七 黒田長政だけはその頃まだ戦列に加わっていなかった。 中山道にいちばん近い位置で福島勢と宇喜多勢とが、一 黒田長政の三成に対する憎悪は並大抵のものではなかっ 進一退の戦を続けているころに、いちばん北の笹尾に陣取た。長政もまた幼時は秀吉のそばにあって、寧々夫人に親 っている西軍の石田勢はいったいどのような戦を展開してしんで来た一人であったが、三十三歳の長政と、四十一歳 いたであろうか ? の三成とは年齢の差もあって、若いおりから事毎に感情の 笹尾が北国街道の北に位置し、それを最初から狙ってい反撥を重ねて来ている仲であった。 たのは黒田長政の軍勢と竹中重門の軍勢であったことはす 双方とも太閤の子飼いながら、長政の眼に映った三成 でに書いた。 は、陰険で、年長の威を鼻にかける小意地のわるい男だっ そして、更に田中吉政が、島津勢の前を素通りして石田たのだ : 勢の方へ進みだしたことも記した。 それが高麗の戦で反目し、帰って来て反目し、ここでは 9 2 石田三成は、自分の位置する笹尾の本陣と、前衛部隊の遂に敵味方として戦場で見えることになったのだ。 、といえ 島左近勝猛、蒲生備中守郷舎の間に二重に柵を構えて、 彼がわざと相川の北に離れて陣を構えたのは、すでに深 い考えがあってのことであった。 島、蒲生の両部将をその柵の前面に出していた。 この柵は三成が敵の来襲に備える意味だけではなく、こ 石田勢の二重に構えた柵門から射ち出される鉄砲をまと こに鉄砲を掛けおいて、その命中率を的確ならしめようと もに喰ったのでは犠牲が大きい。 いう用意でもあった。 恐らく彼は肚の中で三成の戦法を嘲笑っていたのに違い そして、ここでも東軍は、隣に陣取った島津勢と井伊勢ない。 の間に戦闘が開始されると、直ちに田中吉政に続いて、生「ーー・・・戦になってみよ。うぬとおれでは腕も経験も格段の 差があるのだぞ」と。 駒一正と金森長近をして石田勢に向わせた。 したがって最初の火蓋は、石田勢の先鋒、島、蒲生の両彼は昨夜のうちに屈強な特別鉄砲隊を十五人選りすぐっ 隊と、東軍の竹中、田中、生駒、金森の四将の間で切られて、それにきびしい内命を与えていた。 あざわら
「みな、城は出たのでござるな」 三成はすでに長東正家と安国寺恵瓊には会って来て、 「仰せの通り、第一に石田隊、第二に島津隊、第三に小西 隊、第四に宇喜多隊の順序で出払いました。これほどまたる。したがって、これから訪れるのは、小早川秀秋と大谷 吉継の陣屋であった。 ひどくは降って居らなんだので : : : 」 ( 今更、何のために : 「それで安堵、ではそれがしも発っと致そう」 そうした長堯の視線を浴びながら、三成は席を立って、 「でも、この降りでは : 秋雨の中へ黙々と馬を曳かせた : 長堯は三成が、雨を避けて夜明けに発つものと思ってい たらしノ、、 「すでに寝所の用意は致してござりまするが」 東軍進発 と、小声でいった。 「原どの」 三成は依然微笑を消さずに、 「三成は頼れぬ者であったような。今迄はの」 石田三成が、小早川秀秋の陣屋を訪れ、秀秋の老臣平岡 「は ? それは、何のことでござりまする」 「おわかりなさらねばそれでよい 。しかし、今日はみな頼勝に面会して、明日の戦略を告げ、烽火を合図に東軍の 腹背を衝くよう固く約東して、山中村にある大谷吉継の野 に、最後の詫びして廻らねば相成らぬ」 陣に向った頃から、雨脚はようやく細くなった。 「詫び : : : でござりまするか ? 」 「詫び : : : そうじゃ。」 すでに子の刻 ( 十二時 ) はまわっていたが、大垣を発し 刎の言葉でいえば督戦 : : : とにかく た諸勢はまだ行進の途中であった。 諸将の陣屋を訪れて、家康が関ヶ原へさしかかり、狼火が 最初に大垣を進発して、北国街道を扼すべく、小関村に あがったら躊躇なく攻めるよう頼んで廻るが、わしの勤め 向った石田勢は、九ッ半 ( 午前一時 ) に関ヶ原駅を過ぎ、 その言葉の意味は、福原長堯にはそのまま通じた様子は着陣を終ったのはすでに八ッ半 ( 午前三時 ) であった。 よ、つこ 0 209
