『待てツ。武蔵』 人が騒ぎ出すと、里の鶏や馬までが騒ぎ立てた。 ひとむれ 巻『醜し ! 』 八大神社の上にも一群かたまって見ていた。絶えず流れていお 『背を見せる法やあるつ』 る霧は、山とともに、その見物人の影を、白く塗りつぶしてし ひら の 思い思いに、大勢は竹と竹のあいだを駈けた。武蔵はもう藪まったかと思うと、またすぐ視野を展いて見せた。 はす の外れの小川を跳びこえている。そして一丈ほどな崖を跳び上 その一瞬の間に武蔵のすがたは見る影もなく変ってい 風 びん り、二つ三つそこで呼吸をやすめている様子。 た。鬢止めに締めている額の布は、汗と血で、桃色に滲んでい 崖の上はゆるい傾斜を持っている山裾の原だった。彼は一望 た。髪は崩れてその血と汗に貼りついて見える。ために、彼の くま に夜明けを見た。下り松の辻はすぐ下であり、その辻には、吉形相は、たださえ恐しくなっているところへ、魔王の隈を描い 小高いとこ 岡方のぐれた人数が四、五十名もいて、彼が今、 たように、世にもあるまじき物凄さに見えるのだった。 ろに立った姿を見つけると、一斉にわッとここへ寄せて来た。 今の人数の三倍に殖えたものが、真っ黒にこの山裾の原に集さすがに、呼吸も全身でつき始めてきた。黒革胴のような肋 まった。吉岡方の全勢力である。一人一人手を繋げば、大きな骨が大きな波を打つ。はやぶれ、膝の関節を一太刀斬られて ざくろ たね 剣の環をもって、この原を包んでしまうこともできるほどな人 いた。その傷口から柘榴の胚子みたいな白いものが見えて 数なのである。一剣、燦々と、針のように小さく、凝と青眼に る。破れた肉の下から骨が出ているのである。 すえたまま、武蔵は遠く立って待っていた。 小手にも一箇所かすり傷を負っていた。さしたる傷ではない おびまえ らしいが、滴る血しおが胸から小刀の帯前まで朱に染めている 五 ので、さながら満身が纐纈染になってしまい、墓場の下から起 いなな どこかで駄馬が嘶いた。里にも山にも、もう往来はあるはすち上った人間でもあるかの如く、見る者の眼を掩わしめた。 しよしょ の時刻。 いや、それよりも酸鼻なのは、彼の刀に中たって、処々 えいざん ことにこの辺は、朝の早い法師たちが、叡山から下りて来る に唸いたり、這ったりしている傷負や死人だ。その山裾の原へ し、叡山へ上って行くし、夜さえ明ければ、木履をいて、肩彼が駈け上り、七十名もの人間が、どっと彼へ襲撃して行った をいからして歩く僧侶の姿を見ない日はない と思う途端にもう四、五名が斃れていた。 ておい そういう僧侶らしい者だの、木樵だの、百姓だのが、 吉岡方の傷負が斃れている位置は、決して一所にまとまって あっち へだ 『斬合だっ』 いなかった。彼方に一名、此方に一名、距たっている。それを 『どこで』 見ても武蔵の位置が絶えす動いて、この広い原をいつばいに足 いとま 『どこで』 場を取り、大勢の敵をして、その力を集結させる遑のないよう きたな きらきら じっ したた しばりぞめ ひたいめの おお あ あば
幼な心を二人ともそれにも思い出されていたかもしれなか 巻老婆はすぐ乳の瓶をその男の手へ渡した。けれど男は、その 瓶を持った儘、老婆の話を聞こうともしないし、乳をのぞいて『偉くなったなあ、武ゃん。 いや今では、そう呼ばれても の 見るでもない。 しつぞやの 自分みたいな気がすまいな。おれも武蔵と呼ばう。、 放心した人間のように、眼を武蔵の頬へ射向けているのだっ下り松の働き、その前のことども、噂は始終耳にしていた』 風 ようぜん た。武蔵も、亦凝然として、その男を見ている 『いや、恥かしい。