秀吉 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 11 日蝕月蝕の巻軍荼利の巻
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1. 徳川家康 11 日蝕月蝕の巻軍荼利の巻

三成がふとまた出がけに自分を引きとめたお袖の思い詰あった。 それも寧々が知ったときには、もはや承兌と生駒親正が めた表情に行きあたったとき、 「でよ、Ⅱ - 使者と決まったあとだったのだ。 男室へご案内を」 ( : : : しまった と、利・政がいった。 と、寧々はあわてた。彼女は、太閤の生前から、すでに 死後の推移をあれこれと思いめぐらし、これから豊家のお かれる位置が、どのように忍従を必要とするものになるか を見詰め続けていた。 実力からいって、あとの実権は家康の手におちょう。そ れは政権が信長の手から秀吉の手に移ったおりよりも、遙 かに自然な成行きだった。 大坂城の西の丸だった。 あのおりの秀吉には、妻も母も死地に置いたまま乾坤一 庭先に太閤の好みで植えさせた白梅が、点々と花をつけ カ家康にはそんな必要は更にな て春の到来を告げている。陽射はうららかに晴れて、この擲の冒険が必要だった。 : 、 うぐいす つ」 0 分ならば、近く鶯の声も聞けそうな暖気であった。 家康を、東海地方においては安心出来ないと、関東に追 その庭へじっと視線を据えたまま、北政所の寧々は、さ とっとっ ったのがすでに大きな秀吉の誤算であったと寧々は思う。 つきから訥々とその後の様相を話して聞かせる清正の言葉 家康は家臣の不平を聞き流して唯々と関東へ移っていっ に耳を傾けていた。 きびしい寒気が去ったら何よりもまず無事に太閤の葬儀た。そして新領土開拓を名として高麗への出陣を巧みにの っちか がれ、自力でついに関八州へ抜くべからざる実力を培って を済ましたいと希っている寧々にとって、この春の歩みは 来てしまった。 決して早いものではなかった。 寧々には、その領地の広大さはわからなかったが、諸将 ( 何か不吉な故障が起こらなければよいが : そう思っているところへ、例の家康の私婚詰周の事件での口からその膨大な実取を闘くたびに、どれだけの軍勢を ご遺志談義 166

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三日は市民一般の参拝供養を許すはずであった。 紫野大徳寺で執行した。 それがすんで七日目の法要。 その秀吉が、今は、迷わずに成仏せよと叱られて、秀吉 恐らく三日間では供養というより見物しきれなかった 自身さして信じてもいなかった彼岸とやらへ追いやられて 人々に、そのあと一両日の延長を許し、それで秀吉という人 いるような気がするのだ。 間はしだいに生きている人々の脳裏から遠ざかってゆくの 「ーーわしはいやだ。行きたくない ! 」 さんらんと輝く金色の棺の中で、秀吉は駄々ッ児のようであろう : : : そうした想念がいよいよ呼吸を詰らせて、と もすれば利家は眼先が暗くなりそうだった。 に足を踏み鳴らしているのではなかろうか。 ( ここで倒れてはならぬ ! ) かっての伏見の大地震のおり、ここに安置された大仏が 。もり・や′、 首をおとしたというのでわざわざ伏見城から血相変えて大秀頼の傅役として来ているのだ。とにかく秀頼を大坂城 へ送りとどけるまでは頑張らなければ : : : その癖、利家 仏を叱りに駈けつけてきた秀吉だった。 うぬは ! 諸民を守れと申付けてあったこの秀吉のは、すぐ右どなりの秀頼を見るのが怖かった。見たら息苦 しさは一層募るとハッキリわかっているからだった。 命を忘れて、まっ先に首をおとすとは何たることかツ」 「大納言どの、ご気分は」 秀吉はカンカンになって、携えて来た弓に矢をつがえ、 左隣りの家康が声をかけたのは、もうすっかりあたりが 不都合な大仏の腹を射たということだったが : その秀吉が、今は木食上人を通じて仏どもにくどくどと明るくなってからであった。 「間もなくご焼香になろうが、お苦しくば : 詫びを入れているような気分がする。 利家ははげしく首を振った。 それがひとしく人間の落ちゅく先だとすれば、なんとま 家康はそれなり黙って、またゆっくりと眼を閉じた。家 た人間とは儚なく滑稽な生きものなのであろうか : いや、利家とて、その例外ではあり得なかった。すでに康にとって、読経の長さはさして苦にはならなかった。健 ごんぎよう 彼こよこの僧侶たちの勤行が、き 康だからでもあったが、冖 病は彼を、秀吉のそばに手招いている。 びしい天地の戒律を、静かにさとす母や、祖母の声のよう 夜はあけた。しかし読経はえんえんとして続いてゆく。 に受取れるからであった。 きようから三日、ねんごろな供養を続けたあとで、あとの 202

