藤九郎は小首を傾げて遠い過去を見る眼になった。 信近は相手が去ってゆくと、思わず大きくため息した。 「右衛門太夫さまご息女が、岡崎の松平家へお輿入れした ( そうか、縫殿助の弟だったか : : ) どこかに見覚えがあ 、はかりのこととて、近隣はその噂でいつばいだったが、するような気がしたのは縫殿助によく似た眉と唇、それにし るとその右衛門太大さまも亡くなられたか」 てもあまりに大きな転変だった。 「亡くなられた。岡崎のご息女に和子が生れた翌年 : : : っ 父はこの世にない。その代り於大には子が産れ、兄は到 まり去る年の七月にな。それで水野家の空気もすっかり変頭織田信秀に随身したという。 信近の胸へふいに大きな悲しみがこみあげた。父が亡く 「すると貴殿も以前のご家中ですか」 なってはいよいよ刈谷へは近よれぬ。兄の下野守が織田へ 相手はちょっと淋しげに微笑して、 随身したのでは岡崎の母や妹の身の上にも、はげしく風が ひじかたぬいのすけ 「土方縫殿助と申して、右衛門太夫さまご逝去、下野さま吹きかけているであろう。 信近はそっと笠をかむって立上った。 織田随身と決定したとき、国を追われた家人でござる」 「土方 : ・ 「ご存知かな。拙者はその舎弟にて権五郎と申す。いや、 刈谷を退身するときの信近は、まだ感じ易い一人の青年 とんだ話にそれ申した。俗世の修鞴場に飽々して、彌陀の にすぎなかった。世間の習慣の一つ一つに汚点を見つけ 信徒になりながら、いまだに旧主が忘れられぬで時々幻に 出会うと見える」 て、それにはげしい憤りをぶつけてゆく。ただそれだけで 相手はまたちかりと信近を見やって、 不快な濁世が澄ませるものと単純に思い込める若さをもっ 「ご信、いならば宿坊がござる。もしまたわれ等とおなじていた。 しかしここ三年の浪々は、彼に大きな混乱だけをぶつけ く、仏にご奉公のお志あらばこの先の森村に千寿庵と申す 庵がござる。そこで洗足をとって彌陀の教えを聴聞されてて来た。彼は兄の陰険な兇手をのがれ、死んだと見せて旅 みるがよかろう。入る者拒ます去る者追わす、お心のままへ出るとき、どこかに解放されたよろこびを感じていた。 に召され」 日本中を経めぐって大らかな自分を育てる機会を得た
分もまた馬にまたがった。そして於大のわきにコトコトと奥とは逆に小者が於大の前へ履をそろえ、平手政秀が先 付添い、城門を出るのである。 に立って二人は庭先へ廻った。 「ここの離れにごギ、るが : 於大は急に胸をしめつけられるような気がして来た。 政秀はしずかに土をふみながら、 ( 三つの時わかれた竹千代と、三年ぶりに対面する ) その感慨が心胸を早め、のどを渇かせ、眼頭を熱くさせ 「相手に身分をさとられませぬよう」 てゆくのである。 於大はうなずいてついていった。 小さな四ッ目垣が奥との仕切りに結いまわされ、柴戸が 十一 開いたままになっていた。 二人がそれを入ると古びた平家の離れの縁が眼に入っ 於大の輿が、熱田の加藤図書の屋敷へ入ったのはすでに 斜陽が色づきだしたころであった。 た。古風な書院作りになっていて、つりがね窓に人が腰か けている。信長だった。 広忠の意地によって見捨てられ、織田信秀の意地によっ てさらし首にされようとしている運命の子。その子がおか 前田大千代は縁に腰かけ、それと向いあう位置に子供が れてある屋敷ゆえ、どのように厳重に警固されていること三人何かをのぞき込む姿勢で輪になっていた。 