、つつ」 0 一、御父子身命、異あるまじきこと。 きゅうめし 「これで所領が決り出したぞ。よし、この両隣から書き込 一、虚説等これあるに付ては、糺明をとぐべきこと。 みにかかろうか」 これは独り言のようでもあり、充分四人を意識したうえ 「宛名は : ・ : ・」 のねぎらいのようでもあった。 と、訊かれると、 「いうまでもない。安芸中納言 ( 輝元 ) 殿、毛利藤七郎殿家康はかんたんに太い指さきで眼鏡をふいて、それをか すおう けると、周防の東隣の安芸の広島の広くに、朱で福島と書 ( 秀就 ) そして日附は十日にしておくのじゃ」 き入れ、それから海を距てた筑前に黒田と書いた。 その日はまだ三日であった。黒田長政は小首を傾げて、 いよいよ毛利の処分が決って、家康の構想の夜明けがや 「日附は、十日でござりまするか」 って来たのである 家康はコグリとした。 「この七日間は家康から広家への贈りものじゃ。これがす ぐ届くと、輝元はまだプリプリしていよう。殊によると、 女の意地 その位のものを貰うほどならば切腹したがよいなどという かも知れぬ。が、七日後には涙を流して広家を有難がろ う。毛利家を救った者は吉川広家だったと、はっきり眼が さめ腹に入るのには、七日はかかる輝元じゃ」 そういってから又何かを思い出したように、 京都三本木にある秀吉の北政所、高台院の許へは関ヶ原 「そうじゃ。これだけ思慮のある男じや広家は、この誓書の合戦以来、さまざまな訪客が絶えなかった。 だけではなく、秀忠の墨附も欲しいというやも知れぬ。 甥の小早川秀秋はいわずもがな、これも甥の浅野幸長、 が、それは出さぬゆえお許から、よくよく安心するように 福島正則、黒田長政などが次々に戦況を知らせて来る。い 申してやるがよいそ」 や、そうした豊家子飼いの人々だけではなく、徳川家から 黒田長政にいって、それから誓書に署名と華押を加えて所司代の奥平信昌が見舞いといって来たり、茶屋四郎次郎 おう 3
小早川秀秋は、高台院に愛育された彼女の甥で、伏見城 攻めのおりには、兄の木下俊勝が城内にあるというので、 鳥居元忠に籠城を申入れて断わられた。 まだ二十四歳で、毛利輝元がやって来ぬ限り、西軍の総 帥にあたる宇喜多秀家よりは同じ中納言ながら五歳の年少 よ ) つつ」 0 松尾山は関ヶ原の西南、松尾村から南へ向けて坂道一キ しかし、五歳の差で宇喜多の頤使に甘んじるのは、彼の ロあまりのばった二百九十メートルほどの高さの山であ気位と若さがこれを許さなかった。 る。 改めていうまでもなく、彼は三成を憎悪している。 ふわ その上に、織田信長が、浅井長政と戦ったおりに、不破高麗で勇戦して、勇ましすぎるという三成の告口によっ とりで て所領を奪われ、 河内守光治に築かせた砦跡が残っている。 「ーー大将の器ではない ! 」 頂上の平地は東西十間、南北十二間の狭さながら、その はげしく秀吉に叱られた屈辱感は、それが二十代当初の 中腹にも数段数カ所にわかれて平坦な場所がある。 ここへのばって四方を展望すると、関ヶ原とその周辺は出来ごとだけに、骨肉にしみついた、忘れ得ないものにな っている。 いちばんよく見透せる。 、 2 もくばり 東には桃配山 ( 後の家康の陣屋 ) 北には天満山 ( 小西行それを安泰ならしめて呉れたのは秀吉の死と家康の取り 長の陣屋 ) が見え、垂井から関ヶ原を通って西へ通ずる街なしだった。 したがって彼は今日までに何度も家康に密使を送って、 道と、その両脇にひろがる平地を見おろすには、最上の場 自分が三成よりも遙かに家康に好意を抱いていることを告 所であった。 げて来た。 その松尾山に、九月十四日、当然大垣城に来会し、三成 しかし、家康からは、伏見のおり同様、直接には確かな 等とともに軍議を経て、配備につく筈の小早川秀秋が 手応えはなかった。 千の手勢とともにさっさと陣屋を決めてのばっていった。 尾 山 の 185
