本陣は安祥の城の西南にある小高い丘をえらんですす め、霧のはれぬ間に散開を終って、そこからすべて采配す る予定であった。例の指揮は阿部大蔵、広忠の護衛は植村 「馬標を持て ! 」 新六郎と、槍をかついだ片目八彌があたっていた。 そこここの霧の底でときの声があがり出した。 広忠ははじめてきびしい声を投げ、それを鞍のつばに立 味方にすらまたまるきり姿は見えない。城内の将士はあ てさせると、またあたりへは貝の音がひびき渡った。 先頭がすでに清繩手へ到着した合図である。人数は凡そわてふためいているに違いない。 五百人。それがみのった田から幾筋にもわかれた細道へ散眼の前にめざす丘が墨絵のようにうかんで来たときだっ 開し、霧の中でときの声をあげながら進撃する。 、パッと群雀が丘へおおい その先のみのった田の中から カこのあたりの 城兵もむろん撃って出るに違いない。。、、 かぶさるよ、フにとんで来た。 地理の理解ではこちらに数等の勝味があった。 「いよいよ着いたげにござりまするが、くれぐれも軽挙な阿部大蔵は、思わす馬をとめて、 「殿 ! 」と叫んた。 きよ、フ」 しかしその声は広忠にとどかず、たんだんはれてゆく霧 霧の中から今日の旗下頭の阿部大蔵が駆けて来た。 の中を広忠はしきりに馬を急がせている。 広忠は「ウム」と大きくうなすいて、もう眼もこころも 陽はすでに上っている。父清康以来の馬標の金扇が、美 戦う者のきびしさに澄んでいるのを確かめた。 しい反射を霧に流し、兜の前立がまっすぐに丘をのばっ 十一、二歳から度々ふんでいる戦場の空気は、広忠にと ってさして異常なものではなかった。 「殿 ! 」 死か生か ? それすらも城を出るとわが身はべつのことに思えて来阿部大蔵は馬を走らせて広忠に追いついた。 る。 「油断はなりませぬそ。城兵ももはや外へ繰出しているや も測られませぬ」 「大蔵、つづけ」 おにあたった。 なわて くら つ」 0 278
うたのすけ おおくら 阿部大蔵が銀髪に憂いをこめた眼ざしで、酒井雅楽助をも暗澹たるものを含んでいる。 せめて吉例の年賀の日。このひと歳をどのように泳ごう 見返ると雅楽助は広忠の前へにじり出て、 かと、、いに不安を蔵している一族に、 「では、ご風邪にくれぐれもお気をつけられて」 今年こそはやろうぞ」 と、弟にでもいうロ調であいさっした。 と、力強い一語が聞かせてほしかった。 「戸田弾正さまご息女真喜姫さまのこと、とくとご勘考な ところが、広忠は歳末に見たときよりもやつれていた。 されませ」 鳥居忠吉や大久保兄弟などが再縁の話の出ている田原の城 広忠はウムとうなすいて、また二つ三つせきいった。 何かばんやりと考えている。ようやく二十の新春を迎え主戸田弾正の娘のことを話しだしても、言葉をにごして決 断を示さなかった。 たばかりで、すでに人生に疲れた色をにじませている。 二人は広間を出ると顔見合わせてどちらからともなくた 、 ' 酒井雅楽助にはそれがひどく 阿部大蔵は黙ってしたが、 め息した。 8 歯がゆかった。 かた 「無理もないわ。お屋嗷さまとのむつみが並のものではな 2 今川義元をはばかって、去年の秋離別した於大の方を、 まだ忘れかねて悩んでいる。一族の東ねをする武将の身かったからの」 で、一度決断したことにいつまでも恋々とした女々しい姿阿部大蔵がつぶやくと、 「それが歯がゆい」と、雅楽助は舌打した。 を見せつけられるとたまらなかった。 「聞けば歳末から奥へこもって一人で酒を食べていたとい 四囲の事情はいよいよ険悪さを贈している。眼と鼻の安 うではないか」 祥城では織田信秀がわが子信広を城主とし着々武備をかた 「わしはそれより胸の病いではあるまいかとそれが気にな めているし、於大の方の兄水野信元も、於大の方の離別に よっていまはハッキリと敵意を抱いて岡崎城をねらってい る。 「どちらにしても今年はことが多かろう。ご老人も風邪な 駿府の今川義元が上京の志をひるがえすはずはなく、両どひかぬように願いたい」 とおざむらい 二人は連れ立って遠侍から玄関を出てゆくと、 勢力の強大さにはさまれた松平家の運命は今日の雪空より
