相手 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 1
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1. 徳川家康 1

ざをついた。矢も受けねば槍もうけない。それなのに、右貝の音。太刀打ちの音。ときの声。弓づるのひびき。そ れらがだんだん遠ざかって、青い空だけが意識いつばいに 股がジーンと焼火箸でつかれたように痛んでいる : のしかかった と、思ったときに、耳のそばで自分をしかっている声に 気づいた。 八彌は小首をかしげて相手の槍をまちうけた。 ところが相手は八彌を突かなかった。この片目の荒小姓「八彌、立てツ」 し」 の首は今日の戦場では得がたい宝のはずなのに、竹之内久「は : 「本多平八郎じゃ。うぬツ、それでも岡崎党か」 六と名乗った足軽は、 「ははあ、これが種子島か : 「立てねばはえ ! はっても殿をまもりぬけツ」 八彌には意味のわからぬことをつぶやき、 、。はいまするツ」 「大将の身代りじゃ」 そのまま槍をひいて、さっさと俊勝の旗下へ引きあげて 八彌は両手を地べたへ突いた。気がつくと視力はほとん どなくなっている。 「殿 ! 殿はいずれにおわすや。八彌は : : 八彌は : : : 」 八彌は一瞬ポカンとし、それから股の血に気づいた。 八彌ははいながら自分の体がくるりと道から田のくばに 「おかしな奴め ! 敵を哀れみくさる」 彼はやつばり、久六に突かれたのだと思った。音だけで落ちこむのがわかり、それからあたりへ薄桃いろのもやが いつばい立ちこめた。 しかも股の傷は表から裏 倒せる武器など想像もっかない。 「殿 , 八彌は : : 八彌ははいまするそ」 まですつばりぬけていた。 もうそばに本多平八郎はいなかった。 ( 素早い槍め、くり出すのが見えなかった ) というよりも、右手の草むらから行動を起した織田信秀 彼は用意のきれを腰からとって股をしばった。 もう四方をひしひしと取囲まれてゆくのがわかり、動けの援軍がすでに松平勢の本陣を二重にとりこめて、徐々に その環をしばっていた。 ない自分の生命は終るときが来たと田いった。 3 2

2. 徳川家康 1

藤九郎は小首を傾げて遠い過去を見る眼になった。 信近は相手が去ってゆくと、思わず大きくため息した。 「右衛門太夫さまご息女が、岡崎の松平家へお輿入れした ( そうか、縫殿助の弟だったか : : ) どこかに見覚えがあ 、はかりのこととて、近隣はその噂でいつばいだったが、するような気がしたのは縫殿助によく似た眉と唇、それにし るとその右衛門太大さまも亡くなられたか」 てもあまりに大きな転変だった。 「亡くなられた。岡崎のご息女に和子が生れた翌年 : : : っ 父はこの世にない。その代り於大には子が産れ、兄は到 まり去る年の七月にな。それで水野家の空気もすっかり変頭織田信秀に随身したという。 信近の胸へふいに大きな悲しみがこみあげた。父が亡く 「すると貴殿も以前のご家中ですか」 なってはいよいよ刈谷へは近よれぬ。兄の下野守が織田へ 相手はちょっと淋しげに微笑して、 随身したのでは岡崎の母や妹の身の上にも、はげしく風が ひじかたぬいのすけ 「土方縫殿助と申して、右衛門太夫さまご逝去、下野さま吹きかけているであろう。 信近はそっと笠をかむって立上った。 織田随身と決定したとき、国を追われた家人でござる」 「土方 : ・ 「ご存知かな。拙者はその舎弟にて権五郎と申す。いや、 刈谷を退身するときの信近は、まだ感じ易い一人の青年 とんだ話にそれ申した。俗世の修鞴場に飽々して、彌陀の にすぎなかった。世間の習慣の一つ一つに汚点を見つけ 信徒になりながら、いまだに旧主が忘れられぬで時々幻に 出会うと見える」 て、それにはげしい憤りをぶつけてゆく。ただそれだけで 相手はまたちかりと信近を見やって、 不快な濁世が澄ませるものと単純に思い込める若さをもっ 「ご信、いならば宿坊がござる。もしまたわれ等とおなじていた。 しかしここ三年の浪々は、彼に大きな混乱だけをぶつけ く、仏にご奉公のお志あらばこの先の森村に千寿庵と申す 庵がござる。そこで洗足をとって彌陀の教えを聴聞されてて来た。彼は兄の陰険な兇手をのがれ、死んだと見せて旅 みるがよかろう。入る者拒ます去る者追わす、お心のままへ出るとき、どこかに解放されたよろこびを感じていた。 に召され」 日本中を経めぐって大らかな自分を育てる機会を得た