めて家康のかくれた一面にふれ、心服の度を深めた分に違ふっと大きな不安を覚えて、すぐさま使番の湯浅五助を呼 し / し び出して、三成あての手紙を認めるように命じていった。 二十七日小田原、二十八日藤沢、二十九日は江の島鎌倉越前敦賀五万石を領し、現在奉行でもある大谷刑部少輔 見物 : : : そして、家康が続々諸将の馳せ集る江戸へ入城し吉継は石田三成には友情以上の恩義を感じている。 たのは七月の二日であった。 彼が十六歳で秀吉に召出されたとき、その推挙人は三成 であった。秀吉が中国征伐中のことで姫路の城にあるとき だったが、その時豊後からやって来て、三成のロ添えで才 かんばっ 破滅の真理 気煥発の資性を買われ、百五十石の側小姓になったのが世 に出るいとぐちだったのだ。 それ以来、吉継は陰に陽に三成を助けて来た。そして、 こんどの出陣に当っても、出来得れば彼と家康を衝突させ 千人あまり 大谷刑部少輔吉継が、家康の命にしたが、、 たくないと念願していた。 の兵を引きつれて、越前の敦賀を出発したのは六月二十九「よいか、わしの言うとおりに認めよ。いま治部どのが内 日であった。 府にさからうのは、みずから破滅の淵へ身を投ずるに等し たるいじゅく い・ものじゃ」 そして途中三泊、七月二日に美濃の垂井宿に到着する と、そこで出会う筈の石田三成の伜の隼人正を待った。 すでに吉継は癩のために視力を無くしていた。が、その き・んじ 三成は謹慎中ゆえ東行しない。 : 、 カその代りに伜の隼人分別も胆力も秀吉に熱愛された頃の、麒麟児の面目は失っ 正を、大谷刑部少輔吉継の手につけて出陣させると、三成ていなかった。 はわざわざ家康に申出てあった筈なのだ。 湯浅五助の墨をすりながす音がやむと、吉継はかすれた したがって隼人正のひきいる石田勢は垂井に先着してい声で手紙の文面を口述しだした。 て、大谷勢を待っているものと信じていた。 この度び貴殿は会津表へお越しなされぬ由にて、内 ところが、まだ隼人正は到着していないという。吉継は府の御供にはご子息隼人正を名代として差出すよう承り居
根を踏みわけて、うしろを見たときにはもう三人の姿は視まった。近江の伊香郡に出て、高野村から古橋村へ入って ゆく。 野一」十よ、つこ 0 ・ : 許せよ三人とも。人間というはまことに厄介な古橋村の法華寺三殊院には、三成の幼時の手習いの師匠 ものよのう」 であった善説が住んでいる。 三成はあわてて具足をとって、その場にしやがみ込む その善説が、田中吉政に味方するか、それとも三成をか と、大きな声で自分自身に話しかけこ。 ばうて呉れるか、今となっては、それも興味深い一つの未 「喰っては出し、喰っては出しか : : しかも喰わねばなら知の世界であった。 ず、出さねばならぬ : : : と、思うていたら、これはしぶる ( よし、善説を口説いてやろう : : : ) ばかりでよう出ぬわい : : まだまだ人生はわしの 足を早めると、また意地わるく便意であった。 知らぬことばかり : : : 面白い 下痢よ、下痢よ、思うさ ま石田三成をからこうてやるがよいそや」 2 もう聞いているのは山の精と流れる霧だけに違いない。 山の中の流浪は三日にわたった。まず浅井郡の草野谷に 2 その妙な安堵が、やがて時刻を計らせ、方角を考えさせ出て、大谷山に身をかくした。 このあたりの村々には、三成の予期したとおり、田中吉 喰わねばならぬ生き身では、とにかくこの山からは出な政の高札がこれ見よがしに立っている。おそらく従者があ ければならなかった。 ったらめざす伊香郡までは辿り着けなかったに違いない。 ここには生米すらもない。 出るとすれば、山続きに近江をめざすより他になく、近 急度申遣こと 江はまた自分を探しているであろう田中吉政の育った土地 一、石田治部、備前宰相 ( 宇喜多秀家 ) 島津両三人捕え でもあった。 来るにおいては、御引物となし、永代無役下さるべ 1 一じよう 「面白いことになったぞ : ・・ : 」 き旨御諚に候こと。 熊笹の繁みを離れたときには、三成のめざす先はほば決 一、右両三人捕え候こと成らざるに於いては、討ち果す
