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検索対象: 徳川家康 12 続軍荼利の巻関ケ原の巻
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1. 徳川家康 12 続軍荼利の巻関ケ原の巻

七 黒田長政だけはその頃まだ戦列に加わっていなかった。 中山道にいちばん近い位置で福島勢と宇喜多勢とが、一 黒田長政の三成に対する憎悪は並大抵のものではなかっ 進一退の戦を続けているころに、いちばん北の笹尾に陣取た。長政もまた幼時は秀吉のそばにあって、寧々夫人に親 っている西軍の石田勢はいったいどのような戦を展開してしんで来た一人であったが、三十三歳の長政と、四十一歳 いたであろうか ? の三成とは年齢の差もあって、若いおりから事毎に感情の 笹尾が北国街道の北に位置し、それを最初から狙ってい反撥を重ねて来ている仲であった。 たのは黒田長政の軍勢と竹中重門の軍勢であったことはす 双方とも太閤の子飼いながら、長政の眼に映った三成 でに書いた。 は、陰険で、年長の威を鼻にかける小意地のわるい男だっ そして、更に田中吉政が、島津勢の前を素通りして石田たのだ : 勢の方へ進みだしたことも記した。 それが高麗の戦で反目し、帰って来て反目し、ここでは 9 2 石田三成は、自分の位置する笹尾の本陣と、前衛部隊の遂に敵味方として戦場で見えることになったのだ。 、といえ 島左近勝猛、蒲生備中守郷舎の間に二重に柵を構えて、 彼がわざと相川の北に離れて陣を構えたのは、すでに深 い考えがあってのことであった。 島、蒲生の両部将をその柵の前面に出していた。 この柵は三成が敵の来襲に備える意味だけではなく、こ 石田勢の二重に構えた柵門から射ち出される鉄砲をまと こに鉄砲を掛けおいて、その命中率を的確ならしめようと もに喰ったのでは犠牲が大きい。 いう用意でもあった。 恐らく彼は肚の中で三成の戦法を嘲笑っていたのに違い そして、ここでも東軍は、隣に陣取った島津勢と井伊勢ない。 の間に戦闘が開始されると、直ちに田中吉政に続いて、生「ーー・・・戦になってみよ。うぬとおれでは腕も経験も格段の 差があるのだぞ」と。 駒一正と金森長近をして石田勢に向わせた。 したがって最初の火蓋は、石田勢の先鋒、島、蒲生の両彼は昨夜のうちに屈強な特別鉄砲隊を十五人選りすぐっ 隊と、東軍の竹中、田中、生駒、金森の四将の間で切られて、それにきびしい内命を与えていた。 あざわら

2. 徳川家康 12 続軍荼利の巻関ケ原の巻

「いまあの城の内にあるは、宇喜多中納言秀家、小西摂津に翼をひろげてあった東軍の布陣のうちへ、いよいよ指揮 守行長、石田治部少輔のほかに福原右馬助等が入ってござ者の姿が現われたのだからその動揺が小さい筈はなかっ りまする」 そう言う直政の報告にきっとした表情で頷きながら大垣 城の方へ、馬印の金扇をはじめ、紋所の入った大旗七流 石田三成は、大坂を発つおりに、 れ、白地の二田町、折掛け二十本を並べ立てさせた。 たとえ十人の家康がやって来てもいささかも恐れる すでに夜半に発って来ていた鉄砲衆、使番衆などは、家「 康よりも一足先に到着して、陣の前後はきびしく固められものではない」と、豪語していた。 べんたっ ている。 むろんそれには味方鞭撻の意味もあったが、さりとて決 この家康の到着はいったい西軍にどのような影響を与えして口先だけのものでもなかった。 ていったか : : ? 当然大垣城からもまた、この岡山の陣 内心では絶えず家康が、何時目の前に出現するかを警戒 営は望見出来る筈なのである。 しながら、一方では、逆にそれをあり得ぬことにしようと いや、彼等は、家康の到着以前から、あたり一帯に大き して心肝を砕いていた。 く翼をひろげて見せた東軍の士気はくわしく探り得ていた 上杉景勝、佐竹義宣、真田昌幸等が東にあって挑戦して ゆく限り、家康は西へは向い得まい。その間に毛利輝元を 、キ - かいゾ」、つ 先海道の北の山手には、加藤嘉明、金森長近、黒田長誘い出して東軍を混乱におとし入れる : それは、彼の希望でもあり策戦の基調でもあった。した 政、藤堂高虎、筒井定次と展開し昼井村には細川忠興が陣 がって、彼は、東軍が俄かに行動を起して岐阜を攻め、赤 を張り、同村の東、大墓には福島正則。勝山の北の手には 楙原康政、井伊直政、本多忠勝、京極高知。西牧方には堀坂に迫ったときも、狼狽はしながらも、まだそれが、見え 尾忠氏、山内一豊、浅野幸長。荒尾村には池田輝政、同長ない位置から振られてゆく家康の采配であろうとは思って し / , 刀ュ / 吉。長松村には一柳直盛。東牧野には中村一忠、同一栄、 その三成の思惑を自信づけるように赤坂とその周辺に進 有馬則頼。磯部宮には田中吉政 : : : その他が、見渡す限り たんちょう 783