「ーー・、・われ等の到着を待って動かれるがよい」 家康の引きつれて出発した人数は凡そ三万二千七百余人 そういって使者を帰した。 四日三島へ着くと家康は馬印を、先に熱田へ持参させ そして、一日の晩は神奈川にとまり、ここで、前記の手 てそこで待てと命令した。別に馬印奉行も付け 紙を、藤堂、黒田、田中、一柳の諸将に出したのである。 ず、小者がそのまま馬印をもって熱田へ向かっ 二日藤沢泊。 三日小田原に泊ると、小早川秀秋からの使者が、永井五日清見寺泊。 直勝の許を訪ねて来た。 六日島田泊。 小早川秀秋がすでに家康に心を寄せているのは家康自身 七日中泉泊。 よく知っていた。むろん彼自身の意志というよりも、伯母 八日白須賀泊。ここへ先手の藤堂高虎がわざわざやっ の高台院 ( 寧々 ) の指教によることも明瞭だった。 て来て、夜半まで家康と密談し、夜明けを待たず しかし家康はこの秀秋の使者は相手にしなかった。 に帰っていった。同じ日に小早川秀秋からまた使 「ーーー・・あれのせがれの申すことなど当てにならぬ。取りあ 者が来た。しかし、この時も家康は永井直勝に、 、つことはない」 宜しく申して帰せといっただけで会わなかった。 それは一見甚だ冷淡に見える。が、ここで相手にする九日岡崎泊。 と、それが西軍側に洩れるおそれがあり、味方が彼をあて 十日熱田泊。この日西の海辺に四、五カ所兵火が見え た。これは西軍側についていた水軍の九鬼大隅守 にする不利がある。その辺の計算の素早さは、これも永年 の経験によるものだった。 が火を放ったという話であった。そういえば熱田 の浜から五、六丁の冲に、紫に白く桐を染め抜い 次に加藤嘉明の使者が来た。これには家康は自分であっ た。嘉明は大山城を守備している。このまま守備してある た幔幕を張った大船が一艘見えた。九鬼大隅守 べきか、それとも進出すべきかという間い合わせであっ は、家康の西下にあって志を変えようとしていた よ ) っ ) 0 ね、 っ ) 0 778
みつぼ 何れが勝利をつかむのか見当もっかなかった・ は、完全に決戦の坩堝と化しこ。 しかもいま、彼の顔面は蒼白となり、額には戦場にある しかも、各部各隊に一進一退の優劣はあっても、全体と しての空気はまだ全く未知数だった。そこで当然作者もま者以上の苦痛をにじませた膏汗が光っている : 赤座の諸 た、この戦の勝敗の鍵を握る二つの山、松尾山と、南宮山 すぐ眼の下に備えた西軍の脇坂、朽木、小川、 の状況に筆を転じてみなければなるまい : 勢はまださして動こうとする気配はない。 いうまでもなく、彼等は大谷吉継の旨を受けて、山上の 秀秋を監視しているのである。 この監視は秀秋もはじめから覚悟の前であったし、彼の 小早川秀秋の陣取った松尾山は、彼の予期したとおり、 この決戦の観戦場としてはまことに申分のない絶好の眺望家老たちも充分これを知っていた。 台であった。 しかし、その監視の他に、いま彼の身辺には、全然彼の 朝霧の晴れた瞬間から、手にとるように両軍の動きが見予期しなかった、もう一つの監視者が白刃を擬して来てい 3 2 るのだ : えた。 その一人は家康が家人の奥平藤兵衛貞治であり、もう一 誰がどのような士気をもって進出し、誰がどのような思 人は、黒田長政の家臣の大久保猪之助であった。 惑で進退しているかまで、はっきりと見てとれる。 小早川秀秋は黒田長政のすすめに従って、伯母の高台院 したがって、ト / 早川秀秋は、充分に自分の先見を誇り、 鞍壺をたたきながら、一次元下の、下界の人間どもの無智を裏切るようなことはないと申送った。