: ははあ、さては読めた、おのれもここ いるのが分らぬか。 「待て待て ! 源八』 しいる又八とやらの同類か』 巻と、誰かその時いった。 ほんもの 源八、わしはそこへ跳び降りようと思う それが、又八の口から出た声であるならば、自分の無法の分『わしは真物だ の のだが、おまえは、降りて来たらわしを真二つに斬ろうとして っている感情を噛みころしても、目的のためには、 いるな』 ( 何をつ ) こじろう 『ウム、小次郎の化物、幾人でも降りて来い。成敗してみせ といったような顔つきであったが る』 眼を暗い空へ吊り上げて、耳のせいかとでも疑っているよう『斬れたら、偽小次郎だろう、だが真物の小次郎は、斬れッこ 降りるそ、源八』 梢にうごく風を聴いていた。 すると、そこの宙の上からまた二度目の声がした。 しいか、おまえの頭の上へ跳ぶぞ、見事に、斬れよ。 『つまらない殺生をするなよ、源八つ が、わしを宙斬りにし損ねると、わしの背にある物干竿が、お 『あっ、誰だ ? 』 すぐみ まえの直身を、竹のように割ってしまうかも知れないそ』 『小次郎だ』 『アッ暫らく 小次郎様、暫らくお待ちください またしても小次郎だという人間が今度は空から降りて来そうのお声、思い出しました。また、物干竿の銘刀を御所持のうえ ま - 一と っこ、幾人は、真の佐々木小次郎様に違いありません』 なのだ。天狗の声にしては親しみがあり過ぎた。いオし幺 『信じたか』 偽小次郎がいるのだろうか。 『けれどーーーどうして左様なところへは ? 』 源八は、 『後で話そ , っ』 ( もうその手は食わない ) はっと源八は首をすくめたのであった。仰向いている顔 というように、樹の下から飛び離れると、脇差の先を、宙へ を越えて、小次郎の袴の風が、さっと、散り松葉と一緒に、自 構えて、 分のすぐうしろへ落ちて来た。 『ただ小次郎とだけでは分らぬ、どこの何の小次郎か』 ま 紛れもない佐々木小次郎を眼の前に見直すと、源八は、かえ 『岸柳 , ーー・佐々木小次郎さ』 もや って、不審の靄につつまれてしまった。この人と自分の主人草 『かなっ』 薙天鬼とは同門の間がらである。従って、小次郎がまだ上州の 笑い飛ばして、 もと 「その偽物はもう流行らぬそ。今もここで一人、憂き目を見て鐘巻自斎の許にいた時分は、幾度も会ったことがある。 はや なぎ いくたり ほんもの
ひいっ と声をあげたのも、刃物の先よりも、又八の顔に ちには幾らでも証人が立てられるが、そっちには証拠のない話 ・ : なあお通、世間を狭くしてまで、無理に武蔵と添ってあらわれたその恐さだった。 『、よノ、・も。 この阿女』 みたって、倖せに暮せるはずはないぜ。おまえは、お甲のこと の 又八の刀は、お通の帯の結び目をかすめていた。 をまだ疑っているかも知れねえが、あんな女とは、もうきれい ( 逃がしては ) に手を切っているのだ』 と、焦心って来て、又八は、 『伺ってもむだなこと、そんな話、お通の存じたことではあり 『おばば、おばばっ』 ません』 と、お通を追いかけながら、一方へは呼び立てる。 : じゃあこれ程に、おれが頭を下げても』 あなた 声が届いたとみえる、お杉婆は彼方で、 『又八さん、あなたは今、おれも男だと仰っしやったではあり 『わ、つ』 ませんか。恥を知らない男などへ、どうして女の心がうごきま しよう。女の求めている男は、女々しくない男です』 跫音を目あてに走って来ながら婆は、 『なんだと』 『仕損じたか』 『お離しなさい、袂が切れますから』 自分も小脇差を抜いて、うろうろてまわる。 