「良策などはござらぬ : : : が、おもしろいほど次々にわれ 主なき城。 急転直下、事情は最悪の瀬戸に追いこまれて来たのであら一統をいじめくさる。ここまで来ると、ぐんと度胸が決 るものじゃ。、、、、、 のう雅楽助どの」 る。 雅楽助は老人の面を射ぬくように見返したまま「いかに 「かくなる、フえは・ も」と、低くいった。 と本多忠高が眼をとざしたままでつふやいた。 「喪はかくしたままで一戦するよりほかにござるまいて」 「さよう」と、大久保甚四郎がこれに応じた。 「とにかく、ここまでいじめくさると、義理にも素直には 「きれいに散ろうぞ。見苦しく離散せずに、、いを一つにし あきらめかねる」 「最後まで、城は渡さず一戦せよといわれるか」 阿部大蔵が、はばかるように鳥居忠吉をふり返った。 「さよう、その最後まで : : : 最後まででござるよ」 「伊賀どの、いかがでござるな ? 」 老人はしすかにいって、 鳥居忠吉はその言葉が耳に入らぬもののように、次々に 「とこか / 、 : : : 」と、こんどは石川安芸に向き直った。 一人すつの顔いろを見ていった。 「相手は名うての軍師今川家の雪斎和尚じゃ。早まってう さすがに仰天して度を失っている者は見えなかったが、 絶望の色はかくせない。婿の口から城をまくらに一戦するらをかかれるのも無念。ここではますおとなしく相手のロ せいき と言い出されて植村新六郎の表情が一種の凄気をおびて来上を聞こうではござらぬか」 「と、いわれると、朝比奈備中守を、おとなしく城に迎え ている。 入れて : : : 」 「植村どの」 「さよう。でなくば口上は聞けまいて」 鳥居忠吉は、、かにも軽い嘆息で、そのしこりをほごし っ 0 「そのうえで、明け渡せといわれたら何とする思案でござ 、刀、刀学 / る ? 」 「まだまだ絶望にははよ、フ、こギ、るな」 「明け渡すが勝っ道ならばそれも辞さぬ。最後の勝ち : いわれると、ご老人に何か良策がござるかな ? 」 五 387
ど、また泣いた。 びっちゅうのかみ しかがでごギ、るな ? 」 「使者は朝比奈備中守、これが三百余騎を従えて、すで 鳥居忠吉がまたいった。 に吉田の城を通過し、山中にかかってござる。口上は知れ 平八郎忠高だけが、猛々しい眼をしてみんなをにらみまてあること。万事は終りました」 わしている。真っ先に阿部大蔵が面を伏せた。と、つづい 鳥居忠吉も阿部大蔵も眼を閉じた。 て酒井雅楽助が : この指図は今川義元自身でなくて、義元の信任を一身に せっさいおしよう と、その時だった。 あつめている雪斎和尚に違いない。 大久保新八郎が血相変えて人って来て、 大久保新八郎のいうとおり、その口上は聞くまでもなか つ、」 0 「方々、すでに万事は終りましたぞ」 片ひざっくと一緒にワーツと声をあげて泣きだした : 竹千代を救おうとして織田方に傾くのをふせぐため、岡 崎城へ軍勢を人れて、 四 「ーー・・竹千代どの成人のあかっきまで、この城地は今川家 「万事が終ったとは ? 」 で預ろう」 まっ先に雅楽助が顔をあげると、 とい、つのに ( 理いない。 「申されし それにしてもなんと素早い処置であろうか。まだ岡崎で 本多平八郎忠高は、食いつくようにひざをすすめた。 は喪も発していないというのに。 「駿河から、すでに軍勢が発したとの知らせでござる」 こうなると、もはや論議の余地はなかった。相手のいう 「なにツ、駿〕渕から : ままにいったん城を明け渡すか、それとも城にこもって、 ゥームと人々は顔を見合って低くうめいた。 相手の入城を実力で拒んでゆくか。 大久保新八郎はこぶしで斜めに涙をふくと、 鳥居忠吉が沈痛な瞬きで眼をひらいた時には、まだたれ 「見通しでござる。今川家に岡崎衆の腹はすっかり見通さも胸に組んだ腕さえ解いてはいなかった。 れてごキ、る」 備えなき城。 386
