そうなると与市も頷いてそれにならい、 るか」 「どなたでござりまする。お隣は」 耳を澄ますと、高山右近の声は流れの音を超えてハッキ 小声で光悦をのぞきこんだ。 リと光悦の耳にひびいた 「それ、日本国を切支丹教国にしようとして、到頭太閤さ 謡曲堪能の、鍛えた声のせいらしい まのご不興を蒙った、高山右近太夫じゃ」 「いかにも。私も秀頼さまお側にあって、その口上を承り 「ほう、すると、あの加賀の前田家に身を寄せられておわましたが、家康どのご子息の中では、結城秀康さまに勝る す茶道の : : : 」 とも劣らぬ気凜のお方と見受けました」 とうは , 、 「そうじゃ。はじめは南坊、いまはたしか等伯どのといわ「なるはどの」 れている筈。茶では利休居士七哲の一人にあげられ、極上「このお方の眉にも眼にも、ありありと叛骨が見てとれ 一の弟子也などと褒められていたお方じゃ」 る。面白いとは思われませぬか」 「ほう、すると、久しぶりに、加賀からの遊山旅でござり連れの侍はそういって低く笑った。高山右近も充分それ まするな」 に興味を感じているらしく、 「シーツ」と、又光悦はさえぎった。 「大ぜいの兄弟の中には、思わぬ叛逆児も出て来るもの、 したが、ただそれだけではどうにもなるまい」 というのは、高山右近と一緒の侍が、松平忠輝といった 旧教 ような気がしたからだった。 「むろん、それだけではどうにもなりませぬ。だが、 忠輝は、この間将軍秀忠の代理として、大坂城に使いし国側の敵であるイゲレス人の三浦安針を、家康の傍にその てから急に京の話題になった人物 : : : いや、光悦が特にそままおくは危険千万。何時われわれ教派の者は彼に計られ 、。・ハテレン衆の て日本退出を命ぜられるかわかりますまし の名に関心を持ついわれは別にあった。 他でもない、自分の従妹於こうが、その忠輝の執政を勤不安は一方ならぬものがござる」 めている大久保長安の妾になり、しかも最近佐渡から出て「フーン、すると、その忠輝どのを使うて、一本くさびを 打ち込もうといわれるのじゃな」 来て、京にいるという噂があるからであった。 と、その時たった。 「ほう、するとその忠輝どの、仲々のご器量人、と申され 136
守っておいでなされたか、ご存知でござりまするか」 たカ」 「おう落ちた。わしに諸侯を押えてゆく力はないゆえ、千「知らいでか。わが身の勝手ばかり致して参ったのじゃ。 いや、それが世間じゃとみなも申すそ」 姫の父に将軍職を譲るというのだ。江戸の爺まで寄ってた 「若君さま ! 」 かって、秀頼を笑いものにしている : : : と、いうだけの話 たまりかねて且元の声は大きくなった。 なのだろう」 「そのようなことを仰せられるのならば、且元も申し上げ こんどは且元が顔いろを変えていった。 ねばなりませぬ。いったい将軍家が、どのような不都合 : 「若君 ! 」 : どのような身勝手を働きました。さ、それを承りましょ 「なんじゃ。わしはおとなしく、そちの申すことを聞いて う。さもないと、これは豊家の一大事になりまする」 やったそ」 「何ということを仰せられまする。この且元は、ただおと 九 : と、い、フのでは、こギ、り なしく話をお聞き下さるよ、つに・ 且元の声が大きくなると、秀頼の反抗の姿勢も当然大き ませぬ。話の意味をとくとご理解下さるように念じながら くなっていった。 申し上げているのでござりまする」 「市正は、豊家の家来か、それとも江戸の家来なのか」 「フン、そちは、それを秀頼が理解しないと思うのか」 「情ないことを仰せられる。