『ち、ちくしよ、つつ』 又八が彼方から、 なにをなさるのです』 『どうするんですっ 『そっ方だ、おばば、捕まえろっ』 : これまでいっても分らねえなら、破れかぶれだ』 呶鳴りながら駈けて来るのを見て、婆は眼を皿のようにし、 『えっ・ いのち 『ど、どこへ』 『生命が惜しいと思ったら、武蔵のことなど思いませんと、こ と、道を塞いでいた こで誓え、さあ誓え』 しかし、お通の影は見えないで、又八のからだが打つかるよ 袂を離したのは、刀を抜くためであった。刃を手に抜くと、 うに眼の前へ来た 刃が人間を持ったように、又八の人相はまるで変ってしまった。 や 『斬ったかよ』 九 『逃がした』 しかし、刃『阿呆っ』 刃物を持った人間はそう怖いものではないが 『ーーー下だ。あれがそうだ』 物に持たれている人間は怖い。 崖へ臨んで駈け降りていたお通は、崖の下の樹の枝に袂をと お通がとたんに、 、かみ、 あ 丿儿わ
風の巻 『これです』 年を理もれてしまうような剣士で終りたくないのだ』 源ノが、印可の巻物を、亡き人に代って小次郎の手へ授ける『本性で仰っしやるのか』 『ーーー勿論』 と、小次郎は、押しいただいて感泣するかと思いのほか、 と、自分の抱負をいうのになんの遠慮があろうという態度の 『ーーー要らない』 月、良であった。 と、手も出さない。 『せつかく、先生はわしへ印可を下すったが、今日においてす 意外な顔して、源八は、 ら、この小次郎の腕はもう先生以上のものになっていると、わ 『要らん』 しは自ら信じているのだ。それに中条流という流名も田舎び さまた 『なぜですか』 て、将来ある若い者には、かえって邪げになる。兄弟子の弥五 『なぜでも、わしにはもうそんな物は、不要だと思うから』 郎が、一刀流を立てたのだから、わしも一流を立てて、行末 『勿体ないことを仰っしやる。自斎先生は、多くのお弟子のう は、巌流と称えるつもりだ。 : 源八、そういうわしの抱負だ ちから、中条流の印可を授ける者は、あなたか、伊藤一刀斎から、そんな物は、この身に不要だ。国許へ持って帰って、お か、こう二人よりないと見て、生前から心で許しておいでにな寺の過去帳とでも一緒にしまっておくがいし』 ったのですぞ。 やがて、いまわの際に、この一巻を、甥の 天鬼様にあずけて、あなたへ渡せと仰っしやったのは、伊藤一 刀斎は、すでに独自の一派を立てて、一刀流を称しております謙譲などというものは、毛ほどもない言葉っきなのである。 ゆえ、おとうと弟子ではあるが、あなたに印可目録をお許しに なんという田 5 い上っこ オーーー高慢な男だろうか。 なったものだろうと考えられます。 : : : 師恩の有難さ、おわか 源八は、憎む眼で、小次郎のうすい唇を、じっとねめつけて りになりませんか』 『師恩は師、しかし、わしにはわしの抱負があるのだ』 だがのう源八、草薙家の遺族たちへは、よろしくいって 「なんですッて』 ください。いすれ、東国へ下った折には、お訪ねするがと』 『誤解するな、源八』 終りのことばは、こうていねいにいって、小次郎は、にやり 『余りといえば、師に対して、無礼でございましよう』 と笑う。 『そんなことはない。ありようにいえば、わしは師の自斎先生高慢な者が意識していうていねいめいた言葉はど、嫌味で小 てんびん よりも、もっと秀でた天稟を持って生れていると思っている。憎いものはない。源八はむかむかして、亡師に対するその不遜 だから、先生よりも偉くなるつもりなのだ。あんな片田舎で晩を詰問ってやろうと思ったが、 うず