3. 徳川家康 1

を知らず、その間に懐疑する暇さえないというのが実状で は、単純に人生を割切って、一心に武を練るのが、戦場で 相手の声に酒気を感じて亀女の方が、あたふたと入口に生き残る秘訣であった。 その中でも大久保一族は硬骨をもって鳴っている。単純 手をつかえ、 「どうぞお通りを」というと新八郎はあたり中にひびき渡な下僕で生きることが、いちばん安全であり、大手をふつ る声で、 て個性を通す道であるのを悟っている。 「默 ~ らっしや、 し ! 」と、きめつけた。 その大久保一族の中でもとりわけ無法者の新八郎が酒気 「竹千代さまご幼少とあなどって、ご都合も伺わず一存にをおびての挨拶たけに、二人の乳人が顔を見合せて竦むの も無理はなかった。 計ろうとは不届至極。その方の名は何と申す」 「これ、早くせぬか」 「はい。亀女と申しまする」 と、また新八郎が呶鳴った。 「亀女と申すか、めでたい名じゃ。名に免じて今日の不届 「若君にはご機嫌よくわたらせられようが」 は聞き流す。早々に若君のご都合を伺って来らっしゃい」 亀女は困って、そっとお貞に耳打する。お貞はうなずい 亀女はびつくりして奥へ引っかえし、まだ眼も見えぬ嬰て、嬰児の裾のあたりに両手をついた。 「若君に申上げまする。上和田の大久保党にその人ありと 児とお貞に救いを求めるようなまなざしを向けた。 由来三河の年寄 ( 重臣 ) 共は硬骨と気概を単純に示すの聞えた武勇のお方、新八郎忠俊さま、年賀言上のためまか 、取・ ' 、ら、学 ( しよ、フ、や」 をもって誇としている。面倒な理窟はぬきで、君に忠の一り出ましてござりまする、いカカ言し 外で聞いていて、新八郎はニャリと笑った。 筋を追いかける。文武の二兎を追うものは結局一兎も得な いというきびしい語人が家風であった。 「清左衛門の嬶め、味をやるわい。それにしても、聞えた むろんそれは、いつの時代にも当てはまることではなか武勇は追従がすぎる、懲らしめてやらねばなるまい」 った。が、明けても戦、暮れても戦の乱世では、文武に志 やがてその新八郎の前に生真面目な表情で出て来たのは を分けていては結局どちらも未熟に終る。今日生きて明日お貞であった。 138

4. 徳川家康 1

「小癪な。片目八彌と知って来る小」 ( 尋常の敵ではない 久六と名乗った足軽はそれには答えす、 その感じとともに、本能的に彼は戦の不利をさとった。 「殿 ! お引きなされ」 このままでは、やがて退路を断たれる恐れがある。 と、俊勝にどなった。 「殿 ! お退き下され」 俊勝は素直に馬をかえしてゆく。 しかしその声は広忠にはとどかず、 「逃げるか彌九郎 ! 待てッ ! 」 「殿 ! 阿部四郎五郎 ! 」 だが、細い田のくろに立ちはだかった一人の足軽のため「大久保新八郎忠俊」 に前進ははばまれた。 危急と見て、二人が左右から広忠をおしつつんだ。阿部 「八彌早く : : : 」 大蔵は、すでに身近には、なかった。 躍りあがる馬上で広忠がうながすのだが、 竹之内久六 「殿 ! お退き下され ! 」 は、びたりと八彌に槍をつけて、静かな表情で身動きしな 自分のすぐ背後に広忠の馬の呼吸を感じながら八彌が、 もう一度叫んだとき、すぐ右手の草むらからワーツとまた 2 ワーツと背後でときの声があがった。 ときの声があがった。 城兵がうって出たらしい。 「あーーー」とたれかが叫んた。 だんじよう 「織田弾正の馬標そ」 広忠の馬はまた躍りあがった。金扇の馬標めがけてだん ( しまった と八彌は思った。織田信秀が、ここに現われたのではも だん矢数がしげくなる。その一筋が馬のしりに立ったの う勝味はない。あの神出鬼没が得意の荒大将は必す広忠の 片目八彌はその時はじめて自分の顔の汗に気づいた。タ退路を断つに違いない。 ラタラと雨滴のような汗の玉が、見える一眼のくばみへ流「殿 ! おひき : また叫んだときだった。ダーンと大地をふるわして、ふ れて来るのである。そのたびに相手の姿がばやけてゆく (-) ぎな音響がとどろき鍍り、同時に八彌はヘたっと右の 0 しかも相手の額には汗すら見えぬ。