まだまだおれは未熟者だ。世間の奴が、余 「・ : : ・お、おうつ』 りにも不出来すぎるのだ。 だが又八、この茶店に泊ってい うめ どっちからともなくこう呻いた双方の足が前へ出ていた。 るという客は、おぬしのことか』 そして顔と顔とを接し合って、 『ウム : : : 実は江一尸表へ行こうと思って都を立ったが、少し、 「又八じゃないカ 都合があって十日ばかり』 武蔵がさけんだ。 『じゃあ、病人というのは ? その男は、本位田又八だったのである。 『病人』 変らない昔の友の声に耳を打たれると、又八もわれを忘れて、 又八はロ籠って、 『ーーーやつ。武ゃんか ! 』 『あーー。病人というのは、連れの者だ』 と、彼もむかしの呼び慣れた名をもって呶鳴った。武蔵が手『そうか。 ・ : なにしろ無事な顔を見てうれし、 しいっか、大 を伸ばすと、又八も、うつつに抱えていた乳の瓶を思わず手か和路から奈良へゆく途中で、城太郎からおぬしの手紙を受け取 ら落して抱きついた。 にカ』 瓶は砕けて、白い液が二人の裾へ刎ねかかった。 『ああ ! 何年ぶりだろう』 急に、又八は眼を伏せた 『関ヶ原の戦ーーーあれからだ ! あれから会っていないの あの時、手紙の中に、傲語して書いた言葉の一つでも、実行 されていないことを思うと、彼は、武蔵の前に、面を上げる勇 『 : : : すると ? 』 気も出ない 『五年ぶりだ。 おれは今年二十二になったから』 武蔵は、その肩に手をかけた。 『わしだって、二十二だ』 唯わけもなく懐しいのだ。 『そうだ、同い年だったなあ』 五年のあいだに生じた彼と自分との人間的な差などは念頭に くつろ 抱き合っている友と友を、牝牛の甘い乳の香がつつんでい もなかった。折もよし、ゆっくりと打ち寛いで、心ゆくまで語 おもて 250
さかぐら い血しおを見、血のにおいに吹かれて、彼らは酒蔵へ入ったよ うに血に酔っていた。血の中に立っと、勇者は常よりも冷静に きようしゃ くらんど 武蔵の背を見て追いか 京流吉岡の伝統を負って立つべき十剣のうちの、小橋蔵人がなるし、怯者はその反対になる。 の けてゆく躍起な血相というものは、さながら血の池の鬼だっ まず先に斃れてしまい、今また御池十郎左衛門ともあろうほど 風の者が、つづいて大地へ俯ッ伏した。 『 ~ 打ったぞッ』 物の数には入れるわけにはゆかないが、彼らの旗とする、 名目人の源次郎少年を加えると、すでにここの半数は、武蔵の『逃がすなツ にえさら そんな叫びを聞き捨てながら、武蔵は、最初の戦端を切った 刀に中たって序戦の贄に曝され、惨たる血をここ一面に撒いて しまった。 丁字形の辻を捨て、三道のうちでいちばん道幅のせまい修学院 その時、十郎左衛門を斬った切ッ先の余勢をもって、彼道へ向って駈け込んで行ったのである。 当然そこからは今、下り松の変を知って、慌てふためい らの乱れた虚につけ入ってゆけば、武蔵はさらに、幾つかの敵 、よて駈けつけて来た吉岡勢の一団がある。ものの二十間とも駈け 首をつかみ、ここでの大勢を決することができたにちがしオ ないうちに、武蔵はその先頭とぶつかって、後から追って来る だが彼はなに思ったか、驀っしぐらに三本道の一方へ駈けものとの間に挾まってしまわなければならないはす。 いきおし 二つの勢は、その藪道でぶつかった。味方は味方の雄々し 逃げるかと思えば、翻えっているし、向って来たなと構えをい姿を見ただけだった。 『ゃ。むむ武蔵はツ』 持ち直せば〉地へ腹を摺ってゆく燕のように、武蔵の影はもう 『来ないッ』 勿 5 ち日劇こよ、 『いや、そんなはずはないが』 『でも 残った半数は歯がみをし、 押問答をしている間に、 八蔵ッ』 『一 : だッ』 「醜いそッ』 武蔵がいった。 路傍の岩の蔭からおどり出て、武蔵は、彼らの列が通り越し 『勝負はまだだぞ』 と吼えーーー。そして追った。 て来た道の中央に立っていた。 来いツ。といわんばかりな第二の準備が彼のからだにで 彼らの眼孔は、皆顔から飛び出しそうに光っていた。 しゅ たお ひるが おびただ