『あっ、牢人者だ』 「よに、降りてくると』 ふうてい 凝と、死骸の横顔や風体をながめて、又八はなおさら驚きを 『二人づれだ。見つかるといけない、おばば、おばば , 加えた。 危急を感じると、啀み合っていたこの母子は、忽ち一体とな せかせか 『変だな、この人間をおれは知っているが』 って、又八は急々と、老母の落着いているのを案じた。 しりびと 『ええ、待ったがいい』 『なんじゃ、知人じゃと』 やそま もちがね と、婆は、死骸の魅力にひきつけられていた。 『赤壁八十馬といって、おれはこいつに騙されて、持金を巻き しるし 『ここまで仕て、かんじんな首級を取らずに行ってよいもの上げられたことがある。生き馬の眼を抜くような彼の八十馬 か。なにを証拠に、故郷の衆へ、お通を成敗したと証拠だてるが、どうしてこんなところにへたばっていたのだろうか』 これはいくら考えてみても、又八には考え当らないはずであ ことができよう。 : : : 待て、今わしが』 あ』 る。ここから程近い小松谷の阿弥陀堂に住んでいる虚無僧の青 木丹左衛門がいるか、でなければ、八十馬の毒牙にかかろうと 又八は、眼を掩った。 あけみ お杉は木の小枝を膝で踏み敷いて、死骸の首へ刃を当てよう して救われたことのある朱実でもおればだがーー・ー他にその説明 をする者としては、宇宙あるのみであるが、こんな成れの果て とするのだった。又八には、見ていられなかった。 と、突然、婆の口から意味のわからない言葉が走った。 を見るに至った虫けら同様な人間一個の解説を求めるには、宇 よほど驚いたものらしかった。持ち上げていた死骸の首を手か宙は余りに大き過ぎて、また森厳であり過ぎる。 よろ ら離して、後へ蹌めくと共に腰をついて、 『ーーー誰だっ。お通さんじゃないのか、そこにいるのは』 あかり 突然、二人の後へ、沢庵坊の声と提燈の影がさした。 『ちごうた ! ちごうた ! 』 手を振って、起とうとするのであったが、起てないのであ『ーー呀ッ』 る。 逃げるだんになれば、又八の若い跳躍は、当然、お杉が腰を はるか あげてから走るよりも遙に迅かっこ。 又八も、顔を寄せて、 沢庵は、駈け寄りざま、 『何が ? ・何が ? ・』 ども 『おばばだな』 と、吃った。 むずと、襟がみを掴んだ。 『これを見い』 鍬『お通ではないわ ! この死骸は乞食か、病人か、男であろ カ』 おお おやこ 『そこへ、逃げてゆくのは又八ではないかっ じっ これつ、老
な執拗を、同門の者はよくいわなかった。 も驚いたらしい態であった。それは手に白木の杖を持っている いつのまにか、また彼は、 六部であった。六部は何思ったか、あわてて背の笈するを下 ( おれは天才だ ) と、自分でいっていた。 : はてな、斬られているようでもないし、体はまだ温い ふそん こやっ しかしそれは、彼の不遜な思い上りばかりでなく、師の自斎し、どうして此奴め、気を失 0 ているのか』 も一刀斎も、 呟きながら、又八の体を撫でまわしていたが、やがて腰につ ほそびき うしろ ( あれは天才だ ) いていた細曳を解くと、又八の両手を後へやって、ぐるぐる巻 と、ゆるしていたことは事実なのである。 に縛ってしま、つ 郷里の岩国へ帰 0 て、錦帯橋のたもとで、毎日、燕斬りの手気絶していることなので又八はなんの抵抗もするわけはな 練をつんで、独自な太刀を工夫してからは、なお更、 、。六部は、そうして置いてから、又八の背を膝がしらで抑 キ - り・んドレ みぞおち ( 岩国の麒麟児 ) え、鴪尾のあたりへ、気合をかけて押していた と、人も称え、彼も自負していた。 