3. 徳川家康 11 日蝕月蝕の巻軍荼利の巻

ほど直接に関連させて考えてはいなかった。 五大老、三中老、五奉行という秀吉の残していった組織 が、とにもかくにも政権の座を維持してゆく実力あるもの と田 5 っていた。 ところが、今日こうして秀吉の柩の前に、顔をそろえて 並んでみると、秀吉の残していった組織はすでに形骸だけ になったのだとしみじみ思わせる。 結局秀吉の残した組織は、秀吉あっての組織であった。 秀吉という強力な独裁者の下にあれば、五大老も三中老も 五奉行も、みなそれそれ円滑に回転しながら、全体を支え てゆく組織の一部であり得たのだが、秀吉という主軸のは ずれた瞬間からおのおの・ハラ・ハラに動く宿命を持ってい 2 秀頼の焼香には片桐且元が添った。そのいたいけな姿た。 が、みんなの心に無常感を誘い起こしたことは否めない。 ( いったいこの中で誰がいちばん大きくいちばんまっ先 政所の寧々や、生母の淀の君や、その二人に従っている に、その組織解体の主動力をなしていったのだろうか : : : ) 女たちは、言い合わせたようにさしうつむいて涙ぐんでい 石田三成は、今日は、五奉行の第四番目につつましく列 る。 なって、そこまで考えてくると、眼を閉じて深沈とした表 しかし、それとて去年の八月、太閤がこの世を去ったお情で上座にある家康を見ずにいられなかった。 ( やはりそれは、あの肥った大狸なのだ : りの悲しみとは比較にならなかった。わずか半年にすぎな あの大狸めが、まっ先に遺命を破り、勝手な縁組を企て かったが、時の流れは、ふしぎな力で人間感情の向きを変 えてしまっている。 て火口を切ったのだ : : と、考えて来て三成はゾーツとし あの時には、まだ誰も秀吉の死と天下の行方とを、今日 ( わしはまだ、こうして天地に生かされている : : : ) それを素直に阿弥陀仏の慈悲によって : : : と、受取れる 宀豕康だっこ。 生かされている限り、その天地の指さす「正しさ のために働く。いや、働かせられるために生かされている 読経がとぎれた。 「ご焼香を」 と、木食上人が秀頼を促した。 家康はまだ眼を開こうとしなかった。 ひつぎ