3. 徳川家康 12 続軍荼利の巻関ケ原の巻

そして、その退却の知らせは、いよいよ東軍進撃の足を の目は逆になった。 投げて素手になった勘兵衛が、投げられてわたり合おう速める結果になる : 戦機のうごきは、個人々々の運不運を織りまぜながらい と繰出した五右衛門の槍尖に、われとわが身を投げかける ったん大きく動きだすと、それは襲来する台風や洪水と同 ようにして突かれてしまったのだ : 」を帯びて来る。 じ性質の「勢い 「ーーー杉江勘兵衛が討たれたそ」 退く者も進む者も、それがどうしてこうなったかなど考 「ーー・ - ・勘兵衛ほどの豪の者が : : : 」 それは、ともすれば浮足立とうとしていた石田勢の敗勢えてゆく暇もなかった。あっという間に位置を変えて次の 静止の場を迎えている。 を決定的なものにした。 そして逆に、田中勢、黒田勢の先を争う進撃を誘い出「ーーー藤堂勢が、赤坂に向ったぞ」 し、更に合渡川の下流をわたった藤堂高虎を、一挙に赤坂「ーー、・・おくれを取るな。今日の宿営は赤坂じゃ」 田中、黒田の両勢が、呂久川 ( 揖斐川 ) に迫り、進路を まで進撃させる結果になった。 赤坂と大垣は目と鼻の間であった。ここまで東軍に進出赤坂へ向け変えたときには、もう彼等の前の石田支隊はお されては、いったん大垣城を出て、墨俣に陣取っていた島びただしい手負いと共に雲散霧消してしまっていた。 津義弘も、沢渡に出ていた石田三成の本隊も、急遽大垣城そうなると、岐阜城を落した福島、浅野、池田、細川の まで引きあげなければならなくなる。 諸勢もまた、綽々とした余裕を見せてみなの後から進み得 うつかりしていて退路を断たれたらという不安が濃くなる。 こうして二十四日には、東軍は大垣を左に見る赤坂に結 るからで、むろん藤堂高虎はそれを狙ったのだ。 「ーー合渡では田中、黒田に先を越された。赤坂はわれ等集し、その戦勝を堂々と江戸に報じた。 考えてみると、まことに奇怪な戦であった。いったん動 の手で : : : 」 浮足立 0 た石田勢の退路を斜めに切 0 て、藤堂勢が赤坂き出すと、これだけの実力を持 0 た豊臣恩顧の諸将が、つ をめざして進みだした頃には、沢渡の三成も墨俣の島津義い五日前までは、家康が西下しなければ戦い得ないものの ような錯覚に陥って、いらいらと口論を繰返していたのだ 弘も、もはや、ここでの決戦の無益を知って退きだした。

4. 徳川家康 12 続軍荼利の巻関ケ原の巻

「みな、城は出たのでござるな」 三成はすでに長東正家と安国寺恵瓊には会って来て、 「仰せの通り、第一に石田隊、第二に島津隊、第三に小西 隊、第四に宇喜多隊の順序で出払いました。これほどまたる。したがって、これから訪れるのは、小早川秀秋と大谷 吉継の陣屋であった。 ひどくは降って居らなんだので : : : 」 ( 今更、何のために : 「それで安堵、ではそれがしも発っと致そう」 そうした長堯の視線を浴びながら、三成は席を立って、 「でも、この降りでは : 秋雨の中へ黙々と馬を曳かせた : 長堯は三成が、雨を避けて夜明けに発つものと思ってい たらしノ、、 「すでに寝所の用意は致してござりまするが」 東軍進発 と、小声でいった。 「原どの」 三成は依然微笑を消さずに、 「三成は頼れぬ者であったような。今迄はの」 石田三成が、小早川秀秋の陣屋を訪れ、秀秋の老臣平岡 「は ? それは、何のことでござりまする」 「おわかりなさらねばそれでよい 。しかし、今日はみな頼勝に面会して、明日の戦略を告げ、烽火を合図に東軍の 腹背を衝くよう固く約東して、山中村にある大谷吉継の野 に、最後の詫びして廻らねば相成らぬ」 陣に向った頃から、雨脚はようやく細くなった。 「詫び : : : でござりまするか ? 」 「詫び : : : そうじゃ。」 すでに子の刻 ( 十二時 ) はまわっていたが、大垣を発し 刎の言葉でいえば督戦 : : : とにかく た諸勢はまだ行進の途中であった。 諸将の陣屋を訪れて、家康が関ヶ原へさしかかり、狼火が 最初に大垣を進発して、北国街道を扼すべく、小関村に あがったら躊躇なく攻めるよう頼んで廻るが、わしの勤め 向った石田勢は、九ッ半 ( 午前一時 ) に関ヶ原駅を過ぎ、 その言葉の意味は、福原長堯にはそのまま通じた様子は着陣を終ったのはすでに八ッ半 ( 午前三時 ) であった。 よ、つこ 0 209