、刀、刀 , りーかト で、用捨なく具足の奥の肌にせまる。従者の一人が、三成 御門入りてこの又かかりを眺むれば のためにどこかの百姓家から蓑笠を見つけて来て着けさせ 八つ棟造りに七見角 たが、そうしたもので凌げるほど安易な雨ではなかった。 裏の御門を出て眺むれば 十六日の夜の白みそめる頃まで、一行は山中を雨に向っ 裾は湖、やあ見事やあ見事 てさまよい続けた。むろん正確に方角や道を知っての彷徨 よい城よ、見事な城よ ではない。 とにかく発見されまいとしての無目的にひとし 堀ほりあげて関所をうえて い戦場離脱であった。 関所に花が咲きしならば かって朝鮮での戦では、戦場を離脱する者は、その郷国 この堀々は花ざかり花ざかり にある家族まで厳罰に処するであろうと高札を立ててまわ った軍監の三成が、自分でその離脱者の位置におかれるこ 同じころに大垣城も水野勝成に攻められて、すでに陥落とになったのだ : 寸前の危機にあった。 寒さと餞えと疲労と睡魔と : : : あらゆる経験をいちどに 2 したがって石田三成の虚空に描いた計画の一切は、おびなめさせられて、夜がほのばのと明けかけた頃には、義理 ただしい人命の犠牲と、醜い人間の打算の爪あとを残して にも見得にも、もう立ってはいられなかった。 言滅してしまったことになる : 「これから、何となさりまするので」 が、この大悲劇の主人公石田三成は、関ヶ原から何処へ ついて来た小幡助六郎にたずねられたとき、三成は、 のがれ、何を考えていたのであろうか : 「訊くまでもないこと。大坂じゃ」 十五日の夜、三成が伊吹山に逃げ込んだおりには、まだ そう答えて、自分で自分がおかしくなった。すでに佐和 従う者は二十人を超えていた。 山城は囲まれて一族妻子は生かされることはあるまい すでに記したように十五日の夜の雨は、この敗戦の主従そう知っているもう一人の三成が、佐和山へ行くといわせ を間断なく打ちのめした。 ず、大坂へといわせたのだ。 ようやく止んだと思うと、又以前に数倍するはげしさ 大坂まで無事に行けるなどとはむろん思っていなかっ ななスケど
: しかし、吉継は最初からきびしくそれ 率は保たれよう : それだけに、家康の天下になっても、輝元の天下になっ を押えて来た。 ても、秀頼の身は安泰であるように : : : そう考えて来るの ご貴殿はその器ではない : は当然のことといえた。 朝鮮の役のおりに、軍監として、相携えて彼の地にわた 「お身のご意見はよく相分かった ! 」 り、諸将の不統一では共に手を焼いて来ている吉継が、敢 三成はもう一度吉継の心事を仔細に吟味してから、始め てそれをいい出すのは、この戦の累を、どこまでも秀頼の て吉継の手を執って、 身に及ばすべきではないと考えているからに違いなかっ 「実は、安国寺恵瓊を大坂表より、秘かに当城へ呼んでご つ」 0 ざる」 その意味では、吉継の、 と、打ち明けた。 「お身に生命を差し上げましよう」 「なに安国寺が、もうこれに来られて居ると」 といった一語は、気味わるい重さとひびきを持ってい 「いかにも、さなくば吉川広家と安国寺に託された毛利勢 る。 は、そのまま家康の許へ東下する。東下させた後では手遅 この戦は、もともと秀頼の意志でやるのではない。 れゆえ、とにかく安国寺に : ・・ : 」 これはどこまでも石田三成の企て : : : それゆえ、豊家に生「待たれよ。待たれよ治部どの。すると毛利輝元どのは、 命をささぐるのではなく、石田三成と情死するのだ」 すでにご一族を内府の東征に従わすお考えであられたの 肚の中では、吉継は、その事を繰り返し自分自身にいい 力」 きかせていることであろう。 「無邪気なお方でござる輝元どのは : それがわかるだけに三成は取て統率の不満はロに出来な 三成はかすかに笑って、 そえ 「内府の東征に、吉川広家を大将とし、安国寺を副として 恐らくそれを口にしたら吉継は再び声をはげまして反対遣わせと、七月四日には軍勢すでに、出雲の富田を発進し た由。されば大坂にあった安国寺を、われ等この地に、と するに違いない。 ( 刑部はまだ勝てるとは思っていない : もかくも呼び寄せました一 つつ ) 0