ウウムーーーと又八が太い声を出すと、六部はそうして手当し いもだわら だが、その粘りのある剣の異常な執拗さが、女性を愛すた者を、まるで芋俵でも引っ提げるような扱い方して、樹の下 場合に、どういう形であらわれるかなどということは、誰も知へ持って来た。 る限りのことでないし、小次郎自身は、それとこれとは、まる『起てつ、起っんだ ! 』 でべつに考えているので、朱実が自分を嫌って逃げたことが、 こう厳命して、足で彼を蹴飛ばした。 不思議でならない顔つきであった。 地獄の一丁目まで行って気がついたばかりの又八は、まだ十 分われに返っていなかったであろう。半、夢中のように、体を 刎ね起すと、 ふと気づくと、その時、樹の下に誰か人影がうごいていた。 『そうだ、そうしていろ』 小次郎が、梢の上にいることをその人間は知らないらしい 六部は満足して、彼の胴と脚の部分を、そのまま松の本の幹 『 : : : や、誰か仆れているが』 へ縛りつけてしまった。 カカ と、又八のそばへ寄って、屈み腰になりながら又八の顔を覗『 : : : あっ ? 』 いていたと思うと、やがて、 又八は初めて、こう驚き声を洩らした。小次郎でなくて、六 人 二『あっ、こいつだ』 部であったことは、意外であったらしい と、梢の上までよく聞えてくるような大声でいって、い力に 『こら、偽小次郎、よくも逃げ足早く逃げまわって、人に世話
『ど、つしょ , っ ? ・ : そうだ、此っ方へ来い。ゃいつ、此っ方ずるずると、地を引き摺られながらお通が、池心の火へ向っ 巻へ来やがれ』 て、悲鳴をあげようとすると、又八はそのロを手拭で縛って、 かわやな あまごいどう そこは楊柳につつまれている池畔の雨乞堂であった。なにを引孑 っ旦ぐように、堂の中へ抛りこんだ。 ひでり きつれ 祠ってあるか郷土の人もよく知らないが、ここで夏の旱に雨を そして、木連格子を抑えながら、彼方の火影がどう来るか窺 祈ると、うしろの駒ヶ岳からこの野婦之池へ沛然と天恵が降るっていると、その小舟はやがて雨乞堂から二町ほど先の入江へ 空 たいまっ やが という事が信じられている。 辷り込んで、松明の火も軈てどこかへ立ち去ったらしい 『いやです』 『 : : : あ。いい按酉』 お通は動くまいとする。 ほっとして、それには胸を撫でたが、又八の気持はまだ落着 堂の裏手にひきすえられて、先刻から又八に、責め苛まれてきを得なかった。 いた彼女だった。 お通の体は今、自分の手の中にあるが、お通の心はまだ自分 縛められている両手がきくものならば、及ばぬ迄も、突きとの物となりきれない 心の無い肉体だけを持ち歩いていること ばしてやりたいと思うがそれも出来なかった。隙があったらの実に大変な辛労であるということを、彼はつぶさに宵から経 眼の前の池に飛びこんで、堂の棟に上っている絵馬のように、験した。 楊柳の幹を巻いて、呪う男を呑まんとしている蛇身にな 0 ても無理にーーー暴力をも「ても、彼女のてを、自分のものにし てしまおうとすると、お通は死の血相を見せるのであった。舌 と思うが、それも出来なかった。 『立たねえか』 をかみ切って死のうとするのである。それ位な事はきっとやる 又八は、手に持っている篠を鞭にして、お通の背を、いやとお通である事は幼少から知っている又八なので、 いう程打った。 ( 殺しては ) 打たれる程、お通は意志が強くなる。もっと打ってみろと望と、つい盲目な力も情慾も挫けてしまう。 みたくなる。 : : : 黙って又八の顔を睨めつけていた。すると又 ( どうして俺をこんなに嫌い、武蔵を飽まで慕うのだろうか。 