秀吉 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 14
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1. 徳川家康 14

「若いおりから 、いったんいいだしたことにはこだわりまの時と同様に秀吉自身で、家康は、そうした秀吉の結んだ するが、根は正直な、竹を割ったようなご気性のお方 : 縁をどこまでも大切にして来ている。 大御所さまのご心情のわからぬお方ではないと思います」 京極一族にはそれがよくわかっている筈 : : : と、阿江与 の方は見ぬいていて、今度のことを引き受けたのに違いな 「も、フ何も申し上ぐることはございません」 つ」 0 正成は、あっさりと頭を下げた。 正成が恒例の冷酒と具足餅の馳走を受けて退ってゆく 「われ等は、駿府へ立ち帰りまして、ご吉報を持っことに 致します」 と、阿江与の方はすぐさま、民部卿の局を呼んで旅の用意 それにしても、御台所の用心深さはどうであろうか。実を命じていった。 こうしたことは少しでも早いがよい の姉、京極高次の後室だけではなく、亡くなった高次の 正月中であったら「年賀ーーー」という名で、どのように 妹、松の丸どのまで加えようというこのあたりの用心深さ は、阿江与の方が、いよいよ家康を見習って似て来たよう不自然な訪間も一応の形はついてゆくのだ。 にさえ感じさせられる。 「そなた、。 こ苦労ながら京の西洞院まで年賀に往んでたも 若しも淀のお方が、この京極家の扱いだけでも冷静に考れ」 えて見てくれたら、家康がどのように秀吉に義理を立てて そういうと民部卿の局はそれだけで、京極家の後室常高 いるかが了解出来ない筈はなかった。 院を訪うのだと感じとっていた。 京極氏は、六角氏と共に近江源氏佐々木一族の嫡流だっ 毎年京極家の奥方からも、今は幸福な妹阿江与の方の許 たが、高次の父高吉の時代に、淀の方の父、浅井長政に所へ鄭重な年頭の使者がやって来ていたからである。 領を奪われ、高次は幼時から幾度か身のおき場のない辛惨「常高院にお目にかかり、年が変れば喪もあけてあること にさらされて育っている。 ゆえ、何よりも後家になられた淋しさをよう慰めて来てほ それをつねに家康が庇護して来たのは、高次の妹、松のしいのじゃ」 丸どのが秀吉の愛妾であり、淀の方の妹が高次に嫁いでい まずそう前置きして、それからじっくりとその使者の意 るからであった。むろん嫁がせたのは、秀忠と阿江与の方味をのみ込ませにかかっていった。 378

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「あ、松の丸さまも : : : 」 いや、もう二人、力を協せて貰うたら : : : 」 松の丸というのは、淀の方と秀吉の寵を竸った京極の局 「もうお二人 : : : と、仰せられますると」 「その一人は京極高次どのが後家 : : : つまり、わらわのこのことであった。 秀吉の生前には二人はあまり仲はよくなかったらしい。 れも肉親の姉の常高院じゃ」 だが、秀吉が亡くなると、同じ運命の座に連る者として、 「あ、常高院さま : 憎しみよりはなっかしさが先になり、時々松の丸を呼んだ 正成も鸚鵡返しに答えて膝を打った。 淀の方と常高院と阿江与の方は、小谷落城のおりから何り、訪わせたりしているということだった。 度か共に戦火の間をくぐって生き残られた三姉妹ではなか 「常高院と松の丸どのに、わらわからの言伝じゃといわせ たら、姉君じゃとて心を解かぬものでもあるまい。そう 京極高次は、関ヶ原の合戦のおりに徳川方で大津城を守じゃ、わらわから、そっと常高院の許へ使いを出してみる っていて、一度は立花宗茂に城を渡して敗れたのだが、後としましよう」 に家康に召し出されて、若狭の小浜で九万二千石を領する ようになっていたのだ : その高次は去年の五月三日に小浜で歿してしまっていた 「なるほど、これはご名案 : : : 」 が、後室の常高院はいま、京都の西洞院の屋敷内に髪をお成瀬正成は、肚の底からそう思った。 ろして住んでいる。 仮りに淀のお方が歪められた情報で、家康や江戸に対し ( そうだ。達姫といった御台所と、むかし高姫といった常てかなり強い反感を抱いていたとしても、肉親の妹二人 高院どのと、二人で話していったら、淀のお方も心を尖らと、浅井家と血のつながりを持っ太閤の側室松の丸どのを せることはないかも知れない : 加えた三人に説かれたら、おそらく誤解だけは解くであろ : と、思われた そう思ったときに阿江与の方は、 「大坂のご母公は : 「もう一人は、それ、高次どのの妹御、松の丸どのがおい でであろう」 と、笑いながら阿江与の方は又いった。 377

