竹之内久六は自分の言葉が於大に何をもたらすかを計算 心がけこそまことの母の歓喜なのだとわかって来た。 している落着き方で、 むろん、竹千代が人質として駿河へ渡されると決ったと きも仰天したし、それが途中で奪い取られて船で熱田へ送「いずれこの人質をもって、松平家に織田方随身をすすめ る下心でござろうが。果して広忠がこれに応するや否や、 られたと聞いたときにも眠れぬ夜がずっと続いた。 その後のことは測られませんが」 が、於大はそれに負けなかった。 と、意味ありげにつけ加えた。 ( どうすれば、この母の心を竹千代に通わすことができる 「織田信秀さまのお考えはいずれであろうか」 であろうか ) 「されば : ・・ : 十中八、九、応するものと」 それを考えとおすことは苦痛でなくて、きびしく楽しい 闘いの一つであった。 「応じなかったら、その時は ? 」 「あのはげしいご気性ゆえ、人質を斬って捨て、三田ケ橋 きようしゅ あたりに梟首するかも知れませぬ」 しばらくじっと咲きこばれている菊を見つめたあとで、 久六が冷やかに言い放って、じっと於大の方を見つめる と、於大の肩はホッと動いた。 「竹千代どのは無事であろうか」 っ 「であろうなあ。わざわざ盗みとった人質を、勝手にせよ 動揺の先に思いをめぐらす、深いまなざしで久六にい た。久六はうなすいた ) 実はこんども、所用の時刻におく といわれてはお心が静まるまい」 れぬよう、熱田の竹千代わ動静を探って来たからだった。 「御意の通りと存じまする」 「竹千代さまは、熱田の寓居に人らせられた当座と少しも「久六どの」 変りござりませぬ」 ずしょ 「お身の考えはいかがであろう。岡崎の殿は、竹千代を救 「やはり加藤図書さまお屋嗷内にて」 うであろうか」 「はい。織田信秀さまのお指図鄭重。阿倍徳千代、天野三 之助の両人をお相手に、折紙したり、子大に戯れたり : : 」久六は答える代りに、そっと於大から視線をそらした。 於大は追究しなかった。丸いおとがいを軽くおとして、 その一語々々を於大はこころでかみしめた。 355
「はい。黒マと歯をそめ眉をひいた治部大輔さま、肥った 体で鞍つばにしがみつきほうほうの態で岡崎城へ遁げ込ま れた。あまり見よい図ではなかったと専らの評判にござり まする」 したが、織田勢もぞの次には散々松平勢になやまされ、 安祥の城へ遁げ込んたというではないか」 「遁げ込んだのではなくて引揚げたのでござりましよう。 小豆坂の戦いでは松平家の重臣たちの策戦は見事にあた 父上、やはり織田勢は勇ましゅうござりまするな。今川勢 0 たらしか 0 た。忠政の眼から見ると、織田、今川両勢の とは武器がちがう。あの長い柄をそろえて突き入られる 勝敗はいずれとも決めかねた。駿府から遙々馬をすすめて と、太刀や短槍では役に立たぬ。これから武器も変るであ来た治部大輔義元が、狼狽して岡崎城〈遁げこんだのであ ろ、つと、兄上たちも申してでござりまする」 る。 いっかこの末子もまた織田方の力に魅されて夢を通わせ しかしその織田勢も うわべは織田勢の勝ちに見えたが、 ている様子であった。 岡崎城へは手をつけかねた。 忠政はまた眼を閉じた。そして腰のあたりに微かな鈍痛彼等もまた松平勢に追われて、あわてて安祥の城に逃げ を感じながら、 こんでいたのである。 「今川方の大将庵原安房守を討取ったのは誰であったか 今川義元は岡崎城にあってこれを見きわめ、一応兵をま とめて駿府へ帰ったし、織田信秀も孫三郎信光を安祥に残 「はい。これも十六歳の若武者河尻与四郎でござりますして自身は、早々に尾張の古渡へ引揚げていった。 