5. 徳川家康 12 続軍荼利の巻関ケ原の巻

西風競わず 関ヶ原の巻 静かなること 戦端開かる 見えぬ采配 松尾山の眼 石田草 東軍進発 火蓋切らる 一三九 一五四 一九七 二〇九 一三〇

6. 徳川家康 12 続軍荼利の巻関ケ原の巻

を睨んでゆく尉風の眼になった。 それ等の人質が、家康の到着を知って武士以上に狼狽し たのはいうまでもないに ~ 「よし、これでよかろう。あとはおれの知ったことではな いっそ死ぬならばこの城 い。どちらが、どのような戦をするか、愚かな大将は黙っ に火をかけて : : : などといい出す者さえあるほどで、 てじっと見てゆくまでじゃ。、、・ : さ、冖郷って休も、つ とにかく、敵状を探りながら、出来得れば一泡吹か ぞ」 せて、味方の士気を盛上げておかねばならぬ」 その頃から 、いったん雲が切れて星影をのぞかせていた 三成が、戦巧の老臣、島左近に前哨戦を命じなければな 空は、また、暗く細雨を含んで来た。どうやら明日は霧のらないほどの事態であった。 深い夜明けになりそうな関ヶ原近辺の天候たった : 島左近は、三成が、こうした日のために二万石という大 禄を給して抱えてあった筒井家の浪人で、当時兵法日本一 と称された柳生石舟斎宗厳などとも親交があり、野戦の駈 石田草 引では達人の噂が高かった。 その島左近が、同じ石田家の老臣蒲生備中と共に東軍の 中村隊に誘いかけ、前哨戦では互角以上の戦をして引揚げ て来たのであったが、城内の不安は去らなかった。 「ーー・ー全滅させて来ると豪語して出てゆきながら、あんな 大谷吉継が、ひそかに小早川秀秋を説きに松尾山をめざ に負傷者を出して戻って来たではないか」 している頃 このありさまでは籠城になろうぞ」 大垣城内では、敵の手応えを探りにいった前哨部隊が、 「ーー・・・町を焼かれたうえ、ここで蒸し殺されるのか。島左 相当の手傷を負うて薄暮の中を帰って来たのでごったがえ していた。 近、蒲生備中といえば、石田家の両翼といわれるほどの侍 この城の主は伊藤盛正。盛正は東軍の諸将が赤坂へ布陣大将、それがあの有様では : した時から、敵との通謀をおそれて、城下の主だった町人「 これは巧々と内府の謀略に乗せられたのじゃ」 「ーーーそうらしい。みな、内府はいま、奥州で上杉勢と戦 達からまで人質を徴して城へ入れていた。 197