ど、また泣いた。 びっちゅうのかみ しかがでごギ、るな ? 」 「使者は朝比奈備中守、これが三百余騎を従えて、すで 鳥居忠吉がまたいった。 に吉田の城を通過し、山中にかかってござる。口上は知れ 平八郎忠高だけが、猛々しい眼をしてみんなをにらみまてあること。万事は終りました」 わしている。真っ先に阿部大蔵が面を伏せた。と、つづい 鳥居忠吉も阿部大蔵も眼を閉じた。 て酒井雅楽助が : この指図は今川義元自身でなくて、義元の信任を一身に せっさいおしよう と、その時だった。 あつめている雪斎和尚に違いない。 大久保新八郎が血相変えて人って来て、 大久保新八郎のいうとおり、その口上は聞くまでもなか つ、」 0 「方々、すでに万事は終りましたぞ」 片ひざっくと一緒にワーツと声をあげて泣きだした : 竹千代を救おうとして織田方に傾くのをふせぐため、岡 崎城へ軍勢を人れて、 四 「ーー・・竹千代どの成人のあかっきまで、この城地は今川家 「万事が終ったとは ? 」 で預ろう」 まっ先に雅楽助が顔をあげると、 とい、つのに ( 理いない。 「申されし それにしてもなんと素早い処置であろうか。まだ岡崎で 本多平八郎忠高は、食いつくようにひざをすすめた。 は喪も発していないというのに。 「駿河から、すでに軍勢が発したとの知らせでござる」 こうなると、もはや論議の余地はなかった。相手のいう 「なにツ、駿〕渕から : ままにいったん城を明け渡すか、それとも城にこもって、 ゥームと人々は顔を見合って低くうめいた。 相手の入城を実力で拒んでゆくか。 大久保新八郎はこぶしで斜めに涙をふくと、 鳥居忠吉が沈痛な瞬きで眼をひらいた時には、まだたれ 「見通しでござる。今川家に岡崎衆の腹はすっかり見通さも胸に組んだ腕さえ解いてはいなかった。 れてごキ、る」 備えなき城。 386
ら、ふと背後を見た。 「なに城兵が迎え撃っとか」 「はてな ? 」 「されば、雀の飛び立っ方向が : 言いかけた時にはまた二人の頭上をチチチチと一群の雀まだそこまでは進んでいるはすのないところでギラリと 槍の穂先が光った。 が味方の方へ飛んでいった。 「大蔵、あれは : 広忠はニコリと大った。 阿部大蔵は駆けよって小手をかざした。 敵兵が城を出ていてくれた方が岡崎党には勝味があっ こ。城塞によらず野戦となると、いずれも一騎当千の強味「うむ。やつばり : ・ 「味方か ? 」 を持つ。 「敵にござりまする」 「勝ったかのう大蔵」 「なに敵が : : : 」 大蔵は首を振った。 「城を出するには出するだけの勝算あってと考えねばなり広忠の声があやしくうわずった時、ポーツ、ポーツと、 あらぬ方向で貝がひびき、同時に白い旗が田のくろに立て ませぬ。相手は名うての尾張勢ゆえ」 られた。 「わかっている。とにかくこの丘へすぐに旗を立てるがよ 一旒、一一旒、三旒 し」 そのまっ先の一旒に、黒々と染めぬかれた五曜星を見た とき 「おお ! 」 旗を立て終るころから霧は徐々にはれていった。どこも こがね かしこも穂波をたれた黄金いろの稲田で、その間をすすん広忠は馬上で叫んだ。 あ・ 「小癪な、久松彌九郎めじゃ ! 」 でゆく味方の姿が蟻のようにつづいている。 阿部大蔵は黙ってまだじっと後方をみつめている。 まだ旗を倒したまま四方から城門へ迫っているが、城の 群雀がまた頭上をかすめて味方の方へとんでいった。 中からは一矢も応えて来る様子はない。 「殿 ! すでに援軍到着と見えまするそ」 広忠は馬を降りようとして手綱を八彌に渡し、それか 四
