於国 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 1
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1. 徳川家康 1

国が入って来た。於国は始めて知った男への切ない思慕を 持てあましている娘であった。彼女は黙って信元のこうべ 「そなたが仕合せならば、神々にはわしが代って仕えよう を抱いた。そしてわが膝にうっすと、その上へそっと頬をと前髪立ちのままでいられる。於国にはそれが辛うござい おしつけた。 ます」 「」信一兀さま : 信元はさらりと女を見返して、 「も、つよい、も、フ暫くじゃ」 五 と、無愛想に言い放った。 「間もなく城へ迎えてとらそうほどに、もう言うな、それ 「信元さま、兄がなぜ前髮をとらずにいるかご存知か」 信元は応えなかった。わざと厳つく口を結んで於国の体より今日のこの家の客人は」 「吉法師さまでございますか」 臭に顔をそむけている。それが於国には、彼女の来ようの 遅さをなじる顔に見える。 「その吉法師どのは、以前からこの家へは見えられて 於国は体をおしまげてもう一度男の顔に頬をつけた。 「兄をいつまでも元服させぬ。それもこれもみなあなたの はい。これで三度目でございます」 故とご存知か」 「ふーむ」 「なに、お波が元服せぬのはわしのためと : 信元はいきなりすっと身を起すと、射ぬくように於国を 「はい、神々に仕える身は女性でなければならぬ慣い」 見据えた。それは何時もの信元の顔ではなかった。雄々し 「、っも」 暴々しく、於国を抱きすくめてゆく時の信元の眼も鋭 「それも、巫女は稚い日から神に仕えて、男を知ってはな かったが、今日はその裏に酷薄な男の野心がうごいて りませぬ」 る。於国はそれを本能的に見てとると、 ずしょ 「そのことならば、何時か熱田の図書に聞いたわ」 「まあそのような怖い眼を : ・・ : 」 「それなのに於国はあなたを知りました。兄は : : : それで 甘えた媚びで首を振ったが、信元の眼の光は消えなかっ も叱りませぬ」 つ」 0 3

2. 徳川家康 1

於国はいっか信近の頭巾を頭からむしりとっていた。自 「於国どの」 「よ、 分の生命をそのまま男に通わせようと、びったりすがって し」 泣いていた。い まこなって、もし藤九郎信近が兄の藤五郎 「わしはお身に嘘はつけぬ」 信元でないと言ったら、この娘はどうなるのか : 信近はそこでふと不吉なものには打つかったが、彼の若 「わしは藤五ではない。藤九じゃ。信近じゃ」 さは、まだ於国の狼狽を労るすべまでは知らなかった。 コえっ ? ・」 彼は手を仲ばしてむしり取られた頭巾をつかんだ。せめ「はなしてくれ。わしは兄に計られたのじゃ。わしは何も て頭をつつんでやろうと思ったのだが、それが相手よりも知らずに : : : 兄の言いつけどおりに : : この屋嗷に参った 自分を労る結果になるとは思っていない。信近がうごく のじゃ。兄はここでこのわしを殺す手筈をつけていたの 「あら : : : 」と於国は声をあげて縋りなおした。この娘も 於国の体はまだ信近にすがったままびくりと大きく波打 また、はじめから相手の死んでいない事を知っていたのだ つ、つ、か 0 七 「お気がっかれた : : : お気がっかれた」 それを待ちかねていたように、・ へトベトに濡れた頬でこ於国の手がそっと信近の体をはなれるまでには時間がか んどはぐいぐい男の胸を押してくる。 信近は片手です早く面をつつんだ。とにかくこの場から彼女ははじめそれを信元の戯れと思ったらしい。すがっ は離れよう。そして、兄と対決する気で城へ帰るか ? そたままの於国の姿勢に辟易して、 れともこのまま姿を消すかを決めねばならぬ。 「於国どの : : : 離してくれ。人違いじゃ。しかし : ・・ : わし 月はいよいよ冴えて、蔭の暗さを濃くしている。面をつはお身の今宵の看護を忘れはせぬ」 つんでこのまま去ったら、相手はあるいは人違いに気付か そう言われるとその声は信元の藤五によく似ていたが、 ないで済むかも知れなかった。 たしかにいくぶん若かった。それに信元は於国の名を暴々 つ ) 0 つつ ) 0 3