7. 徳川家康 12 続軍荼利の巻関ケ原の巻

めて家康のかくれた一面にふれ、心服の度を深めた分に違ふっと大きな不安を覚えて、すぐさま使番の湯浅五助を呼 し / し び出して、三成あての手紙を認めるように命じていった。 二十七日小田原、二十八日藤沢、二十九日は江の島鎌倉越前敦賀五万石を領し、現在奉行でもある大谷刑部少輔 見物 : : : そして、家康が続々諸将の馳せ集る江戸へ入城し吉継は石田三成には友情以上の恩義を感じている。 たのは七月の二日であった。 彼が十六歳で秀吉に召出されたとき、その推挙人は三成 であった。秀吉が中国征伐中のことで姫路の城にあるとき だったが、その時豊後からやって来て、三成のロ添えで才 かんばっ 破滅の真理 気煥発の資性を買われ、百五十石の側小姓になったのが世 に出るいとぐちだったのだ。 それ以来、吉継は陰に陽に三成を助けて来た。そして、 こんどの出陣に当っても、出来得れば彼と家康を衝突させ 千人あまり 大谷刑部少輔吉継が、家康の命にしたが、、 たくないと念願していた。 の兵を引きつれて、越前の敦賀を出発したのは六月二十九「よいか、わしの言うとおりに認めよ。いま治部どのが内 日であった。 府にさからうのは、みずから破滅の淵へ身を投ずるに等し たるいじゅく い・ものじゃ」 そして途中三泊、七月二日に美濃の垂井宿に到着する と、そこで出会う筈の石田三成の伜の隼人正を待った。 すでに吉継は癩のために視力を無くしていた。が、その き・んじ 三成は謹慎中ゆえ東行しない。 : 、 カその代りに伜の隼人分別も胆力も秀吉に熱愛された頃の、麒麟児の面目は失っ 正を、大谷刑部少輔吉継の手につけて出陣させると、三成ていなかった。 はわざわざ家康に申出てあった筈なのだ。 湯浅五助の墨をすりながす音がやむと、吉継はかすれた したがって隼人正のひきいる石田勢は垂井に先着してい声で手紙の文面を口述しだした。 て、大谷勢を待っているものと信じていた。 この度び貴殿は会津表へお越しなされぬ由にて、内 ところが、まだ隼人正は到着していないという。吉継は府の御供にはご子息隼人正を名代として差出すよう承り居

8. 徳川家康 12 続軍荼利の巻関ケ原の巻

こうなると石田勢は機先を制されて、それぞれ豪勇で鳴戦場では疲労に対する労りはなかった。呼びとめられて そのまま退くことも戦国武将には許されない恥辱なのた。 らした部将たちながら、受身の不利は避け得なかった。 いかにもわれは杉江勘兵衛、してそこ許は」 舞兵庫はいわすもがな、もと稲葉一鉄の家臣で、姉川の 戦に高名した杉江勘兵衛も、森九兵衛も、名だたる戦上手「ー・・・・田中吉政が家人、西村五右衛門」 よしツ。参るそ」 こ当ろ、つとする暇もなかった。 ながら誰が誰、 もう尋常にわたりあっては槍先が下るほどの疲労であっ そこへ東軍の三隊は切ッ先揃えて突き入った。 石田勢はせいぜい千人 : : : それなのに次々に川を渡ってた。それを知って、勘兵衛はいきなり自慢の朱槍を五本衛 門に投げつけた。 来る東軍の数は未知数だった。 岐阜の戦況如何によっては、更にどれだけ後続部隊がや「ーーおう : 五右衛門は、参るという相手の言葉に、大きくうなずい って来るか : たのだが、それが、生死のわかれ目だった。唸りを生じて その不安は攻める側の陽気さに反比例してのしかかる。 だく 飛来した槍は一諾して下げた西村五右衛門の兜のひさしを 石田勢はじりじりと後退しだした。 押す者と押される者の心理の差 : : : それに加えて、戦場抜き、頭上の皮を引き裂いてうしろに飛んだ。 と同時に、五右衛門の槍は深々と勘兵衛の脇腹を刺し貫 の空気にもっとも大きく影響する銃戸が、東軍は次第にふ いていたのである : えてゆくのに、西軍はまばらになった。 そこへ、部将三人のうち、いちばん勇名の高い杉江勘兵 四 衛の討死が伝わった。 きっぜん 個人々々の運不運の網の目は戦場にも張られてあった。 杉江勘兵衛の九尺柄の朱槍は、それが屹然と立っている 杉江勘兵衛の万死に一生を賭けた投槍を、まともに喰っ だけで、味方の士気に磐石の重みを加えていたのだが、そ の勘兵衛も、槍の柄まで真赤に濡れた頃になって、田中勢ていたら西村五右衛門は声も発て得ず落馬して果てたに違 し / し の西村五右衛門に呼びとめられたのだ。 それが僅かに大きく首を動かして頷いたばかりに全然 「ー・・・・・名あるお方とお見受け申す。返し合い候え」