その決しがたいままで当分生き残る : : : それよりほかに策 「ほほう、おぬしが使者に立ってくれるか」 はあるまい」 意外なという面持ちで鳥居忠吉が平八郎忠高を振返る植村新六郎は黙ってじっと婿の顔を見つめていた。 「拙者は妻を離別する。その上で織田派でござると尾張へ 「お家のためならば私怨私憤は忘れまする」 駟け込み、必す家中一統を織田派にしてみせるゆえ竹千代 忠高は、鳥居忠吉よりも、植村新六郎に向き直った。 さまを申受けたいと談じ込む。舅どのは石川どのご同道に 自分の眼の黒い間は父の敵、織田信秀をそのまま許してて駿河へ赴き、いずれ全部を今川方に説き伏せるゆえと申 ぐせ もよお おくものかと、口癖のようにいっていた忠高。しかもそのして駿河の軍勢催しなきよう取計らわれたい。それよりほ 忠高は、植村新六郎の娘をめとって、その娘がまだ一子鍋かに策はござるまい」 むこしゅうと 「すると婿どのは、合意のうえで二派にわかれようといわ 之助 ( 後の平八郎忠勝 ) をみごもったばかりの婿舅の間 柄であった。 れるのか」 その婿が血相変えて舅に向き直ったのである。 しかにも」 「この場合は、城内二派に分れて相争うもやむを得ぬ。妻「なるほど、それも一策 : : : 方々いかがでござろうな ? 」 は改めてお返し申す」 鳥居忠吉はまたおだやかな眼でみんなを見まわしたが、 さすがに答える者はない。 「これはまた性急な」 忠高はまだ若い。織田信秀が、彼の描く策略に、そのま そばから忠吉は微笑して二人の間をさえぎった。 ま乗って素直に竹千代を渡すとも思えなかったし、渡され 「まず、お身の考えを、くわしく説いて頂こう」 たあとで、 「されば : : : 今は尋常一様の時ではござらぬ。竹千代さま 「ーーー・実は今川方」 のお生命を守ることこれが第一、つぎに岡崎城を今川家の と、欺くのも、広忠の意地に応える道ではなかった。と 手に渡さぬこと、これが第二。といって、家中一統で織田 家随身と決ったら、今川方で手をこまぬいているはずはな って、この案を無下にしりぞける理由もない。ここでも そこて二つに割れて、またいずれとも決しがたい : し千代を斬られたら、松平家は見る間に離散するてあろ あざむ 385
ひたす。なまじ豪族の家に生れたばかりにめとるも離別も家どの : : : 」 政略をはなれられす、それへの不平がいよいよ病身をさい わが名を呼ばれて雅楽助は、忠吉の能面に似た顔へ視線 なむらしい。 をすえてつぎの言葉をしすかに待った。 外の雪はやんだと見えて、障子が少し明るくなった。 それもやむを得まい それが若さのハケロだったら、雅楽助はかえってホッと 鳥居忠吉は渡里に住んで広忠の側近にはいなかった。 したであろう。が、酒にまぎれぬ神経が怪しいまばろしを 広忠のそばで政治ーーといっても役名の決りなどまだな 見せてゆく別れた妻と錯覚しての女話では、あまりに事情い時代で家老たちは、おとなとも年寄とも呼ばれていた がみじめすぎた。 は、本多平八、酒井雅楽助、石川安芸、植村新六 武将の器ではなかった。父の清康とは比較にならぬ。と 郎、それに阿部大蔵老人の五人で取仕切っている。 いってそうした育ちに幼少から仕えて来た自分の責任もな しかし、譜代の中でも最長老の忠吉の言葉は、彼等にと いとはいえぬ。 っても重かった。名を呼ばれたのは雅楽助一人であった いさめすばなるまい : ( よし、 が、みんなの視線は期せすして忠吉に集った。その緊張を と、思ったときに、鳥居老人がこんどはひどく静かな声意識して、 で、石川安芸に話しかけこ。 「よくあることじゃ」 「そのうわさは、お身の耳にどこから人ったのかな」 と、老人はまず軽くそらし、 ー、はしための一 「されば、殿の乗馬をあすかる小者どもカ 「わしはすぐに渡里へもどる。それでお身からおとな衆に 人に聞いたとゆうて」 よくはかってもらいたいのだ。田原の弾正さまとご縁組の 「ロどめはなされたであろうの」 話もあること、大切なはその女子の素性であろう。のうご 老人」 「むろんのこと」 ) 「それにしても、そのような奥のみだれは気にかかる。正「 いかにも」と、阿部老人はうなすいた 275