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: はい。でも、そのようなことは一向に ないお家動にも発展しかねない。 「と、いうのはそなたが、事の重大さを充分知っていて、 というのは、今では家康の六男忠輝は、将軍秀忠のすぐ 三この直 かかわるまいとする証拠なのじゃ。よいか、二、 次の弟になっているのだ。 次がそなたに訊ねることがある。知っている事は包まずわ 二男の結城秀康もこの春の四月八日に越前で亡くなっ しに答えるのだ。さもないと、この直次は、こなたも、そ て、世上にあやしい噂を投げているところだ。 して、於こうどのも、秘かに斬らねば済まぬことになるや 一度豊太閤の養子になった秀康は、事毎に義弟の秀頼ー も知れぬそ」 同情し、兄の将軍にさからうので毒殺されたらしいという 噂であった。 むろん根もないことではあったが、五男の信吉、四男の ふじ女と名乗った女は、直次の言葉にはさして驚いた様 忠吉と続けざまに亡くなったあとなので、現存しているの は三男の将軍秀忠の次は六男の忠輝で、そのあとはすっと子はなかった。或いは咄嗟のことで、言葉も意味もよくわ からなかったからかも知れない。 幼い五郎太丸以下の三人になってしまっている。 それたけにもしも忠輝がそのような企みの渦中にあると 「於こうどのが、こなたにこの書面を托したこころは、い うまでもなく、この直次から大御所さまに申し上げて欲し いう噂になったら、秀忠はとにかく、その側近が治まるま いと思えばこそじゃ。な、そうであろう」 い。それに伊達政宗は、秀吉以来の要注意人物と、日本中 し」 に聞こえてしまっている謀将なのだ。 「ところが、これはうかつにお耳に入れ得ることではな 「そなたは、何も知らぬと申したが : ・・ : 」 安藤直次は、ジーツと女を見詰めたままで、 「 . ・ : : で、′」ギ、・ましよ、つか」 「これは、知らずに訴え出たでは済まぬことだ。よいか 「むろんのことじゃ。よう考えてみるがよい。これは大御 の、大久保長安はとにかく、上総介忠輝さまは、大御所さ まのお子であり、そのご生母は今も、大御所さまのお側に所さまご親子の間にも、将軍家ご兄弟の間柄にも大きなヒ ビの入ること、お耳に入れた後で、間違いましたでは済ま 仕えてござる茶阿の局じゃ」 し」 307

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豊光寺の承兌に朝鮮使節の接待と、西洋渡航の朱印状のの大行列をひきいた秀忠が、道々人々を驚倒させながら伏 ことを命じて帰すと、家康よ、、 ( しよいよ秀忠の伏見到着を見城へ人ったのは三月二十一日。 待つばかりになった。 それはまさに醍醐の花見以上の大盛観で、秀忠が参内し いや、その間に、書き落せない退隠の準備がもう二つな たのは三月二十九日。家康が、将軍職を秀忠に譲らんこと されていた。 を奏請したのが四月七日。 その一つは、鎌倉幕府創業の記録で、家康の愛読書でも そして、伏見城から二条城に入った家康が四月十日に参 あった「吾妻鏡」活字本の刊行を促進することと、藤原惺内すると、十二日には、豊臣秀頼は右大臣にすすめられ、 窩の推薦による林道春の引見とであった。 それから四日後の四月十六日には徳川秀忠に将軍宣下。家 前者は、何がゆえに征夷大将軍が、諸大名の上に君臨し康の構想は文字どおり順風満帆の感があった : てゆく必要があるのかを、暴れ仲間であった諸大名に知ら せるため、無くてはならない治国方針の「早わかり」であ 光る波かげる波 り、後者は、教学の府の担任者たるべきその人物を見極め て、一時も早く朱註による儒学をひろめ、きびしい道徳を もった教学の根を張らせることの必要からであった。 それだけの準備がなされなければ、秀吉死去の年齢に、 われとわが身から退隠してゆく者の心構えとしては貧しす家康の将軍職を辞した慶長十年四月十六日は、家康が生 ぎる。 まれた天文十一年の十二月二十六日から数えて、六十二年 信長は断において家康にまさり、秀吉は快活な智謀におと百十余日にあたっている。 いて家康にまさっていた。家康は、その二者の美点をとっ 秀吉を伝説どおり一月一日の生まれとすると、数え年六 とお て、これに合理の筋金を透してゆくのでなければ意味はな十三歳の八月十八日に亡くなった彼の生涯は、六十二年と 二百六十日あまり : : : つまり、両者の差約百五十日 : : : 秀 こうして、家康の考えぬいた構想の一翼をなす、十六万吉の死去した日におくれまいとして、家康が世を譲ったこ 106