る。与四郎が敵の大将を討ったときは、屈強な大人たちは したがって今川義元の遠征は失敗に帰したが織田方もま みな坂の中途まで崩れ立っていましたそうな」 た多くの家臣を殺したたけで、得るところは何もなかっ 「そうか。それも十六歳か」 もしこの戦のあとに何が残ったかと間われたら、それは 「父上 : : : 忠近も戦場に出とうござりまする」 「うん、そうであろうとも、わしも若い頃には出たかっ 言いかけてふっと声がとぎれたと思うと、忠政の頬の皺 をすーっと一筋涙がったった。 120
「わしは違う。わしが田原へ来いとすすめたのは、竹千代 につけて真喜もともども織田方へ人質として渡そうため「五郎 : 「なんだ兄上、早く姉上を救いだす手だてを考えてほしい なんといわれる。姉も織田方の人質に」 のだ」 「さよう。そうなれば、真喜の貞節は松平家の祖先のため「そなた、田原の城へ呼びよせたら真喜は無事と思うてい に立派に立つ。たとえどこで竹千代ともども切られてもな」るのか」 五郎はプルプルと首を振った。彼にとって姉を切られる「無事ではないか。父や兄弟の許なのだ」 びら ほどならば、こんな危険は真ッ平だったのだ。 「たわけ者 ! 」と兄はしかった。 「それゆえ思慮が足らぬというのだ。竹千代を織田方へ引 えさ 十 渡したら、織田方ではこれを餌にして松平家へ講和随身を 「もってのほかじゃ ! 姉を切らせるなど。だがこのまますすめて来るに違いあるまい」 「なるほど、それはあることだ」 におけば切られる。もはや竹千代を奪いとる手はすはつい 「そのとき広忠が、わが子の愛にひかされて織田方へ従う てしまっているのだ」 五郎が急きこんでたたみかけると、兄の宣光はまたしば か、それともその子は見殺しにすると突きはなすか ? 一一 らく口をつぐんだ。 つに一つよりないのがわかるか」 田原御前にもついに兄の心はわからなかったが、この弟「ウーム。それはその二つのうちの一つであろう」 「広忠織田方へ味方と知ったら、今川義元が黙っていると にもまたわかる気配は全くなかった。 ( いずれも思慮がなさすぎる : : : ) 田 5 、つか」 そう思うと、またしても宣光のロをつくのは吐息であっ 「戦じゃな」 「その時そち等はいずれにつく ? 松平に味方するか、そ 戸田の宗家に、このような愚かな者どもが多く生れたとれとも義元の命にしたがって松平党を攻め立てるか ? 」 「どちらもご免だ。わしは双方へ腹を立てているのだ」 いうことは、これも家の滅びる時が来たのかも知れない 」 0 321
やがてその夜具をうやうやしく棺におさめて喪を発しな直った。 ければならないのだが、重臣たちの評議はまだそこまで進 んではいなかった。 、、つ ) て、フ 「とにかく意外な成行きでござった。それゆえし 空の布団にうやうやしく屏風をめぐらし、広忠の平素の 意外を重ねてあわてては、末代までも三河武者の名折れで 居間に集って、、たれの面にも生色はなかった。 「とにかく拙者の意見は変らぬ。どれほど思案を重ねてみござる」 忠吉はそういってから静かに植村新六郎を振返り、 ても : 「お身は乱心した八彌を討取ったとき、四広瀬の佐久間が 石川安芸がそういって天野甚右衛門をふりかえると、 間諜と申されたそうな。ますその所存から承ろう」 「拙者も同じでござる」と甚右衛門はにべもなく、 「安芸どのは、今川家の力にすがると申されるが、それで植村新六郎はひざを正して、みんなの視線に応えてか ら、 は織田家の手にある竹千代君はどうなるのだ。殿はすでに 「それがしのあの名乗りは、殿のご意志に従うが第一との 3 亡い。