5. 徳川家康 1

: いや、そなたの兄たちの間にも、 「老臣どもの間には : 「わしは広忠の父清康に、そなたの母を望まれたとき、こ こんどの縁談レ こきつい不満を抱く者がないでもない。そのやつめが , という怒りと共に、色におばれる相手ならば ことは存じているか」 と軽くも視た。口惜しかったが勝ったと思うた。五人の子 「はい、それならばうすうすと : を残してゆく母なのだ。その母が向うの城にいる限り水野 「まだ若年の松平広忠、今こそ討つべきだと申すのだが、 の家は安泰だと思うた」 これは血気というものだ」 忠政の言葉がだんだん熱をおびてゆくと、於大の眼は逆 「だいも、そう思いまする」 に後でうるんでいった。父の忠政が、どのように母を愛し 「そうであろう。そうであろう。もし真剣に戦ったら、滅ていたかは、娘の於大によくわかった。そのために絶えす ぶる者は松平でのうて水野になるわ」 母を恋いながら、決して父の怨めなかった娘なのだ。 そこで、忠政はぐっと首を左に曲げ、 「 : : : そのことでわしの考えは違うてはいなかった。現に 「そうじゃ。その首のつけ根をよく叩いて貰おうかの」 水野の家は安泰なのだからのう。しかし母を質に渡してお 柔く右手を二三度屈伸して、 いて、折を見て松平家をふみ潰そうと考えたわしの目算は 「わしはその点そなたに詫びねばならぬ。大きな誤算をし見事にはずれた。そなたの母は徳のある女子であった。家 てのけた。そなたの母を岡崎城に送りこんでこれで勝った臣一同は今でも心で慕うている。その上相手に立向う大将 と思うたのじゃが、いやはや思慮の足りぬ恥しい誤算であどもは、その母の子供なのだ。口先ではどのように勇まし いことを言うても母のいる城は決してふみ潰せぬ。ふみ潰 真昼の城内は森と静まりかえって肩をたたく音だけがゆすことは、寄手の大将どもが産みの母者を殺すことになる るく天井にこだまする。 からの、フ : : : 」 わざと顔は見すに忠政はいま、敵の中に送りこむ愛し子 そこまで言って、忠政はぎくりとした。自分のうなじに 軽い語調で遺言をする気であった。 於大の涙をポトリと冷たく感じたのだ。 と、忠政は笑った。

6. 徳川家康 1

方の兄君、嫌と言われて、そのまま引下られるご貴殿でも ′」ギるまい」 「他に考え : : : 浮び申さぬ」 「ご貴殿は、相手が不承知の場合をきびしく仮定せられ る」 四 「いかに、も」 信元はひやりと背筋が寒くなり、同時にムラムラッと激「そしてその後は、一途に、それに対する手段ばかりを考 えておられるようじゃが」 しい昔の性格が、皮膚をやぶって表へ出た。 「なに : ・・ : 何と言われる」 「中務どの ! 」 「少しばかり、その後の先方の出方も考慮にいれてはいか 「なんでござるな」 「すると織田の殿には今川が来り攻むる前、この下野に岡がでござろう。ご貴殿が兄弟の情をつくして説いてみた が、相手は義理ゆえやむなく今川方に味方すると考える。 崎を攻めとれと仰せられるか」 平手中務はゆったりと信元の眼もとを見やって黙っていその時に貴殿が、それもやむを得まいと申されて、静かに 引退って参ったら、相手は何をするであろうか ? 」 信元はハッとした。田 5 わず顔が赧くなった、自分が静か 「於大の縁をたよって味方にせよ。さもなくば戦えとその に引きさがったら、広忠はいったい次に何をするか ? な 交渉をお命じなさる。そう受取って間違いござらぬか」 るほどそれまでは考えていなかった。平手中務は、そこで 「なぜお答えなされぬ。あとは言外の意味を汲めよとの無また黙った。信元に思案の時を与えようというのである。そ の落着きはらった態度を見ていると信元はムカムカと腹が 一一「ロで、こギ、るか」 立つ。 「下野さま」 が、これはどこまでも信元の負けであった。自分の出方 急に中務は声をおとした。白髪のまじった額が年功を経 ばかりを考えて、相手の出方を検討しなかった。浅慮とい た猫のように柔和であった。 「ご貴殿はちとお気が短い。他に何かお考えはうかびませうより他にない。信元は感情をころして広忠の性格を思い 、つかべた 6 」 0