八は、気が挫けて、 以前は、彼女の心のなかに、俺と武蔵はちょうどあべこべ 『歩けよ、おい』 であったものを ) と、 しい直す。 又八は、分らなかった。武蔵より自分の方が、女に好かれる という自信がどこかにある。事実彼 それでもお通が起たないので、今度は猛然と、片手で襟がみ素質を持っているのに をつかみ、 は、お甲を始め、幾多の女に、そうした経験がある。 『来いっ』 これはやはり武蔵が、最初にお通の心を誘惑し、手なずけて しのむち 、びべ
こもかぶ 菰を被って、白い雨の中を、傘みたいに飛んで来た男があ『 : : : 御用がおありならば、直ぐお帰りになってもよござんす から』 と、使に来た女は、又八のためらいなどは無視して導いて行 四宮明神の楼門の下へ馳け込むなり、ほっと、髪のしずくを の く。そして近くの娼家へ引っ張って来ると、他の女たちも出 撫でて、 て、足を洗ってくれるやら、濡れた着物を脱がすやら下へも措 『まるで、タ立だ』 風 ー刀十 / ーし と、迅い雲あしへ呟いた。 じようじよう いったい、おれの友達というお客は誰かと訊いてみても、二 見るまに四明ヶ岳も湖水も伊吹も乳色になって、ただ滌々 と雨の音しか耳になかった。 と思ううちに眸を断たれたよ階へ行ってみれば分ると、座興にするつもりで明かさない。 いなびかり 何分、雨に逢って、着物もずぶ濡れだから、一時娼家の物を うに雷光を感じると、どこか近くに雷が落ちたらしかっこ。 借り着するが、実は今日瀬田の唐橋で約東の者が待っているは で直ぐ帰るのだから、その間に衣類を乾かし、引き留 雷ぎらいの又八は、耳の穴をふさいで、楼門の雷神の下に縮ず。 こまっていた。 めないでもらいたい。 雲が断れると、嘘のように、陽が射してきた。雨がやみ、往『頼むそ、 来も元に還って、どこかで三味線の音さえ聞えだした。する何度も念を押すと、 よい機に、きっとお帰し申しますよ』 と、婀娜なすがたの女が、向う側から往来を越えて来て、用あ『はい やすうけあい りげに、又八へ笑いか。オ 女たちは、安請合にいって、又八を梯子段の下から押し上げ 四 ( 二階の客とは一体誰だろうか ) ナれどこ、つ、 見かけない女である。 又八は頻りと考えてみたが思い当る者がないレ 『あなた、又八様と仰っしやるのでしよう』 うところに場馴れない又八ではないし、またこういう雰囲気の そういうのだ。 中に入ると、彼の頭のつかい方や身ごなしは、ふしぎに冴えて 又八がを「て用事を問うと、今、家〈上 0 ていら 0 しやる精彩を発揮してくる。 『ゃあ、大神先生』 お客様が、あなたのお友達だそうで、二階からお姿を見かけ、 いきなり先方の者からいった。人違いだったかと又八は閾ぎ ぜひ引っ張って来いというお吩咐けです、という。 いわれて見ると、成程、この神社の界隈には、娼家らしい構わで足を止めたが、座敷の中に坐っているその客を見ると、満 更知らない人間ではなかった。 えが幾軒も見える。 る。 しお しき、 お 272
人小次郎 だがそのころの小次郎は、こんな美々しい若衆ではなかっ とにするから、それも自分にまかしておいたがいいではない た。目鼻だちは幼少からきかない気性をあらわして、凜々とし ていたが、師匠の自斎が、華美は嫌う人であったから、そこの どうだな、源八』 いなか 水汲み小僧であった小次郎は、元より質素で色の真っ黒な田舎 、良のことまこ、 少年でしかなかった。 『そう仰っしやって下さるからには、私にはなにも異存はござ ( 見違えるようなーー ) いません』 源八は見惚れていた。 