忠輝 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻
355件見つかりました。

1. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

くして、百姓のために荒地を美田に変えること : : : そうし ( どうも、不幸の波の方が多すぎるぞ ) ところがそれは近頃になって完全に逆目になった。事に た治績をまず先にして、それからそっと話出すつもりでご よると、その人の生涯に訪れる吉凶禍福の数はつねに相半 、りまする」 ばしていながら、訪れに相違があるのかも知れなかった。 「そうじゃ。それが大切 : : : 上様は、立派にご治績をあげ てお目にかけねば、決して、わが子とてご納得はなさらぬ前半生にどっと凶が訪れて来ていたせいで、もう彼の生涯 には凶目の方は切れてしまったのかも知れないと : お方じゃ」 そう思うほど近ごろの彼は、出る目も出る目も吉であ 「ご安心下され。その辺のことは長安 : : : 」 り、田いいのままになった。 そこでポンと胸を叩いて、 「決して、舅御の伊達さまに見下されるような事は致しま彼が、忠輝と茶阿の局を伴って家康の前へ出たときもそ せぬ。これはど申し分のない立派な殿を頂きながら、その うであった。恰度何か指示を仰ぎに、秀忠をはじめとし て、忠輝の兄たちが顔をそろえていた。こんなことは恐ら ようなことを致させてはわれ等の顔が立ちませぬ」 く元日でもなければないことたった。 「では、殿が、御前へ伺候のおりには、わらわもお供しま 秀忠とその庶兄の結城秀康、それに弟の下野守忠吉が家 しよ、つかの」 局にいわれて、長安はもう一度心のうちで、秀頼と忠輝康とともにいっせいに忠輝をふり返って、 を比べていった : 「おお辰どのか、大きゅうなられたそ」 それぞれしみじみとした言葉をかけた。 後になって考えるとそれは、忠吉と忠輝の間の水戸に封 長安は、これまでしばしば、自分の「運命 じられている信吉の病状が思わしくなく、その事について その時には長安 て考えさせられたことがあった。 語り合っていたところだと分ったのだが、 吉凶はつねに、あざなえる縄のように交互に人生を訪れも忠輝もまだそれは知らなかった。 る : : : そう思っていながら、自分だけにはかくべつの気が ( ここで兄君お三人にお目にかかれるとは、忠輝にとって していた も何という仕合わせ : : : ) 215

2. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

、こ。彼はお相手をしな とはないぞ : : : ) リ通は和久宗友がお相手をしてしオ いまは信州川中島で十四万石、附けられている人々は、 がら、秀頼の矢が的中すると、褒め千切った。 「若君は天才におわしまする。せめて三十射はなさりま 忠実な傅役ではあっても泰平の世の運用まで心得ているよ うな智恵者はいない。むろんこの忠輝とて生涯十四万石なせ」 どで済む筈はない。やがて越前の太守秀康なみの扱いに ( しかし、天才は常人と同じように稽古量を積む必要はな なろう : いと秀頼は解しているし二十射ほどすると、 そこまで考えて、長安はまた改めて苦笑しながら城のう 「ーー・ー , 次じゃ」 ちを見まわした。大坂城とはまた、何と物を想わせる城で 日課の後を追うのに急で、宗友のおたてには乗らなかっ あろ、つかと : 兵法の稽古が終ると手習いたった。この方は気が向く 四 と、時に予定の時刻を超えることがあった。わけても習字 大坂城は大久保長安に、まださまざまな連想、空想を呼は好きらしく、その筆跡も年にしては大人びていた。 び起させた。 大久保長安は、そうした秀頼の姿にふれるたびに、段々 秀頼の兵法武術の稽古に費す時間は、日にせいぜい一刻それが、家康の六男、忠輝の姿と重り合って来るのであ る。 ( 二時間 ) あまりであった。 忠輝の生母は茶阿の局で、彼の傅役に選ばれているのは 彼が徳川家に仕えてから見て来ている五男の武田信吉 や、六男の忠輝のそれに比べると三分の一にも満たない。 皆川山城守広照という男たったが、長安の眼から見れば しかも、忠輝や信吉の場合は、、かにもそれが面白そう 「フフン」といった人物だった。その他に茶阿の局と前大 であったが、秀頼は逆であった。 の間に出来た姉婿に選ばれている花井遠江守吉成という男 元来そうしたはげしい運動は体質的に好まぬらしい。そが近づけられている 鼓たの謡曲たの この男は武技の古に飽いた忠輝に、、 の中でもいちばん熱の人らないのは剣術で、少しくお気に 召しているのが弓らしかった。 を訓え込もうとするのだが、忠輝はその方にはあまり身を 165

3. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

た御紋どころは、長沢の松平家のご紋ではござりませぬ、 「それは拙い」と、局は言った。 「辰千代さまは上様のお子ながら、今では長沢松平をお継何故でござりましようか」 ぎなされて、下総佐倉のご城主になられてより松平上総介「うーむ」と、忠輝はきりりと締った眉をあげて考えて、 忠輝 : : : 誰の許しを得てご本家と同じ葵のご紋を用いしそやがてニコリと微笑した。 と、お叱りを蒙ったら何となさりまする」 「これは忠輝が建てた屋敷ではない。お父上さまが建てさ しかし長安は答えなかった。彼は母の上座に儼然としてせられて、忠輝を住まわせられる ) それゆえお父上のご紋 でよいのじゃ。そうであろう」 坐っている忠輝の凜々しさに見とれている ( この前、お目にかかった時より、ぐっと堅くしまられた ポンと膝を叩くと一緒に長安の頬は、いちどにパッと いろになっていった。 秀頼の、どこか頼りない美男子ぶりに比べて、これは又「あつばれにござりまする ! ご生母さまおわかり遊ばさ 何という頼母しく整った美しさであろうか。これたけの和れましたか。たとえ長沢の跡目は継いでおわしても、殿は 1 2 子ひとりを預けられて、何も出来なければ長安などという上様のお子でござりまする。そして、この長安は、殿の執 人物は : : : そんなことがとめどなく脳裏を駈けめぐってゆ政を命じられてはござりまするが、又、上様の所務奉行 : くのである ( ) ・ : 所務奉行が上様に命じられて建てて進する御殿ゆえ、こ の紋所はいささかも不澄のそしりなど受くべき筈のもので はござりませぬ。殿 ! 」 「なんだ長安 : : : 」 「長安どの、何に見惚れておわすぞ。ご紋のことを申して 居るのじゃ」 「このご紋を見るたびに、上様のご恩 : : いやお父上さま 茶阿の局にまた促されて、長安ははじめて局へ視線を返の日々に、つつがなかれとお念じ下さりまするよう」 して会釈した。 「、い得た。孝心を忘却すなと申すのじゃな」 「ご生母さま、その事を殿に伺うて見ようと存じます。 「御意 ! そして、もう一つ殿にお訊ね申しとう存じます ルー ご生母さまの仰せられたように、 この御殿に打たせる」

4. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

ろ、長安がこまかい指図をしてやらねば、万事は連びかね ( ひとつ、忠輝さまを、秀頼さまの、上越すお人にしてや る状態たった。 らねば : : : ) むろんそれ等の人々から絶えす連絡はあり、その都度長それは、まだ決して、是非ともそうせねばならぬとか、 安は、彼一流の創意で、出城の構えから、新田開発、道意地でもしてみせるそとか言うほど切実なものではなかっ 路、橋梁、堤防のことなどまで、あたかもそれが家康の意 志であるかのごとくに申し送って進行させていた ・ : 誰もが覚える、自然の人情 : ・ 或いは漠然とした竸い : 何と言っても家康の六男なのだ。もはや、間もなく任官 : その程度のものかも知れない。が、しかし同時に、その さこんえごんの されると、少くとも従四位下の左近衛権少将位にはなるで執念からさつばりと離れることは出来そうにもなかった。 あろうし、城の近くに屋嗷の下賜を見るのも知れてあっ 忠輝の許婚者はすでに決ったも同様だった。奥州の伊達 政宗の一の姫の五郎八姫 ( いろは姫 ) である。 しかし、長安は、刻々に面目を改めてゆく江戸の町々を 二人の間に縁談の話が出たのは秀吉のまだ生きてあった 9 見ている間に、 慶長三年の春で、仲人は茶道衆の今井宗薫だと聞いていた 2 ( いったい忠輝さまをどのようなお人に育ててゆくか : が、これは双方の父親があれこれ将来を考えての取引きだ ったことなど長安にはわかりすぎるはどにわかっていた ( そうなると、伊達家とは余程緊密に結んであらねば : その事で、次第に妙な夢を持ちだしていた。 大坂城で、同じ年頃の秀頼を見て来ているせいであろ う。いや、もう一つ、秀頼の顔を思い出すたびに大坂城で そこで長安は、わざと忠輝の屋嗷を新橋 ( 常盤橋 ) 内に 見て来たあの黄金の分銅が、なぜか脳裏に灼きつけられて求めず、奥州路に近い浅草に求めたのである。 いて、すぐに思い出されてならなかったのだ : 長安を信じだしている家康は、当然のこととしてこれを 秀頼が太閤の子ならば、自分の主君は家康の子 : : : その許し、長安はそこへ、城普請の邪魔にならぬよう、町方の うえ金掘りという特技ならば自分にもある : : : そう考える協力を得て、さっさと巨大なご殿を建てていった。 からかも知れない そして、それが出来ると自身で駿府へ忠輝を迎えに行っ

5. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

続と現われだした。 長安は事実、そうした事が自分でも楽しくてたまらなか つ 0 そう言えば、当時どんどん殖えてゆく埋立地に町割をし てやっても、角屋嗷は誰も町方で貰い手が無かった。 ( 町造り、国造り、はつくづくおれの性にあっている : : : ) ひとつには盗賊に狙われるおそれがあり、二つには塀、 しかし果して彼に人造りの才能まではあったかどうか ? やぐら等の費用がかさむからであった。これを知るとすか とにかく彼は、秀忠にも可成り信用を得たところで浅草 さず長安は秀にこうすすめた。 の河岸近くに、彼の主君たるべき家康の六男忠輝のために しかがなものでござりましよう。角屋敷に住まう者には大きな邸を貰いうけた : 特別に謁見を許してやるぞと仰せられては」 「なに、謁見を許してやると : 不きますゅ 「はい。そうなりますれば、町方でぐっと幅がリ 忠輝はそれまで、まだその母と共に駿府城内にあって、 え、竸って角屋敷へ入りまする。角屋敷が空地のままで領地の川中島にはまだ行ったことが無かった。 は、何とのう町が荒れて見えましていけませぬ」 当然長安は駿府に赴いて、そこから十三歳になった忠輝 「そうか。ではその方そうふれてみよ」 の供をして、いったん海津城に人らなければならないとこ 半信半疑でそう一一一口うと、二カ月経たぬ間に角屋嗷は立派ろであった。 な建物で埋った。 すでに忠輝の重臣たちはそれそれ信州人りを終わってい ただ埋っただけではなく、この年、慶長八年には無料でる。忠輝の居城になるべき海津城には、彼の異父姉の婿に あったり、せいぜい一両、二両の権利金で譲ったり、譲らあたる花井遠江守吉成が人っていて、城代家老として政務 れたりしていた表通りの町屋嗷は、慶長十九年にはその百一切を見ていたし、出城の飯山城には皆川山城守広照が入 はやとのしよ、フ 倍の、百両、二百両にはね上っている。江戸の繁昌がどのり、長沼城には山田年人正勝重、牧之島城には松平筑後守 ように目ざましいものであったかはこの一事で察せられる信直が入っている であろう。長安のふしぎな創意と機宜を得た宣伝とはまこ表向きはこの四人に大久保長安を加えた五人の合議制で とに見事に効を奏して活かされてゆく すべてを処理することになっているのだが、正直なとこ 208

6. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

しかもこれ等の屋敷は建ちたすと、知らす知らずのうち に華麗を竸う形になる。加藤清正までが、外桜田の弁慶堀 と、喰違門内 ( 紀尾井坂の辺 ) との二カ所の屋嗷のうち、 長安は、一応忠輝を新しい浅草御殿に人れておき、江一尸喰違門内の方には千畳嗷の間を造 0 たほどなのだから、そ 城で改めて父子を対面させたのち、領地 ~ 送るつもりであの竸いぶりが想像出来よう。しかもその千畳嗷は中を上、 中、下の三段に仕切り、襖は金を張り、欄間の透しは桔 もうその頃には、諸侯の屋敷もまた城の近くに着々と地梗、襖の引手は、これも七宝の桔梗で長押は三段という豪 割をされて建ちかけている。 華ぶりであった。 大手先の広大な前田屋敷は、」 甲長の生母芳春院を住まわ したがってこれ等諸侯の邸宅が出来上るだけで江戸はも すために、慶長五年にすでに建てられている。言うまでも はや、充分に日本一の面目をそなえ出す : : : そうした槌音 なく、これが諸大名の江戸屋嗷の最初であ 0 て、続いて藤の高い町を通りぬけ、浅草御門外の、奥州街道に面した松。 堂高虎と伊政宗とが、それそれ邸地の下賜を申し出てい 並木と白砂の間に隅田川を背にして建てた御殿のうちへ、 た。高厖にしても政宗にしても、こうすることで諸侯の目に三歳の忠輝を連れ込むと、さすがに長安は昻奮していた。 を江戸へ向けさせようとして、家康のために宣伝これっと 駿府にあった忠輝の生母、茶阿の局もついて来て、黙っ めているわけで、続いて、加藤清正、黒田長政、鍋島勝て新築の建物を見てまわったが、これも内心少なからずお 重、毛利輝元、島津義久、上杉景勝などの順で屋嗷の位置どろいているようだった。 三人がひとわたり邸内を見まわって、忠輝の居間に引き もはや、実力第一の家康が、征夷大将軍になったというあげると、局がまっ先に口を開いた。 ことで、江戸屋敷を持たねばわが家の安泰は期しがたいと 「長押に打たれたご紋が、上様のご紋であるように見受け いう、ぬきさしならぬ必要に迫られてのことであった。 ましたが、上様はそれをご承知であろうか」 或る意味では諸侯は、江戸城の改修に課された出費で、 長安は、その問いを待っていたように、 各自の江戸屋敷を購っているようなものでもあった。 「いいえ、私の一存でござります」 て来たのである。 っ , ) 0

7. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

忠輝たちがやって来ると間もなく三人は退っていった 「なに、では、何の用でやって来たぞ」 が、長安は、その時も有頂天であった。 「はい、殿のことではない。わが身のことでお願いあって 「よし、辰千代に話すことがある。しばらくそちは退って罷り出たのでござりまする」 居れ」 すると家康は、はじめて五男信吉の病気のことを口にし 長安がひとわたり、浅草御殿のことと、川中島へ供してた ゆく日程などを報告すると、家康は長安を退らせた。 「他の用ならば他日に致せ。水戸のが病なのじゃ。それも ( これも悪いことではない : どうやら軽くはない」 と、長安は思った。父子水人らずで、何か訓えさとす気 なのであろう。そうなれば茶阿の局も、自分の用件を切り 出し易い : : : それで長安は忠輝と局にそれとない目くばせ 茶阿の局はハッとなった。 をして退っていった。 水戸の信吉の生母はいま山下どのと言われている於都摩 ところが長安が退ってゆくと、家康の顔は曇った。 の方の子であった。生母に武田家の血が流れているところ どうやら始めから機嫌よくなかったものらしい から信吉は武田姓を名乗らせられ、幼いおりから大切にさ 「茶阿、そなたは、何と思うているのじゃ」 れて来ている。茶阿の局は、わが子辰千代に引きくらべて ・・・・ロと田じ、つ・ : と、仰せられますると」 羨望を感じたものであった。 「辰千代は、幾つになったと思うて居るのじゃ」 ( その信吉が重病らしい し」 と言って、今日このまま引退っては好機を逸することに 「もう子供ではない。何時まで母が側に張りついて居る気 なる。 かとたすねているのじゃ」 いったん忠輝とともに信州に下ったあとで、改めて江戸 茶阿の局はそれで却ってホッとした。 へ出て来たのでは、田舎住居に耐えきれぬ我儘さと解され 「上様は、わらわが殿を子供たと思うて : : : ホホホ : : : わるか、家中の空気の気拙さと受取られるかわからなかっ らわは殿のお供をして参ったわけではござりませぬ」 せんばう おつま 216

8. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

すると、勝気な忠輝は、こうした間答が好きと見えて、 「はて、何を差し上げたら、よいのであろう」 「ご褒美に、ご生母さまは、殿とご一緒には住まおうとな ぐっと一膝のり出して来た。 「何じゃ。申してみよ」 されず、上様のお側に生涯お仕え願わしゅう存じまする」 「上様が、いや、これはこの長安が、とお考え下されても 「はて : : : 上様は、吾子と共に住んでもよいと : 宜しゅうござりまする。わざわざお邸を城のそばから離「それがそうではござりませぬ。人の一生にはさまざまな ざんげん : これは何故でござ し、こうして浅草御門の外へ建てた : 思い違いもあれば讒言中傷もござりまする。その折に、ご 、り・寺しよ、フか」 生母さまが上様のおそばにあれば、そうしたものの入り込 「ふーむ。景色がよい。忠輝は川が好きだ : いや、殿へのご褒 : たたそれだむ余地がない この儀まげてご承引 けの意味では : : なし」 美になされて頂きとう存じまする」 「仰せの通りにござりまする」 九 「フーム。すると、若し御門内の諸侯のうち、怪しい所為 の者があった折には、浅草御門をしめて、敵を外に遁がす茶阿の局は一瞬大きく眉根を寄せた。 なという構えか」 長安の言葉の意味はよくわかったが、この「褒美、ーーー」 は、女の身にとっては、そう易々と覚橋の出来ることでは こんどは長安は膝も叩かなかったし合槌も打たなかった が、打つ以上の得意さを、あらわに顔に見せて茶阿の局をなかった。 ふり」返った。 すでに三十五歳を超え、いちど忠輝の辰千代と共に棲む 「ご生母さま、殿のご器量、おわかり下されまするか」 よう、家康の側から遠ざけられている。その茶阿の局が、 「はんにの、ご発明であらせられる」 もう一度、お側へ戻りたいと言ったら、家康はじめ、他の 「それについて、ご生母さまにもご褒美が頂きとう存じま仰室たちは何と言うであろうか : する」 三十三歳を超えたものは、すすんで「お床ご遠慮ーー」 「わらわから褒美 : : : 長安どのにか」 を申し出るのが当時の習わしだった。若しそれ以上の者 しいえ、殿にでござりまする」 が、未練らしくまつわり付くとすぐさま、「好きもの」だ 272

9. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

の「たしなみの無い女」だのと蔭口されることをよく知っ にござりまする」 ている 「それはようわかって居ります。さりながら : : : 」 しかも茶阿の局は先夫であった遠州金谷村の鋳物師の娘局は忘れていた閨のことを思い出したのであろう、ポー を連れ子して、それを家康に大切に育ててもらい、現に忠 ッと頬をそめて言い出すと、長安はこれも又軽くさえぎつ 輝の居城と決った海津城に城代家老として人っている花井た 遠江守吉成に嫁がせて貰っているのだ。 「何も仰せられまするな。ご生母さまのお胸のうちは、長 花井吉成はもと小鼓打ちで謡曲に堪能な者であった。む安年甲斐でようわかって居りまする。決して嫉妬や私心で ろん家康が、 : と、こ、つ由・し その人物を認めて取上げ、局の娘の婿に選ん申し出るのではない。上様への感謝から : で呉れたのである。 上げるのでごギ、りまする」 したがって、彼女はもう、忠輝の生母とし、先夫の娘も 「まあ、感謝から : そばに置いて、悠々と老後の安穏を楽しみ得るように計ら 花井どのの 「御亠臥にござりまする。殿のことはとにかく、 3 って貰っている 奥方のことまで、並々ならぬ上様のお心遣い、あまりの仕 2 それなのに長安は、局にもう一度わが子忠輝のため、家合わせさに冥加のほどもおそろしい。お側において女中た 康の側に仕えて欲しいと言っているのだ : ちの取締りなど致しながら、少しでもご恩返しが致しとう 「ご生母さま、ご合点が参りませぬか。殿はご覧なされてござりますると : おわかりのとおり、まなじりの逆さまに裂けておわすよう 「なに、女中たちの取締り : な凜とした猛気あふれるご気性のお方 : : : それゆえ、時に 「はい。ご生母さまに、そのご報恩のお心さえござります はご肉親からも或いは一一ル厚、反感を受くることが無いとは れば、必すこれは上様に通ずることと存じまする」 申されませぬ。その折にご生母さまが、上様のお側にあっ 「なるほど、これはわらわの心得違いであったかも : しや、ただ黙ってお側 ておとりなし給われば鬼に金棒 : 「このまま老いくちるは却ってご恩を思わぬもの : : : その にあるだけで、讒言など致そうとする痴れ者も出ては参ら辺のこと、お聞きわけ下さりとう存じまする」 ぬ道理、言わばこれは軍陣の備えに似た、用心の上の用心 「ほんに、そうであるかも知れぬ : : : 」

10. 徳川家康 13 泰平胎動の巻江戸・大阪の巻

入れなかった。 それよりも、長安が、肝を潰し、眼をみはったのは太閤 或いは性格は秀頼とは正反対なのかも知れない。 しかの遺していった黄金「分銅ーー・」の正体を知らされたとき し、どちらも安心しきって、その好むところを行い得るとであった : いう点では二人は同じであった。 五 秀頼が亡父の威光で日本一のこの大坂城にいる限り、何 をして過そうと絶対に安全なように、輝もまた家康とい 太閤は黄金が出すぎて困るというので、多田銀山の発掘 う父のある限り、誰も指一本触れ得るものはないに違いなをとりやめ、わざわざ必要のある日まではと坑口を塞ぎ、 黄金は「分銅」にして城に納めてあるという評判だった。 ( そうした絶対安全な場所にいる人物の執政に納まったら そのことは鉱山の開発に興味を持ち、何れ佐渡も伊豆も 岩見もすべて自分の手で掘り返してみてやろうと思ってい そうした空想から、やがて長安は、この不落といわれるる長安にとって、まことに興味深いことであった。 大坂城を陥落させるには何うすべきかという妄想にまで飛 ( いったい太閤は、日本国内へ流通する通貨の量は、どれ 躍してみるのだった。 ほどあればよいと計算していたのであろうか : 仮りに、彼が家康の六男松平忠輝の執政としてある時 それを知るには、彼が秘蔵して逝ったこの「分銅」の量 秀頼と忠輝が合戦しなければならなくなったら、 によって推測し付られるのだ たい彼はどうしてこの城を救うべきであろうか : しかし今度大坂城へやって来たときには、この事はきれ 「ーーー長安めに算盤は持てても城は落せぬ : : : 」 いに忘れていた。 武将どもはロを揃えてそういうに違いないそこをあっ莫大な黄金が、この城のうちに : : : そうはったが、ま さりと落してみせて鼻をあかすには : さか間題の「分銅ー、ー , ・」にお目にかかれるものとは思って しかしこの妄想からは直ぐに長安は解放された。そんな 時があろうとは思われなかったし、あったとしても彼の才ところが全く偶然のことからそれを見得る機会に恵まれ 覚の吸ふところではないからだった。 たのだ 166