3. 徳川家康 1

もしそう言ったら信近は人違いに気付いた筈であった しくさせた。 が、言葉の足りなさはいよいよ若い信近を惑わした。 信近は於国のわが胸をはなれるのを待って太刀を渡し 神に仕えて世間を知らぬ育ちと聞いている。世のつねのた。両袖でうけとった於国はそれをささげていそいそと濡 作法や羞らいとはちがった世界の、これが作法なのであろれ縁に片足をかけた。 と、その瞬間 うか。淫らさとはちがった媚が、媚とは違ったときめき が、そのままじかに血にひびく。 筧のしたたり落ちる水石の苔のかげから、サッと長槍が 柴折戸を二つくぐった。灯りのはいらぬ燈籠があり、石繰り出された。どこにも空気のうごきもなければ声もな があった。そしてここにも萩がみだれていると思ったと 「ウーム」 き、濡れ縁の端に小さく音をたてて筧の水の星にきらめく のがわかった。 信近は低くうめいて、それから、 「お太刀を」と、於国は言った。。、、 「於国どの・ : : ・於国どの : : : 」 カその手は依然信近を と、小さく一一一一口し はなれず、くるりとわが身をくねらせてそのまま黒髪を胸 、、はじめて植込みの萩と笹とが微かにう 、こいた にうずめた。 信近は太刀に手をふれた。女子の部屋へ通るときは太刀 を渡すのが作法であった。いや、はじめて訪れた家では、 うかつにそれは手離さぬ習わしも近ごろ通用しだして、 る。 げんに岡崎の家来たちは、太刀を帯したままで厠に入り、 これが乱世の心がけでござる」 平気でそれを押しとおすので有名であった。 信近も若い血の昻ぶりがなかったらあるいは太刀は渡さ なかったかも知れない。 ; 、 カ於国の動作は彼の理性をあや 四 信近は股をつかれた槍のけらくびをしつかり握ったま 「於国どの太刀を」 とまた言った。 於国は怪訝そうに、 「お太刀を : : : ? 」 と、ききかえし、それからはじめて、手洗鉢の向うの萩

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「ーー・ほら、あなたのややが産れます。この中でこんな に、ほら、いています」 藤九郎信近はぶらりと廻廊の外へ出た。まだ参詣人は流首を傾げて信近の手を、そっと懐へはこぶのだった。そ れるように続いている。ただそれ等の人々の中に武士の姿の時の胸乳や肌の感触がまたはっきりと掌に残っている。 はまれであった。 吸いつくように柔かかった。着物を通した、完全すぎる程 せつ 町家の女房や娘が眼立って多いのは、この大阪が、御堂 に完全ななよやかな全身の線が想われ、それが一層切なく のおかげでだんだん大きく発展しだしている証拠であろ哀れであった。 う。そのどれ一人をつかまえても他人にはのぞき得ないさ どこもかけたところはない。美しすぎるほど美しく、整 まざまな悲しみ、悩み、悶え、苦しみが巣喰っているのだ いすぎるほど整っている。それなのに意識だけ狂っている と思うと、またしても狂って孕んだ於国の姿が哀しく臉に というのが信じられず、この娘は狂った真似をしているの うかんで来る。 ではなかろうかと疑いたくなったりした。 於国は出雲であった時も、 「ーーー藤五さま」 「ーー , 。・あ、 ~ 滕五六、まじゃ。信一兀さまじゃ」 兄の名を呼んで信近に身をすりよせて来るのであった。 「あなたはなぜもっとしつかり於国を抱いて下さりませ 「ーーわしは藤五ではない藤九じゃ」 ぬ。於国はこんなに待っていましたのに」 三郎左が見ているのが恥しく、座敷牢の中で思わず於国「 一フか」 をふりほどくと、三郎左は信近に手を合せた。 もっと。もっともっと強く , ・」 「ーーーお願いでござりまする。気がしずまるかも知れませ「 ぬゆえ、しばらく間違われていてやって下されえ。この娘「 もっと。・もっと。もっとー いつものように可愛い に罪はござりませぬ」 い小鳥めがとおっしやって、それから : : : 」 信近はそれもあると思い、一夜を於国とともに過した。 信近は泣きながら、じっと於国を抱いていて、自分もま ニ人だけになると、於国はもう何の遠慮もなかった。 た危く怖ろしい類悩の罠に陥ちこもうとしたのを覚えてい 747