1 ーーでは、わしはこれで別れるそ、おまえも国へ帰れ』 木の根に腰を下ろして、 『 , ん、このまま』 『ま、そこへかけないか』 『されば、実はこれから、朱実という女子の逃げた先をさがし と小次郎はいう。 ちと気が急くから』 それからーーー二人の間に交された話。 こよってーー・師匠の甥で 『ア、お待ちください まだ、大事なものをお忘れでございま あり、また同門である草薙天鬼が、自分へ渡す中条流の印可のしよう』 巻物を持って遊歴中に、伏見城の工事場で、大坂方の間諜とま 『なにを』 ちがえられて惨死した事情もお互いによく分ってくる。 『先師の鐘巻自斎様から、甥の天鬼様へ託して、あなたへお譲 また、その事件が、世間の中に、佐々木小次郎を二人拵えてりなされた中条流の印可の巻』 しまったわけも分って来て、果ては、手をたたいて、真物の小 『ウム、あれか』 次郎はそれを愉央がった。 『死んだ天鬼様の懐中から抜き取って、この偽小次郎の又八と 申す者が、今も肌身につけて所持しておるといいました。 十 それは当然、自斎先生から、あなたへ授けられたもの。 そこでまた、小次郎がいうにはーー他人の名など騙って歩くえばこうしてお会い申したのも、自斎先生の霊や、天鬼様のお ような、こういう生活力の弱い人間などを殺してみても、 いつひきあわせであったかも知れません。どうかそれをこの場にお こう面白くもなんともない いて、お受取りくださいまし』 こら ふところ 懲すならば、もっとべつな方法がある。また草薙家の遺族源八は、そういって、又八の懐中へ手を突っ込んだ。 や、国許の世間ていの問題ならば、なにもむりに敵討に拵えて、 どうやら生命は助かりそうな様子なので、又八は、腹巻の底 二事情を繕ろわなくても、そのうち自分が上州方面〈下 0 た折、からそれを引出されても、惜しい気もちなどは少しもなか 0 十分死者の面目も立つように釈明して、追善の供養でも営むこ た。むしろ、その後、懐中も気も軽々した。 かた ほんもの ふところ ふところ おなご
命をお助けくださるならば、今というわけには参りませんが、 : たが、もう駄目だぞ』 を焼かせおったな。 ′一うもん 金もきっと後日までに、働いて御返済いたしまする、 巻六部はこういって、おもむろに又八を拷問し始めた。 1 一 1 ロ 、文に書いてお渡しいたしておいてもようございます』 まず最初の折檻が、平手でびしりと頬を打って来た。その手 の 白状して、こう残らずいってしまうと、又八は、去年から絶 でまた、額をつよく押されたので、又八の後頭部が樹の幹にぶ うみ えず心に病んでいた膿をいちどに切って出してしまったよう つかってごっんと鈍い音を出した。 『あの印籠は、。 とこから手に入れたものか、それを申せ、こで、急に気がらくになったせいか、なんだか怖いものもなくな って来た。 ら、申さぬか』 『いわぬな』 聞き終ると、六部は、 と、六部は、又八の鼻をつよく抓む。 『それに相違ないか』 抓んでおいて、又八の顔を、左右へ烈しく振り動かすので、 又八は、神妙に、 又八は妙な悲鳴をあげて、 『相違ありません』 『 : : ・ひゅ , つ、ひゅ , っ』 うつむ といって、すこし俯向く。 いう、という意味らしいので六部は鼻から手を放し、 暫く黙っていたと思うと、六部は腰の小脇差を抜いて、彼の 『申すか』 ひくりと斜めに顔を上げ、 顔の前へすっと出した。又八は、。 こんどは明瞭に、 『き、きるのか、おれを』 いのち 『ウム、生命をもらう』 と、又八が眼からなみだをこばして答える。 