われ等は故太閤さまの子飼い 「では、将軍家の並々ならぬご好意、おわかり下されたと の家臣、それなればこそ立身出世の夢も捨て、こうしてず 仰せられまするか」 っと兄弟父子、共にお側へ仕えてあるものを : : : 」 「おお、わからいでか。秀頼ももう頑是ない童ではない。 「それならば、江戸のお爺の味方のような口は利くな」 江戸のお爺が何を考えているかは、そこな明石掃部など 「これはしたり、江戸のお爺の味方 : : : といわっしやる に、よう聞かされて知っているわ」 且元は、びつくりして掃部を見や 0 た。掃部は、あわてと、若君は、将軍家を敵と思うておいでなさるのか」 「そうじゃ敵じゃ。秀頼の周囲にあるもの、みな秀頼の敵 て面を伏せて堅く坐っている。 「若君は、将軍家が、どのように厳しくお父上との約東をではないか」
る秀頼どのが事じゃ」 彼等にはまだそうした心境はわからない。しかし、家康 「なるほど : の場合は、もはやその一言一動、みな遺言であるらしい といって正成は、頷きながら直次を見やった。 「それがしは上方に居りますおり、時々大坂城を訪ねて、 「われ等も、堺から駿府へ参りまする以前から、それが一秀頼さまをお気の毒なお方 : : : と、感じる時がございまし つの心がかりではあるまいか : : と秘かに思うて居りまし た。大坂には、ほんとうに秀頼君を愛しておわすお方が居 らぬように思われます」 「わしはの、近々一度、秀頼どのに逢う気なのじゃ」 正成が生まじめな表情でいい出すと、 「この、駿府へお呼びなされまするか」 「そんなことはない。加藤肥後もおれば、浅野幸長も居 「いや、それではなるまい。まだまだ向こうには、時勢のる」 見えぬ者が居るからの」 家康は、あっさりと否定した。 「では、上様の方から上方へおいでなされまするか」 「ただ、それ等の人々を温く迎えようとしない空気がある 「そうじゃ。出向いて行かねば太閤に済まぬ。どれほどのオ 、、こナじゃ」 器量のものに育って居るか : : : 器量に応じて見てくれよ、 「その空気のもとは何でござりましよう」 心得ましたというのが二人の約東じゃ。この約束を果たし 正成は、自分の意見をいい出す前に、先ず家康の見方を てゆかねば、あの世で太閤と喧嘩になろうでな」 ただそうとした。 家康も、すっかり上機嫌にもどって笑う声が明るさを増 ところが家康は、笑いながら反間する。 していた。 「人に訊ねすに、こなたの考えているままを申してみるが よい。なあ直次」 十二 「はい。正成は度々秀頼さまにもご母公さまにもお目にか 直次も正成もちょっとしんみりとした気持ちになった。 かって居りますことゆえ、当然そのもとが何であるかも、 ( ほんとうに天寿を考えて、この世の仕事の仕上げに当た知っている筈でございます」 っているらしい ) 「そうじゃ。知らぬままで済むような正成ではない。そこ 9 3
整えさせられること。二万、三万の供揃えではなりませずともみなひとしく認めています。それなのに、いったい ん。見る者ひとしく、とても、この軍勢にはさからえぬ : 上様は、誰に何をご遠慮なされておわすのやら : : : 」 : そう思わせるほどの大行列でなければ却って罪を作りま家康は、石のように押し黙って聞いている。 しよう。そして、都へお着きなされたら、千姫さまの父御 「若しそれが豊太閤へのご遠慮ならば、これほど豊太閤を ゆえ、舅が婿に逢いたいと、秀頼さまを京へ呼びつけられ卑しめ、辱しめることはござりますまい」 てご対面なさること。そのおりに、上様のご官職のうち、 「なに、太閤を卑しめると 将軍家は秀忠さまに、公家の右大臣は秀頼さまに、それそ「さよう、豊太閤は薨去の直前にはいささか老耄なされま れわけて上様のあとを継がせるものであることを、懇々と したが、その気宇の大きさ、ご気性の活達さ、まこと、不 お教示なされておくこと。