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る。とすればこの相手は何者なのか ? 信近はそれが不審 の中の微かなざわめきに気がついた。それほど襲う方も、 襲われた方も静かであった。 であったが、同時にむらむらとはげしい憎悪がわき上った。 於国は走りよって太刀を差出し、 一人の武器はたしかに太刀、だがもう一人は信近に槍を 「もしゃ曲者では : とられて小刀かそれとも鎧通しのようなものを持って身構 震える声でたずねたが答えはなかった。於国のささげるえているらしい。 刀に手がかかった。と、真っ黒な影が二つ、通り魔のよう股に一突きを喰っていなかったら、信近は怒りに任せて その さして血は出なかったが、 に手洗鉢のかげから走っこ。 オくッと空気が鳴ったのはその斬りかかったに違いない。 影の一つに信近が抜打ちをくれた音で、もう一つの影はす一突きはキリキリ痛みを増して来る。 人を呼ばせなかったのは、その傷に対する若い怒りと於 いっとすさって身構えた。 於国の眼には何も見えなかった。殺気だけはひしひしと国への見栄であった。 太刀を構えた一人が、足音をたてす、呼吸の音も聞かせ 感じられ、とっさに恐怖が全身をおののかせ、 ないふしぎなすり足で寄って来た。と、その瞬間に、うし 「曲者 ! 」 ろの庇がコトリと鳴って、もう一人の姿がふーっと前から と、叫ばうとしたが声は出なかった。 消えてしまった。 「人違いするな」 に、れ - 、か・ 「危い はじめて信近は、頭巾の中で低く言った。 と、於国が叫んだ。彼女は黒い糸のようなものがすっと 「わしは下野守信元ーー」 兄の言葉を思い出して兄の名を口にした。その頃にはも一筋頭上にとび移った気がしたのだ。 が、そのすぐあとで、ザサザと庇の上からくっぬぎ石に う信近の眼は相手の姿を闇の中に認めていた。黒装東では ないらしい。しのびの者が好んで用いる蘇芳染にちがいな水滴がはねて来た。 信近の眼はその影をみのがさず、さっと太刀を斜に立て い。動くとそのまま闇に消えてしまいそうだった。 「退かぬところを見ると人違いではないと見える」 て相手のどこかを斬っていたのだ。 それでも相手は木立のように動かない。兄が狙われてい 血しぶきの量からいってそれはかなりの手応えだった

8. 徳川家康 1

「これ、誰かある。馬を曳け ! 」 くるわ 本丸を出て二の郭の中門にかかると、信元は割れるよう 余程の豪家らしい。 ここにも堀があった。時代を警戒す な声で小者を呼んだ。 わたしゃぐらもん 小者は丸くなって厩に走った。そして逞しい栗毛を一頭るはね橋がかかり、頑丈な渡櫓門が風にさびてその向う おび に立っている。 曳いて来ると怖えた姿勢で信元に手綱を差出す、「遅いツ」 「頼もう」と信元はどなって、馬の手首の汗を手でぬぐっ と、叱りつけて信元はそれを取った。 「塩浜へ検分に参ったと申しておけ」 刈谷の城は海を背にして二の郭、三の郭、大手門と四重「刈谷の藤五じゃ。信元じゃ。開門せられい」 に堀をめぐらした築堤の多い要害だった。その間を信元は その声に奮い立って、戦なれた栗毛は一声高くいなな 敏捷に騎馬で縫った。 く。門が中からギーツと重いきしみを立てて開いた。 麗かな陽。海軟風 「いざ、お通りを」 だが、一歩城外へ出るとそこには城内の苦悶とは質のち顔なじみと見えて、毛皮の袖なしを著た小者が出て橋を がった庶民の疲労が、その麗かな陽射の下にひらけて来おろし、信元の手から馬をとった。 門の中はこれも古びた広さであった。左手にはずらりと 彼等はつねに城のための働き蟻の位置こあり、その年一土蔵が建ちならび、右手の厩の屋根に樟の大木が蔽いかぶ 年をどう生きるかにすべての願いを賭けている。刈谷の塩さるように枝を張っている。 馬を渡すと信元はわき見もしなかった。森とした陽だま カ大手を出ると信元は馬首を北に 浜は城の西にあった。、、、、 とった。すでに野面に散っている農民たちの間をまっしぐ りの中に静まりかえっている玄関へつかっかと踏み入れ しいのき らに駆けてゆく。椎木屋敷から金胎寺を右に折れ、それか 「いらせられませ」 ら能 ( 村への森へぬけた。そしてやがていかめしい砦造りの 家の前で、びたりと駒をとめていた。 これも古風な式台に両手を突いて迎えたのはほっそりと した長いまっ毛をもった娘であった。雇人ではないらー く、 しん 9