やがてその夜具をうやうやしく棺におさめて喪を発しな直った。 ければならないのだが、重臣たちの評議はまだそこまで進 んではいなかった。 、、つ ) て、フ 「とにかく意外な成行きでござった。それゆえし 空の布団にうやうやしく屏風をめぐらし、広忠の平素の 意外を重ねてあわてては、末代までも三河武者の名折れで 居間に集って、、たれの面にも生色はなかった。 「とにかく拙者の意見は変らぬ。どれほど思案を重ねてみござる」 忠吉はそういってから静かに植村新六郎を振返り、 ても : 「お身は乱心した八彌を討取ったとき、四広瀬の佐久間が 石川安芸がそういって天野甚右衛門をふりかえると、 間諜と申されたそうな。ますその所存から承ろう」 「拙者も同じでござる」と甚右衛門はにべもなく、 「安芸どのは、今川家の力にすがると申されるが、それで植村新六郎はひざを正して、みんなの視線に応えてか ら、 は織田家の手にある竹千代君はどうなるのだ。殿はすでに 「それがしのあの名乗りは、殿のご意志に従うが第一との 3 亡い。竹千代君は敵の手に落ちている。そんな事情のもと で、今川家の旗下につく。それでいったい織田勢と戦える存じよりから出たること」 「殿のご意志とは ? 」と、甚右衛門がききかえした。答え と思わっしやるか」 によっては許すまじき気色であった。 「そこでござるよ」 「竹千代君を失うてまでも、今川家への義理を踏もうとな 「どこでござる。承ろ、フ」 こうせつ された殿 : : : 策の巧拙ではない。そのご心中をお察し申す 「竹千代君を助けようとして織田につく。そのために今川 方の怒りを買 0 たら : : : 例がござるぞ。田原の戸田氏はそと、織田方とは手は握れぬ。といっていきなり織田の間諜 と申しては独断にすぎると存じたゆえ、織田方と目される れで滅亡を早めたことにお気づきないか」 佐久間が間諜と申したのだが : 二人がまた譲らずに言い竸うと、 「相分った」と、鳥居忠吉はうなずいた。 「 ) こ一 ~ 町ともしばらく」 「新六どのがそう申された、その意見をそのまま用いて、一 それまで黙々としていた鳥居忠吉がはじめて二人に向き から きか
「おのおの、まだまだでござるぞ。まだまだ最後がござる 挈、」と、一一「ロい放った。 : まだまだ」 ぞ。何のこれしき : 「無事にあらせたいと思うたら、なぜ今川家のため、なく 鳥居忠吉は銀髪をふりながら何度も何度も同じことをつ てはならぬ力になられぬ。すすんで城も領地も妻子も預け る。事ある時には身を粉にしてお先手をつとめるゆえ、何ぶやいて、 「さ、殿のご逝去をみなの者に知らせましよう」 卒竹千代成人のあかっきには旧領をお返し下されと嘆願せ 先に立って大広間へむかった。 られぬ : : : いや、この備中がお身たちの立場にあったら、 そうするという意味じゃが : 三人はもはや顔を見合せる勇気もなかった。今川家では 結局岡崎城の運命は大鷲につかまれた小鳩であった。も 広忠死去の知らせと同時に、岡崎城の占拠は決定したのに しあがいたら一挙にいのちを縮められる。 違いない 「ここは堪忍のしどころじゃ。後が、こギ、るそ。後が : 「あけがたきご意見、かならす玩味のうえ、御意にそうよ 重臣たちのたまりへもどってそういう時の鳥居忠吉は、 、つに士りまする」 眼の縁は染めていたが涙一滴見せなかった。 辛うじて老人がそういうと、備中守はまた念を押した。 あれこれと質問も出たし愚痴も出た。だが、すでに今川 「本丸、二の丸、早々に明け渡されよ」 家で決定されている岡崎城の運命には何の変化も与え得る し」 三人はどこへ立っているのかわからぬ気持で廊下へ出はすはなかった。 朝比奈備中守がもらした今川家の高等政策に順応し、先 方からいわれる前に城も領地もすすんで預けると言い出す 「とうとう城もなくなりましたな」 よ。い , ・物なかっこ。 石川安芸がつぶやくと、 重臣たちの腹はそれで決った。 「城だけでは、こぎ、らぬ。領地もともどもに : だが、血気にはやる家中一統、果してこれで治まるかど は、なんとうまい口実であろうか」 雅楽助は吐きすてるように舌打ちした。 せんきょ : 預ろうと 、 0