したがって小早川 な死闘を嘲笑し得る筈であった。ところが、現実は必らず秀秋東軍内応の仲介責任者は、いま、三成勢に向って必死 しもそうではない。 の攻撃を繰返している黒田長政ということになっていく。 その長政が約東を違えられてはと、監視の刺客を陣中に ここから見ても、双方の勢力は互角に見えるということ が、すでに何という皮肉な中立主義者への餞けであり贈物送り込んで来ようとは、狡猾に考えぬいた中立主義者も考 であったろ、つ ? え及ばなかったのだ。 それも監視の刺客は、黒田長政の派遣して来た大久保猪 事実巳の刻 ( 午前十時 ) すぎになっても、彼にはまた、
実父の光秀の事作以来、つとめて世俗の交わりから身をう嫁いでいた。そっと机上の書物を手文庫に納めて、大人 引いて、信仰たけを見つめて生きて来ているせいで、そのは客の到着を待った。 もともとちゃうこん尼は、同じ信仰を持つ者として、時 」しぎな清楚さが加わり、せいぜい三十になる 容姿には、、 折ひそかに夫人のもとを訪れてはいたのである。 かならぬかの若さに見えた。 「これは早朝からお邪魔申し上げまする」 それが、机上に香を燻らせながら鵝毛のペンでポルトガ 霜女のうしろから、これも四十にちかい尼はいつになく ルの国語を横書きしながら、時々首を傾けて、ふっと何か きびしい表情で入って来ると、同行して来たもう一人の女 考え込む : : : 眸のすみ方がこの世のものではないようたっ 性を夫人にひき合わせた。 「これは京から今朝の船でお着きなされた、高台院さまの 侍女でお袖さまと申されまする」 「奥方さま、ちゃうこん尼様が、高台院さまのお使いと申夫人にはむろん始めて見るお袖であったが、尼はそのお 袖にさして口を利かせなかった。 し、お見舞に参られましたが : 「実は、治部少輔さまが、この大坂の城へお入りなされた 侍女の霜女に取次がれてお珠の方は首を傾げた。 : いや、間もなく毛利さまもお入りなさるご予定とござ かくべつ病気というではない。見舞という言葉がちょっ りまする」 と不審にひびいた。 夫人は黙ってうなずいた。 「お見舞と、たしかに申されてか」 良人とひどく仲の悪い三成が、城へ入って来ると聞くだ けで、凡そのことは察しがつく。 「では留守見舞の意味かも知れませぬ。お通し申すよう 「それにしても、京におわして、高台院さまは、なぜそれ そういえば良人忠興は長子忠隆、次子興秋の両人とともをご存知なのであろうか」 こ見えたとか。 「はい。金吾中納言が、そのことでご相談 に出征していたし、三子の忠利は江戸に質となっている。 なあお袖どの」 他に二人夫人の産んだ娘があったが、それ等は何れもも
或いは長盛は、それを洩らせば相手が事の重大さに怖え に検分致し、・生き残った者どもの話も仔細にただしてござ て、却って素直に人質になるという甘い解釈をしてしまっ りまする」 たのかも知れない。 「人質のことが、意外なところから洩れたと申すか ? 」 「これからいよいよ重大な時期になる。味方のことは、手 「はい、その一人は増田長盛さま、いま一人は : : : 恐れな がら高台院さまでは : : と、存じまする。とにかく、高台落ちも、人柄も、よく知っておかねばならぬ。そなたの調 べて来たままを、落ちなくそこで話して見よ」 院さまのお手許から、ちゃうこんと申す切支丹の者らしい 「かしこまり・きした」 比丘尼と、お袖さまとが連れ立って、時候のお見舞に参ら 安宅作左衛門は、暫らく眼を細めてどこから話そうかと れたのが、十三日の朝のことにござりまする」 「なに、お袖が使いしていると申すか」 思宋をこらし、 しかし、これは、なるべくおだやかに人質「これは、ただ一人生き残って、身をかくそうと致して居 りました、奥方ご側近の侍女、霜女と申すものの話でござ を差出すように、と申されたのかも知れませぬ」 「同じ」とじゃ りまするが : と、三成は叱りつけるように叫んでおいて、 と、慎重に口を開いた。 