5. 徳川家康 1

於俊は、信近に帰る場所のないのを本能的に知って に泣きむせんオ る。ふしぎな悲運の星を背負って、一族の中からハミ出し 信近の瞼に於国が見えて来た。体臭がよみがえり、声が てしまった信近を。 聞え、肌が見えた。そしてその次には捨鉢な情感が、暴々 信近は気押されて、思わず於俊に手をふれた。それは於しく彼の手をつかんた。やたらに何かが悲しい癖にその悲 俊の虚無を怖れて避けようとする手でもあり、哀れさにか しいものまで踏み越えさせる、別の手が彼を浚った。 き抱こ、つとする手にもどえる。 肩へ手をおかれると、於俊は一層つよく縋って来た。 於俊は気づいていない。 ; 、 タリと全身を信 力すがりついた瞬間に、於俊於俊はまたわが名までを忘れ去って、パ の体からは今までの理性のすべてがぬけ去っていた。 近に投げかけた。 旧主筋へのなっかしさと、不運な境涯への同情とふしぎ 星がかすかに鳴っているような気がするのは風が出て来 な方向へ火を点じた。 た故であろう。いちどひいた汗がまた、じっとりと返って 頑なに押えつづけてきた処女の生命の爆発なのであろ来て、やがて、邸内を見廻る時の柝がひびいて来た。 もう四ツだった。 「お願い : : : 藤九郎さま。お願い : : : 」 波太郎と随風の談論はまだ続いているのであろうが、こ いう声がのどにからんで、甘えた惑溺に変っている。 こまでは聞えて来ない。 しかもそれは信近にいよいよ於国を連想させた。於国も 信近は、ハッとわれにかえって、静かに於俊をはなそう 於俊の体はそれを怖れるもののようについて こうして縋って来た。こうして何かを求め、何かを訴えてとした。が、、、 やまなかった。 来る。 「藤九郎さま : 於俊にもむろん理性が戻って来ているのにちがいない。 「於国 : : : 」 羞恥なのか、愕きなのか、それとも二十余年、異性にふれ ぬわが身への哀惜なのか。全身を固くして、息もころして ものの怪に憑かれたように信近は於国の名を口にした。 いるよ、フだった。 於俊はそれさえ気がっかず、またはげしく仔犬のよう よ」 0 163

6. 徳川家康 1

瘠狗はつねに餌をもとめて刹那の生を狙って歩く。明日 「その代り、そなたはそのまま城へ引取る。わしにとって を知らず未来を計らず、時には無明の毒すらある。 は得難い小鳥、そなたをもしも鷹めに傷つけられては相成 「もし相手に気づかれたら : らぬ」 信元は宙を見据えたまま、 於国はばたりと男の膝へ面を伏せた。縋りきっている娘 「その時には松平を語らってひと戦する手もあるわ。よ にとって、それは泣くより他に手だてのないきびしい一つ しツ、これは見のがしがたい好機ー・ー」 の拷問だった。 「でも : : : でも兄は、信一秀さまに」 信元は勝ちほこって於国の肩へ手をかけた。猪のような 「それもこれも、こちらが優位に立てばよい。於国、そな単純さで、彼は彼の計画に立向う、ふしぎな時代の勇者な のだ。 し」 と 「そなたは吉法師を、美しい小鳥がいるといって誘い出 廊下の外へ足音がして、 せ」 「於国、信元さまはお許の部屋におわさぬか」 「雨が : : : 雨がふって居りますもの」 しずかな波太郎の声であった。 「今日ではない。今日はもう暮れる。吉法師は今夜はここ 二人はついっと離れた。急いで涙をふいて、 「十 6 、 0 に泊るであろう」 「よ、 於国がそっと襖をひらくと、小者の一人に燈火を持たせ 「明日の朝じゃ。明日の朝、庭から裏門へそっと小伜を誘た波太郎がひっそりと立っている。 い出せ。それまでにわしは手筈をつけておく」 気がつくとあたりはもう仄暗かった。 於国ははげしく唇をふるわせたが、それは声にはならな つ」 0 、刀学 / 「いやと一一一口、つのかっ ? ・」 「おお、お波か。客人を見うけたゆえ遠慮していた。ご 行はムマ中冂はここにお・汨りか」