竹千代君は敵の手に落ちている。そんな事情のもと で、今川家の旗下につく。それでいったい織田勢と戦える存じよりから出たること」 「殿のご意志とは ? 」と、甚右衛門がききかえした。答え と思わっしやるか」 によっては許すまじき気色であった。 「そこでござるよ」 「竹千代君を失うてまでも、今川家への義理を踏もうとな 「どこでござる。承ろ、フ」 こうせつ された殿 : : : 策の巧拙ではない。そのご心中をお察し申す 「竹千代君を助けようとして織田につく。そのために今川 方の怒りを買 0 たら : : : 例がござるぞ。田原の戸田氏はそと、織田方とは手は握れぬ。といっていきなり織田の間諜 と申しては独断にすぎると存じたゆえ、織田方と目される れで滅亡を早めたことにお気づきないか」 佐久間が間諜と申したのだが : 二人がまた譲らずに言い竸うと、 「相分った」と、鳥居忠吉はうなずいた。 「 ) こ一 ~ 町ともしばらく」 「新六どのがそう申された、その意見をそのまま用いて、一 それまで黙々としていた鳥居忠吉がはじめて二人に向き から きか
何か重大 ザラザラと額に瀋ける埃のような後味で、織田信秀の使 り信元と密談して、すぐに城を去っていったが、 な使命をおびた織田方の使いとは、小姓や近侍の眼にもわ者の口上がこころに残ってゆく。 「ーー・・われらが主人はこう申して居られます」 、刀学 / 使者は信秀の幕下で思慮第一に数えられ、わざわざ吉法 いよいよ ( 驟がはじまるな」 。も。り・や′、 なかっかさのたゆう こんどは殿は織田方にはつくまい。大殿も、藤九郎師の傅役に選ばれている平手中務大輔であった。 この男の物いいはどこか信元の父の水野忠政の律義さを ( 於大の同腹の兄 ) さまも岡崎と争うことは好ませられ 想わせた。とろりとしたやわ声で、じわり、じわりと時間 ぬ」 まして岡崎のお部屋さまは懐妊中だ。大殿ご病気ををかけて中心にふれてゆく。 それも織田の家風で、ただ口上を述べさせるだけではな 理由にしておことわりなされたに違いない」 その反響をどこかでびたりと押えて帰るつもりなの そうした風評はもう城の内外へ風とともにひろがりかけ ている。使者の帰る時の顔いろと、送り出した信元の様子だ。 したがって公の口上か ? 私の意見か ? しばしば聞く から出た噂であった。不愉快なとき、懊悩のあるときに馬 場へ出て荒駒をのりならすのは信元の癖であった。しかも者を惑わせる。 父御忠政どのは、とかく物事を謀りすぎる。戦国の 今日の信元はそれがひどい癇癖に見えるほど激している。 武将どもは、いずれも一つ覚えで遠くを親しみ近きを攻め 「、つぬっー もっと走れぬのかっ」 馬は泡をかみ、人は歯を食いしばって、烈日下の馬場へてゆく中に、父御だけは時々その逆をゆかれる。去年の敵 ひとつの卓見じゃと : 岡崎に、今年は娘を : 狂ったように鞭を鳴らしてゆくのである。 そう言って、きれ長の眼を細めじっと信元の顔いろを観 察してから、 「しかし、それだけではいよいよ事を紛糾に導くおそれは 全身へしばるように汗がういた。いつもはその汗と一緒 くある。織田方ともっかず、さりとて今川方でもない。今川 にうちにこもる不快さも、塩浜をわたる風に洗われてゆ 家の被官と決った岡崎と親しみながら織田家へ誼みを通じ のである。しかし今日は駆けるほどに不央さは加わった。 っ一 0
