一族 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 1
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1. 徳川家康 1

「戦局不利と見てとったら、松平覚のうしろから何時でも 於大は手をついて兄を迎えた。下野守信元はまた濶達に 弓を射かける奴じゃ」 笑って、濡れ縁へ腰をおろす。 「かも知れませぬ」 広忠の力ない笑いになれた於大には、この兄の声は胸を 「それを知らずに、このわしを断って戸田と結ぶ。松平家 たたく鞭に田 5 える の衰運哀れむべし : : : 於大」 「どうじゃ、決ったかの」 「はい。一両日中にとの姫のお言葉にござりまする」 「そなたも一応はふびんであったが、これは却ってそなた 元六がそばから取りなすように口を出すと、 のためであったそ」 「一両日か : : もう決っていてよい頃だったが」 信元は元六を無視して、 「一両日などと申さず、今日中にも考えを決めるがよい。 「於大、岡崎の広忠め、いよいよ珍しいうつけ者と決った 広瀬か阿古居か、そなたの選ぶに任せてやる、ということ は、並々ならぬ兄の情だ」 あ、こりにひびく声で話しかけた。 「戸田弾正が娘を後添いにするそうな。これはの、松平家於大はまた視線を膝におとして、危く涙をこらえて に百害あって一利もない縁組みじゃ」 うわべをよぎる悲しさでもなく、反感でもなかった。更 於大はかすかにうなずいた眼を、そのまま膝の指におと 」と対決されている哀愁であった。 に深い「女の運命 松平家へ嫁ぐときもそうであったが、於大はつねにこの 「わしの眼は決してたがわぬ。やがて織田、今川両家矛盾 の際、松平党〈先きがけの命が下るは知れたこと。その刈谷の城を固める一つの礎石にすぎなか 0 た。 どの家とどのように結ぶことが生き残れることであるか 際に、うしろで戸田が支えてくれると思うてのことであろ うが、戸田の一族にそのような律義さがあるものか。のうと、その計算が彼女の行手を決定する。いや、それは於大 ひとりの運命ではなくて、打ちつづく戦乱に秩序や道義の 元六」 一切を失くしている近ごろの、女性すべての運命だった。 ・をし」 2 2

2. 徳川家康 1

なるほど戸一族がどこかに生きてある限り、松平広忠 に御前を斬りすてる勇気はあるまい。見えない者はつねに 「兄の宣光は相当の人物らしく、事の責を一切弟の五郎に きせ、五郎が織田信秀さまより拝領した銭百貫を持たせて怖ろしい。織田方の大将としてどこから姿を現わすか分ら いずこかへ落させ、そのあとで城を開いて今川方に恭順のぬ不気味さが十分広忠を牽制する。 意を表そうとしたげにござりまするが、弟の五郎がきき入 それにしても変るものだとっくづく思う。以前の於大な ら、田原御前の無事を知って、「それはよかった」とはよ 、もい、つきい しかもその言葉のうらには豊かな慈悲を感し 「城を枕に討死させたといいますか」 させる。 「それが、ちりぢりに、家臣をのこして城から姿を消した 「なるほど、これは久六め、奥方さまに教えられました。 げに′」ざりまする」 では熱田のことも、ます奥方のご意見から承ることとしま 於大はまたしずかにうなすき、 「それはよかった」と深い眼をしてつぶやいた。 熱田 : : : といわれると於大の方は視線をふっと庭にそら 3 「それはよかったと ? 」 した。黄と白の小さい花輪の菊がいつばい重なりあって、 於大は微笑した。 こばれるように咲いている。その中に岡崎を去る時の竹千 「久六どのは、銭百貫の褒美に眼がくらみ、竹千代を奪っ たうつけ者と評されるに違いない。戸田一族の愚かさを惜代の顔がかっきりと浮いて来るのだ。 しまれる : : : が といってこれも以前のように、ただもの狂おしく情にお 於大のいうはそれではない」 ばれた感傷ではなかった。 「はて、なんで′」ざいましよ、つ ? 」 この乱世ではしよせん母と子とが、共にすみ、共に歓ぶ 「田原御前のこと : : : 一族が生きて姿をくらましたとあれ 幸運は期待できない。どのようなが。 、 ~ とこに宀攴旧儿を一引き離 ば、御前のお生命に別条あるまい」 いわれて久六はポンと一つひざをたたいた。近ごろは久そうと、正しい智慧でそれをはぐくむ。倦むことのない愛 六よりもはるかに先を読みとおす於大の方であった。 情。折れることのない愛情。大地が芽ぐませ、咲かせ、棯 ( 仲びた ! ) と、久六は思った。 らせて疲れを知らぬこ同様の愛情を、冷静に注いでやまぬ