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っ ) 0 そのため子飼いの者どもまでが、二派にわかれて、少な遠ざけた。それは格別秀吉が極悪人だからというのではな い餌を争い出した。 くて、まだ戦国の猛獣たちは、信長の遺児の手では馴らし ( 太閤は、類のない猛獣使いの名手だったが : きれない事実にもとづく推移であった。 そうなると、伊達、上杉、毛利、島津といった猛獣たち その秀吉が、高麗の戦の結末もつけずに死んでゆき、再 が再び天下を覗って暴れ出すのは知れきっていた。 び日本へは、信長のおりと同じ危機がおとずれた。 ただ彼等のうち、まだ何人かは疲れ切っている。その疲しかも、秀吉の遺児は、信長の遺児よりはるかに幼い れ切っている間に、再び檻の修理を終って、暴れ狂う余地とすれば当然、第二の秀吉が現われて、天下をまとめてゆ のない時代の推移を、きびしく示しておくのでなければ、 くより他にない。 信長、秀吉、家康と、苦心して来た天下の統一は粉々に砕 その第二の秀吉は誰であろうか ? けてゆこう。 そう考えて、北政所は、家康の身辺を守るようにといっ 家康は、わずかな供揃えで有馬法印の京橋ロの屋敷に向 たのに違いなく、その指図の裏には、家康を助け、家康の かいながら、北政所も、清正も、その事に気付いているら実力と一体化することによって豊家の安泰を計ろうとす しいと思うと、彼等の見識を褒めたい気持ちと同時に、うる、きびしく悲しい決意と見透しが感じられる。 ら悲しくてならなかった。 ( いったい後世の人々は豊家の忠臣を、三成とするであろ ( 恐らく三成一派にいわせたら、北政所や清正たちの行動うか、清正とするであろうか : : : ) は、一種の裏切りとも見えるであろう : : : ) 有馬法印の屋嗷につくと、邸内からは、風の中へ小鼓の 北政所は戦国の変転をその身で確めて来ている女性なの音がもれていた。 信長が光秀のため、本能寺に倒されたときはどうであっ 表面はのどかな猿楽遊びということだったが、やはり空 秀吉は猛獣たちを「主君の仇を報ずるーーー」という名分気は異常な匂いをふくんでいる。 の鞭のもとに結集し、その実力で信長の子たちを権力から 大玄関の前に集まっている諸大名の供そろいは、何れも 146

5. 徳川家康 11 日蝕月蝕の巻軍荼利の巻

よよっこ 0 全日本の運命を包むこの袋は、どこに一隙があって も、そこからたちまち手のつけられぬ綻び方をするのであ ろう。 したがって、阿弥陀ケ峰の密葬や、忌中の鯉のことなど は、三成たちの思いのままにさせておいて、それでよかっ 家康にとっては、秀吉の死も、朝鮮撤兵の方法も、すでた。 しかし、召還の手順と、実際現地の戦場で、停戦、引揚 に考え尽くされてある出来事だった。 げの駈引きに至っては、どこまでも実行可能な戦術眼の裏 (- ーーもはや太閤の生命も長くはない : 付けのあるものでなければならなかった。 そう見たときから、当然これは考えておかねばならない ( 三成には命令の伝達は出来ても、戦場でのことはわかる 事であった。もしこの方法を誤ったら、秀吉の死と同時に 内乱を誘発し、それで無くとも不足な船舶を調達しかね それだけに、出来得る限り、彼等の心を和げておきなが て、彼の地にある数十万の将兵を見殺しにせねばならなく なろう。 ら、引揚げの時機と方法については一切ロ出しは厳禁して ゆく気であった。 若しそうなったら、秀吉の名は不世出の英雄どころか、 国辱の暴将だったと、長く歴史に汚名の尾をひくことにな さもないと、太閤の死で士気をそそうした味方が、引揚 せんめつ る。 げの水ぎわで殲滅されないものでもない。 そうした考えで、ひっそりと屋嗷に籠っている家康のも そのことは秀吉自身がいちばんよく知っていた。それな ればこそ死の三日前、八月十五日にわざわざ家康を枕頭にとへ、五奉行から登城を乞うて来たのは秀吉の死から七日 目の二十四日の朝であった。 呼び寄せて、涙ながらに後事を託していったのだ。 この遺託には何をおいても応えねばならぬ。といって、 それまで三成は、三成の考え方に従って、しきりに側近 これは家康にとっても、決して、片手間でなし得ることでからの固めにかかっていたのであろう。 朝鮮撤兵 3