なら逃げてもいし て着物の上からーー彼女の二の腕のあたりを、がぶっと、深く 。おれは天下に、おれの歯型のある女に触れ めがたき 噛みついた。 た奴は、おれの女讐だといって歩くから』 ひいイつ、お通は思わす悲鳴をあげた。 うつばりちり 梁の塵を徴かにこばして、真っ暗な堂内の床には、よよと 身を床にもがいて暴れた。そして、彼の歯を抗ぎ離そうとす るほど、彼の歯の尖を肉へ深く入れてしまった。 泣きむせぶ声ばかりだった。 『 : : : 止せつ、いっ迄、泣いてやがって。気が滅入ってしまわ 淋漓たる血しおが、小袖の下を這って、縛られている手の指 あ。もう苛めねえから黙れ。 : : : うむ、水をいっぺい持って来 先までばとばと垂れてきた。 てやろうか』 又八は、それでも猶、鰐のような唇を離さなかった。 かわらけ 祭壇から土器を取って、外へ出て行こうとすると、そこの木 お通の顔は、月明りでも受けているように、見るまに白くな連格子の外に立って、誰か、覗き見して居た者がある。 ってしまった。又八はぎよっとして、唇を離し、そして彼女の 四 顔の猿ぐっわを脱って、彼女の唇を調べてみた。 もしゃ舌 誰か ? と恟っとしたが、堂の外に見えた人影は、途端 でも噛み切ったのではなかろうかと。 まろ にあわてて逃げ転んで行く様子なので、又八は猛然と、本連格 余りの痛さに、喪心したのであろう、鏡の曇りのような薄い 子を排して、 汗が顔に浮いていたが、唇の中にはなんの異常もなかった。 『野郎っ』 ・ : お通、お通』 『 : : : おいつ、堪忍しろ。 かえ と、追い駈けて出た。 身を揺すぶると、お通は、われに回ったが、途端に、ふたた こくもっ 捕まえてみると、この附近の土民らしく、馬の背に、穀物の び体を床に転ばせて、 『痛い 俵を積み、夜を通して、塩尻の問屋まで行く途中だという。そ 。城太さアん、城太さあんー くどくど して猶、諄々と、 と、うつつに叫び出した。 つもり 『べつに、どういう心算でもなく、お堂の中に、女子の泣き声 『痛てえか』 が聞えたので、不審に思って、覗いてみただけでござります』 又八は、自分も蒼白になって肩で息をつきながらいった。 ひらぐも あざ と、言訳して、平蜘蛛のように、詫び入るだけだった。 『血は止まっても、歯型の痣は何年も消えることじゃねえ。お あと 、者こまどこまでも強くなれる又八であるから、忽ち、反 武蔵が知号しし。 れの、その歯の痕を、人が見たら何と思う ? ・ : まあ当分の司 尸いずれ俺の物となる身になって、 毒ったら何と考えるか。 『それだけか。 それだけの考えに相違ないか』 てめえの体に、それを手付の証印として預けておくぜ。逃げる ゆか み、キ、 よ おなご そり 3 の