かと思って来てみると、それは案に相違して、ひっそりタ近づくと、縁に坐った一人が、いろ紙を折っているのを 陽の中に静まり返っていた。 のぞき込んでいるのであった。 六尺棒をかかえた足軽が二人、門を固めているだけで、 於大は立ちどまりたくなった。身なりは同じようだった 物々しさはどこにもない。低い築地塀をめぐらして、庭はし、髪形もよく似ている。どれが竹千代なのかわからぬま さびた木立になっている。楠、椎が多く、ここだけには蕭まに近づくのは怖ろしい。 条とした冬の近さの感じはなかった。 が、平手政秀は同じ歩調でゆったりと縁へ近づく。於大 すでに到着していると見えて、二頭の駒がこれだけは葉もそれに従うよりほかなかった。 を落した青桐の幹につながれている。 「ど、フだ、、つ亠よ ~ 、折れたか」 式台に輿をおろしても出迎える人すらなかった。そして信長がつりがね窓に腰かけたままで、いろ紙を折ってい ずしょ 366
於大の声も、態度も以前とは変っていた。温容はかって 普通だったら朋輩のそねみをうけるほどの好遇だった こわね 岡崎の城にあった時と同じ、声音にはそれ以上の落着きと が、久六の場合はたれしもがそれを納得した。 城内の掃除をしたり、馬屋の世話をしたりしている時に自信が感じられる。心の動揺を払い終せた証拠であろう。 「まず殿よりの口上ーー」 よ、ただそれだけの男に見えたが、槍を持たせるとそれを 使い、刀を持たせるとこれも見事にこなしてゆく。お使番周囲に人のないのを見すまして、 ねんぐ 「戦にはならぬ。今川義元は、天野安芸守景貫に命じて、 も勤まれば年貢収納の算盤さばきもあざやかだった。 松平竹千代を奪った憎い奴と田原城を攻め立て、これを抜 「ーーーあれは相当の武士だったらしいな」 いた勢いで一挙に尾張まで攻め寄せそうな気配を見せまし 足軽どもがそんなうわさをしているとき、織田信秀が、 しよう 1 ん たが、これは偽り : : : 田原の城へ新しく城代伊東左近将監 久六を譲らぬかと佐渡守俊勝に交渉し、俊勝は、 祐時をおいて、そのまま軍は駿河に帰る気配にござります 心のきいたる家来は、家宝でござれば」 いんぎんに断ったという話がたれからともなく伝わっ 於大はじっと耳をかたむけて聞いていて、 ちょうじよう 「それは重畳 : ・・ : 」と、小さくいった。 それだけに、今日もあざやかな馬の乗り手が久六と知っ ても、たれも不審を感じなかった。いっからか久六は、こ の阿古居城にいる限り、家老にもなれる人物と思い込まれ るよ、フになっている。 城へ着くとすぐに奥方於大の方の前へ通された。以前に は庭先へひざを突いての対談だったが、いまは居間の縁に 坐れる身分になっていた。 「殿からのお使い、口上にて申上げまする」 そういうと於大の方は身づくろいして坐り直した。 「ご苦労であった。承りましよう」 おだい 久六は於大のうなずくのを見すまして、 「とにかくすぐには戦になるまい。遠からず帰城するゆ え、留守を頼むと、これが殿のお言葉にござりまする」 「ご苦労でした。それで、田原の戸田一族はどうなったか わかりませぬか」 「それが : : さんざんな様子」 久六はちらりと庭先へ眼をそらして額の汗をふきなが
