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検索対象: 宮本武蔵(二) (吉川英治)
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1. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

てめえ 頭を撫でてやると、城太郎は、その頭をうごかして、沢庵の 『だからいいよ、くそ坊主の汝なんかに、なにも頼むといやし 巻手を振り落し、 ねえや』 『もういいよ。沢庵坊主なんか、なにも頼まないから。おいら 『わしの言葉が、嘘だと思ったら、六条柳町の扇屋へゆき、そ の 一人で武蔵様を捜して来て、お通さんに会わせてやるからい こで武蔵が、どうしているか、見届けて来い。そして見たまま の事実を、お通さんに話してやれ。いちどは歎きかなしむだろ 風し』 『知ってるか』 うが、それで眼が醒めれば結構じゃ』 せん、 『なにをよ』 城太郎は耳の穴へ、指で栓をして、 「武蔵のいる処を』 『、つるさい うるさい。どん栗坊主』 『知らなくたって、捜せば知れらい。よけいな心配するな』 『なんじゃ、わしの後を追いかけて来たくせに』 『小癪なことをいっても、おまえには、吉野太夫の家はなかな『坊主坊主、お布施はないぞ、お布施ほしけれや、唄うたえ』 うたくちょう か分らぬそ。教えてやろうか』 沢庵の背へ、こう謡口調で罵りながら、城太郎は耳をふさい 『頼まない、頼まない』 だまま、遠くなってゆく姿を見送っていた。 あちら 『そうばんばん当るな城太郎。わしじゃとて、お通さんの仇しかし、沢庵の影が、彼方の辻の横へかくれると城太郎の眼 じゃない、武蔵を憎む理由もない。それどころか、どうかし には、涙がせりあがって来て、それがばろばろと浴れ落ちるま まっと て、彼のふたりが二人とも、よい生涯を完うしてくれるようにで、ばんやり佇んでいた。 ひじ 蔭で祈っている者だ』 あわてて肱を曲げ、涙の顔を横にこすると、彼は、迷ってい 『じゃあどうして意地悪をするんだい』 る大の子が、急になにか思い出したように往来を見まわして、 『おまえには、意地悪と見えるのか。そうかも知れんな。だ 『おばさん ! 』 が、武蔵もお通さんも、今のところ、どっちもまあ病人のよう被衣して通りかかった女房風の女のそばへ駈け寄った。 なお なお そして、いきなり、 なものだ。体の病を癒すのが医者で、心の病を治すのが坊主と いうことになっているが、その心の病のうちでもお通さんのは 『六条柳町ってどこ』 重態だ、武蔵のほうは、抛っておけばどうにかなろうが、お通と訊ねた。 さんの方はわしにも今のところではどうにもならん。だから びつくりしたよ , つに・女は、 匙を投げていうのだよーー。武蔵のような男に、片想いしてどう『遊廓でしよう』 するんだ、さらりと思い切って、御飯をたんと喰べ直せとな。 『遊廓って何 ? 』 そういうよりほかないじゃよ、、 『まあ』 - 一しやく かたき かっ くるわ たたず あふ Z52

2. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

顔を先に振って、そのことばの底にある彼女の意思を問おうのすがたを。 はらカら 母も雲ーー父も雲ーー、兄弟も友達も雲よりしかないと思 0 て砌 巻としなかった。 はぐ しつのまにか、育くま いるようなーーー孤児の生い立ちの中に、、 以前のことなんかいわれると、おれは辛い。まったくお の 又八はそう田 5 った。 れが悪いのだ。今更、おまえにあわせる顔もない次第でーーーおれていた、この冷たさに違いない そう考えたので、彼は彼女のそばへそっと寄って、棘のある まえのいう通り、これが忘れられるものならば、忘れてしまい さわ たいと山々思う。だが思うだけで、なんの因果か、おれはおま白薔薇へ触るように、 『・・ : : やり直そう』 えを諦めきれない』 頬へささやいた。 お通は、当惑して、 『 : : : ね、お通。ーー返らない年月を呼んでみたって始まらな 『又八さん、二人の心と心のあいだには、もう通うもののない いじゃないか。これから二人して、やり直そう』 深い谷間ができました』 『又八さん、あなたはどこまで考え違いをしているのですか。 『その谷間に、五年の年月が流れて行ったのだ』 『そうです、年月が返らぬように、私たちのむかしの心も、も私のいっているのは、年月のことではありません、心のことで う呼びもどすことは出来ません』 『だからさ、その心を、おれはこれから持ち直すよ。自分でい 『で、できないことはないよ ! お通、お通っ』 いわけしても変だけれど、おれがやった過ちぐらいは、若いう できません』 お通のそういう冷やかな語尾と顔いろに驚いて、今更のようちは誰にだってあり勝ちな話じゃよ、 『どう仰っしやっても、私の心はもうあなたの言葉を本気で聞 に眸をすえてしまう又八であった。 しんく 情熱が表にあらわれる時は、真紅の花と太陽の狂いあう夏のこうといたしません』 こんなに男が謝っているのじゃないか 『 : : : わるかッたよー こんな冷やか 日を思わせるような性質のあるお通の一面に ろうせき ・・え、お通』 なーーーまるで白い蝦石を撫でるような感じのするーーーそして指 『およしなさい、又八さん、貴方もこれから男のなかへ生きて を触れれば切れそうな厳しい性格が、どこに潜んでいただろう ゆく男でしよう。こんなことに・ おもて 『でも、おれには、生涯の重大事だ。手をつけというなら手を そういう冷たい面の彼女を見ていると、又八の頭にはふと、 つく。おまえが、誓いを立てろというなら、どんな誓いでもき 七宝寺の縁側が思い出された。 あの山寺の縁側で、なにか考えごとをしながら、うるみつと立てる』 のある眼で、半日でも一日でも、空を見て黙っている時の孤児『知りません ! 』 とげ

3. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

うにと、死所の覚悟はもちろんのこと、死に顔のわるくないよ なんとか、口実を作って木剣をひいたほうが相互のため う、歯も白く塩でみがき、髪まで洗って出向いたものだった。 だと武蔵は考えた。然し、その機会はなかった。 そこで、当の相手の清十郎に出会ってみると武蔵は、自分の 『 : ・・ : 気の毒なことをした』 想像していた人物とは、まったく違った人間のように思われ武蔵は、もいちど、ひょろ長い松の生えている塚を振向い いたで て、 て、清十郎のために、自分の与えた木剣の傷手が、はやく癒え ( これが、拳法の子だろうか ) と疑った。 てくれればよいがと、心のなかで祈った。 武蔵の眼に映った清十郎は、京流第一の兵法者とはどうして きんだち も見えない いわば都会的な線のほそい公達だった。 ひとりの奉公人を召し連れて来ているほか、介添も助太刀も いずれにしろ、今日の事は終ったのだ。勝ったにせよ、敗け いないらしいのである。お互いに名乗り合って立ち合う途端たにせよ、後までこだわっているのは兵法者らしくないこと に、武蔵は、 だ、未練というものである ( これは、やる試合でなかった ) そう気づいて、武蔵が足を早めだした時であった。 と、胸のうちで悔いた。 この枯野に、なにを探しているのか、草むらの中にうずくま おうな 武蔵が、求めているのは、常に自分以上のものだった。しか って、土を掻き分けていた老媼が、彼の跫音にふと顔をあげ、 るに今、この敵を正視すると、一年も腕をみがいて会うほどの 敵でなかったことが一目で視てとれたのである。 驚いたような眼をみはった。 うす おうな その上に、清十郎の眸には、まったく自信がなかった。どん枯草と同じような淡い無地の着物をその老媼は着ていた。綿 どう な未熟な相手にも闘うとなれば、猛烈な自尊心はあるものだのふつくら入っている胴衣の紐だけが紫色なのである。俗服を つむり が、清十郎には、眼ばかりでなく、全身に生気が燃えていない着てはいるが、円い頭には頭巾をかぶり、年もはや七十頃であ のだ。 ろう、どことなく上品で小がらな尼さんなのだった。 ( なぜ今朝、ここへ来たのか、こんな自信がない心構えで 見 むしろ、破約したがよかろうに ) 武蔵も実はびつくりしたらしかった。道もない草むらだし、 そう思い遣ってみると、武蔵は、敵の清十郎があわれになっ まるで野面と同じような色をしているこの年老った尼さんのか 野 た。彼は、それの出来ない名門の子である。父から受けついだらだを、もすこしうつかりしていたら、あぶなく踏みつけたか 枯千人以上の門下の上に、師と仰がれてはいるが、それは、先代も知れないからである。 の遺産であって、彼の実力ではなかった。 『 : : : おばあさん、なにを採っているんですか』 ひも

4. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

星の中 息子らしく、時々、子どものように慟哭して、 かあ 『阿っ母、それやああんまりだ。おらだって、口惜しくねえ事 があるものか。 : おらのほうが、阿っ母よりも、どんなに、 口惜しいか知れねえけれど』 と、言葉も、とぎれとぎれにしか聞き取れない。 『大きななりをして、何を泣く しつか こう三ッ児でもたしなめるように、慥乎りした声でーー - ー然し 静かに叱っているのは、彼の老母に間違いなく、 『それ程、無念と思うなら、この後は心を戒めて、一心に道を いかなる場所でも場合でも、武蔵は、寝ようと思う時にすぐ ・ : 涙などこばして、見苦しい。その顔 究めて行くことじゃ。 眠り得る修養と健康を持っていた。然しその時間は、至って短を拭きなされ』 : もう泣きませぬ。昨日のような不覚なざまをお目 ゅうべも にかけました罪は、どうかお宥し下さいまし』 ひとま とは叱りましたが、 深く思うてみれば、下手と上手の 権之助の家へ戻って来てから、着のみ着のまま、一間を借り て横になったが、小 鳥の声がし始める頃は、もう眼をさまして差。又、無事が続くほど、人間は鈍るという。そなたが負けた のは、当り前なことかも知れぬ』 ふだん 『そう阿っ母にいわれるのが、なによりおらあ辛い。平常も朝 けれど昨夜、野婦之池から池尻へ出て、ここへ戻って来たの よなか がもう夜半過ぎであった。あの息子も疲れているだろうし、老タに、お叱りをうけながら、昨夜のような未熟な負け方。あん 母もまだ眠って居るに違いない。 そう察しられるので、武なざまでは、武道で立つなどという大それた志も、吾れながら やが 。この上は、生涯、百姓で終るつもりで、武技を磨 蔵は小鳥の声を耳にしながら、寝床の中で、軈て雨戸の音のす恥ずかしい るのをうつらうつらと待っていた。 くよりは鍬を持ち、阿っ母にも、もっと楽をさせまする』 よそ′一と すると。 何事を歎いているのかと、初めは武蔵も他事に聞いていた 隣の部屋ではない。 もう一間ほど先の襖らしかった。そこでが 、どうやら、母子の対象としている者は、自分以外の他人で すす はないらしい 誰やら、しゆくしゆくと啜り泣いている者がある。 ぶぜん 『 : : : おや ? 』 武蔵は、憮然として、寝床のうえに坐り直した。 なんと いうつよい勝敗への執着だろうか。 耳を澄ましていると、泣いているのは、どうやら彼の精悍な 星の中 のぶのいけ ふすま おやこ か ゆる を、の・つ どう - 一く

5. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

『なにかや』 毆をおいて、どこへ行くぞっ、卑怯者、不孝者、待たんかっ』 巻お杉の襟首を捻じ抑えながら、沢庵は闇へ向って、なおこう 『お通はどこへ行った』 いっていた。 『知らん』 の 『知らんことはあるまい』 婆は、沢庵の膝の下に苦しげにもがきながら、 どやっ 『たれじゃ、何奴じゃ』 『このばばは、お通に紐をつけて歩いてはおりませぬそよ』 風 うしろ ちょうちん と、なお虚勢を失わない。 提燈を持って後に立っている旅籠の手代が、 又 - 八、が「ラ ーっ返してくる様子もないので、沢庵は手をゆるめ『・ : ・ : ャ。お坊さま、血がこばれております、生々しい血しお て、 ・カ』 うつむ 明りへ俯向いた沢庵の顔が、さすがに少し硬ばってみえた。 『わからぬか、おばば。やはりおぬしもどこか耄碌したのう』 隙を見て、お杉婆は突然起ちあがって逃げだした。 、沢庵坊主じゃの』 『おどろいたか』 振向いて、沢庵はそのまま、 『なんの ! 』 『待たっしゃれ ! おばば ! おぬしは家名の泥をすすぐとて しらが たけだけ 故を出て、家名に泥をなすって帰るのかつ。子が可愛ゅうて 猛々しく婆は白髪の光る首を横に振ってさけんだ。 『どこ暗くのう世間をうろついている物乞い坊主、今はこの京家を出ながら、その子を不幸にして戻るのかっ』 実に大きな声なのだ。 都に流れておじゃったか 『ゞっそ、つ』 沢庵の口から出ているようには聞えないのである。宇宙が呶 鳴ったようにそれは婆の全身をつつんで聞えた。 沢庵はにこりと酬いて、 あたり ぎくと、婆は足をとめた。顔の皺がみな負けん気を顔に描い 『ばばのいう通り、さきごろまでは柳生谷や泉州の辺をうろっ いていたが、ついゅうべ、ぶらりと都へやって来てな、さるおて、 ふ やかた 『なんじゃと、わしが家名に泥のうわ塗りをし、又八をよけい 方のお館で、ちらと腑に落ちぬ沙汰を耳にしたので、これはい かんーー・捨ておけぬ大事と思い、黄昏からおぬし達を捜しあるに不幸にするとおいいやるか』 『そうだ』 いていたのじゃよ』 『阿呆な』 『何の用で ? 』 せせら笑ってーーーしかしなにをいわれたよりも真剣になっ 『お通にも会おうと思って』 て、 「ふーム』 くそ ふせめし 『おばば』 『布施飯くうて他人の寺に宿借して、野に糞してばかり歩く人 たそがれ もうろく はた′一 しわ こわ

6. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

昨夕の間違いは、もうお互の間違い事と、心に済ましているのを、このまま、草屋に朽ち終るほどなら、なんで幼少からそ ひえあわ 巻のかと思えば、それはそれとして、武蔵に負けたという点を、 なたに書を読ませ、武道を励まし、稗粟に細々生きて迄、露命 ここの母子は、今もって、飽くまで不覚な恥辱として、涙にくの糸をつむいで来ようそ』 おえっ の れるほど無念がっているのである。 老母は、ここ迄いうと、子の襟がみを抑えたまま、声も嗚咽 『 : ・・ : 怖しい負けず嫌い』 になってしまって 空 武蔵は呟いて、そっと次の部屋へかくれた。そして夜明けの『不覚を取ったら、なぜその恥をそそごうとは思わぬか。幸な 薄い光りの洩れているその又次の一室の内を、隙間からそっと事には、あの牢人はまだこの家に泊っておる。眼をさましたら 覗いてみた。 改めて手合せを望み、その挫けた気持に信念を取り戻したがよ 見ると、そこは、この家の仏間であった。老母は仏壇を背に し』 して坐り、息子はその前に泣き伏している。ーー・彼の逞ましい 権之助は、やっと顔を上げたが、間が悪そうに、 大男の権之助が、母の前には他愛もなく顔をよごして泣いてい 『阿っ母、それが出来るほどならば、おらが何で弱音を吐くも る。 のか』 そなた 武蔵が、ふすまの陰から見ているとも知らず、老母はその時『常の其方にも似あわぬ事。どうしてそのように意気地のうな さわ 又、何が気に障ったのか、 りやったか』 『なんじゃと、 : これ権之助、今、なんといやったか』 『ゅうべも、半夜のあいだ、あの牢人を連れ歩くうち、絶え ひとう ふいに、声を励まして、息子の襟がみをつかんでいた。 ず、一撃らくれてやろうと、狙い続けていたが、どうしても、 打ち撲る事ができなかった』 『そなたが、法みを抱いているからじゃ』 あした 年来の志望であった武道を捨てて、明日からは、生涯百姓で『いいや、そうでねえ。おらの体にも木曾侍の血は流れてい じよう おんたけ 終るつもりで孝養するといった息子のことばがーーー気に添わなる。御岳の神前に二十一日の祈願をかけ、夢想の中に、杖の使 いのみか、かえって、老母の心を怒らせたものの如く い方を悟ったこの権之助だ、なんで名もない牢人ずれに 『なに。百姓で終るとか』 と、幾度も自分では思ってみるが、あの牢人の姿を見ると、ど 息子の襟がみを膝へ引き寄せると、三ッ児の尻でもたたくようしても、手が出ねえだ。手を出す先に、駄目だと思ってしま うに、彼女は、歯がゆそうに、権之助を叱るのだった。 うのだ』 『どうそして、そなたを世に出し、まいちど家名を興させたい 『杖をもって、必ず一流を立てますると、御岳の神に誓ったそ ものと願えばこそ、母もこの年まで、世に望みを繋いでいたも ひる 308

7. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

さいしよ、つが』 巻『じゃあ私も、あまりお腹がすいておりませんから、おひるは やめておきましよう』 の 『あんた、ちっとも物を召上らんで、ようそうしておいでなは るなあ』 まつまき どこからともなく、松薪のいぶる濃い煙が流れて来て、畑の おも 中の梅の樹も、向うの母屋も隠してしまう。 けれどまた、考えようによれば、城太郎のほうでも同じ かましよしょ やきもの この辺には、陶器つくりの竈が所々にあるので、そこで火入ように、 れをする日には絶えず煙が近所をいぶしている。けれど、その ( なにも、遠い所じゃなし、お通さんだって一度ぐらいは、自 きれい 煙が去った後は、春先の空がよけいに美麗に見られた。 分の方から来そうなものじゃないか。烏丸のお館へだって、あ 早 - わざわ 馬のいななきや清水の参詣人の跫音が、往来の方に騒々と聞のままでお礼もいわないでいるのは悪い ) える。そういう町の騒音の中から、武蔵が吉岡を打ったという そんなふうに待っているかも知れないと思う。 噂も聞いた。 そこへ気のつかないお通でもなかったが、お通にしてみれ お通は、飛び立つように思い、そして武蔵のすがたを瞼に描ば、城太郎のほうで来てくれるのはいと易かろうが、今のとこ ろ、自分のほうからお館へ行くということはむつかしい事情に ( 城太郎さんは、蓮台寺野へ行ってみたに違いない、城太郎さある。お館へとは限らない、たとえどこへ出るにしても、お杉 んが来れば詳しいことも : : : ) 隠居のゆるしを得なければ出ることはできない。 と、同時に城太郎の訪れを待っことも痛切になる。 今日のような留守をよい機に出かけてしまえばよいじゃな、 だが、その城太郎がちっとも来ないのだ。五条大橋で別れた こう事情を知らない者は思うかも知れないが、そこに 限りであるからーー・もう二十日余りにもなる。 ぬかりのあるあの婆ではない。入口の旅籠の者に頼みこんであ ( 尋ねて来ても、ここの家が分らないのかしら ? しいやるから、お通の身には絶えず誰かの眼が光っている。ちょっと そんなはずはない、三年坂の下と教えてあるのだもの、一軒一往来をのぞきに出ても、 軒尋ねたって ) ( お通さんどこへ ? ) そう思ってみたり、また、 と、旅籠の母屋からすぐ、さり気ない声がかかるのである。 ( もしや風邪でもひいて寝こんでしまったのじゃないかし なにしろまた、お杉婆さんといえば、この三年坂から清水の なじみ ら ? ) 界隈でも、長い馴染だし、顔も通っているらしいのだ。去年、 なか とも案じてみる。 けれど、あの城太郎が、風邪で寝ているなどとは信じられな きっと暢気に春先の空へ紙凧でも揚げて遊んでいるの かも知れない。お通は、腹が立ってきた。 のんき しお

8. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

彼を待ち合せ、それと合してここへ襲せて来るつもりではない 司や、小次郎殿か』 巻四方に潜んでいた吉岡勢は、まったく痺れの切れたような顔かと思う』 『ウウウム : それはありそうなことじゃ』 をして、彼の周囲をすぐ真っ黒に取り囲んだ。 うめ の 源左老人が呻くと、 「まだ見えませぬかの、武蔵奴はーー』 「しからば、ここへ来るのも、もう間はないな』 壬生の源左老人の問しし 風 十郎左衛門は、そういうと、持ち場を離れたり、樹の上から 『いや、出会った』 と、小次郎は語尾を上げ、その言葉に衝かれ、さっと自分へ降りて集まって来た味方へ、 『戻れ戻れ。備えを崩しているところへ、武蔵方が不意に虚を あつまる視線のひらめ、きを冷たく見廻しつつ、 『出会ったが、武蔵の奴、どう思ったか、高野川から五、六町衝いて来ようものなら、出鼻に不覚を取ってしまう。どれほど はど連れ立って歩くうちに、不意に姿を消してしもうたのでの助太刀を率き具して参るかはしらぬが、いずれ多寡の知れた あやま もの。手筈を過たす討ち取ってしまえ』 『そうだ』 、、も夂、らす、 各こも、気づいて、 『六、ては、佻 ~ げたよっ 『待ちくたびれて、心に弛みの起る時が汕断だ』 これは御池十郎左衛門だった。 『鄙観「につけ』 『おう、抜かるな』 と、その動揺めきを抑えて、小次郎はいいつづけるのだっ い交しながらばらばらと分れて、再び、藪の中や樹蔭や、 こずえ ようす また、飛道具を携えて梢の上へ影をかくした。 「落着き澄ました彼の容子、また、わしにいった言葉のふし とうも、あの 次郎はふと、下り松の根方に、藁人形のように立っている や、その他を考え合せてみるに、姿は消したが、、、 思、つに、この月次良 に源次郎少年を見て、 まま逃げ去ったものとも考えられぬ。 乢・しカ』 に知られては具合のわるい奇策を用いるため、わしを撒いたも 」只、こ。 のと思われる。汕断は決してなりませぬそ』 源次郎は強く、 「奇策。ーー奇策とは ? 』 『、つ、つ′ル』 無数の顔が、彼を囲んで、彼の一言半句も聞き洩らすまいと 首で否定して見せた。 するように犇めいた つむり その頭を撫でてやりながら小次郎は、 『おおかた武蔵の助太刀のものたちが、どこかに屯していて、 ひそ しび たむろ ゆる わら 278

9. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

今様六歌仙 おもて 歓楽の後の白けた寂しさが、誰の面にもただよいかけている。 ある。 酒もそうなるとほろ苦いし、唇だけがやたらに乾き、水を飲 ( どうしたものか ? ) めば家が思い出されて来る。殊に、あれなり吉野太夫が姿を見迷っているらしい一同の顔いろを見ると、二人の引船はまた せないのが、なんとしてももの足らない。 口をそろえていった。 こころ 『戻ろうではないか』 『太夫様が仰っしやるには、先刻からお席を外し、定めし情な おなご 『 ! 用一りふま . しよ、つ』 ナれどあのような困ったこ い女子と皆様がお思いに違いないし 一人がいう時は、誰の気もちもそこに一致していた。なんのとはない。かんがん様の御意に任せれば、船ばし様のお心に反 未練もないというよりは、これ以上、折角のよい気持が醒めるくし、船ばし様の仰せに従えば、かんがん様に済まないことに のを惧れるように、皆すぐ立った。 なるし : 。それゆえ黙ってお席を抜けて来たが、実は、おふ すると。 た方ともにお顔の立つよう、こよいは改めて、吉野様が皆様を ひきふね 禿のりん弥を先に立たせ、後から吉野太夫付きの引船 ( しんお客として迎え、自分のお部屋へお招きしたいという心組み。 その称 ) 二人、小走りに来て、一同の前に手をつかえ、 : どうそそのお気持を酌んで上げて、もう暫くお帰りをおの ようよう - 一とづ 『お待たせいたしました。太夫様からのお言伝てには、漸 ばし下・き、いませ』 お支度ができました程に、皆様をお通しせよとのおことばにご こう聞いてみると、無碍に断って帰るのも、なんだか狭量に ざりまする。お帰りもさることながら、雪の夜は更けても明る思われるだろうし、吉野が主人となって、自分たちを招くとい うございますし、このお寒さ、せめてお駕籠のうちも暖かにおう心意気にも、べつな感興が唆られないこともない。 戻り遊ばすよう、どうそ、も少しの間、こちらでお飲しくださ 『参ってみようか』 いませ』 『せつかく、太夫がそういうものを』 ひな と、思いがけない迎えである。 そこで、禿や引船に案内されて従いてゆくと、庭先へ鄙びた 『はてな ? 』 藁草履を五名分そろえる。やわらかな春の雪はその人々の藁草 あと お待たせいたしましたとは何のことか、光広も紹由も、履で浪も残さず踏まれてゆく。 いっこう解せない顔つきで眼を見合わせた。 武蔵を除く以外の者は、すぐその趣向に、 ( ははあ、招きは茶だな ) 七 と、想像していた。 たしな いちど興醒めた心は呼び戻しようもない気がする、それが遊吉野が茶の道に嗜みのふかいことは今更のことではない。まお だきよう びの世界であるがゆえに、よけいに気持の妥協がっかないのでた、こういう後で一わんの薄茶も悪くないなどと思いながら行 すご わら そそ はず