「たわけめ ! 田原のような小城の主に、どちらもご免だ 五郎は急に肩をおとして考え込んだ。 などとうそぶいている自由があると思うか。そのようなこ 十一 とを申してみよ。今川勢はすぐにふみつぶして通ってゆく わ」 宣光に言われてみるとたしかにそうだった。 五郎はウームと低くうめいてくちびるをかみしめた。 竹千代を途中で奪いとって織田信秀に渡してやり、松平 「これが反対であっても同じ結果になってゆく。広忠どの家への私憤を果したうえで、一族の戸田金七郎をほろばし た今川家とは訣別する。 が織田方へわが子を見殺しにしても今川家への節を守ると 申してもな、やはり今川勢は、松平党を見殺しにするなと竹千代をさらうことによって広忠の鼻をあかし、新しく いって田原をふみつぶしてゆくに違いない。五郎、そなた随身する織田信秀によき手土産をもたらそうーー・・・そう考え だんじよう と父上のこの計略はそうした危険をうしろにはらんだ計略た父、弾正少輔康光や五郎は、たしかに事を手軽に考えす ぎている。 じゃぞ」 「ではこれで戸田家は今川家の激怒を買うといわれるの ( なるほど、この人質奪取は戦になるわ : : : ) 力」 戦になるとすれば、姉はどこにいても同じことになるか 「怒るか怒らぬいそれはわからぬ。が、まみつぶす口実だも知れぬ。五郎がむつつりと考えこむと、兄の宣光はまた けはのがすまい」 他人ごとのようにつぶやいた。 「では : : : では : : どうすればよいというのだ兄上 ? 」 「戸田家は滅亡するやも知れぬ。これが原因でな」 「真喜は岡崎にいても死、田原へ来ても死。いや第一線「なにツ、滅亡すると」 になるゆえ田原の方が一層その時機が早いといっているの 「さよう。竹千代が尾張へ着くと織田家から褒美の金はく じゃ。それゆえ改めて田原へ呼ぶまでもあるまいといってるであろう。が、褒美の金ではわが家は救えぬ」 いるのじゃ : : : わかるか五郎 : 「何があれば救われるのだ兄上」 そういうと、宣光の眼のふちはいっか血をふくんだよう「軍勢 : : : それも織田信秀の主力がなあ」 赤くなっていた。 「ウーム」とまた五郎はうなった。 ひと 322
気づくかと質問すると、 門地門閥は過去の知識にとらわれる。とらわれるも民族の誇りを売った許しがたい賊として、朝廷を戴いて これを討ち、大義を正すと呼号したら、日本中の武将はこ のがあっては裾が重うて飛躍は出来ぬ。まず何の曇りもな れにどう対するか、新しい力はそこから油然と湧いて来 い眼をもって : : : 」 る。 そこで朱唇を考えぶかく一度とざして、 ただ眼先の斬り奪りでは神々もうべないませぬ。大 「ーーー地の理、時の勢い : : : 織田信秀は十二男七女という 義名分の旗がのうては」 子福者ですからなあ」 信元ははじめ波太郎を、こやっ油断のできぬ野心家・ と、微笑した。その微笑が信元の胸へいっか大きく動か しがたいもののように焼きついている。むろん、それもこと警戒した。 たんげい しかしその警は、度々熊屋敷をおとずれているうち、 れも主君の斯波氏にとって代った織田信秀の端倪すべから いっかふしぎな親近感と傾倒に変っていった。その原因 ざる武力があるからではあったが : は、奔騰する若さにまかせ、妹の於国に手をつけても、波 四 太郎が一向に反感を示さなかったことにもよる。 「 , ーーわしがもし織田の幕下であったら、まず足利家の名「それで於大さまご婚礼の日は決りましたか」 「されば、戌の日に結納が参る手はずゆえ」 分の紊れを説く」 信一兀は指をい裸って、 熊の波太郎はそうもいった。 「改めて知らせるが、この月の二十七、八日に相成ろう」 「ー、 , ・・尊氏はまだ北朝をおし立てて名分を保って来たが、 「してお迎えした於大さまは ? 」 義満に至ってはそれすら粉々に踏み砕いた。目さきの小利 のために明の国王から日本国王の封を受け、これに向って「お身に任そう」信元は言下に答えた。 「織田方へ質に送るもよし、お身の手許でしばらくかくも 臣と称す : : : 」 波太郎はその不見識な便宜主義が幕府の権威をなくするうてくれてもよし : カ端麗な 柀太郵はふと視線を天井へそらして吐臥した。 ; 原因で、ここに織田氏の刮目すべき急所があると説いてい っ一 0 2 2