と、こんどは楓が青ざめた。もし事件をもつれさせると 「これほどのうわさになっては申開きは通りませぬ。お殿 田原御前にそれをさばく器量はない。 さまから詮議せよとのご内命があるほどゆえ」 楓がだんだん青ざめてゆくのに引きかえて、お春のほお お殿さまと聞いて、お春は再びびくりとしたが、 は不敵な感じで血がのばった。静かな表情でじっと二人を 扣も言わなかった。 いや、ただ申開きをしようとしないだけではなく、もう見比べて、 泣いてすらいなかった。 「このままお暇しましよ、つか。それともまだ : 楓の手はそっと懐剣にかかってゆく。それを見定めて、 当時の足軽の貧しさは、娘がうまれて、七つの祝いまで お春は、ゆっくりと田原御前へ眼をうっした。 に布子一枚新調出来たら、 田原御前は、まだ花のおちた桔梗の茎を手にしてプルプ 「ーー・あの娘は仕合せな」 ル震えている。肩は依然波打って呼吸もまだ荒々しい。眼 と、仲間からうらやまれる。そうした暮しの中に育った 足軽の血がしぶとくお春の身内で眼を開いたに違いない。 の中の怒りはすでに消えかけて、あやしい恐怖がやどりだ している。 「お殿さまご内命もごギ、りまする。いかが計らいましょ 憎悪と困惑。というよりも一瞬の気合いの相違で、命と 楓がまたそれを口にすると、たすねられた田原御前より命のやりとりになりかねない緊迫たった。 これも哀しい一つの戦。 も先にお春は言った。 「殿はそのようなことは申されませぬ」 外はまだ明るすぎるほど明るい。たれかがこの場に来合 自信にみちた冷やかな声。二人はびくりとして顔を見合わせたら、それこそ事件は女たちの手には負えまい っ一」 0 どこかで謡の声がしていた。 「殿のおん名でお切りなさる : : : お切りなされてごろうじ ませ。私が八彌どのを見舞うたは、殿のお使いてござりま 297
感じられる、そうした大阪の市街がじよじょに御堂を囲繞その店番といった形で、十八九の異様な男が、破れ衣か しかけているのだが、その一角にまだ未開な緑を欝然とのら毛脛を出して大あぐらを掻いていた。 こしているのが森村であった。 骨格はあくまで逞しく、眼光も並々ならぬ鋭さをもって 千寿庵はその森村の大きな藪を背にした草だった。天いる。頭髪はすべてが一寸ほどに四方に突立ち、栗のいが 台、真言のようにいかめしい構えの山門もなければ、奥のを想わせる。その怪人物の両側に、大肌ぬいだ無作法さ 奥で崇厳さをかくした神秘境の感じもない。 で、方々に太刀傷をもった険しい人相の牢人どもが居流れ 言うならば、それは仏が裸で塵土へまかり出て来た感じているのだが、 しかし、それらは、この一人の怪人物のた なのである。 めに影を薄くしている。 庵の両側には文字どおり竹の柱の茅屋が建ちつづき、そ波太郎は入口にきちんと履物を揃えてぬぐと、その怪人 こにごろごろと得態の知れぬ男たちが住んでいる。信近は物を一暼して、「小僧、また参ったわ」と、高飛車に微笑し らつば はじめ馬小屋を連想し、次には乱破の野陣を想い出した。 「おお、迷いのとけるまでは何度でも」 と言うのは、この小屋から鰯を焼く匂いがもれて来たから 波太郎はそれには応えす、優雅な身ぶりで、 波太郎は端正な姿勢をくずさず、その小屋と小屋の間の「於俊これへ」 正面の庵に通った。 と、娘の手から紮の包みをとった。取出したのはこの草 常識からすればそこが本堂なのであろう。一体の阿彌陀庵には凡そふさわしからぬ白磁の香炉であった。彼はそれ 像が安置されて、その前に荒菰が嗷かれてある。荒菰の上に悠々と持参の香を燻じた。汗くさく、埃臭い屋内にその に供えられたのは気取った蓮華や花燭でなくて、これは山名香が薄紫の匂いをひいて流れ出すと、例の怪人物はビョ 野の野菜であった。 コビョコと小・鼻を、つ、こかした。 胡瓜がある。茄子がある。蓮根がある。人参がある。し 「ど、フじゃ。わるくあるまい」 「うん悪くはない」 たがって、御堂の豪華な本殿を見て来た眼には、阿彌陀像 をかざった八百屋の店頭としか見えなかった。 信近は於俊の右に坐ってじっと二人の動作を眺めた。 よ ) つ】 0 こ 0 150