を、黙って見ていてよいものか』 にゃならぬ』 『だから、俺はこう思うんだ。あしたの夜明けごろまでに一乗 : 冗談じゃねえそ、おふくろ』 寺村まで行っていれば、果し合のある場所も、その様子もきっ 『なにを笑うそ』 のんき の そこで、武蔵が吉岡の者に討たれたら、その場へ と分る。 『あまり暢気なことをいってるからよ』 おやこ わ 行って、母子して両手をつき、武蔵とおれ達のいきさつを詳し 『それは、汝れのことじゃ』 風 『おれが暢気か、おふくろが暢気か、まア街へ出て、世間の噂く述べて、死骸に一太刀恨ませてもらう。その上、武蔵の髪の 吉岡方は、先に清十郎を敗ら毛なり、片袖なりを貰って、かくの通り、武蔵を討ち取ったと をちっと聞いて来るがいし とむら れ、伝七郎を討たれ、今度という今度こそは、最後の弔い合戦故郷の衆に話せば、それでおれ達の顔は立つじゃねえか』 あが だ。破れかぶれも手伝って、血の逆った連中ばかりが、もう滅『なる程 : : : 。汝れの考えも智慧らしいが、そうするより他は 亡したも同様な四条道場に首をあつめ、この上は、多少の外聞あるまいの』 坐り直してお杉はまた、 にかかわろうとも、なんでも武蔵を打ち殺してしまえ、師匠の かたき : 後は 讐を弟子が打っ分には、敢て、尋常な手段や作法にこだわって『そうじゃ、それでも故郷への面目は立つわけじゃ。 と公然、今度こそは大勢しても武蔵を討つお通ひとり。武蔵さえ亡ければ、お通は木から落ちた猿も同 いる必要はない 様、見つけ次第、成敗するに手間暇はかからぬ』 と、言明しているのだ』 独り言に、うなすいて、やっと年寄りのせつかちも、そこで 『ホウ : : : そ、つか』 たのし 落つくところに落ついたらしい 聞くだけでも耳が娯むように、お杉は眼をほそめて、 又八は、醒めた酒を思い出したように、 『それでよ、 。いかな武蔵めも、こんどはなぶり斬りに遭うじゃ うしみつ 『さあ、そう極めたら、今夜の丑満ごろまでは、ゆっくり骨を つつ , っ』 : おふくろ、少し早いが、晩 『いや、そこはどうなるか分らない。多分、武蔵の方でも、助休めて置かなけれやならねえ。 飯の一本を、今から酌けて貰おうか』 太刀を狩りあつめ、吉岡方が大勢ならば、彼も多勢で迎えるだ : ム、帳場へいうて来やい。前祝いに、わしも少し ろうし、さてそうなれば喧嘩は本物、戦のような騒ぎになるの『酒か。 みやこ 飲・も , っ程に』 じゃないかときようの京都は、その噂で持ちきりなのだ。 『どれ : : : 』 そんな騒動の中へ、ヨポョポなおふくろが助太刀にまいりまし おっくう と、億劫そうに、手を膝にかけて起ちかけたと思うと、又八 たなどと行って見たところで、誰も相手にするものか』 じゃといって、わしら母は、なにを見たのか、あっと横の小窓へ大きな眼をみはった。 『ウーム・・・・ : それやそうじやろうが、 子が、これまで尾け狙うてきた武蔵が、他人の手で討たれるの っ おや
「若殿は、。 とちらにお在で遊ばすな』 佐渡は、馬場の方から戻りながら、通りかかった若侍にたす ねた。 まとば 『お的場でござります』 『ああお弓か』 こみち 林の小径を縫って、その方角へ歩いてゆくと、 ーびゅうん こころよ と、央い矢うなりがもう的場の方に聞える。 『おう、佐渡どの』 当主の細川三斎公は、豊前小倉の本地にいて、江戸の藩邸に 呼びとめる者があった。 いることはなかった。 同藩の岩間角兵衛である。実務家で辣腕で、重く見られてい ただとし 江戸には、長子の忠利がいて、補佐の老臣と、たいがいオ よ事る人物だった。 は、裁断していた。 『どちらへ』 忠利は英邁だった。年歯もまだ、二十歳を幾つも越えてな と、角兵衛は奇って来た。 めぐ い若殿なので、新将軍秀忠を繞って、この新しい城府に移住し『御前へ』 きようゆう ていた天下の梟雄や豪傑的な大名のあいだに伍しても、父の細 『若殿は今、お弓のお稽古中でござるが』 川三斎のこけんを落すようなことは決してなかった。