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検索対象: 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻
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1. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

見たという同じ幻について考えなければならなかった。 いや、或いはそれは逆に、蕉庵や新左衛門に可か聞かさ 彼は本阿弥光悦に、気がかりなことを聞かされていたのれて、光悦がそれに気付いたのであったかも知れない : だ。それは、秀頼を立派に教育してゆくだけの器量人の見何れにしろ、そうなると二人の老人の最後の言葉は気に わざわい 当らぬ大坂城内に、もう一つ大きな禍の根がわたかまってかかった いるとい、つことだった。 豊家でも、むろん年々領内の寺社や所縁の堂塔にそうし 「ーー他でもない、莫大な太閤のご遺産じゃ」 た予算は見てあった。 この場合の遺産は黄金を意味している。その黄金が、鍛大体一年間に二カ所位の予定で、慶長五年には摂津の天 練未熟な持ち主と共にあると、必ず不幸な風波の原因を招王寺と山城三宝院の金堂の修理がなされた ( ) くと光悦は断言するのであった。 ところが慶長六年には年々二カ所の支出も行なわれなか さん 「ーー、・それゆえ、これを有効に散じることが、豊家のご安った。 泰に通じるのじゃが」 七年に至って、豊国神社の桜門と、近江の石山寺の修理 その意味は、又四郎にもよくわかった。 をやったが、これは双方とも、火のつくように催促された り懇願されたりしたあとの支出であった。 事あれかしと画策する牢人たちに、この莫大な黄金が、 したがって豊家の内部で、すすんで何か考え出したとい 彼等の企図を助ける軍用金と眼に映じたら、彼等は、秀頼 をそのままにしておく筈はなかった。寄ってたかってさま う風潮はみじんもない ざまな煽動を試みよう。 ( もしそれを案じて、誰かが太閤建立の方広寺や大仏殿に それゆえ、出来得れば、これを全国諸寺社のために散じ眼をつけたとしたら何うなろうか : てしまった方がよいのだが、そこまでは、秀頼というより又四郎はじっと蕉庵の顔を見つめたままで、自分の空想 も、その生母の淀の方が気がつくまいと に自分でおののきだしていた。 光悦は、そうした事を又四郎に言っているほどなのだか ら必ず、坂田新左衛門や、蕉庵にも、同じことを話してい たに違いない。 ( 若しや、蕉庵と新左衛門の間で、誰かに方広寺を焼き払 101

2. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

から聞かき、れました店によりますと、ど、つも、つまくは枩一ら 「よし、もう暫くは様子を見よう。栄の局のことが片付け ぬもののようでございます」 ば、さしあたり大きな心配ごともあるまい。それに豊国祭 「巧くゆかぬか」 は盛大にとり行なうゆえ、またよい風も吹くであろう」 「は、。いっそご母公と若君さまを別々の城に住まわす方光は、これには何も答えなかった。 法はあるまいか : : というのが、心ある人々の希いのよう 彼は栄の局のことはすっかり安心しているのだが、大坂 で、こギ、い亠ました」 のこと全体となると、このようなことでは絶対済まない気 がするのだ。 「別々の城にのう : 「さもないと、絶えず今後もご衝突は避けられまい。木の どんなに秀頼が成長していっても、あのご母公の指図癖 局のことでは、どうやらご母公さまがお譲りなさろうし はなおるまい。とすれば、日蓮大聖人の教えを持ち出すま かし、これとて、一つはお千姫さまへの意地ずくから : でもなく、豊家の内部は真二つに割れるだろう。 小出秀政どのなど、もう殆んど病と称して御登城はなさら ご母公派と秀頼派と、それにお千姫や、その附人たちが 2 3 ぬ由。つまり、ご出仕なされても、すべての指図はご母公からんで来ると、悪い条件はことごとく揃って来る。 さまのご側近から出まするので、若君さまの側近は何の用 そこで思い切って、ここらで淀のお方と秀頼の生活をハ もないのが実清 : : : 」 ッキリ分け、秀頼の方へはしつかりした側近を附けておか 「ふーむ。今まで幼なすぎたからの、秀頼どのが」 ねば、大坂城の次の主は母の影にかくれた日蔭の蔓になり 「このままでは、いよいよ若君さまの影は薄らぐ。そこでかねない。 ご母公さまにご隠居城などあてがって別居を乞わねば、豊 しかし、家康はそうしたことまでは聞く気がないらし 家の仕置は立てられぬ : : : と、これは、片桐さまご兄弟の 嘆きでもあるようで」 なるほど、お許は少し、理詰めにものを考えすぎる 「なるほど」と、いってから家康は気を変えて、 よ、つだ」 「なるほどお許は少し、理詰めに考えすぎるようじゃの」 そういわれたのでは、あとの意見は控うべきだった。 それは、重々気附いて居ります」 「そうじゃ、三浦安針さまが待って居られる。では、本日 、 0

3. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

板倉勝重の見て来た限りの世界では、人それぞれに執着 七之助とか申したぞ。あれも加えてはと伝えてみよ」 「かしこ工り・ました」 するものの対象は異っていた。 「いま、直勝が三男の名も出たな」 例えば大和の小柳生の里に住む柳生石舟などはそのよい これも熊之助・熊でござりまする」 例だったが、彼は何を見ても、それを兵法の修練に結びつ 「が二人か。よい相手じゃ。してその熊之助は何歳けて考える。禅僧に会っても、茶席に列しても、儒学の講 えん 筵に顔を見せても、国学神道のことにふれても、彼にはそ 「当年五歳にござりまする」 れがみな兵法の悟りにつながるものとして受け取られてゆ 「すると七之助はもう少し大きいの。竹千代どのが身のま くようであった。 わりじゃ。年もさまざま人数も多いほどよいそうじゃ、 つまり彼の場合は、兵法即生命の執着ぶりで、そのゆえ 松平右衛門佐のところにもあったそ。長四郎 ( 後の信綱 ) に兵法の達人であり得たのだと思う。 とか言うた。あれは養い子じゃ。大河内金兵衛の子で、」 今は亡い淀屋常庵は、中の島を開墾する時には開墾の鬼 発者ゆえ養子にした子じゃ。あれもよい。それからまだあであったし、全国から米を買いはじめてからは米相場の立 ったそ。阿部左馬助が伜じゃ。あれもものになる。つまて方にわれを忘れていた。 り、竹千代どののまわりで、ついでのことに、たくさん人 ( とにかく、その執着に徹した人は、それだけどこか澄ん 物を育てておくのじゃ。その心で、もっとひろく見渡すよだ美しさを見せてゆく : : : ) 、フに事〈納一一「ロに・ 信長や太閤の、日本の統一に見せたはげしい執着はいわ やつばりここでも話は人造りにおよんでゆく。 ずもがな、長次郎の陶物、永徳の絵、茶屋の商法、利休の 板倉勝重は、盃のかげで思わず笑った。 茶と : : : 考えてみればその執着はきわめて純一な激しさを もって貫かれている。 九 その同じはげしさを板倉勝重は、近ごろの家康の中にハ 結局人間の器は、その人の執着してゆく対象が、何であッキリと見るのである。 るかによって決ってゆくものかも知れない 家康自身は或いはそれに気付いていないのかも知れな のすけ すえもの 2 / 3

4. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

。い、夭乃一員となると、やはり・そ、つはゆ , かよかっこ。 そして大久保忠隣の報告をもたらして、鳥居久五郎が早 家康の心では全くわけ隔てなどする気はない。あった馬で城へ戻って来ると、政務を中断して自分の居間へ呼び ら、他の側室たちの先夫の子にしても、それそれ最良と思人れた。 える環境において見てやることなど思いも寄らなかったろ「どうであった。無事であったろうな」 「はい。途中は、堀尾信濃守どのの人夫が持参しました それなのに秀頼だけは、家康にとって全然自信の持てなすき鎌の類が役立ち、川の開導を行いながら無事に大坂城 めあわ い環境に放置して、それに可愛い孫姫を娶合すことで良心大手の橋に到着致してござりまする」 の責めをのがれようとしている : 「そうか、やはり堀尾の人夫が役立ったか。して、お千は ( いったいこれで太閤に済むのであろうか : 途中ではむずからなんだか」 「亠よ、 0 済まぬとすれば、今の自分は何をなすべきなのか ? 上々のご機嫌にて、船着場までお出迎えなされた 考えように依れば、淀の君の性格に気圧されて、家康浅野紀伊守に、お言葉を賜わってござりまする」 は、家康らしくもない萎縮した遠慮をしているのかも知れ「何と言うたぞ。口上は、阿江与どのが教えてあ 0 たか」 よ、つこ 0 「いいえ、向うが鄭重にお出迎え申し上げ、浅野紀伊守に 若しその結果、秀頼が二十万石、三十万石の太守にもな ござりまする : : : そうお名乗りなさると、そなたわらわを れぬ人物に育ってゆき、そのため千姫にとっても無責任き忘れてかと、仰せられました」 わまる祖父になったとしたら : 「ほう忘れたかと」 家康は、五郎太丸の許から本丸の自室に戻ってからも暫「はい。わざわざ名乗らずとも、わらわの方はよう覚えて くそうした感情と迷いの間をぬけ切れなかった。 居る。ご苦労さま : : : そう仰言ってニコニコと笑いながら 戦場の駈引ならば鬼神の断も持ち得るのだが、愛する者輿に召されてござりまする」 それそれの生涯のこととなると、そう簡単には割り切れな 「そうかそう言ったか。よいよいお千めがいちいちわし を安堵させるわ。して、大手から本城の玄関までは ? 」 到頭家康は、寝苦しい一夜をあかして翌日を迎えた。 「はい。畳を敷いて、その上を白綾をもって覆えとの、ご 157

5. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

「わしのすすめで、ようやくご母公さまは寺社の建立におって反対なさる。それよりも間題はわれ等の心構えじゃ。 同意なされたが、まだまだ天下人の夢は決してお捨てでなわれ等は将軍家にこう言おうと思うがどうであろう。実 い 0 今日も、婚礼の日には日本中の大小名、みなご招待な は、ご母公さまには近ごろご仏心を起されて、そのためい か癶、 されて、太閤さまご生前のおりに、些かも見劣りないようろいろ入費が嵩むおりでござりまするゆえ、ご婚礼は出来 計らえとの仰せであった」 得る限り質素でご承知願いたいと存じまするがと : 片桐且元が困惑しきった表情でそう言うと、小出秀政「仏心を起されてか : は、それに一層輪をかけた様子で白髪頭を悲しげに振って と貞隆があざ笑うと、今度は小出秀政が制していった。 みせた ( ) 「そのような事を、誰そご母公さまのお耳に入れる者があ 「黄金があり余る。それゆえ寺社の修覆に金を出せ : : : そっては一大事じゃが」 う言いながら何故若君の婚礼には費用を惜しむのじゃ。こ 「お案じなさるな。むろん他人同座のおりには申さぬ。そ なたたちは、妹の前で、わらわに肩身のせまい想いをさせれに将軍家はこの且元ならば決して騒ぎの因にはならぬと ようとか : : : わしにもそう仰せられた。それとは違います信じておわすわ」 る。日本中の大名などご招待なされたら、それこそ公方さ 「それならば、その儀は然るべしと存ずる。とにかく無用 つらあて ま〈の面当にもなりましよう。そう申上げたのだが、芽出の出費を重ねた上に、わざわざ公方に睨まれては立っ瀬が 度いことゆえ、そのようなことはないと言われる」 あるまい」 「それで小出どのは、そのまま引きさがっておいでなされ「では、それがしはそのつもりで伏見へ発とう。舎弟も小 てか」 出どのも、大野兄弟はじめ、お側の衆に、呉々も質素のこ 片桐貞隆が詰るように問い返すと、 とを申渡して、仮りにもご母公さまを煽ることのないよう 「まず待て舎弟」 且元は貞隆を制しておいて、 「、い得てござる」 「その事は、何れわしから気長にご説明申上げるわ。話せ考えてみれば悲しい限りの評議であった。 ばわからぬお方ではない。が急ぐと、わかっていながら却 ここでは徳川家の重臣たちの思惑と、淀の君の勝気な誇 128

6. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

「恐らく・ 腑におちかねる。そこで到頭こらえかねて敵味方になって と、宗薫はまた追討ちをかけて来た。 しも、った : : : おわかりで、こ、りましよ、つか、こ当冖豕と仙ハ川 「将軍家は、世をお譲りなされて、さて、ご自分の国造り家とはご肉親のご兄弟ではござりませぬ。が、故殿下と将 が、どの程度に世間の人々の肚に滲み通ったか、それをじ軍家とは義理のご兄弟、また大納言さま御台所とご母公さ つくりとご覧なさる気に違いござりませぬ。ここが先程申まは、切っても切れぬご肉親、その上若君さまお従妹の千 上げた頼朝公と義経公のご不和に繋る微妙なところ : : : 義姫さまがご入輿なされておわすという、二重三重のお仲ゅ 経公は兄君から、決して直接院から敍位任官のご褒美は受 え、頼朝公と義経公のおん仲以上のご親類 : : : ここが大切 けぬよう、必ずこの頼朝の手を経てお受けあるよう、これなところでござりまする」 が鎌倉幕府の生命綱なのだと申渡されておわしながら、た 宗薫は、淀の君の視線を自分の方へ向け変えずにはおけ ぶんそれはわが身に言っていることではない。大ぜいの家ぬと言った熱の入れ方だった。 臣たちに申聞かせていることだ : : ご兄弟の間柄ゆえ、そ 十一 う思うてさして、いに止めなんだ・ : と、この宗薫は解釈す るのでござります」 人間としての宗薫は、さして他人の不幸を気にかけると いう性質の人物ではない。時としては冷い傍観者で、さら 「ところがそれが油断であった。義経公が、兄君のお手をりと世事を茶に流す : : : そんなところも多分に持っている 男なのだが、今日は平素と違っていた。 経ずに任官なさると、大ぜいの功臣たちが納まりませぬ。 九郎どのはご命令に従わなんだー ご兄弟ゆえそれを捨て はじめは言葉の上でやり込めてやろうとして、例に引出 おくのか。弟ならばとがめぬような掟であったのかと詰めした頼朝、義経兄弟の不和の話が、話してゆくうちに、そ 寄られる。そうなりますると、天下の仕置をするお方としのままびたりと江一尸と大坂の上にあてはまる大きな不安に て捨ておくわけには参りませぬ。それでやむなく涙をのん変ってしまっていた。 で義経公をお叱りなさる : : : と、叱られた方では、はじめ この不安は決して他人ごとでは済まされない。泰平の世 から軽く聞いておわしたので、何を叱られているのやらを望んで骨を折って来ているのは決して、信長や秀吉、家 251

7. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

分から動かぬのを確かめると、ひろげた世界地図を扇の要た哀しい駈け比べが続いてゆきます。全くこの辺が : : : 」 でトントンと・、こ。 そこまで言って、長安はブツリと口を噤んでしまった。 「実は、これが私の夢で、私はすっとご奉公など断念致し 気がつくと且元は盃を手にしたまま眼を閉じている ( ) は て居ったのでござりまする。堺の十人衆の中には、私の話 じめには真剣に聞く気であった。しかし途中で彼は・ハカく の幾分わかるご仁はあったが、武将の中にはありそうもな力しくなって来たのだ。右大臣と征夷大将軍に、商人の真 い。もっとも、あ 0 たとしても、今までは国内の喧嘩で精似をさせる気らしいと、思ったたけで且元は淀の君に張り 、つよ、 : し : : : それがようやく上様のご努力で片が付いた。 倒されそうな気がしたのだ。そこで如何にも聞いている風 まか そこで罷り出ましたわけで : : : 今 ! でござりまするそ市を装いながら眼を閉じたのだが、その顔はどうやら居睡り 正さ工。 いま太閤のご遺産一切を賭けて、この事業をやろの相好になっていたらしい 、つと持掛けるお方があれば、 =-: 様はきっと動く・ : ところ「さ、もうおひとっ ! 」 堺衆の中にもひどく内輪な方がごさりまして、とにか 長安は、力を入れて銚子を突きつけた。 く太閤さまのお残しなされた黄金は次の日本の騒動のタ 「いや。もう充分頂戴致した」 ネ、それゆえこれを早く吐き出させるためには、大仏殿を 「何のご造作もありませいで : : : 」 焼き払って、再興させるに限るなどと、ケチな了見の者があ長安はそう言ってから、かすかに唇をゆがめて笑った。 った。そうではない ! その黄金こそ世界に乗り出すため「人物というものは、仲々居そうで居りませぬもので。や に役立たすべきた ! そう言って、しきりに大仏殿の件をはりこの国では、上様が一等地を技いておわしまするなあ」 止めておわした者 : : : そう、もうお二人ともこの世に亡い ゆえ、お名を洩しても宜しゅうござろう。一人は納屋蕉庵 どの、もう一人はそれ曾呂利新左の坂田宗拾どの : : : その 且元は何か皮肉を言われたような気もしたが、そうでは お二人は亡くなられて、大仏殿は焼けてしもうたが、好機はないと思い直した。 まだ去ってはいない , 千姫さまのお輿人れ : : : この好機如何に大久保長安が珍しい型の人物でも、大坂を代表し を取逃すと、またまた騎馬武者と女子供の勝負の知れ切って芽出度い使いに来ている自分に、無礼な皮肉など一「〕う筈 142

8. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

あげた。 お勝の方も、長福丸と年子で生れた弟の鶴千代を、自分膳の上には一汁五菜ながら別に今日は小鯛が焼きあげら の養子にして育てたいと願い出ているほどなので、或いはれて付けてあった。 そんな夢のことも薄々知っていたのかも知れない。 内輪の宴のおりの家康にしては珍しい贅沢と言ってよ しかし、彼女はそれが許さるべき夢ではないと悟った顔 で退 0 てい 0 た。すでに「ーー・・竹千代どのはよい叔父の家陪食を許されているものは、本多正純、永井直勝、板倉 来を : : : 」そう言われては、あらぬ夢の入り込む隙など全勝重、内藤正次、成瀬正成のほかにト斎と崇伝がいた 内藤正次は、秀忠からの第二の知らせを、自分の手控え ( そうか、その意味で、それそれ嬰児の所領まで決めておとくらべてみてから、 わしたのか : : : ) 「乳母には稲葉佐渡守正成の妻子であった福子ではいかが 人生は味わうもの : : : 味わいながら現実を処理してゆく かとござりまする。このお方は : : : 」 のが生きた政治 : : : 近頃しみじみそれを應って出精してい 正次が説明にかかってゆくと、家康は手をあげてそれを る板倉勝重は、 さ一えぎった。 「もう、だいたい来る者は来たようじゃ。みなも居間で膳 板倉勝重がニコリと笑った。 に一阯るがよい」 稲葉正成の妻女福子ならば、家康も勝重もよく知ってい 大広間から引きあげてゆく家康のあとに続きながら、心る。まだ生れ出る子が男か女かわからぬおりに、阿江与の の底まで洗われてゆくような爽やかな充実を感じていた 方から近畿で乳母を募ってほしいという話が板倉勝重の許 にあった。 「さ、みな膳につけ。そして、大納言から申して来た人選 : と、田 5 っ を、内藤正次、読みあげよ。気に入らぬ者があったら遠慮西から乳母を求める意味は、おそらく又姫 : はいらぬ。誰でも所存を述べてよい。乳母、傅役、小姓とて都の女性をと考えたのに違いない。そのおり福子は養父 みなこれは天下につながる大事なのじゃ」 稲葉兵庫頭通重の添書を持って美濃から京へ出て来たの 家康はそう言うと、正面の膳に直って自分から盃を取り 、、 6 ) 0 268