6. 徳川家康 11 日蝕月蝕の巻軍荼利の巻

一催し得るかの計算だけは、戦国に育って来た秀吉の妻とし て絶えず胸裡をはなれなかった。 三百万石という数字は、一万石に二百五十人宛の割と見 ても、七万五千という数字が出る。 「はじめは、大納言もなかなかご承引の様子はなく、細川 しかもこれは秀吉と違って、家康と一心同体、父祖代々 どのも一応自説を引込めました」 の譜代の数ではなかったか : と、生月正はいっこ 0 したがって、こ・れは、時によって三百の動員も可能なら 寧々の視線はい . ぜんとして庭に向かっている。が、それ ば、三百五十の無理も出来よう。 は正面から自分を見据えている以上に、聴覚をすましてい ( 旗本だけで八万騎を擁している : : : ) 寧々はその数字の恐ろしさを、秀吉との十四歳からの生るのだと清正にはよくわかった。 「細川どのは一応大納言の前を引退って、こんどは利長ど 活で知りすぎるほどに知っていた。 いや、寧々にわかるこの数字が、諸侯にわからぬ筈はなのを以て説かせた様子でござりまする。ここで前田、徳川 かんか い。したがって「ーーー・家康起ッ ! 」と聞くだけで、諸侯のの両家が干戈を交えるようなことがあっては、ハッキリ天 大半は家康の側につこう。 下は二分する。不快ではあろうが徳川どのと和解ありた その反対に、豊家の子飼いの人たちはどうであろうか。 さなくば、前田家ばかりか豊家にも大きな禍いが及び ひへいこんばい 主力はみな高麗に動員されて、疲弊困憊の極にあり、到底ましようと : 太刀打ち出来る状態にはない : / \ 0 . いつ、 寧々は時々小さく頷いては又耳をすましてゆ それだけに、寧々の、いちばん恐れているのは、家康ち意見をさしはさむと、律義な清正のロを封ずるおそれが に、若し信長死去のおりの秀吉のような覇気を持たれるこある。ここでは寧々は、何の粉飾もない、真実の声と空気 とであった。 をキッチリと肚に入れておきたかった。 家康に秀吉とおなじ覇気を持たれたら、あっという間 「それに、いちばん大切なは太閤さまが、ご臨終前に何故 豊家はどこかへ消えうせよう : あわただしく、徳川どのの孫姫と若君のご婚約をお取決め それを案じて、わざわざ清正に、伏見へ赴いて家康の身 辺を守護するようにと、秘かに頼んだ寧々であった。 167

7. 徳川家康 11 日蝕月蝕の巻軍荼利の巻

「武・ : : ・武人はな : ・ 信を蔵している生きものなのだろうか : 阿松は、利家が、それに依って救われるほどの信仰を身 と、呻くように利家の口から声がもれた。 につけているとはつていなかったが、この期に及んで、 : 武人は : : : 武人は、何でござりまする」 「武人は : このような執念を見せ得る人とも思っていなかった。 : たたみ : : : 畳の上で死のうと考えるは迷し : 迷いであったぞ」 いや、これはたぶん身近に「秀吉の死 : : : 」を見て来て 「えそれは、なぜでござりまする」 いるからに違いない。 秀吉の末路は、哀れに思い惑った老耄の死で、利家がそ「無念だ。その、そのあやまりを犯すところであった : 「殿 ! それは : れを歯痒ゆがっていたのは否定すべくもない事実であっ 三度び、われを忘れて上体を支えようとする阿松を、 ところが、その利家もまた、自から死を迎え取ろうとし「近よるなツ」 こんしん て見て、そこに秀吉と五十歩百歩の、みじめな自分を発見利家はまた渾身のカで押しのけた。 したのではあるまいか ・ : ま : : : 前田利家は、迷わぬ武人ぞ。畳の上で死の : いや、天寿を全うしようなどとは、毛程も思 秀吉の遺児を託されてその前途を見届け得す、遠からずうなどと : わぬ : : : ぶ : ・ : ぶ : : : 武人の中の、武人なるそ ! 」 : その苦悩がつい 世に乱ありと察しながらも生き得ない : その言葉が終わると同時に、また怒濤のしふくようなは に彼の短気な本質へ点火して、今日の鬼気を描き出したの げしい咳であった。 かも知れない。 ( そういえば、殿の信仰は、自力本願の禅であった : 天正の始めごろから僧大透の許に人室し、桃雲浄見と号「近よるなツ。近よるなツ : した良人 : : : あるいはその良人が、最後に自分の迷いを絶 そして、ついに抜きかけた刀をわれとわが咽喉笛に押し とうとして、ギリギリのところで立ち上がった姿かこれなあてようとするのだが、はげしい咳の動揺が、もうそれを のではあるまいか : 許さなかった。 阿松がようやくそれに思い到ったとき、 「近よるな : : : よいか : : : 近よるな」 ろ、フも ; っ 234