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た。そしてその気性のゆえに辿る運命もおのずがら違うで あろう。 人間の幸不幸は於大が考えていたように単純なものでは ないらしい。そう言えば、げんに織田一族でも末葉の家に そうけ うまれた信秀が、いっか宗家の上に立っておさえている。 それは於大にとって新しい発見であり、この上なく大き な不安でもあった。 いままで憐んで来たお久の胎児が急に気にかかる。 ( もし、自分の産んでゆく子が、心弱い悲劇の芽を背負っ 広忠は外のさわぎに眼をさますと、あたふたと起出して て来たらどうしよう ) 表へかえった。小 姓の手で湯づけをかき込みながら、その 賢愚の差の上に人の運命を左右するもう一つの見えない 間もはらはらと年寄どもの思惑を気にしているに違いな 8 力があったのだ。 い。その姿が、今朝の於大には見えるような気がした。何 広忠はその夜も、於大のわきに寝ていながら、いつまで かあると、 も眠る気配はなかった。時々眠れぬ自分に腹が立っと見え 一ーーー。 - ・・先君は、かくかくでござった」 て、キリキリと歯をかんだり舌打したりする。 朝は人より早く、夜は家臣のあとで眠ったと、老臣たち 於大もその夜は眠らなかった。 が口癖にいうのである。又、そうしなければこの騒乱の世 ( どうすれば、もっと逞しい、強い神経の子を産めるであ におびただしい一族郎党やその家族は養い得ない。老臣た ろうか ? ) ちが広忠を事毎にせめるのは、自分たちの生活もまたそれ 夜が明けかけると、急に城内はさわがしくなった。昨日 につながるゆえであった。 さかもぎ の決定にしたがって、新しく兵糧をうっしたり逆茂木の材それにしても一族の統領に人を得ないということは何と 料や上嚢の類をはこび込んでいるらしい。重臣などの指図 いう大きな悲劇であろうか。家臣たちの不安もさることな にまじって馬のいななきもひびいて来る。 がら、頂きに据えられる人の不幸はそれ以上であった。 於大は床をはなれた。夜明けを迎えてようやく安心した ように眠っていった広忠の寝顔の細さに、何か胸をしめつ けられる想いがした。 たしかに広忠は弱すぎる。この細さで戦国の世に生れ あわせたことが、すでに一つの不運なのではなかろうか