「話せ ! 詳しく話せ。そうか、右衛門大夫からも洩れて いたのか」 七月十三日 語尾を低いっふやきに変えて舌打ちした。 明智光秀という、世に容れられぬ父を持って、今では切 増田長盛が、どこかに煮え切らぬ日和見の癖のあるのは支丹の信仰に一筋の救いを求めて生きぬいている細川忠興 よく知っていた。 夫人のお珠の方は、その日も朝の礼拝を済すと、自室でひ それだけに、、加藤 ( 清正 ) などの奥方は、相手に っそりとフレール・ワンサン師に贈られた聖書をひもとい 思案の隙を与えす、もし悟られそうと見たら、淀の方の名ていた。 きき、、フ で、本丸へお茶に招き、そのまま監禁するようにと話して かって信長に桔梗の花と呼ばれた勝気な美才女も、いま あったのだ。 ては三十八歳になっている。 7 7
開始したのだから、不意を衝かれた大谷勢の混乱は想像に出来なかったといえそうだ : 余りあった。 疑いながら信じようとし、信じようとしながら疑念を捨 味方が敵に寝返っただけではなく、その敵が最も優秀なて切れすに。 武器をかざして大谷吉継の旗本に襲いかかって来たのだ それが最後に、自分に数倍する兵力で、自分の上にのし かかって来る敵になろうとは : どう考えても勝味はなく、勝味がないだけに口惜しさは 大谷吉継はその時、小早川勢の鉄砲の数とおなじ六百人 肓に ~ めった 0 格別だった。 の兵を従えて中山道のヨー 秀秋さえ無くば、吉継は、業病の身の最後の一戦を、家 彼は、家康側から松尾山へ筒先を向けて発砲したと知っ たときから、 康の本陣に斬り込んで華々しく飾ってゆけたものを : や、始めからそうする気で、三成の友情に殉する覚悟を決 ( これで秀秋は裏切ろう : : : ) 秀秋の立場もまた哀れなものた : : : そう思おうとっとめめた吉継だったのだ : て来た。 ところが今日の戦は目の見えない彼の肉体同様、一度も 2 所詮人間の背負わせられて来ている連命の荷には、さし彼に思うような攻勢を取らせなかった。 て大きな開きはない。自分が癩という業病を背負ってこの彼が攻勢を取って動き出すと、秀秋が寝返る : : : 秀秋を 戦場に立たなければならなかったのと同じように、秀秋も寝返らせぬためには、まだまだ動いてはならないのだと また、秀頼と家康、淀の方と高台院、三成と毛利一族など の間に立って、苦しい締木にかけられて来ているのたと ( その自重の果てが、動かぬままに秀秋の餌食に供される ことになった : : : ) そう思うと、彼の怒りは火を噴きだした。 ところが、その秀秋が、自分の本陣へまっしぐらにかか りぎぬ って来たとなると、その理性はいちどに憤怒に激変した。 彼は四方を取放した手輿に乗り、練衣の小袖を重ねたう よろいひたたれ 考えようによれば大谷吉継はどの武将が、この大事な決えに、白羽二重の墨で群蝶を描かせた鎧直垂を着て、朱の 戦場で、 小早川秀秋のために戦力を封殺され、全く身動き佩楯に朱の頬当をしていた。甲胄をわざとおびず、浅黄の
ただ安国寺恵瓊たけは、何を考えていたのか後に一人で 親は、池財勢と浅野勢にじりじりと圧迫されながら も、この時まで山上の毛利勢の去就を判断しかねていたら南宮山の秀元の本陣〈戻 0 て来た。 し、 或いは、敗戦の責を負って、秀元と一緒に切腹するつも しかし毛利家では、すでに東軍 りだったのかも知れない。 ところが関ヶ原に放ってあった家臣の吉田孫右衛門が、 との間に和議が出来ているからといって相手にしなかっ 島津勢の退却によって、西軍の影は関ヶ原附近になくなっ しやもん た。