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三成は、そこでふとまたお袖の、あの一途な眼のいろをかと思い迷っていたという : : : それが事実なら何とした肩 の荷の軽さであろうか。 思いうかべて苦笑した。 今まで淀の君は、秀吉の死後もまた、秀頼という鎖で、 「もはや動かぬ。この決心は動かぬ」 自分自身にいい聞かせると、本堂から大仏殿の東方まで妻の座、母の座にがっしりと繋がれて身動き出来ない捕虜 午前の陽をはじいて敷きつめられている白砂の道が、こよのような気持ちでいた。 それが、秀頼の将来のためならば、誰に嫁してもよいと なく清々しい生命の流れにさえ見えた。 ( よしツ、わが道はこれでよいのだ ) 淀の君は急にあたりが明るくなり、全身の凝りが解けた ような想いであった。 三成が立ち去って、広い客殿に一人になると、淀の君は そういえば、このものものしい葬儀などというのは、後 もう一度声を立てて笑った。 に残った人々の、心のしこりを解くためのものかも知れな その笑いはしかし、決して三成に見せた笑いと同じ笑い さみ しんらん ではなかった。 昔、みずから非僧非俗の沙弥と称した親鸞上人は、 人には人それそれの異った「顔ーーー」があるように、思 「ーーそれがし眼を閉さば、遺体は加茂川に入れて魚に与 考の対象にも差異があった。 、つべし」 淀の君が三成の言葉でギョッとしたのはほんの一瞬に過と、いい遺したとか。それに比べてあまりに執着の多い ぎなかった。 みじめな秀吉の最期であったが、秀吉が、秀頼の将来のた ( ほんとうに家康は、自分の子の秀頼を狙う恐ろしい蛇でめならば、その母を、他人の腕に布施してよいと考えたと あろうか : 知ることは、ただそれだけで、ポカリと一つ密室に窓の明 そう思った次の瞬間に、淀の君は全く別な解放感で腹のいた感じであった。 底からおかしくなった。 「ホホ : : : それほど愛しい若君を、よう残して死なれたも 秀吉自身で、汐の君を、利家にやろうか、家康にやろうのじゃ」 210