むしろ、 『些事故、お弓場でも』 その新進気鋭なことと、次の時代に活眼をもっている点では、 行き過ぎようとすると、 諸侯の中の新人として、戦国育ちの腕自慢ばかりを事としてい 『佐渡どの、お急ぎなくば、ちと御相談申したい事があるが』 る荒胆な老大名よりは、遙かに立ち勝っている所もある。 『なんじゃの』 『ーー・若殿は ? 』 『立話でも と、長岡佐渡は探していた。 と、見まわして、 の御書見の間にも見えない。馬場にもお姿はない。 「あれで』 ともまち 月藩邸の地域はすいぶん広かったが、まだ庭などは整っていな と、林の中の数寄屋の供待へ誘った。 ばつばく 一部には元からの林があり、一部は伐本して馬場となって『ほかではないが、若殿との間に、何かのお話が出た折に、ひ とり御推挙していただきたい人物があるのじゃが』 卯月の頃 づき らつわん
やす わざと道でもない寺院の中を通過していた。もう憩んでいる寺ない。だが、まるで故意のような武蔵の態度を見ていると、そ 巻僧の世話までかけて、広い境内を歩かずに、この御堂の縁へ、 ういうふだんの修得と感情がばらばらにならずにいられないの〃 である。 いきなり建物伝いに来て立ったのでも分る。 の 祇園の石段をのばった時、彼はもう多数の人間の足痕を雪の『来いっー もっと広場のほうへ ! お互いに、名はいさぎよ - 一そく くしておきたい。姑息な振舞い、卑怯な立ち合い、そんなもの 風中に見たに違いない。あらゆる即智はそこで働いた。自分のう つばき しろを尾行ていた者の影が自分から離れると、彼は、蓮華王院 へ、唾して生きてきた吉岡伝七郎だっ。 ーー武蔵つ、仕合わぬ おじけ の裏地へ行くのに、わざとそこの表門へ入ってしまったのだっ まえに、法気を抱くようでは、伝七郎の前へ立っ資格はないぞ つ、降りろそこを ! 』 どなり 寺僧について、十分に、宵のうちからのこの附近の予備知識漸く彼が、呶鳴っづけ出すと、武蔵はニッと歯を少し見せ を得、そして茶ものみ、暖も取り、少し時刻が過ぎたのも承知た。 しながら、唐突に、当の敵と面接するという策を取ったのであ『なんの、吉岡伝七郎の如き、すでに去年の春、拙者が真二つ る。 に斬っている ! きよう再び斬れば、おん身を斬ることこれで 第一の機を、武蔵はこうして掴んだ。第二の機は、しきりと二度目だ ! 』 『 .. なにつ 今、伝七郎の方から誘うのであった。その誘いに乗せて出るの いつ、どこで』 もまた戦法だし、外らして自身から機を作るのもまた戦法であ『大和の国柳生の庄』 そう る。勝敗の相のわかれ目は、ちょうど水に映っている月影に似『大和の』 ている。理智やカを過信して的確にそれを掴もうとすればかえ『綿屋という旅籠の風呂の中で』 って生命を月に溺らせてしまうに極っている。 『や、あの時 ? 』 『どっちも、身に寸鉄も帯びていない風呂の中であったが、眼 をもって、この男、斬れるかどうかを自分は心のうちで計って 『出遅れたうえ、まだ支度が整わぬのか。ここは、足場がわる いた。そして、眼で斬った、見事に斬れたと田 5 った。しかし、 し』 そちらの体には何の形も現さないから、気づきもせずにおった いらだ 焦立っ伝七郎へ、武蔵は飽くまで落着きはらって、 ろうが、おん身が、剣で世に立つ者と傲語するならば、余人の 『今参る』 まえでいうなら知らぬこと、この武蔵のまえでいうのは笑止 と、 怒れば、必ず敗れる端をなすことを、伝七郎も知らないでは 『なにをいうかと思えば、愚にもっかぬ吐ざき一一一口。だが、少し うつ 1 一う 1 一