そして、その次が、今の一品親世出の英傑でござりました。ところが上様はその豊太閤の 王にご下向を乞い奉ること : : この位のご用意を遊ばさねご知遇に応え得ない : : 上様がお応えなさらねば、それは ば、上様とてご安心はなされぬ筈 : : : その上でご隠居仕事豊太閤の側にも累が及びましよう。豊太閤はやはり卑少な に、世界の海へお乗り出しも結構に存じまするが : お方であった。ことによると、石田治部少輔に関ヶ原の騒 家康は、ただ、一 森沈として聞くばかりであった。 動を起こさせたのも、実は豊太閤のさしがねであったらし 「待て僧正、ご僧はいったい何の必要あってこの場に太閤 「上様ほどのお方が、うわべの世評をお気になされて、丁 才の名などお出しなさるそ」 つべき石を打たすにおく : : : これでは後々まで、もの笑い 「これはしたり、豊太閤は上様が、天下を預かるにふさわ のタネにも相成りましよう」 しいお方と見ておられた。そのご信任にこたえてこそ、英 天海の口調は次第にまた熱をおびだした。 雄を知る者は英雄なり : : : のたとえに叶うと申し上げて居 「さようではござりませぬか。豊太閤は薨去のおりに、誰りますので」 をたのみにしていたと思し召されまする。上様以外に人は 「すると、太閤のご意志は : ないと度々口外なされておわした。この事は具眼の士なら「女子供に継げるほど卑少なお志であろう筈はござります 9
そうという心もあるのだと : : : 正成どのが告げに来られたで下さるように : のじゃ。むろん徳川家でいきり立っている旗本衆は、充分そして、ホッと全身でため息しながら笑ってみせた。 先方でおさえて呉れよう。のう、そうであったの成瀬ど 成瀬正成は、完全にもういうところはなかった。 有楽のいうように、淀の方と家康の間に一線を超えた交 これほど有楽がしんけんに、しかも両者の立ち場をよく りがあったかどうかなどは、成瀬正成には確かめようのな いことだった。 考えて取り次いで呉れようとは考えてもいなかったのだ。 「仰せの通り、まことに、そ : : : その通りにござります しかし、今眼の前で涙を見せている豊艶な女性が、家康 を憎んだり呪ったりしているものでないことだけは確かめ すると、有楽は三転して又いった。 得た。それにもかかわらず、正成の心がからりと晴れない 「どうじゃ、やはり、長次郎一個位の値打ちはあったろのはいったい何のためであったろう : 淀の方が戯れに事よせてチクリと洩らした「若君が十六 正成は、あわてて淀の方のほうを見やった。ところが淀歳になったとき : ・ : 」の一言のせいかも知れない。 の方は、そっと脇を向いて、眼頭へ指をあてている。 ( 淀のお方は、ほんとうに、秀頼が十六歳になったあかっ とお 何かしみじみ彼女の心にも、徹るものがあったのに違いきには、天下は再び豊臣家の手に返るものと思っているの につ、つ、カ・ 正成は、あわてて膝へ視線をおとして、もう一度、 そんな筈はない : : と、正成は思った。 ( このお方も、不仕合わせなお方なのだ : ・ あれだけ眼先の見える有楽がついていて、そんな錯覚を ぐっと胸元へこみあげそうな哀れさを覚えて全身を固くそのまま捨てておく筈はなかった。 秀吉は、公家の例を踏んで関白太政大臣として政治を執 「わかっているのじゃ正成 : : : そうじゃ、折角お許が来てっていたのに、家康は、征夷大将軍として武家政治の先例 に改めてしまっている。 くれた。盃を取らしましよう。有楽どの、若君にも、おい