9. 徳川家康 12 続軍荼利の巻関ケ原の巻

どのようなことがあっても、わしのそばから離れて 島勝猛は家康が兵法の師範としている柳生石舟斎宗厳と は相成らぬ。わしの身辺にあって、わしの指導に従うの交りの深い知友であり、蒲生郷舎は以前に蒲生氏郷に仕え てその勇名をうたわれ、氏郷に蒲生の姓を許された剛の そして、彼は、今暁開戦までじっと石田の陣を睨み続け者。戦場の駈引きでは彼等は、三成の両腕というよりはむ しろその師であったといってよい。 それだけに、彼等は最初の寄せ手などはさして間題にし 石田の陣は前面に柵を二重に構えさせただけではなく、 右手の北国街道には、吉継の子の大谷大学と、秀頼の旗本ていなかった。 きほろ おそらく田中吉政父子も、生駒も金森も、軽くあしらい で大坂城から連れて来ている弓銃隊、黄母衣隊をおき、北 ながら二重柵に引きつけて、そこで鉄砲のつるべ打ちを喰 方は相川山というどこまでも厳しい備えであった。 その秀頼の旗本を身辺におくのも、長政にとっては片腹わせて全滅させるつもりだったに違いない。 黒田長政はそうした彼等の意図を充分に察知していた。 痛い僣上に想えた。 それなればこそ遠く石手を迂回して、いきなり青塚にある 2 ( 万一のおりには北国街道を遁げる気らしい : 遁がすものか、きっと首はこの手で挙げてみせてやるぞ島勢の左脇腹を衝こうとしたのである。 「まだ撃つな。そして離れるな。わしの側を離れて、敵将 : そんな気負いで待っていた長政は、前面で両軍の間に 撃ち合いが始まると、相川の北からそっと行動を起して石の首を挙げたとて手柄とは認めぬそ」 相川の向うから、充分に島勢に接近して、引添えてあっ 田勢の側面にまわっていった : た十五人の中から鉄砲頭の白石庄兵衛と菅六之助を呼んで 命じた。 石田勢の先鋒、島左近勝猛と蒲生郷舎とは共に今日の戦「鉄砲は、いま何程 ? 」 「はツ。百五十挺はござりまする」 のために三成が高禄を惜しまず抱えてあった猛将だといっ 「よし、そのうち五十挺を選りすぐって島の本隊を狙え。 てよい。 一弾必ず一人を倒すつもりでかかれ」 島勝猛には二万石、蒲生郷舎には一万石。

10. 徳川家康 12 続軍荼利の巻関ケ原の巻

らねばならぬものと決めていた。 わが備えの前をよぎって、そのまま石田勢へ向っ ここで彼が、どれだけの手柄を立て得るか ? それはそ て居りまする」 のまま豊臣家の将来と運命にひびいてゆく。若しその働き 義弘はコグリと小さくうなすいた。 やはり家康は曲者だった。最初の備えは、ものの見事にで徳川家譜代の諸将に劣ったのでは「福島正則・・・ーー」の面 流動し変化する見せかけだったのだ。当然石田勢へかかる目も発言権もぐっと縮小されてゆくのだ。 その覚悟で自から最前線へ進出すると同時に、祖父江法 ものと田 5 っていた、 細川、加藤、稲葉の三隊が自分の方へ 向きを変え、自分に備えていると思った田中吉政は、さっ斎を斥候長に立たせて敵の間をコマ鼠のように駈けめぐら せ、情報の蒐集につとめた。 さと島津勢の前をよぎって石田勢にかかってゆく : すると、細川や加藤と並んであった一柳や戸田、浮田誰がどの方面に何刻に着陣したか。 誰のもとから、誰の陣屋へ、誰が使いしているか ? ( 直盛 ) などが、小西行長にかかってゆくに違いない。 祖父江法斎は、時にそれら西軍間の使者の脱糞までいち ( まだまだ動くときではない : 6 いち手で握りつぶして、その温度によって往復時刻の報告 2 今日の戦で、大垣籠城を考えていたらしい小西行長が、 どう動くかも義弘の大きな関心の一つであった。これも三の正確さを期したという。 成に簡単に意見をしりぞけられている。その不満が、勝味そして、まっ先に第一砲を放って戦機をうかがっている ときに、井伊直政と松平忠吉に前進されたのだ。 なしと見てとると、さっさと陣地を捨てさせそうな気が、 むろん彼としても、直政や忠吉の先駆が、何を意味して 朝鮮以来の戦ぶりを見て来ている義弘にはしているのだ : いるかわからぬほど平静を欠いてはいなかった。 : こうして開戦半刻、島津義弘はまだ微動もしない。その 義弘と正反対の性格をもった福島正則は、すでに宇喜多勢彼は可児才蔵に直政が忠吉を伴って斥候に出たと聞かさ れたときに、 めざして猛烈な白兵戦に突入しているというのに : 「ーー・・それが斥候であるものかツ」 五 床几を蹴って起ち上がった。怒髪天を衝くという言葉 が、びったりあてはまる正則の憤怒であった。 福島正則は、この日の戦の主導権は是が非でも自分が握