そのたびにみんなは振返って手を振った。生母に別れ、 奥までまかり通って、広忠とともに飲み、ともに語る 父から遠ざけられた寂しさが、幼い者を無性に人懐しくし親しさを保ちながら、なすべきことはぐんぐん運ぶ。それ ているのだ。 が自分の務めであったと、うなすきながら、きびすを返し 大久保兄弟などはどちらも眼を赤くして、みんなへのあた。 いさつもそこそこに城門を出て山中へもどっていった。 途中でさまざまな家士に出会い、彼らが口々にのべる賀 ( そうだ。竹千代さまは本丸へ帰さねばならぬ : : : ) 三ロ、 ~ 城内に住居を持っ雅楽助は、六勺口まで鳥居忠吉を送っ 「幾久しくな」 ていって、しばらくそこで、甲山を見上げて考えた。 こくんと頭を下げていながら、思いはすでにそこになか っ一 ) 0 みんなが竹千代を慕い、竹千代を中心にして生きようと しているのは、結局広忠の無力さの反映であった。 降りやむと雪はすぐに溶けてゆく。ところどころに「蕗 別れぎわに忠吉は雅楽助だけにわかる声で、 の薹」の芽立ちが見え、地面の黒さがそそるように眼にし 「竹千代さまはわれら一党の馬印ぞ」と、笑いながらいつみた。 た。まさにその通りであった。 「そうじゃ、早く春を招きよせねば : 松平党は於大の方の離別と広忠の傷心とで馬印を失いか いずれにしても広忠のそばにいながら、広忠に出来た女 けている。それを強めるためには竹千代という旗を広忠ののことまで知らずにいたとすればうかっ千万、ひざっき合 そばに押し立て、於大にまさる奥方を一日も早く城に迎えして戯れにことよせ、 て本陣強化をやらねばならぬ。 「ーーーその女子、これへお呼びなされませ」 雅楽助は、薄く刷かれた雪の中へ近々と見える、甲山や 気軽にいって素性や育ちを知っておくべきだった。 登岩山の樹木のたたずまいを見ているうちに、急にまた気雅楽助はコッコッとまた表玄関を入っていった。 が変った。 侍たちはびつくりした表情でそれを迎えた。 このままわが家へ帰るべきではなかった。一人で引っ返「殿は奥か : 大書院をのぞくと、そこにはもう広忠はいなかった。火 して殿に会わわばならぬと思った。形式ぶった年賀ではな 217
どのの喪を発せられたい」 最後でござるなあ」 口上はいんぎんだったが、 阿部大蔵はようやくそのなぞがとけたとみえて、ポンと 城地の明渡しに有無をいわさ ぬ圧力だった。 小さくひざをたたたいた。 大久保兄弟や本多忠高の血気を、どうして押えようかと 広間で、この口上は鳥居伊賀守忠吉、酒井雅楽助正家、 苦心している。案のごとく忠高はじっと上眼で鳥居老人を石川安芸守清兼の三名列座のうえで申し渡された。 にらみだしていた。 すでに三名とも血気にはやる年齢ではなく、顔を見合し こ、つして てうなずきあった。 「一の丸、二の丸の明渡し即刻に願いたい」 一応今川家の使者を迎えるよりほかに、松平一統の取る べき方法は発見できなかった。 「委細承知いたしました」 斬り死ではあまりに策がなさすぎる。相手の言い分をよ 忠吉は事もなげに引受けて、 く検討して、生き残る道の有無を突きとめよう。それがこ 「さてーーー」と、朝比奈備中守に向き直った。 の場合唯一の手段と説きふせられて、今川家の大将朝比奈「お心くばりにより、喪を発しても織田方につけ入られる 備中守本能をこの城に迎えたのはその翌日のひる過ぎだっ恐れはますござりますまい。が、かく今川勢を城内へ導き 入れたあと、尾張におわす竹千代さまはご安泰で済みま 朝比奈備中守は、表向きは広忠の病気見舞であったが、 しようや否や、その辺のご策もあらば承り、城内の動揺を 選りすぐった精鋭三百騎をひきつれて城に入ると、本丸と防ぐ一助にしたいと心得まするが」 二の丸とを明け渡すようにと言い渡した。 穏やかな表情で、はじめて相手に迫っていった。 せんきょ 本丸、二の丸を占拠したうえで広忠の喪を発し、織田方 につけ入るすきを与えまいというのである。 「われらが主人、広忠どのとの年来のよしみを想われ、わ朝比奈備中守は、老人の問いを予期していたとみえ、猛 ぜんじ ざわざわれらをつかわされた。後詰には雪斎禅師すでに大猛しい日焼けのほおに微笑をふくんでうなずいた。 軍をひきつれて駿府を出発してござる。ご安心あって広忠 「伊賀どの、われらがこの城に入るは竹千代どのを救い出 388