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生れながら世に捨てられた出家など、久は聞いたことも見合こそは栄えのもと、お側を騒がす者を近づけてはと : たこともございませぬ。そのような酷いこと、いったい誰それでそなたを差上げたのではなかったか - ) お久、この通 りじゃ。父の計らいじゃに依って堪忍してくわ、忍んでく の指図で決ったのか。さ、それを聞かせて下さりませ」 乗正の咽喉がビクビグ震えた。しばらく答えもない。部れ」 そういうと自ら凡庸を道とするこの父は、いっかびたり 屋の隅で急に炉の湯が松風の音をたてて沸り出した。 と娘の前へ両手を突いて泣いていた。 「どうしてもそれが聞きたいと申すか」 はい。和子のために聞いておかねばなりませぬ」 「では聞かそう。それはな、この父の申出で決ったことぞ 「一族の和合がのうて、この乱世をどう生きぬける。被官 も庇護もみなその時々の相手の都合じゃ。西からは織田の 「えっ ! お父さまご自身の」 狼、東の今川とても風次第。もしわれらに和合結東のこと 「お久、忍んでくれ。この世は堪忍の世の中そゃ。誰かが 一族相争うことがあったらそれこそどちらかの好 心の虫を殺して堪忍せねばならぬ。それが人の世のさだめがなく、 餌になる。老臣どももよくそれを知っているゆえ、二虎の なのじゃ」 誕生に一点の憂いをとどめていると睨んだ。殿にしてもむ 「お父さまが : 「わしが年賀をかねてお祝いに来てみると、城中湧くようろんのことじゃ。そなたを憚り、わしに遠慮して、心にか けているのが分る。もしその時にそなたに不満があると一「ロ な歓びの中にただ一つ、曇り日に似た暗さがあった。同じ った、 . つど、つなるのじゃ」 時刻に二人の子が二人の母の腹を出る : : : これはいったい お久はいっか枕に額をつけて、全身を堅くして泣いてい 吉相か凶相かと、阿部兄弟をはじめとし、酒井雅楽助も石 月安芸も判じかねている様じゃ。そこでわしは、これこそる。 カ世の中に言うべきこ 吉相と判じてやった。わかるかその父の心が : : : のうお「一言いたいことのあるのは分る。 ; 、 久、そなたを殿のお傍へあげるそもそものわれ等の心は何とと言うべからざる事とがある。この父の眼から見ても、 であった。一族のためを想うこの堪忍ではなかったか。和そなたは殿によく仕えた : : : そうであろうが」

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微笑しながら時々信近を振返った。彼はこの場の空気かゆるんだ。 ら何ものかを信近にみとらせようとしているらしい。が先殿忠政の死を聞かされ、続いて一族の追放と下野守の 信近は、二人の論談までが、だんだん煩わしくなっていっ織田への屈服。 こ 0 わけてもこの娘の心を悲しく揺ぶり立てたのは、波太郎 の妹淤国と下野守のいきさつだった。 それを察したのだろう。膳が下ると波太郎は、 熊屋嗷からひそかに出雲へ落ちてゆくときの泣きしおれ 「小川氏を寝所へ 」於俊を招いて軽く命じた。 た於国の姿。 「そなた、お伽をするがよい」 於俊はその頃から心の弦をぬきとられた。んでいた太 い苧繩が消えうせて、縋るもののない懐疑であった。主君 於俊の耳朶がポーツと一時に赧くなった。 とは何であろうか ? 男とは ? 女とは ? そうした於俊を、波太郎はこの大阪屋嗷へ隔離した。他 水野家を追われた土方一族。しかも於俊は、於大が輿人の五人〈の影響を怖れたのであろう。 父の権五郎も波太郎の手蔓で御堂へ身をよせたし、もし れするときに、影の一人に選ばれたほどの娘であった。安 祥の城で織田信秀の前にひき出され、その名を問われて恐於俊に以前の雄々しさが残っていたら、波太郎の恩義はそ のまま彼女の心にとおる筈であったが、それさえ妙に信じ れげもなく、 られない。波太郎が神々を祀りながら一向専修の御堂に多 だいと申しまする」 最初に答えた於俊であった。生命があろうなどとはむろ額の寄進をするのもわからなかったし、今川方かと思えば ん思わず、あらゆる惨酷を予想して、笑われまいぞと心を織田と交り、織田方かと思えば父や信近をよくかばう。そ 緊めて来ていた於俊であった。それが信秀の手では斬られうした動きの一つ一つが解せなかった。 それにしても信近を寝所へ案内し、その伽を命じられよ ず、波太郎の手に渡された。 そして、他の五人とともにしばらく熊屋嗷で神殿のもり うとは思いもよらなかった。この大阪では、客の伽にはべ をさせられているうちに、だんだん於俊の張りつめた心はる女の用意があった。もし波太郎が、そうした女に信近の 160