ひたす。なまじ豪族の家に生れたばかりにめとるも離別も家どの : : : 」 政略をはなれられす、それへの不平がいよいよ病身をさい わが名を呼ばれて雅楽助は、忠吉の能面に似た顔へ視線 なむらしい。 をすえてつぎの言葉をしすかに待った。 外の雪はやんだと見えて、障子が少し明るくなった。 それもやむを得まい それが若さのハケロだったら、雅楽助はかえってホッと 鳥居忠吉は渡里に住んで広忠の側近にはいなかった。 したであろう。が、酒にまぎれぬ神経が怪しいまばろしを 広忠のそばで政治ーーといっても役名の決りなどまだな 見せてゆく別れた妻と錯覚しての女話では、あまりに事情い時代で家老たちは、おとなとも年寄とも呼ばれていた がみじめすぎた。 は、本多平八、酒井雅楽助、石川安芸、植村新六 武将の器ではなかった。父の清康とは比較にならぬ。と 郎、それに阿部大蔵老人の五人で取仕切っている。 いってそうした育ちに幼少から仕えて来た自分の責任もな しかし、譜代の中でも最長老の忠吉の言葉は、彼等にと いとはいえぬ。 っても重かった。名を呼ばれたのは雅楽助一人であった いさめすばなるまい : ( よし、 が、みんなの視線は期せすして忠吉に集った。その緊張を と、思ったときに、鳥居老人がこんどはひどく静かな声意識して、 で、石川安芸に話しかけこ。 「よくあることじゃ」 「そのうわさは、お身の耳にどこから人ったのかな」 と、老人はまず軽くそらし、 ー、はしための一 「されば、殿の乗馬をあすかる小者どもカ 「わしはすぐに渡里へもどる。それでお身からおとな衆に 人に聞いたとゆうて」 よくはかってもらいたいのだ。田原の弾正さまとご縁組の 「ロどめはなされたであろうの」 話もあること、大切なはその女子の素性であろう。のうご 老人」 「むろんのこと」 ) 「それにしても、そのような奥のみだれは気にかかる。正「 いかにも」と、阿部老人はうなすいた 275
ることになった 6 立たせぬとせよこされたが、 下野守どのの腰は誰の眠に 田原の城主は戸田弾正左衛門康光 も浮いて見えまする」 康光はむろんこれを光栄としてよろこんだが、岡崎では 「浮いて見えるゆえどうせよと申すのじゃ。この期におよ 逆であった。 んで愚痴は申すな」 若い城主広忠の実力をあやぶまれ不信を表明されたこと 「愚痴ではござりませぬ。治部大輔さまの不安をどうのそ になる。 くか。もし岡崎へ来られぬと決定すると、いよいよ刈谷の 阿部大蔵が帰って来ると、岡崎城の広間ではすぐに広忠 心はうごく。今川方では岡崎を捨てる肚 : : : と見きわめた を囲んで大評定がひらかれた。 ら、改めて味方する気にならぬとも : 「すると治部大輔さま、わが君ご若年ゆえ、信用ならぬと 安芸がそこまで言うと、 の肚か」 「相分った ! そちは於大を斬れというのかツ」 うたのすけ 酒井雅楽助がずけずけと訊ねると、阿部大蔵は、神経質広忠はまた突き刺すように言い放った。 な表情で苦りきっている広忠の方をちらりと見て、 ここもまたきびしい残暑。すでに日暮れがせまっている 「何分にも、敵に近すぎる。わが君の大叔父、信定さままのに、そよと動く風もなかった。 で敵方ゆえ、万一の場合には敵の中に孤立すると、それを 五 案じられているよ、つじゃ」 「案じられても仕方のない節、他にもある」 「これは思いもよらぬ。お屋敷さまをお斬りなされて何の 石川安芸が呟くようにもらすと、 益がござりましよう。それこそ下野守ばかりか父御右衛門 「安芸 : : : 」 太夫まで怒らせて敵方へ追いやるものと思召さぬか」 と広忠は鋭くこれを聞きとがめた。 「ならば、そのことはもう申すな。聞きとうないわ」 「そち、それは刈谷の向背を指すのであろう。はっきりと人々はそっと顔を見合せた。いざ戦となると、やはり広 申せ」 忠では頼りなかった。ただ、ここではその頼りなさを誰も かくそうとしていない。それが、若い広中いには侮られた感 「いかにも。父御の右衛門太夫さまは、断じて織田方には 101