「小癪な。片目八彌と知って来る小」 ( 尋常の敵ではない 久六と名乗った足軽はそれには答えす、 その感じとともに、本能的に彼は戦の不利をさとった。 「殿 ! お引きなされ」 このままでは、やがて退路を断たれる恐れがある。 と、俊勝にどなった。 「殿 ! お退き下され」 俊勝は素直に馬をかえしてゆく。 しかしその声は広忠にはとどかず、 「逃げるか彌九郎 ! 待てッ ! 」 「殿 ! 阿部四郎五郎 ! 」 だが、細い田のくろに立ちはだかった一人の足軽のため「大久保新八郎忠俊」 に前進ははばまれた。 危急と見て、二人が左右から広忠をおしつつんだ。阿部 「八彌早く : : : 」 大蔵は、すでに身近には、なかった。 躍りあがる馬上で広忠がうながすのだが、 竹之内久六 「殿 ! お退き下され ! 」 は、びたりと八彌に槍をつけて、静かな表情で身動きしな 自分のすぐ背後に広忠の馬の呼吸を感じながら八彌が、 もう一度叫んだとき、すぐ右手の草むらからワーツとまた 2 ワーツと背後でときの声があがった。 ときの声があがった。 城兵がうって出たらしい。 「あーーー」とたれかが叫んた。 だんじよう 「織田弾正の馬標そ」 広忠の馬はまた躍りあがった。金扇の馬標めがけてだん ( しまった と八彌は思った。織田信秀が、ここに現われたのではも だん矢数がしげくなる。その一筋が馬のしりに立ったの う勝味はない。あの神出鬼没が得意の荒大将は必す広忠の 片目八彌はその時はじめて自分の顔の汗に気づいた。タ退路を断つに違いない。 ラタラと雨滴のような汗の玉が、見える一眼のくばみへ流「殿 ! おひき : また叫んだときだった。ダーンと大地をふるわして、ふ れて来るのである。そのたびに相手の姿がばやけてゆく (-) ぎな音響がとどろき鍍り、同時に八彌はヘたっと右の 0 しかも相手の額には汗すら見えぬ。
勘六君などものの数ではございませぬ。脇腹でございます痙攣する。 「お屋嗷さま : : ど、つなき、れ ( した ? ・」 もの」 「小笹 : : : たらいを」 言い方があまりに無遠慮だったので、 し」 「これつ、はしたないそ小笹 ! 」 小笹がおろおろとたらいをはこび、於大のうしろへ廻っ 於大はきびしくたしなめた。ロの中の黒砂糖のくどさが まだ残っている。小笹を叱った瞬間にじっとそれが胸につて背に手をふれると、於大はゲーツと何か吐いた。 小笹は気が気でなかった。毒見はいつも小笹がせよと、 きあげ、ムラムラと嘔気をさそった。 あれほど堅く命じられて来ていながら、相手が華陽院なの 於大はハッとして口を締め、胸をおさえた。 お久の方の警戒しきっていたさっきの顔がまざまざと思で、今日の彼女はきびの飴をうつかり忘れていた。 今にもまっ黒な薄気味わるい塊がとび出しそうで、小笹 われる。まさか母の華陽院が、自分まで毒害するとは思え なかったが、思いがけぬものを食べて中毒することはあは全身を固くした。 る。顔いろまでが蒼ざめてきたとみえて、 ゲーツと背を曲げるたびに出て来るものは黄い 「お屋嗷さまどうなされました」 ろく澄んだ水ばかりで黒い砂糖の感じはなかった。於大の 百合が先に気づいた。 額にはしっとり銀色の汗がにじんでいった。唇はうす黒い 「百合」 蒼みを帯びてゆがんでいる。