そこで恵瓊は武装をといて一人の沙門として又そうそ たという報告をもたらして来たのである。 うに身をかくした。 同じころに長東正家の陣屋へも西軍完敗の知らせが入っ 戦場はおびただしい血潮と悲喜を冷たくつつんで暮れか 正家が徒歩で三成の許へ連絡にやった使者が、もはや石 その薄暮の中を、家康の濡れた金扇の馬印が、整然と藤 田勢の本隊はどこにも存在しなかったという報告をもたら 川を渡って西の高台に進められた : して来たのである。 長曾我部勢が先を争って退きだし、長束勢がこれになら って崩れだすと、皮肉なことにはじめて山上の毛利勢はい 勝者の陣 っせいに鬨の声をあげていった。 この鬨の声が、何を意味したものかは知る山もない。 毛利勢の中には東軍の勝利をよろこぶ者の数が、西軍の 勝利を希う者よい遙かに多かったのだから、これで戦は終 ったという歓呼であったのかも知れない。 慶長五年九月十五日 むろん鬨の声だけで兵は動かさなかった。 未明から行動を起した東軍の総帥徳川家康は、予定より その前に安国寺勢は逃走をはじめていて、伊勢路への山も二刻半おくれて、申の下刻に関ヶ原の戦を勝利のうちに 道にはそこここにおびたたしい武器や武具が捨ててあっ 終自 5 せしめた。 藤川台に陣を移した家康は、もう爪を噛んではいなかっ さる 268
袖の心が安らぎそうな気はしなかった。 お袖は三玄院に和尚を訪ね、三成の影塔を建てて呉れる ( あの人の決意の蔭で、その父も、兄弟も、妻子も、みな ように頼んで、寺内の片すみで、自分も三成の後を追う気 この世から去っていった : : : ) であった。 いや、肉親たけではない。前後の戦を通じて何万という 三成はそれを叱るかも知れない。いや、無視してさっさ じゅそ 人が、或いは泣き、或いは怨み、或いは呪咀しながら、 と一人で歩いてゆくかも知れない。それでもよいとお袖は とにかくこの世から姿を消していったのだ 思った。お袖も又、黙ってツンととり澄して、あとをつい それなのに、お袖は、その事実から眼をそらし、耳を蔽て歩いてみせなければ意地が立たないのだ。 って、平気で生きてゆける女だったのだろうか : どこをど、フ通ったか ? 若し淡々と悟りすまして、みんなの菩提を弔うといい出 とにかくもうお袖の目から三成は消えないものになって したら、もう一人のお袖がこれを許しておくであろうか。 いる。彼女の前をいまも現に胸をそらして歩いている。お お袖が起ちあがったのは、空の星が美しく北風に洗い出袖はそのあとをどこまでもついてゆく : ・ : ・ されて来てからだった。時刻は考えてもみなかったし、も 大徳寺のある大宮村に来たときにはもう道の草に露がお 3 う頭の中に、自分の帰りを案じていて呉れるであろう高台りていた。山門の金毛閣の扉はきびしく閉されて、あちこ 院の姿もなかった。 ちに棟を並べた子院も堂塔も墓も草木も眠っている。その あるのは、胸を張って首の座に近づく三成の顔と、その 閉した門の中へすーっと三成は煙のように吸い込まれた。 三成が、案外おとなしく教えを聞いていた、大徳寺三玄院と、お袖は急に考えを変えた。もはや三玄院の長老に会 の宗園和尚 ( 後の国鑑国師 ) の顔であった。 う必要はない気がした。そんな小さなことよりも、自分は 和尚の顔を何うして一緒に思い出したのか ? 思い出し三成を追わねばならぬ : : : そう思 0 て、急いでの前に坐 た時に、しかしお袖は起ちあがっていた。 って、懐剣の紐をといた。 覚悟が決った : : というよりも、それは当然そうしなけ そして、それを豊かな乳房の下に突き立ててから、これ れば、お袖の中に棲まうもう一人のお袖の意地が許さない が「愛。ーー」なのではあるまいかとかすかに思った : からであったが :