10. 宮本武蔵(二) (吉川英治)

とう - 一ん しくらその時 けれど源次郎少年のことだけは、、 武蔵は、脚と腕の刀痕よりも、その言葉に、ずきんと胸てていた。 巻の傷むような顔をした。まして、そう問うこのお小僧の年頃もの信念をよび返して心に持ってみても、ほろ苦く、うら悲し 3 く、心が傷んでたまらなかった。剣というものの絶対性が 十三、四。 の : 、こ入ろうとするや否、真っ先に斬り捨また修行の道というものの荊棘には、かかることも踏み越えて 下り松の根元てし冫 てたあの源次郎少年とーーーちょうど年ばえも体の大きさも似てゆかねばならないのかと思うと、余りにも自分の行く手は蕭条 としている。非人道的である。 見える。 つる ( いっそ、剣を折ろうか ) あの日。 とさえ思った。 幾人の傷負と、幾人の死者を作ったろうか。 かりようびんが のり 殊に、この法の山に分け入って幾日、迦陵頻伽の音にも似た どう斬った 武蔵は、今も、思い出すことができない かえ か、どうあの死地を脱したのか、それもきれぎれにしか、記憶中に心耳を澄まし、血しおの酔いから醒め、われとわが身に回っ てみると、彼の胸には、提を生じないではいられなかった。 ー刀ナー」し 手脚の傷の癒える日を待つつれづれに、ふと、観音像を彫り ただあれから後、眠りについても、ちらついてくるのは かけてみたのは、源次郎少年の供養のためというよりは、彼自 下り松の下で、敵方の名目人である源次郎少年が、 早、んき ばだいよう 身が自身のたましいに対する慚愧の菩提行であった。 と、一声さけんだのと、松の皮といっしょに斬られて大地へ なきがら ころがった、あのいたいけな可憐な空骸だ。 かしやく 『ーーーお小僧』 ( 仮借はいらぬ、斬れ ! ) 武蔵はやっと、答える言葉を見つけ出していった。 という信念があったればこそ、武蔵は断じて真っ先に斬った げんしんそうず のであるがー・ー・斬 0 てそしてこうして生きている後の彼自身『じゃあ、源信僧都の作だとか、弘法大師の彫だとか、この御 ひじり 山にも聖の彫った仏像がたくさんあるが、あれはどういうもの 」っつ、つ』 ( なぜ、斬ったか ) 『そうですね』 と、そそろに悔い 稚児僧は首をかしげて、 ( あれまでにしないでも ) 『そういえば、お坊さんでも、絵をかいたり、彫刻をしたりす と、自分の苛烈な仕方が、自分でさえ憎まれてならない。 るんですね』 われ事において、後悔せず と、得心したくない顔つきをしながら、頷いてしまう。 旅日誌の端に、彼は曾って、自分でこう書いて心の誓いに立