膳正 ( 且元の弟貞隆 ) まで、万一のおり、市正はどうするかと : : : 」 りてこまでい , フと、 おつもりであろうかと内々さぐりを入れましたるところ、 「何のために」 自分も兄にそれをたすねて叱られたと申されました」 「それは、まだそのようなことを口にするな。ご母公のお有楽は、ポツリと皮肉に間い返した。 「むろん、豊家存続のためにござりまする」 耳に入ったら何とするそ : : : そうした意味であったと申さ 「それだけではあるまい。豊家存続のためならば、一度太 れたそうじゃの」 傍から速水甲斐が言い添えたのは、同席している有楽閤がご養子になされた結城秀康どのにお子があろうが」 「しかし、越前侯は、あまり大御所とも将軍家ともお仲が に、早く事情をのみ込ませ、自分たちの意見を聞かせるた めらしかった。 よくない様子なので」 「すると、千姫さまはどうする気じゃな。まさか、叔父御 の忠輝どのと、添わせるわけには参るまい」 と、治長は、そのあとを引きとって、 に有楽は、近ごろ伸ばした細いあご髯をつまぐりながら間 2 「福島どのは、万一ご逝去のおりには、すぐさま大御所 乞うて、ただいま尾張清洲のご城主、四男の下野守忠吉どい返した。 : とのご意見にござ のを、ご養子としてお立てあるよう : りましたが : : この下野守さま、実はこのお方も目下ご病 「そうだ、女子どもの不幸は、もう見とうない。淀の方 床にあらせられまする」 は、それで納得あったとしても、千姫さまのことが後に残 有楽は、むつつりとした表情のままジロリジロリとみん るわ」 なの顔を見まわすばかりだった。 「そこでわれ等三人、いろいろ談合致しました結果、大久常真が口をはさむと、有楽は、ギロリとこれも眼でおさ 保忠隣さまがお見えなされたおり、先手を打って、一度当えた。 城へもお越しあった六男の忠輝さま、このお方を万一のお「わしは忠輝どのに賛成は出来ぬというのではない。が、 わにはご養子に下されるよう、内々でお願い申しておこうあまり自分たちの懐中勘定ばかりし過ぎて、大事なことを
: いや、私がそのご器量人は何誰 : : : などと申し上げ 「 , ・・ーー大御所さまは、何と言うてもお年でございます」 腹の中でそう言ってみたときは、もう彼の臉の中の映像る必要はござりますまい。そこで、こう致したいのでござ は、あの、ひと癖もふた癖もある伊達政宗の独眼の顔に変りまする」 わっている。 長安は自分と於こうの躰が、いまどのような形で抱擁し 「ーー太閤さまのお亡くなりなされたのが六十三歳、それあっているかなどすっかり忘れてしまっていた。 よりずっとお躰にご無理をなされて来ている大御所さま : それほど男の営みの中では、野心の夢の方が強烈なので : 大御所さまは、関ヶ関の前夜、すでに軽い卒中をお発しあろうか なされておわしました : : : それほどゆえ、せいぜい長生き 必ずしもそうとは限るまい。彼はいまの夢の中に、営み なされても、あと五年か七年か : : : 」 の恍惚までをむさばり人れようとするどんらんな鬼になっ そこまで言って、長安は、見栄もしどけもなくなってい ているのかも知れない。 る於こ、フに、 ふっと憐愍をおばえていった。 「ーー紅毛人の方は、お側に三浦安針が居ることゆえ、何 ( 女子というものは又、何と他愛のないものであろうか 時でも間ロはひろげ得ましよう。よってここでは、南蛮人 との交易面を、われ等でしつかりと固めておくのでござり ところで、大御所さまがご他界なされたあと、二代まする。