つきあ も、もちろん交際ってくださるじやろうな』 だがそのかわりに、 この広い馬場の彼方に見える一かた しようゆう 巻年に似あわずせかせかしている紹由と、お 0 とり構えこむとまりの地上の灯の美しさとい 0 たらない。空に星一つない晩だ くるわ 遊郭へ行くことも忘れているような光悦と、それも変っているけに地上の灯がよけいに燦めくのである。ちょうど螢のかたま の 対照であった。 りを風が磨いでいるように。 その二人を乗せてゆく町駕の後から、武蔵も生れて初めて、 『武蔵どの』 うしろ 駕という物に乗って、堀川のふちを揺られて行った。 と、真ん中の駕のうちから後を振顧って光悦がいう まちゃ 『あそこです。あれが六条の柳町でーーーこの頃町家が殖えてか ら、三筋町とも称んでいますが』 『アア、あれですか』 『町中を出離れてから、またこんな広い馬場だの空地だのを通 こつわん しゅうらく って、その彼方に忽然と、あんな灯の聚落が現れるのもおもし ろいでしよう』 『意外でした』 『遊廓も以前には、二条にあったものですが、大内裏に近う よえん て、夜半などには、民歌や俗曲が、御苑のほとりに立っとかす かっしげ 『ウウ、寒、』 力に耳にさわるというので、所司代の板倉勝重どのが、急にこ 『風が撲ぐって来よった』 こへ移転させたものです。 それからまだやっと三年しか経 『鼻が掩げそうだの』 ちませんのに、、、 とうです。もうあの通りな町になって、なお拡 『なにか降るそ、今夜は』 がって ~ 打こ , っとしている』 1 ーー・・・春だというのに』 『では、三年前には、まだこの辺は』 駕かき同士の高声だった。白い息をふいて柳の馬場へかかっ 『ええ、もう夜などは、どっちを見ても真っ暗で、つくづく戦 ていた。 けれど 国の火の禍が嘆じられるばかりであったものです。 あかり 三つの提燈はしきりに揺れ、しきりに明滅する。夕方、比叡今では、新しい流行は皆、あの灯の中から出ているし、大げさ のうえに見えた笠雲はもういつばいに洛内の天へ黒々とひろが にいえば、一つの文化をさえ生むところとなっているので : : : 』 きざ って、夜半には何に変じるか、怖ろしい形相を兆している夜空と、 しいかけて、暫く、耳を澄ましてからまた 『かすかに聞えて来たでしよう : : : 遊廓の絃歌が』 よなか 春の雪 ゅ ひえい くるわ きら くるわ むこう
おじい 『おらだってーーー先生、祖父のかわりに、今、時を得たんだ かった河が幾筋もできて小さな人力を嗤うが如く、奔々と、そ もてあそ . : ねえそうだろう』 の大石や小石を弄んでいた。 きち力い ー・ー阿呆。狂人。 わら の 土民たちが嘲った声も思い出される。思い知ったのである。 武蔵は、彼のその言葉が気に入ったとみえ、いきなり伊織の 首を寝たまま抱きよせて、脚と両手で手玉に取って天井へ差し手の下しようもなく、黙然と立っている武蔵を見上げて、伊 空 上げた。 織は、 『偉くなれ。こら』 『先生、ここはだめだ。こんな所は捨てて、もっと他のよい土 伊織は、嬰児が欣ぶように、擽ッたがって、きやッきやッと地を探そう』 しいながら、 と、策を述べる。 『あぶないよ、あぶないよ先生。先生も僧正ヶ谷の天狗みたい 武蔵はそれを容れない。 だなあ。 ゃあい天狗天狗、天狗』 『いやこの水を、他へ引けば、ここは立派な畑になる。初めか つま と上から手をのばし、武蔵の鼻を抓んで戯れ合った。 ら地理を按じて、ここと決めてかかったからには 『でも亦、大雨が降ったら』 四 『こんどは、それが来ないように、この石で、あの丘から堤を 五日たっても十日たっても、雨はやまなかった。