澄んだ眸までが水を含んで底 し」 「そなた、勘六どのを見舞って来やれ。さっきの飴の甘味光りをたたえ、たしかにただごとではなくみえる。と、そ はきっすぎます。余計食べさせてはなりませぬ。急いでゆこへ百合の知らせで老女の須賀が駆けつけた。須賀はじっ と於大の方の顔を見つめて背をさすりながら、 きやれ」 「これはめでたい ! 」としんけんな声でいった。 し」 「お屋敷さま、これは御懐妊のしるしでござりますぞ。ま 百合が出てゆくと、於大の方は胸をおさえてつつぶし た。白い咽喉を大きな塊が上下して、そのたびに硬く体がずます : : : おめでたい」
まぶた あまりに思いがけない広忠の言葉に、雅楽助はぐっとひほどに澄んでいる眼。その瞼に赤く一筋血が走っている。 「すると : : : 於大は婦徳のかぎりを尽してあの弥九郎めに とひざ、つめ寄るように乗出して、 「それをご本心で申されまするか。ご本心ならばそのわけ仕えていると申すのだな」 「仰せまでもないこと。それでのうて、なんで家中一統心 : き ( 9 「小りエ工しよ、フ」 広忠はその時静かに眼を閉じていた。陽やけした額にあ服いたしましようや」 けいれん かんすじ 「雅楽助」 やしい癇筋がうきあがり、眉はビグビク痙攣しだしてい 「よ、 し」 る。 「雅楽助、これはな、於大ひとりの考えではない。久松佐「では、そちは、この於大の差出た行為の裏に何もないと 申すのか」 渡が奸計じゃ」 「あるは、この世ながらの親子の情 : : : なんとしても竹千 「何を証拠にそのようなことを」 「家老どもまで使いに出せる : : : それが何よりの証拠であ代さまを助けたいと、血の出るようなご苦心を感じます ろ、つが」 「そうか。では予の考えは取越し苦ガか。予は織田弾正め ノハ」雅楽助は笑いとばした。 が、あれこれと予の心をひいたうえ竹千代を手なずけ、 「それはお屋嗷さまのお人柄がさせることとはお気づきな されませぬかお屋敷さま当城にあるときも、家中一統み於大を手なずけ、いっかはこの岡崎城をわがものにと意地 になっての奸計と思うたが、それは予の思いすごしか」 ごとに、い服、阿古居の小城では、恐らく思いのままになり 「恐れながら」 ましよ、フ梦、」 「するとそちは、於大が良人彌九郎まであやつりおると申「わかった。わかったゆえ下れ。予は竹千代を見捨てたむ ごい父。於大はそれを救うたどこまでもやさしい立派な すのか」 「殿 ! お言葉が違いまする。あやつるのではのうて、婦母。そしてその母の心をくんで竹千代を斬らずにおいた織 かがみ 田弾正や久松彌九郎は花も実もある武将の鑑。竹千代はじ 徳は自然に及ぶものとお考えなされませ」 広思はふたたびカーツと眼を開いた。いつも澄みすぎるめみなにそう思わせようとする奸計かと思うたが、そち き、カ J75
才女という感じはみじんもなかった。 風になされたのであろう」 雅楽助の女房は、この前、於大の方を導いたと同じ手 「それにしても姫はどのようなお方で在そうやら」 で、そのまま真喜姫を奥へ請じ入れた。 「先の奥方さま、名うてのご容色ゆえ、もしのう」 ここで暫く休息してそれから徒歩で本丸へ渡り、祝言に 「殿さまはいまだに先の奥方さまにご執心とか、気にかか 移るのである。 りますなあ」 まち 宰領をして来たのは真喜姫の兄宣光。こんども待女房は次々に侍女たちが輿から出ては奥へ消えると、馬をひく 者輿を片づける者ひとしきり邸の前はざわめいた。 酒井雅楽助の妻女であった。 