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やら、秀忠の嫡子が生れた場合に備えての、分家であった を見合って頷き合せた。 とムマになって頷ける。 「さあ、退ってよい。まだ大ぜい大名たちがやって参ろう でな」 又ぞろそろと賀客がやって米て、その足がちょっと途切 れた時に、江戸から第二の知らせが届いた 今度は、生れた男児の、乳母、俥役、小姓などの人選を 「不審に思う者があったら、そなたから聞かせてやれ。も 記して、家康に可否の決裁を求めて来たのに違いない。 う充分に、よい家来となるべき者があるゆえ、竹千代どの もう陽は暮れて、大広間には燭台がついている。家康の は生まれながらの竹千代どのじゃとなあ」 許からは竹千代と命名するようにという使者が、とうに江 お勝の方も、さすがにその意を悟ったらしい 戸へ向けて出されていた 「かしこまって、こギトりきす・る」 キラリと眸を輝かし、丁寧に挨拶して退っていった。 五 本多正純も板倉勝重もホッとした。もう何を訊ねる必要 もなかった。家康は、ここ続けざまに生れた自分の子たち家康に言われて気がついたことながら、今迄秀忠に男の 2 の、生母やその周囲の者たちに、あらぬ夢を見せまいとし子が無かったということで、あらぬ夢を抱きかけた者は、 側室の中にもあったろう。 て、きちんと一本釘を刺すのが目的だったらしい。 そう言えば、まだ二つになったばかりの長福丸は、去年女にとって、わが子はそのまま自分の総てなのだ。わが 亡くなった五男信吉のあとを継ぐ者と決められ、常陸水戸腹を痛めた子が、若しゃ秀忠の養子にあげられ、三代目と の二十五万石を与えることに決められていたし、その兄のして宗家を継ぐ身になっていったら : : : そんな夢は見がち なものだ。 五郎太丸も甲府二十五万石に封ぜられてしまっていた。 二つや三つの子たちに、それそれ所領をあて行う家康家康はそれを警戒していたのに違いない。 を、中には、 少くとも新しい治世の教学を儒教に求め、諸民にまで 「ーー・ー自分のお子となると可愛いものと見える」 士、農、エ、商の階級制を押しつけようとしている身が、 そんな風に見ている者もなくはなかったが、それはどう長幼の序を自らみだしたのでは、治世の柱は建たなかっ

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ハキという癖を持っている。世間への気兼ねをあまり知ら 「は、。上様はかねがね人は鍛えようじゃとおっしやりま ないせいであろう。 す。それゆえ、駿府におわす五郎太丸さまのご生母も、長 「上様、竹千代さまと申し上げるお名は上様のお名ではご福丸 ( 紀州頼宣 ) さまご生母も、殊のほかにおきびしい。 ギトりよせぬか」 それとこれと考え合せますると、チト違うように存じます 「そうじゃ。わしの名で、又わしの祖父の名でもあった、 大切な名じゃ」 家康は笑う代りに、ふと視線をそらして、そばにいる板 : 」と、彼女は甘えた表情で不審の瞬きをくり返倉勝重を見やった。勝重は眼を伏せた。彼にとっても家康 した。 が何と答えるかは、まだ察しもっかないからであった。 「そのような大切なお名を : : : あのう、おつけなさります「お八は、子を育てたいと申したな」 るか」 家康は、さらりと話題を変えて間い直した。 「よ : 「つけては、悪いと思うのかお八は ? 」 家康は、このお勝の方だけには、甘えを許すところがあ「そなたの産んだ市姫は育たなんだ。それで淋しいと洩ら った。その美貌と才を愛したというよりも、やはり十三歳していた。そなたが育てているのは長福が弟の鶴千代、そ という少女のおりから自分に侍して来ている、いじらしさ なたは鶴千代 ( 水戸頼房 ) を、子に欲しいのであろう」 があったからであろう。 いでもそれは : 「よいか悪いかは知りませぬ。でもふだんの上様のお言葉「わかって居る。よいか、すると今度生まれた竹千代どの とは : : : ちと違、つよ、つに ~ 仔じまする」 には、信吉は惜しいところで去年亡くなったが、清洲の忠 吉はじめ、忠輝、五郎太、長福、鶴千代と、叔父がたんと 四 出来る。それ等はみなみなきびしく育てられ、よい家来と 「そ、つか、フと田い、つか」 して竹千代を助けようゆえ、竹千代どのは少し位躰が弱う 家康は、二十七歳の愛妾に真顔を向けて間い返した。 ても充分やってゆける筈じゃ。肝、いなは家来じやからの」 、たいど、フ一理、フと田い、つのじゃ -J 言われてお勝の方よりも先に、板倉勝重と本多正純が目 266