「小癪な。片目八彌と知って来る小」 ( 尋常の敵ではない 久六と名乗った足軽はそれには答えす、 その感じとともに、本能的に彼は戦の不利をさとった。 「殿 ! お引きなされ」 このままでは、やがて退路を断たれる恐れがある。 と、俊勝にどなった。 「殿 ! お退き下され」 俊勝は素直に馬をかえしてゆく。 しかしその声は広忠にはとどかず、 「逃げるか彌九郎 ! 待てッ ! 」 「殿 ! 阿部四郎五郎 ! 」 だが、細い田のくろに立ちはだかった一人の足軽のため「大久保新八郎忠俊」 に前進ははばまれた。 危急と見て、二人が左右から広忠をおしつつんだ。阿部 「八彌早く : : : 」 大蔵は、すでに身近には、なかった。 躍りあがる馬上で広忠がうながすのだが、 竹之内久六 「殿 ! お退き下され ! 」 は、びたりと八彌に槍をつけて、静かな表情で身動きしな 自分のすぐ背後に広忠の馬の呼吸を感じながら八彌が、 もう一度叫んだとき、すぐ右手の草むらからワーツとまた 2 ワーツと背後でときの声があがった。 ときの声があがった。 城兵がうって出たらしい。 「あーーー」とたれかが叫んた。 だんじよう 「織田弾正の馬標そ」 広忠の馬はまた躍りあがった。金扇の馬標めがけてだん ( しまった と八彌は思った。織田信秀が、ここに現われたのではも だん矢数がしげくなる。その一筋が馬のしりに立ったの う勝味はない。あの神出鬼没が得意の荒大将は必す広忠の 片目八彌はその時はじめて自分の顔の汗に気づいた。タ退路を断つに違いない。 ラタラと雨滴のような汗の玉が、見える一眼のくばみへ流「殿 ! おひき : また叫んだときだった。ダーンと大地をふるわして、ふ れて来るのである。そのたびに相手の姿がばやけてゆく (-) ぎな音響がとどろき鍍り、同時に八彌はヘたっと右の 0 しかも相手の額には汗すら見えぬ。
だが室内の燈影は人々の影をくつきりと壁にはわせ、居 ぞちの大将は平野久蔵じゃぞ」 並んだ部将の間に 「ありがと、フ′」ギり・まする」 一種の凄気を流しかけている。 おおくら 久六はまたこそこそと下っていった。 右側には阿部大蔵とその弟の四郎兵衛。左側には酒井雅 たのすけ あき その後姿を俊勝はまだじっとにらんで眼を放さない。 楽助と石川安芸、中央の広忠をかこむようにして、松平外 記、大久保兄弟、本多平八郎、阿部四郎五郎の順に円陣と し」 作っている。 「あの者に心を許すな」 いずれも具足というより甲胄に近い装いで、その表情は 「よに、ス土しい即が ? ・」 木彫の羅漢を見るようだった。 やわら すると俊勝はまた表情を和げて、 「竹千代どのをこれへ 「お許を疑って、弾正さまからまわされた忍びの者かも知 と、広忠は言った。 れぬ。お許は岡崎へ子を残して来ているゆえ。だが案じる 広忠はほとんど無表情だった。まっ白な額の鉢金に給が ことはない。お許の心はわしが知っている」 ゆらめき、物の具をつけると、かえって優婉な哀れさを添 2 於大はホッとして、心の中で、この善良な良人にはじめえてゆく。御所雛のにおいさえただよいそうな感じであっ て合掌した。 声に応じて広忠の伯母の随念院が竹千代を抱いて広忠の 前にすすんだ。 秋霜の城 「トトチマ・ と、まわらぬ舌で竹千代がニコニコと父の方へ手をのば すと、広忠はおとがいも首も手も豊かにくびれたわが子を じっと見よ・もった。 庭先へはかがり火がたかれていた。東の空は白みかけ竹千代は随念院の腕の中で身をおどらせ、父の方へ行こ うとする。随念院はその意を察して、 て、炎のいろは猛々しさをなくしている。 びな