「いまあの城の内にあるは、宇喜多中納言秀家、小西摂津に翼をひろげてあった東軍の布陣のうちへ、いよいよ指揮 守行長、石田治部少輔のほかに福原右馬助等が入ってござ者の姿が現われたのだからその動揺が小さい筈はなかっ りまする」 そう言う直政の報告にきっとした表情で頷きながら大垣 城の方へ、馬印の金扇をはじめ、紋所の入った大旗七流 石田三成は、大坂を発つおりに、 れ、白地の二田町、折掛け二十本を並べ立てさせた。 たとえ十人の家康がやって来てもいささかも恐れる すでに夜半に発って来ていた鉄砲衆、使番衆などは、家「 康よりも一足先に到着して、陣の前後はきびしく固められものではない」と、豪語していた。 べんたっ ている。 むろんそれには味方鞭撻の意味もあったが、さりとて決 この家康の到着はいったい西軍にどのような影響を与えして口先だけのものでもなかった。 ていったか : : ? 当然大垣城からもまた、この岡山の陣 内心では絶えず家康が、何時目の前に出現するかを警戒 営は望見出来る筈なのである。 しながら、一方では、逆にそれをあり得ぬことにしようと いや、彼等は、家康の到着以前から、あたり一帯に大き して心肝を砕いていた。 く翼をひろげて見せた東軍の士気はくわしく探り得ていた 上杉景勝、佐竹義宣、真田昌幸等が東にあって挑戦して ゆく限り、家康は西へは向い得まい。その間に毛利輝元を 、キ - かいゾ」、つ 先海道の北の山手には、加藤嘉明、金森長近、黒田長誘い出して東軍を混乱におとし入れる : それは、彼の希望でもあり策戦の基調でもあった。した 政、藤堂高虎、筒井定次と展開し昼井村には細川忠興が陣 がって、彼は、東軍が俄かに行動を起して岐阜を攻め、赤 を張り、同村の東、大墓には福島正則。勝山の北の手には 楙原康政、井伊直政、本多忠勝、京極高知。西牧方には堀坂に迫ったときも、狼狽はしながらも、まだそれが、見え 尾忠氏、山内一豊、浅野幸長。荒尾村には池田輝政、同長ない位置から振られてゆく家康の采配であろうとは思って し / , 刀ュ / 吉。長松村には一柳直盛。東牧野には中村一忠、同一栄、 その三成の思惑を自信づけるように赤坂とその周辺に進 有馬則頼。磯部宮には田中吉政 : : : その他が、見渡す限り たんちょう 783
そして、その退却の知らせは、いよいよ東軍進撃の足を の目は逆になった。 投げて素手になった勘兵衛が、投げられてわたり合おう速める結果になる : 戦機のうごきは、個人々々の運不運を織りまぜながらい と繰出した五右衛門の槍尖に、われとわが身を投げかける ったん大きく動きだすと、それは襲来する台風や洪水と同 ようにして突かれてしまったのだ : 」を帯びて来る。 じ性質の「勢い 「ーーー杉江勘兵衛が討たれたそ」 退く者も進む者も、それがどうしてこうなったかなど考 「ーー・ - ・勘兵衛ほどの豪の者が : : : 」 それは、ともすれば浮足立とうとしていた石田勢の敗勢えてゆく暇もなかった。あっという間に位置を変えて次の 静止の場を迎えている。 を決定的なものにした。 そして逆に、田中勢、黒田勢の先を争う進撃を誘い出「ーーー藤堂勢が、赤坂に向ったぞ」 し、更に合渡川の下流をわたった藤堂高虎を、一挙に赤坂「ーー、・・おくれを取るな。今日の宿営は赤坂じゃ」 田中、黒田の両勢が、呂久川 ( 揖斐川 ) に迫り、進路を まで進撃させる結果になった。 赤坂と大垣は目と鼻の間であった。ここまで東軍に進出赤坂へ向け変えたときには、もう彼等の前の石田支隊はお されては、いったん大垣城を出て、墨俣に陣取っていた島びただしい手負いと共に雲散霧消してしまっていた。 津義弘も、沢渡に出ていた石田三成の本隊も、急遽大垣城そうなると、岐阜城を落した福島、浅野、池田、細川の まで引きあげなければならなくなる。 諸勢もまた、綽々とした余裕を見せてみなの後から進み得 うつかりしていて退路を断たれたらという不安が濃くなる。 こうして二十四日には、東軍は大垣を左に見る赤坂に結 るからで、むろん藤堂高虎はそれを狙ったのだ。 「ーー合渡では田中、黒田に先を越された。赤坂はわれ等集し、その戦勝を堂々と江戸に報じた。 考えてみると、まことに奇怪な戦であった。いったん動 の手で : : : 」 浮足立 0 た石田勢の退路を斜めに切 0 て、藤堂勢が赤坂き出すと、これだけの実力を持 0 た豊臣恩顧の諸将が、つ をめざして進みだした頃には、沢渡の三成も墨俣の島津義い五日前までは、家康が西下しなければ戦い得ないものの ような錯覚に陥って、いらいらと口論を繰返していたのだ 弘も、もはや、ここでの決戦の無益を知って退きだした。