それには幸いソテ、ロも、殿のお袖にすがって、商 さまに果たして、大御所さまのご思案にあたったような、権を失うまいと必死ゆえ、 : この辺にて : : : 」 南蛮人も紅毛人もひと呑みにしてゆくご気慨の、世界相手「てれで伊達政宗が、何か思いっかない筈はなかった。 の交易をお続けなさるご器量があるやなしゃ : : : 」 たとえそれが、二代将軍の暗殺であろうと、大坂を煽動 長安がそう言うと、独眼の政宗は、もったいぶってニタ : とそこまで夢を見た時に、 しての叛乱騒ぎであろうと : リと夭、つ。 於こうはいきなりガプリと長安の肩の肉に歯を立てた。 : おわかりでござりましよう。これは、日本「あ、いた、た、た : 国のためにも、徳川家の御ためにも、大御所さまのお志を その時だけ、長安はほんの一寸夢をすてた。 継げるほどのお方をお育て申しておかなければなりますま 776
「それに限りまする」 「或いはご病状など、市正は、・われ等よりよう知っている 松の丸殿は、あっさりと頷いた。 やも知れぬ。むろん駿府のことも、江戸のこともあれこれ 「他人を交えてあらぬ噂を立てられるより、ご肉親の内輪探ってあろうゆえ。なあ常高院さま」 の話でことは済むのじゃ。江戸の御大将も上方の御大将 松の丸殿は、さすがに太閤の寵姫の中にあっても、際立 も、みな浅井家の血筋につながるご姉妹の中ではござりま った才色の持主だっただけに、 こうした場合ふしぎな斬れ せぬか」 味を示して来る。 「松の丸どの」 「そうじゃ。それがよい。誰そある」 「はい。何そ : : : 」 淀の方は、声と一緒に性急に卓鐘をとって鳴らした。 「これは、こちらからも、先すもって片桐市正を、見舞い 「お召しでござりまするか」 に遣わしておくとしようか」 渡辺内蔵助の母の正栄尼であった。 ひろしき 「目儿舛い : ・・ : と、い、つより・も、年加貝が宀且しゅ、フ′ギ、りま 「おお、そなたお広嗷へ参ってな、片桐市正と有楽斎どの しよう。先方から病気を告げて来ているわけではござりまを呼ぶように申してたもれ。京から常高院と松の丸殿が参 せぬゆえ」 られた。みなお顔を見たいといわれる。内輪の集いゆえ、 「それはそうじゃ。たとえ御病気であっても或いは内密に気楽に参るようにと告げさせよ」 致してあることやも知れぬ」 「かしこまって」ざり・まする」 「されば年賀に遣わして、それと無う見舞わせられる : その間、松の丸殿と常高院は、またいたすらつばく眼交 それが大事 ! 知らぬ間にお亡くなりなされていた : ぜをした。 と、あっては手ぬかりになりましよう。そうそう、市正と ( 巧くいっこー これで話は、本筋へ人ってゆけるだろう も久しぶり・じゃ 。いっそわれ等が参った体にしで、市正や ら有楽斎さまやら、この席へお呼びなされては如何であろ どちらもそれが豊家のため、淀のお方のためと思ってい るので、心の底から得意でもあり、楽しくもあった。 「なるほどのう、それは、名案かも知れぬ」 392
思案から洩らさぬように注意しているのだ」 「すると有楽さまは、千姫さまのご処置をよう考えてあれ ば、忠輝どのを乞うのに敢えて不賛成ではないと仰せられ 「自分たちの懐中勘定 : : : ? 」 治長がききとがめると、有楽は、速水甲斐に視線を据える ? 」 直して、 有楽は、今度は皮肉に笑った。 「忠輝どのならば、切支丹になし得るお方 : : : という勘定「もう一つ、思案の中に入れておかぬと面倒なことにな はして居らぬかな。あのお方は、もはや奥方を迎えたころる。よいか、忠輝どのは、淀のお方にとってあかの他人。 じゃ。伊達陸奥守の姫をな。このお方は、細川忠興が奥方 だが、千姫さまはお方の姪じゃ。どうだな、姪を追って他 ガラシャどの同様、きつい切支丹信者だそうじゃが」 人を迎える。