ごうもん 、 : 印籠は返したし、 『おれは、一切を正直にいったじゃな こんな拷問に遭わされないでも、又八はもうあの事を、秘し 0 戈日、き 印可の巻物も返す。それから、金も今は払えないが、彳 隠しにつつんでいる勇気はないのである。 っと返すといってるのに、なにもおれを、殺さなくてもいしオ 『実は、去年の夏のことだったのでーーー』 いしび と、伏見城の工事場で自分が石曳きをしているうちに遭遇しろう』 『おぬしの正直はよく分っている。だが、仔細をいえば、わし た「頤のない武者修行」の死をつぶさに話し、 : つい出来心で、その人の死骸から金入と、中条流の印可は上州下仁旺の者で、伏見城の工事場で大勢の者に殺された草 つまり彼の武者修行に出ておら と、それから先刻の印籠とを持って逃げたに相違ありません。薙天鬼様の奉公人なのだ。 ふと - 一ろ 金は、費ってしまいました。印可は懐中に持っております。生れた草薙家の若党で、一ノ宮源八というのだが』 あご み、つキ、 つま なてんきさま
『いっか、大坂で会った折、凍てた大地にひきすえられ、おば 『ーーーまツ、まかっ』 ばに存分叱られたことは、胆に銘じて忘れてはいない』 お杉は、又八の横顔を、びしやりと打った。 『そうか : : : あの言葉を覚えているか。では、おぬしに欣こん『アツ・ : な、なにするんだ、おばば』 でもらうことがあるそよ』 踰めきながら又八は顔をかかえた。そして乳を離れてから今 『なんだ、おばば』 日まで見たことのない怖しい母の顔を彼は見た。 『お通のことよ』 『たった今、おぬしはなんというたぞ。わしがいっかいうて聞 じゃあ、おばばの側に添って、今彼方へ行った かせた言葉は、胆に銘じているというたであろう』 おなご 女子は』 『これつ 「いつ、このおばばが、お通のような不埓な女子〈、だが身が たしなめるように、又八の前へ立ちふさがって、 手をついて謝まれと教えたか。 本位田家の名に泥を塗っ かたき 『汝が身は、どこへおじゃるつもりじゃ』 て、あまっさえ、七生までの仇そと思うている武蔵と逃げた女 「お通ならば : ・・ : おばば : ・・ : 会わしてくれ、会わしてくれ』 子じゃぞよ』 うなずいて 『会わしてやろうと思えばこそ連れて来たのじゃ。 したが『許嫁であった汝が身を捨てて、汝が身とは、家名の仇の武蔵 又八、おぬ↓、お通に会ってどういう気か』 へ身をも心をもまかせている大畜生のようなあのお通に、汝れ これつ 『悪かった・ーー済まなかったーーーゆるしてくれといって、おれは、手をついて謝まる所存か。・ : ・ : 謝まる所存かよー は謝まるつもりだ』 もろて 『・ : ・ : そして』 又八の襟がみを諸手につかんで、婆は振りうごかすのであっ 『 : : : そしてなあ、おばば : : : おばばからも、おれの一時の心 なだ 得ちがいを宥めてくれ』 又八は、首をがくがく動かしながら、眼を閉じて、母の叱一言 『 : : : そして』 を甘受していた。閉じている眼からは涙がとまらなかった。 『一兀のよ , つに』 。しよいよ歯がゆそ、つに、 悲『なんじゃあ ? 『なにを泣くのじゃ。泣くはど大畜生に未練があるのかつ。 いっしょ 母『ーー元のように仲をもどして、お通と夫婦になりたいんだ。 ええ、もうおぬしという子はいのう ! 』 おばば、お通はおれを今でも思っていてくれてるだろうか』 カまかせに、わが子を大地へ突き仆した。そして自分も諸仆 悲 皆までいわせず、 れに腰をついて、一緒になって泣き出した。 わ む・一う よろ よろ いいなずけ わ もろだお わ