に日に目立ってゆく。 台が回っていた。 ただ一つ、生き残りたいばかりのために、この子の母を 雅楽助も老人と並んで坐った。 追わなければならなかった父も哀れ、子も悲しい。が、そ 新年ご祝儀、おめでとうござりまする」 口をそろえて平伏すると、頭の上でまた「ジジー」と上れにもまして、言い合わしたようにここに落合う家臣の腹 半身を躍らせながら竹千代があばれた。まだ家臣のどの顔も悲しかった。いずれも松平家譜代の柱、祖父でとげられ を見てもジジーなのだが、その一声でぐっと胸が切なくなず、父でも達せられない生活安堵の望みを、このがんぜな る。 ( この幼児は、自分の上にかけられた一族郎党の切ない幼児につないで営々と生きている。 が、当の竹千代だけは何も知らず、だんだん人の集るの い期待を知っているのだろうか ) がうれしいらしく、老人から渡された梅の枝をくびれた手 「おお、お祖父さまにそっくりじゃ」と、梅の一枝を下げ で握りしめると、いきなりまた、 て阿部老人は鳥居忠吉に近づいた。 「ジジー」と叫んで、忠吉の白髪頭をしたたかたたいた。 「さ、こんどはわしに抱かして下され。お土産を進ぜよ 「おおこれはお勇ましい」 ハラバラと花しずくがあたりに飛んだ。と、とっぜん奇 老人よりもさらにまっ白な銀髪の忠吉の手から竹千代を 妙な声をあげて、大久保新八郎が泣き出した。 受け取ると、それを高くかざすようにして、老人はもうま ちょうど彼が手にしている杯の中に、その一輪がとびこ た眼の中を赤くしている。 「お祖父さまはの、尾張まで攻入られて、織田方などにはんだのだ : 歩もひけは取らなかった。お祖父さまにあやからっしゃ 四 ふところの麦わらの馬をつかんでわきをむい 雅楽助は、 「これ新八、何という声を出すのだ。正月だぞ」 た。この幼さですでに母には生別している。父は一族の信 兄の新十郎がたしなめると、 「泣いたのではないわ。あまりのうれしさに笑ったのじゃ 頼をつなぎきれずにもだえているし、強国にはさまれた弱 小国の悲しさで、縁者の中にも織田派、今川派の暗闘が日わい」 212
「控 , んさっしや、 し」と兄がとめた。 殿にまさっていた。 「すると、はしためがお屋敷さまに見えたとか ? 」 ふしぎな辛抱づよさで、じよじょに広忠の心をつかみ 「どこかいくぶん似ているそうな。それにお手がついてやがて家中の信望までを一身にあつめていった。 な。それから酔うとふろのご用があるそうな」 二人の間へ竹千代が生れた。その時の家中一統のよろこ 石川安芸がそこまで言うと、 びも、まだ、きのうのことのように雅楽助の心に残ってい 「その話、もれてはならぬ。ロどめ申す。言わっしやるなる。 しよせんは上下をあげての乱世。生き残るためにめ それまで黙って眼をとじて聞いていた鳥居忠吉が、きびあわせられた夫婦は、生き残るためにこんどは生木を割か れていった。 しい口調でみんなに言った。 竹千代はいっか床の間の飾りのわきに歩んでいって、馬於大の兄、水野信元が織田信秀に味方をしたため、今川 家をはばかって於大を離別するより他なかったのだ。 のおもちやを立たしている。 於大の方は良人と子供に心を残して岡崎を去っていっ幻 五 その日の悲しさもまた、広忠に劣らぬほどの無常感で雅 酒井雅楽助は腕を組んで考えこんだ。 こ興亡つねない戦国の世とはいえ、これはあまりに楽助の心をしめつけている。 広忠が、於大を忘れかねているのがわかり、それなれば みじめな成行きだった。 こそ戸田弾正の娘を早く後添えにと、しきりにすすめてい 十四歳の於大の方を、御家のためと無理に広忠を説きっ るのであった。 けて、岡崎城へ迎えさせたのは雅楽助であった。 その時には、松平家の無事のため、、 ぜひない必要の縁組 ( そうか、お屋敷さまのまばろしを : : : ) 歯がゆい気持はまだあった。人情にかまけていてすむ時 たったが、十七歳の広忠はその政略をひどくきらった。 於大の方とて同じであったろう。 代かとしかりたくもあった。 が、それでいてまた哀れさも潮のようにひたひたと心を しかしこの花嫁御寮、時勢を見る眼もあきらめも、婿の