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. しソて / ノ / ・ 「久はまだ血が治りませぬ。一人になりとうございます」 お久は思わず顔をそむけた。 「おおおお、これは心づかなんだ。すぐに帰るぞ」 やはり父はお久の心など微塵もわかってはいなかったの 「久は : : : お七夜を迎えても名も頂けぬ子を産んで : : : 頭 が重うございます」 「おお ! そのことであったぞ。その事で」 五 乗正は設い出したように、もう一度ポンと白扇で膝をた 「一族の中で相争うほど愚かなことはないからな。桜井のたいた 信定どのを見よ。佐崎の三左衛門どのを見よ。一族の人々 「お久、よろこべ。わしはその和子の名を告げに参ったの が一つ不平を持ったびに、松平家は小そうなった。祖先代じゃ」 「えっ ? では和子に・ 代の居城であった安祥を失い、渡理筒針まで敵を呼びよせ てしもうている。力を協せて羽搏けばこれほど大きな力は 「おお、ついたぞっいたそよい名がついた」 「なんと : ないが、肉親が争うたらこれほどみじめな負い目もない。 : なんと申しまする ? 」 「慧新と申す」 その辺の道理がわかるかな」 : ? ケイシン・ : ? それは松平家にゆか 事なかれ主義の乗正は、どうやらお久の不平を押えにわ「ケイシン : りある名でござりますか」 ざわざ産屋を訪れたものらしかった。 : 」と乗正は笑った。笑いながら眼の中にまた 「わしは今日も、三ッ木の蔵人どのにそれとなく忠言して 参ったが、この殿の叔父御もまた、殿の力不足にじりじり薄く涙がにじんでいるのは、この実直凡庸な父にもまた、 している。大をのそむものにこの焦りは何より禁物、カが娘が哀れに映っているのにちがいない。 なければ湧いて来るまでじっとみんなで待っ辛抱が大切「ケイは智慧の慧、シンはあらたじゃ。慧新、日に日に新 さと しい慧さで世を開く。よい名であろう。むろん、松平家に 「お父さま そのような名があったのではない。これは松平家などとい お久はたまりかねて、顔をそむけたまま父に言った。 う小さなものではなく、三千大世界を書く、み仏の子の大 ) 0 134

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に日に目立ってゆく。 台が回っていた。 ただ一つ、生き残りたいばかりのために、この子の母を 雅楽助も老人と並んで坐った。 追わなければならなかった父も哀れ、子も悲しい。が、そ 新年ご祝儀、おめでとうござりまする」 口をそろえて平伏すると、頭の上でまた「ジジー」と上れにもまして、言い合わしたようにここに落合う家臣の腹 半身を躍らせながら竹千代があばれた。まだ家臣のどの顔も悲しかった。いずれも松平家譜代の柱、祖父でとげられ を見てもジジーなのだが、その一声でぐっと胸が切なくなず、父でも達せられない生活安堵の望みを、このがんぜな る。 ( この幼児は、自分の上にかけられた一族郎党の切ない幼児につないで営々と生きている。 が、当の竹千代だけは何も知らず、だんだん人の集るの い期待を知っているのだろうか ) がうれしいらしく、老人から渡された梅の枝をくびれた手 「おお、お祖父さまにそっくりじゃ」と、梅の一枝を下げ で握りしめると、いきなりまた、 て阿部老人は鳥居忠吉に近づいた。 「ジジー」と叫んで、忠吉の白髪頭をしたたかたたいた。 「さ、こんどはわしに抱かして下され。お土産を進ぜよ 「おおこれはお勇ましい」 ハラバラと花しずくがあたりに飛んだ。と、とっぜん奇 老人よりもさらにまっ白な銀髪の忠吉の手から竹千代を 妙な声をあげて、大久保新八郎が泣き出した。 受け取ると、それを高くかざすようにして、老人はもうま ちょうど彼が手にしている杯の中に、その一輪がとびこ た眼の中を赤くしている。 「お祖父さまはの、尾張まで攻入られて、織田方などにはんだのだ : 歩もひけは取らなかった。お祖父さまにあやからっしゃ 四 ふところの麦わらの馬をつかんでわきをむい 雅楽助は、 「これ新八、何という声を出すのだ。正月だぞ」 た。この幼さですでに母には生別している。父は一族の信 兄の新十郎がたしなめると、 「泣いたのではないわ。あまりのうれしさに笑ったのじゃ 頼をつなぎきれずにもだえているし、強国にはさまれた弱 小国の悲しさで、縁者の中にも織田派、今川派の暗闘が日わい」 212