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と、その武士のそばへ、つかっかと近づいたのは坊内見「拙者はよくその藤九郎とやらに間違われる。藤九郎とは いったい何者ですか」 延りの家司であった。家司、坊官は、事ある時に門徒の指 相手は白髪のまじった総髪だった。頑丈な肩、鋭い眼、 揮をとる、これは宗門の武士なのである。 「これこれご人。さっきからそこで何を見ておられる ? 」皮膚からも腕からも戦場を馳駆した者の体臭を感じさせ 不審訊問にあって、くだんの武士はゆっくりと編笠からる。それがびたりと信近を見据えて、 「三州刈谷の水野さまをご存じないのか」 手を離した。 「一向に」 「笠を取られえ。ここは御堂本尊のお前でござるぞ」 「はてふしぎなほどよく似て居られる。が、考えてみれば 「とらねば失礼に当ると申されるか」 これは拙者の迷いかも知れぬ : : : 」 「いやいや。そればかりではござらぬ」 相手はそこで呟くように、探るように語調をかえた。 問い返されて家司はあわてて手を振った。 「ここは浮世の外だということだ。ここまでは浮世の恩怨「藤九郎さまと言われるは、今から足かけ三年前に刈谷城 ともにとどかぬ。安心して笠をとって涼まれたがよいと申の近くの熊村というところで討取られた下野さまご舎弟 しているのだ」 ・ : 実は、その下野さまの父御、右衛門太夫さまこ 「そうか」笠の主はゆっくりうなずいて、それから紐をとの世を去られる時、あるいは藤九郎、どこかに生きている きたした。相手はさり気なくその動作を見守っている。笠やも知れぬ : : : と洩らされましたよしでな」 さかやき をとると月代ののびたやつれた顔があらわれた。家司はび藤九郎信近はびくりとした。父がこの世を去ったとい ′、、り・とした。 う。疑問となっかしさとが胸元にこみあげた。 「これはまた思いがしなし・ ・ : 刈谷の城主下野守さまのご 「これは : : : お身は水野藤九郎さま、信近さまではござら 舎弟とは : ぬか ? ・」 「刈谷をご存知かな ? 」 「浪々の身の旅の途中で、しばらく足をとどめたことがご ざる。その時はたしか : : : 」 藤九郎信近は気たるそうに首を振った。 7 イ 4

10. 徳川家康 1

於国はいっか信近の頭巾を頭からむしりとっていた。自 「於国どの」 「よ、 分の生命をそのまま男に通わせようと、びったりすがって し」 泣いていた。い まこなって、もし藤九郎信近が兄の藤五郎 「わしはお身に嘘はつけぬ」 信元でないと言ったら、この娘はどうなるのか : 信近はそこでふと不吉なものには打つかったが、彼の若 「わしは藤五ではない。藤九じゃ。信近じゃ」 さは、まだ於国の狼狽を労るすべまでは知らなかった。 コえっ ? ・」 彼は手を仲ばしてむしり取られた頭巾をつかんだ。せめ「はなしてくれ。わしは兄に計られたのじゃ。わしは何も て頭をつつんでやろうと思ったのだが、それが相手よりも知らずに : : : 兄の言いつけどおりに : : この屋嗷に参った 自分を労る結果になるとは思っていない。信近がうごく のじゃ。兄はここでこのわしを殺す手筈をつけていたの 「あら : : : 」と於国は声をあげて縋りなおした。この娘も 於国の体はまだ信近にすがったままびくりと大きく波打 また、はじめから相手の死んでいない事を知っていたのだ つ、つ、か 0 七 「お気がっかれた : : : お気がっかれた」 それを待ちかねていたように、・ へトベトに濡れた頬でこ於国の手がそっと信近の体をはなれるまでには時間がか んどはぐいぐい男の胸を押してくる。 信近は片手です早く面をつつんだ。とにかくこの場から彼女ははじめそれを信元の戯れと思ったらしい。すがっ は離れよう。そして、兄と対決する気で城へ帰るか ? そたままの於国の姿勢に辟易して、 れともこのまま姿を消すかを決めねばならぬ。 「於国どの : : : 離してくれ。人違いじゃ。しかし : ・・ : わし 月はいよいよ冴えて、蔭の暗さを濃くしている。面をつはお身の今宵の看護を忘れはせぬ」 つんでこのまま去ったら、相手はあるいは人違いに気付か そう言われるとその声は信元の藤五によく似ていたが、 ないで済むかも知れなかった。 たしかにいくぶん若かった。それに信元は於国の名を暴々 つ ) 0 つつ ) 0 3