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波太郎は馬を降りると、それを相手に渡しておいて、悠下野守はそこでふっと声をおとして、 悠と前をまくった。濠へ向って放尿するのである。 「於国はふびんであった ! 」 そのようなことを敢てする者はないので家来たちは顔を波太郎はキラリと視線を相手にもどした。憎しみも憐れ 見合せて黙っていた。 みも色には出さぬ鏡のように冷たく澄んだ眸であった。 「予も今ではとにかくこの城の主じゃ。もうしばらくたし 四 なみ深くあってくれたら、、 しまごろ城へ迎えていたであろ 、つな」 0 、 下野守は新築の大書院で波太郎を迎えた。熊屋敷へ通っ 冫しや、これは於国ひとりの罪ではない。藤九郎めが た以前の信元よりいくぶん肥え言葉も眼つきも鋭さをかく よくなかった」 していた。 波太郎は下野が憐れになった。このような嘘を小さく積 「おお、若宮か、おぬしはまた以前と少しも変って居らみ重ねて心の憩いをいったいどこに求めるのか ? ぬ。何か不老長寿の妙薬でも服用してか」 下野は波太郎の表情がみじんも動かないので、また脇息 いかにも懐しそうに眼を細めたあとで、こんどはものもに乗出すようにして、 のしく傍から人を遠ざけた。 「いやいや、これは藤九郎も責められぬ。あれは予と於国 「考えてみると、あれから三歳になる。早いものじゃな」 の仲は知らなかったに違いない。とすれば、罪は於国の美 しかにも」 しき、にあったと一一「ロお、つか」 「あの節はいろいろ造作をかけた。予はいまでも時々於国「 : のことを想う」 「それにしてもふびんであった。予は菊を賞でるたびに、 、冫太郎は答えの代りに新しい襖に描かせた薄の葉の緑青於国の面影を想い出す。白い大輪の香気の中に、あれの魂 を眺めていた。 「秋は人に物を想わすと誰かが言ったが、予もおぬしが懐「下野さま」 しゅうなってな、久しぶりに共に菊を見ようと思うた : 「おお」 が先約と聞いてはこれもやむない」 「ご用を承りましよう」 193

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「於国 ! 」 信元はこみあげて来る激情を押えるように、 於国は弾かれたように顔をあげた。信元が何を考えてい 「雨が降っている : ・・ : 」 るのかが凄じい寒さで背筋をかすめた。 「十 5 、 0 野梅の蕾にあたたかく。春の雨でございます」 「吉法師さまを : : : このわたしに ? 」 「春の雨 : : : 春の雨 : : : 」 「シーツ。声を出すな」 信元の声はかすかに震えをおびていった。 信元は、あわててあたりを見廻して、 「於国 ! そなたはこの信元を愛おしんでか」 「あの小伜を質にとる。いや、いや、松平家のものどもが 訊くまでもないことと、於国は男の膝に手をおいた。小 攫いおったと見せてもよい」 首を傾けてあるじを仰ぐ仔大の可憐さで。信元はその於国「 : をまた暫くじっと見捉える。 「震えるな。男の仕事はつねに荒いわ」 9 彼の心では、いま、吉法師のいかにも傲岸な小さな顔が 於国はふたたびひしと信元にすがった。支えがなくては 3 はげしく渦を巻いている。 いられぬほどの怖れであった。 つい一昨日はその小伜の父のためにわが肉親の妹を攫お「よいか。決して殺そうとは言わぬ。まず攫わせてそれか うとした信元たった。が、見事それに失敗すると、こんどらこっちで奪いかえした形にする : : : 」 は自分でも思いがけない別の想念が彼をとらえる。信元だ けがそうなのではなかった。 「といって向うがそれに気づいたら : : : その時には : 仁も義も道も光もない世相の中では、人々はみな一様に 信元は自分で自分に言いきかせているのである。凄んだ 衝動の赴くままに動作する。 眼はいっかびたりと空に据えられ、頬から唇辺に残忍な思 「そなたは : : 」と、唇をしめして信元は言った。 案のかげが浮いている。 むろんこうした術策が、生き残る力を持たぬ小大名の、 「わしがもしも : : : わしが : : : あの吉法師を攫えと申しつ けたら何とする : ・・ : 」 泡沫に似た悲しいあがきとは知る由もない。