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る。それなのに於大はこの館に嫁いできた。 し、松ご一族の信定さまは以前から岡崎の敵、それにこ くらんど ( お許しなされて : : : ) んどは三ッ本の蔵人信孝さまの向背も疑わしいとのうわ 広忠の幻がまぶたにうかぶたびに於大はそれを繰返しさ、これでは勝味はないかと : 於大はまたしばらく黙って兄の顔を見つめた。その兄の ( いっか いっか : : : 竹千代のお役に立っ時もあろうか顔に、岡崎城の本丸で何も知らすに嬉戯しているであろう わが子の顔が重なった。 「一族の中からまた向背のあぶないお人が出るのでは : そうした於大の前へ、人もあろうに死んだはずの藤九郎 信近が下郎の姿であらわれて、近く広忠が安祥城の織田信 広に合戦をしかける由を告げて来たのだ。 「はい。広忠さまのご評判は、かんばしくはござりません」 於大はしばらく眼を閉じて、竹之内久六と名乗る兄の心 「、い根は優しいお方、なぜであろうのう」 「、れば : を押しはかった。 : このご時世の武将にはその優しさがかえって 6 6 : こんどのおばし 2 「それで : : : 」 、い弱さになったり、えこじになったり : まゆ しばらくして眼を開くと、 立ちにも、岡崎党の長老はことごとく眉をひそめていられ 「その合戦、いすれに勝味があろうなあ」 るとかにごギ、りまする」 於大の声は震えていた。 十中八、九勝味はないといわれる戦。その戦を敢てしょ 「十 ( 、 0 うと言い出している広忠の意地もまた於大には悲しくわか 。しこの久六めの考えでは、十中八、九 : : : 松平方に 勝味はないかと存じまする」 る気がするのだ。 「ーーー予は一族の人形ではありとうない」 「なぜそのように思われる ? 」 「されば織田信広さまのお城とは申せ、うしろには日の出 口癖にそれをいう広忠だった。そうした良人のたかぶり の勢いの父君、信秀さまがおわしまする。それに奥方さまを、於大は於大の愛情を傾けつくして包んで来た。 とうやかた 力いまはそうした人もない。 の兄御水野下野守さま、当館の久松佐渡守さま、広瀬の佐 於大は兄から視線をそらすと、そっと澄んだ空を見上げ 久間一族ももはや織田家のお味方同様にござりましよう あえ