雅楽助は真喜姫の兄の宣光を別室に案内して、両家幾久 輿が式台にすえられ、雅楽助の妻女が輿の戸を開くと、 しくのあいさつをかわした。 みんなの眼はいちょうに光った。 「ご両家の先行きをことほぐような晴天で何よりでござい まず白く細い手が出て来た。妻女はその手をいただくよ 士玉した」 、つにしてひざを引いた しかにも。これから何分たのみいる」 上衣は幸菱の絞をちらした白小袖。中衣は加賀染め、 下着は練の紅梅。すっと立っとあたりが急に明るくなるほ桜湯がはこばれて、二人の間におかれ、主客は、それを とってかわきを抑えた。 どすらりと背が高かった。 と、つづいて小者のひとりが雅楽助のそばににじりよ 「まあお美しい」とたれかが言った。 り、何かしらひそひそと耳打ちする。 「でも少し瘠せて在すような」 「なに殿のお使いに、岩松八彌が : : : 」 「それは先の奥方さまと比べるからじゃ」 「ほんに、どちらがどちらともいいかねまする。好き好き雅楽助は小首をかしげてつぶやいて、宣光に会釈して座 敷を出た。 であろうゆえ」 真喜姫はそうしたうわさが耳に入ったのかちらりとみん「今ごろ殿から : : : 何であろうか ? 」 なの方を見た。その眼はいかにも柔和で、おだやかな人柄すでに手順は万端打合してあるはすなのに。 を示していち。 さいわいびし おわ 253
印籠と火打袋をいっしょにぶら下げ、そのわきに朱鞘の四主さまへご挨拶に罷り出でてござりまする」 信長はこくりとうなずくと右手の手綱を口へくわえて、 尺近い細身の大刀を横たえている。 ハンパンと両手を打ちあい、左手の指先についていた飯粒 いや、それよりも更に奇妙なのは左手の袖をひじまでま をパラバラとあたりへ払った。 くりあげて、握り飯をむさばり食う、その食い方だった。 「お許は天王社の祭神を存じおるか」 面ざしはきりりと細く緊って、眼はカーツと燃えてい 「よ、 し」 る。それがまっ白な歯をむき出してガッガッ食うさまは、 わかひょう 「申してみよ。信長はな、神としいえば、、 しわれも知らず 物狂いした貴人か、檻を破った若豹の感じであった。 に拝みくさる徒輩はきらいじゃ」 於大の供をしていた足軽の一人が、おどろいて、 くさがみあめのこやねのみこと 「これこれ近づくな」と、槍をむけたが、その穂先には眼「畏れながら兵頭神、天児屋根命をいっきまつると承って おりまする」 もくれず、 「するとお許はわが子をそれにあやからせようとか」 「輿の戸をあけよといっているのだ」 「はい、仰せのとおり」 於大はその若者の顔をじっと内からながめていてポンと 於大がはっきり答えると、ふっと双眸にいたすららしい ひざをたたくと、急いでを内から開いた。 これこそまぎれもない城主信長なのだ。去る年の秋、熊微笑を匂わせ、 カその眼「よし通れ。予はお許を覚えておる」 屋敷で対面した吉法師の幼な顔はすでにない。ー、 こんどは右手の鞭をあげて、びしりと乗っている男の尻 の光りと眉の秀麗さとが、於大の記億によみがえった。 輿の戸がひらくと信長の眼は射ぬくように於大にそそがをたたいた。 男はいかつい顔をいっそういかっくしてヒヒヒンと大き れた。 くいなないた。それが合図らしい。茫然とこの場のさまを 「これはまさしくご城主さま。久松佐渡が妻女にござりま ーツと音を立てて ながめていた久六の前で、大きな門はギ する」 左右に開いた。と、肩車に乗ったいたすら城主は、そのま 「うむ。何の用があって城へ参った」 「天王社御参拝お許しのほど願わしゅう、ますも 0 てごまうしろも見すに悠々と城の中〈消えてゆく。 361