6 知ると、無言で短刀に手をいけた ご自害はなりませぬそ : : : 」 「ーーー、い得てある」 呟くようにうなすいて短刀を抜きとると、自分で自分の もとどり・を切り・放った。 高野へ参ろう。あとをよしなに」 正則はホッとして、差出す髪を受取り、 「ーーーーそれが宜しゅ、つ′」ギ、りましよ、フ : : : 」 とそれをみんなに示していった。 「ーー本多どの、井伊どの、この旨江戸へ早速ご報告を」 岐阜城の陥落は大垣にあった石田三成にとっていいよう 「ーーー・・・、い得ました」 もないおどろきであった。 そのあとで、いったい池田と福島の何れがこの城へ先に 彼の手許からも、選りすぐった人々が出向いて行って瑞 攻め人ったかでまたひともめあったが、それは本多忠勝の 龍寺山の砦を固めていたのだし、どのような不利な条件が 重なり合ったにせよ、三日や五日は微動もすまいと思って 発言で妥協が成った。 前後から同時に入ってこれを落したと致しましょ ところが、敵が木曾川の東までうごき出したという知ら そして両家より旗二本ずつを軍士に添えて差出させ、織せと、渡った、落ちたという三つの知らせが手を打っ隙も オカくして東西与えぬ一本の糸のように矢継早であった。 田勢に代ってここを守備することに決っこ。、 両軍の間で切られた最初の火蓋は、見事に東軍の勝利に終むろんその愕きのために茫然と手を束ねてゆくほど三成 は闘志のない男ではなかった。 り、降り続ける細雨の中で奮い立った東軍将士はいよいよ いや、逆にこの緒戦の齟齬が、却って三成を三成らしい その眼をきびしく大垣城に据え直して夜を迎えた。 江戸にある家康の、見えないところで振ってゆく采配姿勢に返したといってもよい。 恭、村越茂助直吉の滿洲到着三日目にして、敵の最重要な 前線拠点岐阜城を見事に手中に納めさせてしまったのであ る : 見えぬ采配 ノ 69
方を加え得て内心ひそかに愕きを覚えていた。 何誰のご助勢もお断り申しまする」 この一言が、どのような影響を小早川秀秋の胸奥に残し安国寺恵瓊の画策によ 0 て、毛利輝元を味方に抱き込 てゆくか : : : それは、家康も元忠も充分に計算してあるこみ、大坂城へ迎えとった頃の三成にはまだ大きな不安があ つつ ) 0 とだった。 その第一は、彼がまだ裏面にあって指揮するより他にな 伏見城の包囲勢は刻々と人数を増して、十九日の薄暮か かった、会津出征の諸将の人質徴取が、ものの見事に失敗 ら始まった銃撃は次第に猛威を加えだした : 城内の兵数約千八百に対して、毛利、吉川、鍋島、長曾に帰していたからだ 0 た。 彼が表面に立って動いていたら、このような不手際は起 我部、小西等の諸勢に、島津、小早川、宇喜多と加わり、 り得なかったに違いない 更に大坂城の七手組の面々から増田、長束、石田の兵もは ところが、彼は奉行の職を隠退しているので、主として せ着けると、その総数は約四万。 それもこれも、西の挑戦者鳥居元忠にとっては、最初か増田長盛と長東正家をして事に当らしめた。その結果、事 ら計算ずみのこと。むしろわが死を飾る華麗な法灯の列と前に事情を察知され、三成がもっとも重要視していた質の も見えて、内心ひそかに、微笑を禁じ得なか 0 たに違いな一人細川忠興の正室明智氏に、手痛い反抗を喰 0 て、彼の 計画はものの見事に覆されてしまったのだ : 今も、それを考えると三成の心はキリキリと痛んで来る とにかく「ーーー秀頼さまの御為め ! 」そう思い込ませ て、素早く諸将の家族を大坂城内に拉致しておけば、城下 の警備は現在の五分の一にも足らぬ人数でこと足りる計算 よ ) つ 0 それが、細川夫人の反抗から、異様な反三成の感情の火 鳥居元忠が、大敵を伏見城に引受け得て、「ーーーわが事 成れり」と北叟笑んているに、石田三成もまた、着々味の手が、女性をふくむ各将留守屋敷の間にあがり、人質を 不退転の星