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まぶたの裏の涙は乾かず、新しい感情がきりきり胸をか竹千代とともに両親のひざもとをはなれてゆくのである。 「武者人形の勢ぞろいを見るようじゃな」 んで来た。頭を下げたままやがて肩が、胸が、手が、ひざ が、さざなみ立って震えてゆく。 阿部大蔵がばつりと言うと、彼と並んで白扇をパチリ」 「さ、では、そろそろ広間へ。みなが待っていようほど パチリと開閉していた鳥居忠吉は、 「わしはみなの衆に申訳なくてのう」 眼を泣きはらしたお久がいった。 と、眼をしばたたいた。 「わしにも子供はたくさんある。彦 ( 後の元忠 ) ぐらいは 十三 是非お供にと思うたのに、あいにくとはしかをやんで熱の 大広間へは、今日の旅に竹千代のお供をしてゆくお側小高い最中じゃ。竹千代さまにうっしてはそれこそ一大事 姓が、その父や兄とともに竹千代の出座を待っていた。 じやで」 いちばん年かさのが天野甚右衛門景隆の子の又五郎、こ そばから酒井雅楽助がとりなすように、 れは十一歳で、いかにも温厚な顔だちだった。 「ご奉公は長うござる。八マ日のお供ばかりが忠義でござら 3 あき お側頭は石川安芸の孫の与七郎、これは竹千代より一つぬ」 年上の七歳だったが、今日の旅のいわれを祖父によく説き 「だが、この幼い者の武者ぶりを見ていると、つい拳が固 聞かされて来たと見え、きりりと眉をあげ、胸をはって音 うなる。この者どもが竹千代さまのおそばで槍を揮い、馬 たてて燃えてゆく燭台の灯をにらんでいる。 を駆けさすころを想像すると、老いの血が熱うなるて」 しかにも」 竹千代と同じ駕籠に向いあって、道々話相手をつとめる のは阿倍甚五郎の子の徳千代、これも竹千代より一つ年上 と、植村新六郎がうなすいたとき の七歳だった。 「これ七之助 ! 」 平岩金八郎の子の七之助は六つ、一族の松平信定が孫の 一人へだてた平岩金八郎が、びしりと扇子で畳をたたい 与一郎は最年少で五つ。 がんぜ いずれもまだ頑是ない遊び相手で、それが質に取られる 六歳の七之助が、だんだん眼を細めて、こくりこくりと おおくら

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こときれているとさとると、彼はまた大声で呼ばわった。 片目八彌は腹を波打たせて笑いだした。 にんじよ・つ 「お春 ! どこかでお前は見ているか。おれにはわから 「人彌めが殿へ刃傷。傷は浅い。傷は浅いそ ! 」 その声が耳に入ると、八彌はなぜかカーツと頭の中が熱ぬ。おれがなにをしているのかまるでわからぬ」 くなった。 「刀をおけ ! 」とまた新六郎がきびしく叫んだ。 むろん一族一党の党首の死を、かけひきなしに発表でき る時世ではなかった。といって、八彌も腕に覚えはある。 自分の一刀の効果は自分でわかっていた。 「刀をおかぬと斬りすてるそ」 ( うそをつきくさる ! ) 「なに : : : おれを斬りすてる ? 」 八彌はまた笑った。 ただそれだけで、わからぬままの人生に、無性に腹が立 ( ここにもうそがある ) とそれが妙におかしかった。 って来た。 「植村新六郎にこのおれが斬れるものか」 「八彌、刀をおけ ! 」 「八彌ー・」 ダダダッと駆けて来る数人の足音の中から、また植村新 「なんだ ? 」 六郎の声が彼をとらえた。 「斬れたらどうするツ」 「いやだ ! 」と、八彌はほえた。 最後をはげしい気合いにかえて、戦いなれた斜めなぐり 「おれは乱心したのではない」 に太刀がうなった。 「黙れ ! では敵に返り忠でもしたというのか」 八彌はほとんど無意識に、パッとうしろへ飛びすさっ 「クソ ! おれは : : : おれは : : : お家のために気違いを刺 したのだ」 た。と、同時に彼はみごとに縁を踏みはずし、ドッと庭先 「たわけたことを申すな。乱心したのはその方じゃ。刀をへしりもちをついた。 おけ ! おかぬと斬るぞ」 「天罰 ! 見ろツ」 まっ 新六郎がすらりと刀を抜きはなっと、 植村新六郎は息もっかせず、これも一気に縁を飛んで真 向から強襲した。 380