り、それから懐中へ手を入れて、妙な形のものをつまみ出 「何じゃなそれは ? 」 「お土産じゃ」 「麦わらのネコかの ? 」 「もっての外な。馬じゃぞ老人」 声に応えて女中の出て来る前に、 二人とも入口に並んだ 「ほほう馬か。それがの」 履物の多さに気がついた。 「わしの手作り。大馬の労を意味する馬じゃ」 「おやおや、これは皆ここに集ってるらしい」 雅楽助がつぶやくと、 と、こんどは老人が笑いだした。笑いながら老いの眼に 「たぶん来ると思って待っていたわ。早くお入りなされ」 薄く涙がにじんでいったのは、虚弱な主君にあきたらず、 奥から大久保新八郎が大声でわめき立てた。 まだ幼い乳児につなぐ、小国の武士の切ない心のあり方だ 二人は顔を見合って、すそをたたき、そのまま式台を上 って中に入った。 そうか。一党の家老の身で、そのおもちやをコッコッと と、間髪を入れずに正面から、 作って来たのか。 「ジジー」とはすんだ竹千代の声。 「いや、よろこぶであろう。何よりのお土産じゃ。さ、急 「はしはい」と阿部老人がます坐った。 八畳二間をぶちぬいた庄屋まがいの質素な作りで、正面 二人はまた暫く黙って歩いた。 の床の間には、紅白ののしもちに、歯堅め台だの蓬茱台た 雪はだんだんはげしくなり、大蔵のささげた梅は花か雪のが、それでもささやかに添えてあった。 かわからぬまでに白くなった。 その飾りを背にして一足先に本丸を出て来た鳥居忠吉 が、ニコニコと竹千代を抱いて坐っている。大久保兄弟も 時々二人は首をふってビンの雪をおとしながら、矢倉に 石川安芸も阿部四郎兵衛もみんな集って、乳母の手から杯 そって歩いていった。 つ 0 そして一一丸の門とくぐると、二人いっしょに、 「頼もう」と、声をかけ、その声に今までなかった心の軽 さを読みあうと、顔を見合ってまた笑った。 210
杯がふたたび広忠の手にもどると、 「お抱きになられまするか」 「亠須ど、もよいか」 と差出したが、広忠はひざの采配をおこうとしなかっ 広忠は床儿を立って、パッと土器の杯を割った。 オ ! オ ! 」 かすかに首を振りながら、その眼は依然竹千代をはなれ「オー みんな声をそろえて太刀をあげると、阿部四郎五郎を先 「頼みまする」と小さく言った。 頭にしてのそのそと庭へ出た。 随念院はうなずいた。 いかめしい出陣の儀式に似合わず、どこかのんびりとし 阿部大蔵と酒井雅楽助だけは脇をむいて、この訣別を見た空気で広忠の前に片目八彌が馬をひいて来たとき、 「トトチマ ! 」 ようとしない。本多平八郎は庭先をのそいて、 またうしろで躍るような竹千代の声がした。 「そろそろ七ッ半かの」 小姓の手で酒と勝栗がはこばれた。 随念院は竹千代を抱いてそのまま広忠のうしろにまわ り、片言でさわぐ竹千代をなだめていった。 夜明けを待たずに岡崎衆は城を出た。 広忠から土器の杯がまわり出した。いずれも無言であっ きのうの情報では、まだ安祥城へ織田信秀の援軍はつい たが、べつに悲壮さは伴わず、広忠が竹千代を見つめた時ていなかった。 よりはかえって空気が和した 城兵約六百。ことによると敵はまだこの急襲を知らずに 「やるかの」と、大久保甚四郎が本多平八郎に杯を渡す いるのかも知れないと、大将のくつわを取って露草をふみ しだきながら八彌は思った。 「おおさ」 まだ夜が明けきらないので、扇の馬標は足軽にかつが せ、それがとことことうしろからついて来る。 平八郎は新しい丸胴の下でフフフと笑った。 馬上の広忠は城を出てもほとんど口を利かなかった。 庭先へ馬がひかれて来たらし い。とっぜん甲高いいなな 彼はまさかにこの挙を、敵が知らすにいるとは田いってい きがわき上った。 ず、 6