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どこまでも政略ではありながら、これが当時の家康の秘死亡した浦生家では、いもとない。そこで謙信以来武をも 0 はなむ かな良心への餞けであったことは否めまい。 て鳴る上杉家をここに移して、江戸を監視させようという こうして前田家との間のことは目鼻がついた : のであった。 このことは、景勝自身はもとより、家康も三成も、忘れ ようとして忘れ得ることでは無かった。 し、 前田家のつぎには当然毛利家と上杉家の去就が問題にな 力も景勝は、この転封にあつに去平の八月、秀吉危篤 って来る。 の報に接して上京し、翌四年の八月で一カ年間、新しい 毛利、上杉ともに家康の味方とわかれば、石田三成の不領地へ帰り得なかったのだ。 平は爆発ロを見出し得す、ついにそのまま地下で消滅する その当然の結果として、帰国早々城廓の補修やら、道路 より・市〕にあるまい の整備やらに、挙げて没頭しなければならないのはいうま 家康はそれをよく知っているはずであった。しかし、蔔 目でもなかった。 年 ( 慶長四年 ) の八月帰国した毛利輝元にはかくべっ働き その辺の事情は、もちろん家康にもよくわかっている。 かけようとはせず、輝元と前後して会津へ帰った上杉景勝 が、さて景勝が、今後の天下の見通しについて、どのよう には、江戸にある秀忠とともに、しきりに、奥羽の状況をな意見を持ち、どのような努力を傾ける気でいるのかは、 間うてや 0 たり、上方の事情を知らせたりして音信を断たまた ( ッキリとは搬み得なかった。 よ、つこ 0 秀吉の礎石をおいた封建制度が、このまま泰平を維持し 上杉景勝が、謙信以来の居城だ 0 た越後の春日山城から得る状況にない限り、現状維持や、わが家大事の狭い視野 会津に転封されたのは秀吉の亡くなる年 ( 慶長三年 ) の正に立つ見識では、大禄をむさば 0 て共に明日の国造りを語 月であった。 るに足りない器量という他はな、。 秀吉が何を考えて景勝を会津百二十一万九千石に封じた —2 カ大坂から景勝に音信をたたなかったのは、そう かは改めて記すまでもあるまい。 した人物試間の意味をたぶんに持っていた。 隆々たる江戸の繁盛を、北から圧迫させるには、氏郷の その意味では、前田利長は、生母芳眷院の助言もあっ 344

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( これなればこそ、太閤さまも一目おかせられたわけ ( それが、逆に眼を開かせて貰うて居る : : : ) なるほど寧々の言うとおり、秀吉の遺志を蟆索してゆけ えき ふしぎな鋭さでものの本質を見きわめて、いうべきこと ば、当然、秀吉と家康の提携したおりのあの小牧の役のあ はきつばり・といいきるのだ。 との辛苦に行きあたり、さらにその両者を提携せしめた心 「政所さま、清正も心のきまりどころができました。これの中にこそ、最も大きな秀吉の「志 」と「願望ーー」 の秘められていた事に気付く筈であった。 で自信をもって内府に話が出来まする」 「そう無うては叶いませぬ。とゆうて、これからは、わら ( 何という明快な、迷いのない思案の仕方であろうか わも諸事にロ出しは慎みまする」 その思案から出発すれば、豊家と徳川家との関係は、も 「恐れ入りました。みな、われ等の微カから : : : 」 たど 「そして、早よう葬儀をさせてたも。早よう葬儀を済ませはやはっきりと決まっている道を辿っているのに過ぎな て髪をおろし、それからは見まい聞くまい話すまい : だ一、いに、太閤の菩提をとむろうてゆきたいのじゃ」 太閤の歿後は、その義弟に当たる家康が政治をとる。そ そういうと、寧々はまたふっと顔をそむけて庭へ視線をして家康は、太閤の遺志を生かして、実際に天下を治め得 るほどの器量人に後を譲る : そらしてゆく それが、果たして家康の子の秀忠になるか、それとも太 笑っていながらまだまだ悲しみと紙一重の座にいる寧々 閤の遺児の秀頼になるかは、その器量次第というよりな であった。 しかも両者は全くの他人ではなかった。秀忠は朝日姫の 清正は、寧々の言葉によって、眼の前の霧を吹き払われ養子であり、その秀忠の長女は秀頼にめあわされて、その 子たちの代になるとそれは太閤の血筋であり、家康の血筋 た気がして来た。 考えてみると恥しい。女性の政所が迷いの底で苦しむのであるということになる : ( 太閤さまはその辺のことまで深く考えて、秀頼と千姫の を、慰め励ましてこそ男であった。