雨がやんだつなぐ』 と思うと、野は洪水に漲って、容易に濁流が退かないのであ『たいへんだなあ』 る。 『元よりここは道場だ。ここに麦の穂を見ぬうちは、尺地も退 自然の下には、武蔵も、じっと沈吟しているしかない かぬぞ』 『先生、もう行けるぜ』 水を一方に導き、堰を築き、石ころを退けて、幾十日の後に 伊織は太陽の下へ出て、今朝から呶鳴っている。 は、やっとそこに、十坪の畑が出来かかった。 二十日ぶりで、二人は道具を担いで、耕地へ出て行った。 けれど、一雨降ると、一夜のうちに、又元の河原になってし そしてそこに立っと、 『あっ・ 『だめだよ先生。むだ骨ばかり折るのが、何も、戦の上手でも と、ふたりとも茫然としてしまった。 ないだろ』 あとかた 二人が孜々として開拓しかけた面積などは、なんの跡形も残武蔵は、伊織にまでいわれた。 していない。大きな石ころと、一面の砂利であった。前には無 でも、耕地を変えて、ほかへ移る考えは、武蔵は持たなかっ あか′一 くすぐ せき の ほんほん つつみ ひ 420
『では、おひとりでお歩き遊ばせ』 奥まったところの、花やかな灯の映している障子を撫でまわ であいがしら 巻と離せば、廊下へ、べたと坐ってしまって、 して、紹由がそこを開けようとすると、出合頭に、 くたび 『ーーすこし草臥れて候。わしを負ぶってくれい』 『ゃあ、誰そと思えば』 の ンス こんな場所に似合わない僧の沢庵が、内からそこを開けて、 いくら広いにしたところで、同じ家のべつな部屋へ行くの顔を出した。 に、廊下続きでこうさんざん手間どらせて道中しているのも、 しようゆう 紹由にいわせれば、これも遊びの一つというに違いない なんでも知らない顔をしながら、なんでも知っているこの酔『あっ、ホウ ? 』 おんな 客様は、途中でこんにやくのようになって、妓たちを手古ずら と、目をまろくし、且っ奇遇を欣こび合って、紹由の方か せていたが、その寒巌枯骨ともいえるような細ッこい老躯の中ら、 になかなか利かない気性が潜んでいるらしく、さっき白紙『坊主、おまえもいたのか』 の返書を遣こしたり、あちらの別室で、吉野太夫を独占して、 沢庵の首すじへ抱きつくと、沢庵も口まねして、 得意げに遊んでいるらしい烏丸光広卿などの一座に対して、 『おやじ、おぬしも来ていたのか』 きんだちばら ちょこざい ( 青くさい公達輩が、なんの猪ロ才なーーー ) と紹由の首を抱えこみ、出合頭の酔っぱらい同士が、恋人の と、常々の剛毅が、酒に交じって、胸でむらむらしているこ ように汚ない頬と頬とをこすり合い とも事実であった。 『達者か』 公卿といえば、武家も憚かる厄介者であったが、今の京都の『達者じゃ』 大町人は、そんな者を少しも厄介には思っていない。打割った 『〈ムいにカ」』 ところをいえば、お人の良いどうにでもなるーーただいつも位『うれしい坊主め』 階ばかり高くて金のない階級というだけのものである。従っ しまいには、ばかばか頭をたたいたり、一方がまた一方の鼻 て、金をもって適当な満足を与え、風雅をもって上品に交わの頭を舐め出したり、何をやっているのか、酒飲みの気持は分 り、位階を認めて誇りを持たせておけば、それで彼らは自分たらない。 ちの指人形のようにうごくことをーーーこの船ばし様は十分に知今そこにいた沢庵が、次の部屋から出て行ったと思うと、廊 りつくしている。 下のあたりで、頻りと障子ががたがた鳴り、恋猫と恋猫とが 『どこじゃ、かんがん様の遊んでござるお座敷は。 じゃれているような鼻声が聞えるので、烏丸光広は、い合 0 のぶただ か、こちらか』 ている近衛信尹と顔を見あわせ、 たくあん よろ 726