呼んで来い、早く』 しつ迄も、見惚れていた。 のも忘れて中庭の植込み越しに、、 大蔵は、そういって、帯を締め直しにかかった。 すると、後から耳を引張って、 『、、日減におしよ』 四十人からの同勢である。旅籠の下座敷は、ほとんど、角屋『ア痛』 かを はた 1 一 ちキ - おんな す かんざし

7. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

求めつつ、恋しつつ、だんだんにその人から遠くなるばかり な自分が朱実にはわかっていた。酒はつよくなるばかりだっ ふしんば むわあげ 棟上をしたばかりの普請場であった。屋根は葺きかけてあるた 花桐』 『花桐っ : 、壁もない、羽目板も打ってない。 はなギ一り 普請場とすぐくっ付いている角屋の裏口で、親方の甚内の声 『ーー・花桐さん、花桐さん』 遠くのほうで呼ぶ声がする。山のように溜っているかんな屑が近く聞え、やがて空地の中へは、小次郎たち三名の姿も見え ている。 や、材本の間を、何度も、自分を探しまわる人影が通った。 さんざん詫びをいわせたり、文句をいったあげく、三名の影 朱実はじ 0 と息をころして隠れていた。花桐というのは、角は空地から往来の方へ出て行った。多分、あきらめて帰ったも のと見える。朱実は、ほっとして、顔を出した。 屋へ来てからの自分の名である。 『ーーーーあら花桐さん、そんな所にいたのけ ? 』 : いやなこった。誰が出てやるものか』 台所働きの女が、頓狂な声を出しかけた。 初めは、客が小次郎と分っていたので、姿を隠したのである 『 : : : 叱っ』 そうしている間に、憎らしいものは、小次郎だけではなく よっこ。 朱実は、そのロへ手を振って、大きな台所口を覗きながら、 ひや 沁十郎も憎い、小次郎も憎い、八王子で、酔っている自分を『冷酒でひとロくれないか』 ・・え。お酒を』 馬糧小屋へ引きすりこんだ牢人者も憎い 『ああ』 毎夜のように、自分の肉体をおもちゃにして行く遊客たちも なみなみつ 彼女の顔いろに怖れをなして、かたくちへ満々と注いでやる みな憎い。 おもて うつわ かたき それはみんな男というものだ。男こそは仇だと思う。同時にと、朱実は、眼をつむって、器と共に、白い面を仰向けにのみ 彼女は又、男を探して生きている。武蔵のような男をーーであほした。 『 : ・・ : ア、何処へ。花桐さん、何処へ』 る。 『うるさいね、足を洗ってあがるんだよ』 屑 ( 似ている人でもいい ) 台所の女は、安、いして、そこを閉めた。けれど朱実は、土の と、彼女は思った。 まね 1 一と んもし似ている人に出会ったら、愛の真似事をしても、慰めらついた足のまま、有合う草履に足をかけて、 れるだろうと朱実は思っていた。だが、遊客の中に、そんな者『ああいい気もち』 ふらふらと、往来のほうへ歩み出した。 は見つからなかった。 あけみ 39 ノ

8. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

かんな屑 ちぎるもの : な暗さはない。奈良も大坂も、もっと夜は明るいが と江一尸 へ来て一年の余になる小次郎でも、まだ足元が不馴れだった。 仇にな引くな ちょうちん 『ひどい道だ。提燈を持って来ればよかったな』 切れぬ袂を くるわ 『廓へ提燈なんぞ持ってゆくと笑われますぜ。先生、そっちは 『ル兀ル ~ にも、貸し ( しょ , つか』 『 . 何を』 堀の土を盛りあげてある土手だ。下をお歩きなさい』 今も葭の中へ辷って、 『こいつで、こう顔を隠してあるきます』 『でも、水溜りが多いではないか。 あかねぞめ と、お稚児と菰のふたりは、茜染の手拭を払って、頭から冠 草履を濡らした』 堀の水が、忽然と、赤く見え出した。仰ぐと、川向うの空も 『なる程』 赤い。一廓の町屋の上には、柏餅のような晩春の月があった。 まね と、小次郎も真似て袴腰に巻いていた小豆色の縮緬を、前髪 『先生、あそこです』 かぶ のうえから被って、顎の下にたつぶり結んで下げた。 『伊達だな』 眼をみはった時、三人は橋を渡っていた。小次郎は渡りかけ 『よ , っ似ムロ、つ』 た橋をもどって、 橋を渡ると、ここばかりは、往来も燈に染まり、格子格子の 『この橋の名は、何ういうわけだな』 人影も、織るようであった。 と、杭の文字を見ていた。 『おやじ橋っていうんでさ』 五 『それはここに書いてあるが、どういうわけで』 くるわ 『庄司甚内ってえおやじがこの町を開いたからでしよう。廓で暖簾から暖簾へ、小次郎たちはわたり歩いていた。 流行っている小唄に、こんなのがありますぜ』 茜染の暖簾や、紋を染めぬいた浅黄の暖簾などもある。或る うち 菰の十郎は、廓の灯に浮かされて、低い声で唄い出した。 楼の暖簾には、鈴がついていて、客が割って入ると、鈴の音を おやじが前の竹れんじ 聞いて、遊女たちが、窓格子まで寄って来た。 ひとふし その一節のなっかしゃ 『先生、隠したってもうだめですぜ』 おやじが前の竹れんじ 『ュはぜ一』 『初めて来たと仰しゃいましたが、今、這入った楼の遊女の中 せめて一夜と契らばや びようぶ おやじが前の竹れんじ で、先生の姿を見ると、声を出して屏風の陰へ、顔をかくした 女があった。もう泥を吐いておしまいなせえ』 いく世も千代も契るもの ち のれん あかねぞめ おっ あずき ちりめん うち

9. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

ちょうちん ないとおいいやるか。又八よりは、武蔵が可愛ゅうてな 前の畑に提燈の灯りが見えた。いつものように旅籠の小女 巻るまいがの。そう明らさまにいうたほうが、物事すべて、正直が、晩の食事を運んで来たのであろうと思っていると、 とい、つものじゃぞ』 『ごめん下さい。本位田様の御老母のお部屋はこちらでござい の ますか』 そうよう 『やがて、又八に出会うたら、この婆が仲に立って、そなたの と、僧形の者が縁先へ立った。 望み通り、きつばり話はつけてやるが、そうなればそなたと婆さげている提燈には 音羽山清水寺 とは、あかの他人、そなたはすぐ武蔵のところへ走って行っ あっこう と、書いてある。 て、さそかしわしら母子の悪口をいうことであろうわいの』 おなご 『なんでそんなことを : 。お婆様、お通はそんな女子ではご 五 ざいませぬ。元の御恩は御恩として、いつまでも覚えておりま する』 『てまえは、子安堂の堂衆でおざるが』 『この頃の若い女子は、ロがうまい。ようそのように優しくい と提燈を縁において、使の僧はふところから一通の書付をと えたものじゃ。この婆は正直者ゆえ、そのように言葉はかざれり出し、 ふうてい ぬ。 そなたが武蔵の妻となれば、そなたも後にはわしが仇『何やらそんじませぬが、黄昏れ頃、寒々とした風態のお若い じゃ。 : ホホホホホ、仇の肩を揉むのも辛かろうのう』 牢人が堂の内をのぞいてーーこの頃は作州のお婆は参籠に見え ぬかと問われますゆえ、いや折々お見えでござるーーーと答えま 『それも、武蔵と添し 、、たいための苦労であろうが。そう田 5 えすと、筆を貸せといい、婆が見えたらこれを渡してくれといっ て立ち去りました。 ちょうど五条まで用達しに出かけまし ば、堪忍のならぬこともない』 たので、早速、お届けにあがったような次第で』 『それは、それは、ご苦労さまな』 『なにを泣いておいやる ? 』 と婆は人ざわりよく敷物などすすめたが、使の僧はすぐ戻っ 『泣いてはおりませぬ』 て行った。 『では、わしの襟もとへ、こばれたのはなんじゃ』 : はてのう ? 』 『 : : : すみませぬ、つい』 あんどん 行燈の下で婆は手紙を繰ひろげた。顔いろが変ったところを 『ええもう、むすむずと、虫が這うているようで気持がわる : めそめそと、武蔵のこ見ると、なにかその内容が婆の胸を烈しく揺りうごかしたもの 、もっと力を入れておくれぬか。 と見える。 とばかり考えておいやらずに』 おやこ たそが はた′一

10. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

々 人 の 分 草『何するかっ』 いたずら 振り向いた時は、もう悪戯の下手人はいなかった。 と、板を外した。 自分の背に浴びた壁土に気づくと、彼女の顔は、無念そうな 左官たちは、漆食板の泥を浴びて、板のからころげ落ち中に、泣き出しそうな顔を顰めて、 『何を医う ? 』 『こん畜生』 と、こんどは、笑っている往来の者へ向って、 刎ね起きると、左官たちは、ひと抵みにしてしまいそうな権 まくで、お杉ばばの前に立ったが、 『げらげらと、何がおかしゅうて、笑い召さるのじゃ。老いば 『さあ、外へ出い』 れは、わしのみではないそえ。おぬし等も、やがては年を老る 婆は、脇差に手をかけて、少しも年よりらしい法みは見せなのじゃぞ。はるばると遠国から越えて来たこのとしよりを、親 いたわ 切に宥ろうとはせす、捏ね土を浴びせたり、歯をむいて嘲笑う その勢いに、職人たちは、気をのまれてしまった。こんな婆たりするのが江戸の衆の人情か』 さんがあろうかと意外であった。すがたや言葉づかいから考え 罵るために、往来はよけい足を止め、又愈こ、笑い声を増す て、侍のおふくろである事は知れているし、へたな真似をしてことが、お杉婆には分らぬらしい と・一ろ と、急に惧れをなした顔いろである。 『お江戸お江一尸と、日本じゅうでは今、この上もない土地のよ 『この後、今のような無礼をしやると、承知せぬそよ』 うに、偉いうわさじゃが、何のことじゃ、来てみれば、山を崩 よしめま あわた これでいいのだ、ばばは気がすんだとみえて、往来へ出て行し、葭昭を理め、堀を掘っては海の洲を盛っているだしい埃 うしろ、、 った。往米の者は彼女のきかない気らしい後つきを見送ってちばかり。おまけに人情はすすどうて、人がらの下品ていること らかった。 は、京から西には見られぬことじゃ』 すると、かんな屑を泥足にひきずった左官屋の小僧が、ふい これで、婆は少し胸がすいたとみえる。なお笑う群衆を捨て いまいま に普請場の横から駈け出して行って、 て、忌々しげに、脚をはやめて行った。 『この、ばばめ』 町はどこを見ても、本ロも壁も新しくて、ぎらぎらと眼を射 いきなり、手桶のへどろを、彼女の体へぶちまけて、隠れてるし、空地へ出ると、まだ理めきれない土の下から、葭や蘆の しまった。 本が枯れて喰み出している。乾いた牛の糞は、眼や鼻に這入る 気がするのであった。 『これが江戸か』 彼女は、事々に、江戸が気に入らなかった。新開発の江戸の 中でいちばん古い物が、自分の姿のように思われた。 はず おそ ひる けん ちらし 3 〃