その決しがたいままで当分生き残る : : : それよりほかに策 「ほほう、おぬしが使者に立ってくれるか」 はあるまい」 意外なという面持ちで鳥居忠吉が平八郎忠高を振返る植村新六郎は黙ってじっと婿の顔を見つめていた。 「拙者は妻を離別する。その上で織田派でござると尾張へ 「お家のためならば私怨私憤は忘れまする」 駟け込み、必す家中一統を織田派にしてみせるゆえ竹千代 忠高は、鳥居忠吉よりも、植村新六郎に向き直った。 さまを申受けたいと談じ込む。舅どのは石川どのご同道に 自分の眼の黒い間は父の敵、織田信秀をそのまま許してて駿河へ赴き、いずれ全部を今川方に説き伏せるゆえと申 ぐせ もよお おくものかと、口癖のようにいっていた忠高。しかもそのして駿河の軍勢催しなきよう取計らわれたい。それよりほ 忠高は、植村新六郎の娘をめとって、その娘がまだ一子鍋かに策はござるまい」 むこしゅうと 「すると婿どのは、合意のうえで二派にわかれようといわ 之助 ( 後の平八郎忠勝 ) をみごもったばかりの婿舅の間 柄であった。 れるのか」 その婿が血相変えて舅に向き直ったのである。 しかにも」 「この場合は、城内二派に分れて相争うもやむを得ぬ。妻「なるほど、それも一策 : : : 方々いかがでござろうな ? 」 は改めてお返し申す」 鳥居忠吉はまたおだやかな眼でみんなを見まわしたが、 さすがに答える者はない。 「これはまた性急な」 忠高はまだ若い。織田信秀が、彼の描く策略に、そのま そばから忠吉は微笑して二人の間をさえぎった。 ま乗って素直に竹千代を渡すとも思えなかったし、渡され 「まず、お身の考えを、くわしく説いて頂こう」 たあとで、 「されば : : : 今は尋常一様の時ではござらぬ。竹千代さま 「ーーー・実は今川方」 のお生命を守ることこれが第一、つぎに岡崎城を今川家の と、欺くのも、広忠の意地に応える道ではなかった。と 手に渡さぬこと、これが第二。といって、家中一統で織田 家随身と決ったら、今川方で手をこまぬいているはずはな って、この案を無下にしりぞける理由もない。ここでも そこて二つに割れて、またいずれとも決しがたい : し千代を斬られたら、松平家は見る間に離散するてあろ あざむ 385
こも気づかれぬよう熊屋敷の裏の跳ね橋をお 生き残るためにはあらゆる謀略を必要とする。その意味「よいか。誰 では、今日の糧を追いかける土民も、大名も平等であつろしておくゆえ、しのんで参れ」 「時刻は ? 」 た。それほど史上稀有の乱世に生れあわしている。 「月の出る前、戌のころ : : : 合図は橋を渡って、 織田方につくことが生き残る道だと信じている信元にと って、もし織田方に加担と決めたら、自分をも斬りかねまを二つずつ三度たたけばよい」 それは、信元が於国の閨へ通うときの合図であった。 いと思われる弟の信近は、信元自身の安全のために斬られ 「二つずつ、三度」 ねばならぬ存在に変ってゆく 「そうじゃ。面はしかとつつんで参れ。出迎えの女子には しかしその信近を熊屋敷の於国のもとで斬ろうと考えた わしと思わせロは利くな。