9. 徳川家康 1

於国は飛びつくようにそれに縋っこ。 が、庇の上からは依然として呻きひとっ洩れては来ない。 」と、前の白刃がゆらりとうごいた。信近は左「藤さま。信元さま : まっ先に胸に耳をつけ、それから鼻へ唇をあてた。 にひらいてこんどは右に太刀をはねた。と、その瞬間に、 羞恥を忘れて相手の生存を確めようとするのであった。 庇の上から猫のように黒い影が信近に飛びついた。 ギャツー 脈はあった。呼吸もかすかに感じられる。 それは人間の声とは思えぬ凄愴な動物の断末に似てい それなのに、相手はびくりとも動かない。 : 信当兀さま」 て、同時に、家の中からあわたたしい足音と灯が走って来「藤さま : るのがわかった。 於国は、それが生きている人間の、何事かをたしかめよ うとして動かぬ姿と判断するのを忘れていた。 今夜の出来事は彼女にとってひとつひとつが思いがけな もしこのまま信元に死なれたら自分もまた後を追わず 走って来た真っ先の人が兄の波太郎たと知ったとき、於 にいられぬほどの悲嘆であった。 国はポーツと気が遠くなった。 「亡くなってはいけませぬ藤さま、国も : : : 国もご一緒に 「おお、誰か斬られているそ」 「下野さまじゃ。信旧一兀さまが叔られて、こギ、る」 於国はまず結んであった股の傷をあらためた。太刀傷と 「なにつ下野さまが : きずあと ちがって出血はすくなかったが、傷痕の肉は白くむくれ そんな声が遠く近く耳朶にひびき心をかすめて、 て、それでも肌は血にぬれていた。 「介抱せよ。信元さまぞ : ・・ : 」 相手に意識がないと信じての行為であろう。いきなりそ 兄たちがもう一つの負傷者を担ぎ去るまで意識は半ば霞 の血に於国は唇をふれてゆく。いや、それは唇ではなく んでいた。 が、気がつくと誰が結んでくれたのか、袴の上から股をて、舌で浄めてすがるのであった。 このような乙女の大胆さにふれては、、かに信近でもそ しばった人影ひとつ、ひっそりと縁先に横たえられ、それ れが尋常の感情でなかったことを知らずに済まぬ。 にいっか月の光が白々とあたっている。 五

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信近は片足おろしたままで、そっと月を見上げていってか」 「それで下野さまは、わが事なれりと思召すでございま しよ、フ」 「、つ》び」 於国は部屋の隅に身をひそめたまま動こうともしなかっ 「信近どのを殺し、於国には不義の名をとらせ : : いや、 殊によると、この熊屋嗷に通うた者は、信元ではなくては 月はだんだん冴えて来た。濡れ縁に片足かけて、肉親のじめから信近であったと : 兄に計られ、刺すか刺されるかの憎悪の剣を突きつけられ「噂させる所存であろうか ? 」 : と、波太郎には受取れまする」 た信近の姿は、絵のように銀光をはじいている。 そこで波太郎は声をおとして、 ここ数秒のうちに、彼はその生涯のゆく手を決定しなけ ればならなかった。 「もし信近どの、このまま土に還られるとならば、この波 「しのびの者をしとめた腕の冴えはお見事でござった」波太郎も於国をともに眠らせましよう」 「なに於国どのを : : : 」 太郎の言葉はまた静かになった。 し」 「あの腕ならば兄上もしとめられましよう。が、この波太 郎は認めませぬ。討つものはやがて討たれる。人の我執波太郎はそう答えて、こんどはさらりと語調をかえ、歌 、つよ、つに一一一口いロルした 0 は、われのみあると執念する小さな小さな泡でござる」 ひのかわ 信近はまだ黙って月を見つめている。ともすれば、自分「出雲の国に知己がござる。簸川郡杵築にまします大社の 自身がその面に吸い込まれそうなふしぎな淋しさがしきりおやしろ鍛冶、身分は低い地下者でござるが知己がござ る、姓は小村、名はたしか三郎左 : : : 」 に胸を去来する。 信近は黙ってそれを聞いていた。於国を落してやる先ら いかがでござろう。相手の想いどおり、藤九郎信近どの しい。もし行先がなかったら信近も一時そこをたよられて の屍をここから土に還らせては」 はーーーそういっている謎レ ことれたが、信近は答えなか 「と言われると、あの忍者の屍体を、このわしと見せかけ ) 0 9