血は水より濃いものじゃそ」 「その点ならば : 速水甲斐の頬がポーツと紅を刷いて来た。むろん羞らい のそれではなくて、逆に闘志をかき立てられたと言った眼治長は言いかけて口をつぐんだ。自分が淀の方の寵愛を のいろだった。 受けている : : : 閨の中の情人として、納得させる自信があ 「では、奥方さまが切支丹ゆえ、ご反対だと仰せられまする : : : などと受け取られては心苦しいからであった。 るか」 「ようわかりました。とにかくそのようなことのないのを 「フン、早まるな。万一のおりは豊家の存続が第一か、そ祈りながら、しかし、大久保さまに訊ねられたおりに答え れともわが身の宗旨のために働くが第一か、はっきりけじる用意だけはしておかねばと存じまして」 めを付けてかかるものじゃ。それより万一のおり千姫さま「待て、その前にもう一つある」 「その前に : を何うする肚か、それをハッキリ大久保どのに言わずば、 大御所は不快に思われよう。忠輝どのはわが子ゆえ可愛ゅ「片桐市正じゃ。市正に異存の有無を確かめて、決して大 かろうが、千姫さまは孫じゃ。孫となれば将軍家への義理久保どのに歩調のみだれを見せてはなるまい」 もあろうし、世間体もある」 と、その時だった。常真の茶坊主がやって来て広縁に両 「なるほど : 手を突いた。 と、治長が、とりなすように引き取った。 「申し上げまする。ただいま千姫さま、栄の局を従えさせ 219
「鳴 5 甬日こ、 三隸案もござれば、何れこの儀はハッキリ と致させましよう。そして、その宮の控えの場所を江戸に 家康は、再び眼を閉じて、すぐには答えようとしなかっ建立、平素はここにおいでを願うてあれば、如何なる時に もご守護が出来ます」 「ふーも」 怒りは自分でおさえたのであろう、額の細筋はおさまっ : とばかりではな 、丸い首が一層深く 胴に滅人った感じであった。 「これはこれ、ただ万一のおりの用心 : く、それ以上の効果もござる。上様のご用心が、そこまで 「上様 : 及んでいるとわかれば、西で不逞を企む者もなくなりま と、天海は声をおとして、 「上様は人間の美点弱点ともにようご存知のお方でござしよう。大切なところの鍵は、しつかりと掛けておくの る。ご理想負け : : : では、人間という怪物は禦しきれませが、盗賊どもを救う道でござりましよう」 それでもまだ家康は答えなかった。 ぬ。それでは上様が押しつぶされる。上様がおしつぶされ 天海はしかし、自分の声がもう家康の胸をヒタヒタとた るようでは、後日の人の手に合うわけはござりますまい それゆえ、一品親王お一方、関東へご下向願うて、万が一たきだしているのをよく知っている。そこで、いよいよさ にも皇統の絶ゆることの無いよう磐石の備えをなさっておりげなく話しつづけた。 置きなされませ」 「人間は情を捨ててはならす、さりとて情に負けてはなり ませぬ。そのことは、理想は持たねばならぬが、現実を離 「人質 : : : などと仮に言う者があったとしても、そのことれては何も出来ないのと同じ : : : 上様ほどのお方が、退隠 を意に介しては相成りませぬ。いや、人質などではない : を早まっては相成りませぬ。いや、上様は遁げようとして : 箱根から東に、 かって一品親王の下向を乞うた神社仏閣 いるのではない。一時も早う次代を荷う者をお育てなさろ の、先例の有無を相調べ、そこにお出でを希うのでござり うとするのがご真意 : : : それゆえ申し上ぐるのでござりま まする」 する。来春のご上洛、上様のご行列はとにかく、秀忠さま のご行列は、先例の中でもっとも豪儀と思われるご行列を 3