わしはその前に参っている。そ とキ、には、 ( 一石二鳥 ! ) と、思ったあとて、さすがにゾーツと寒気こでわしが何故織田どのの使者を曖昧に帰したか、そのわ しかし乱世けをよく話し、その上でおぬしの意見を聞くとしよう」 : と思われたのだが、 がした。あまりに酷い 信近のうなずくのを見すまして信元は大股に樟の蔭から の常識はそうした感傷を許さない。 出ていった。 信一兀は、フなすき一返した。 頭上の蝉がちょっと息んでまた後で鳴きだした。風のう 「これはわしの考えが浅かったかも知れぬ。が、藤九郎、 ごくたびに、煙のように埃がまい、背すじに汗が噴出し この話は城内ではちと憚らねば相成らぬそ」 「といわれると ? 」 材木小屋のわきを廻ると、 「わしの所存もよく話そう。おぬしの意見もよく聞こう。 ( 小癪な奴め ! ) とにかく他人の耳に入って、結東をみたすことがあっては 信元はべっとロの埃をはいて宙を睨んだ。 しま。↑しい。この続きは熊の若宮の 一大事。そうじゃ、 織田信秀の使者、平手中務のおちつき過ぎた表情が、信 館でいたそう」 そう言ってすーっと起っと信近はうなずいた。信近には近の顔と重なりあって眼にうかんだ。 何といっても城外の女のもとへ通う秘密を織田方に気っ 兄がこのように折れて出たのがうれしかったのだ。 門の扉 8
ぬ。それを思うと、ひなびた里の歌声までがシーンと心にの今川氏にはたまらなく気になるらしく、織田攻めの留守 しみとおる : を甲斐の武田につかれぬため、いろいろと外交上の秘議を 重ねているらしい。 それがまとまると当然三河へ出兵して、織田と一戦する この棉の種をまず城内の女の手で殖そうと言い出して、 に違いなく、そうなれば於大の若い良人の広忠が先鋒を命 大奥から重臣の女房たちにまで分けさせたのは華陽院であじられるのは明らかだった。しかもその戦さはどちらが勝 とうと決して松平氏の安泰を意味しはしない。今の織田勢 今年のうちに出来るだけ多くの種子をとり、来年、近く が一気に今川家をもみ潰せるとも思えず、今川家がまたは の百姓たちに、その作り方を添えて分けよう。作り方を添げしい勢いで擡頭して来る織田の新興勢力を刈取り得ると えなければ、ふたたび種子の消えてしまうおそれがある。 も思えない。そうなると両強国にはさまれた岡崎城の運命 と、いうよりも大奥で手ずから植えた種子となったら、 はひどく哀れなものであった。一度去就をあやまるとあと これを頂く百姓たちへのひびきも違う。 かたもなくかき消されてゆく小さな火。華陽院にしても於 「 , ・・ - ー・麻よりも柔く、紙子よりも丈夫で、蚕のように忙し大にしても危い岡崎の火の粉の中の女性であった。華陽院 く手は取られぬ。桑にそのまま繭がみのると思えばよい」 がかって水野家から松平家へ暴々しく移されて来たよう 今では於大よりも華陽院の方が棉のことには熱心だっ に、於大の方の身の上にもどんな変転がおとすれまいもの でもない。そのことを棉のそだちにことよせて華陽院はそ そして、久しぶりに訪ねて来た娘をまで曲輪下の畑に案の娘に訓えておきたかった。 内したのは、しかし棉の育ちの経験だけを告げたいのでは 「殿方には意地と意地の竸いがおじゃる。戦いはまたあろ よ、つこ 0 う。その中で、棉はすくすくと育ってゆくお屋敷には、 戦雲はふたたび尾、三、駿の三カ国を暑苦しくつつみだ この棉のそだちを何と見やるそ」 「十 6 、 0 している。 ものの生命のふしぎさを思いまする」 岡崎方が安祥城まで織田信秀に奪られているのが、駿河「そうであろう。そうであろう。この棉はお屋敷や私が死