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話しだしてみると、これはわかりきっていることながら阿江与の生活が開花することになっていたのではなかった むずかしかった。民部卿の局がすでに、豊家と徳川家と 始め阿江与は、茫然としたり、反抗からわざと妬心をあ は、心底では仲のよい筈はないもの : : : と、決めてかかっ ているようだった。 らわに秀に叩きつけていったりした。 ( どんな時にも、人間にはこれで足りるということはない 四 ものらしい しかし、もう授からぬものと諦めていた男の子が竹千 : と、阿江与の方は思った。 無理もない : あらゆる謀略の限りを尽して、父も子も、兄も弟も、、い代、国松と産れて来ると、阿江与の方の考えは変わらざる を許さぬような乱世が、つい昨日までの世界のことであつを得なくなった。 家康が何彼といえば口にする「神仏 」の存在に嘘は ないような気がしだした。 それだけに、人間の考え方そのものが、異常になって、 しかもそうなると彼女のそれまでに課された不幸の数々 正常に戻らぬままの部分が多い。 は、みなかく別の意味を持って甦って来るのであった。 ( わらわとて、これが貧乏公卿の後家のままであったら、 試練 : : : 過去の不幸は、その門を通りぬけた場合にのみ 何も信じようとしなかったに違いない : 事実、二度目に嫁した秀吉の養子、丹波少将秀勝 ( 信長与えてやろうとする、素晴らしく大きな幸運の前奏だった ような気がする : の実子 ) に亡くなられた時から自分の生涯はこれで終わっ その頃から、阿江与の方は、ほんとうに家康を尊敬しだ : 人生とは又、何というむごい拷間の場であろうか と、人も世も呪い続けたものであった。 それが三度目の良人にも死別し、更に強引に、年下の秀家康こそ、その神仏の試練に耐えて来た現実の人間では に娶合わされることになった時には、もう半分は死んでなか 0 たのか : いや、家康だけではない。その頃から、阿江与の方は良 しまった気持ちであった。 ところが、その強引な秀吉の計らいに、実はほんとうの人秀忠を、しんけんに見直すようになっていた つ」 0 379

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そこで二人は声を合わせて笑った。 「それゆえ頼母しく存じました」 しよいよ大きく変わられた : ( 家康どのは、、 「古い古い」 秀吉は、こうした家康を知らずに死んだが、ここまで来 家康は、手を振ってさえぎった。 「忠輝の眼つきをご覧なされたであろう。あれは、まだ戦れば、ほんとうに秀頼をわが子と差別なく抱きとって呉れ くさむら 国の眼じゃ。隙もあらば喰いっこうとして、叢で獲物をるであろう。 高台院は、もう一度改めて秀吉の顔を臉に思い描きなが 狙う蝮の眼じゃ」 ら合掌した。 「まあ、ひどいことを・ : ・ : 」 「そういえば、土井利勝どのが、ずっと現場でお指図下さ ・泰平の世の男の眼は、正信のように細くなる。 眠って居るようで眼覚めていて、何も見ぬようでみんな見れ、高台寺の普請は思いのほかにはかどりました」 「その筈でござる。というのは、将軍家はそう永く江戸を ている : : : もっとも、忠輝や秀頼どのに今からそうなれと 申してもこれは少々欲すぎる。忠輝が、わしを笑うも、秀留守には出来ますまい」 「それはそ、つでごギ、りましよ、つとも」 頼が上洛をことわるも、同じ根による若さの反抗 : : : ま 「わしはそれをよう知っているゆえ、土井利勝を現場の奉 あ、ゆっくりと見ていてやりましよう」 行に加えたのじゃ。あれも又将軍家と共に江戸へ戻らねば 高台院は、大きく息をして、ようやく笑顔をとり戻した。 相成らぬ。そこでいやでも工事ははかどる」 「何分ともに、秀頼さまのこと : いたわ 「長い眼で、労って見てやるうちには育つものじゃ。人が 高台院は、ここで一つ皮肉がいって見たかった。それも 人を育てる面も確かにある。が、神仏が育てる面はもっと 戦国時代の戦略につながる古い考え方の一つではないかと 大きい」 「では、大御所さまに頼む代わりに、神仏に頼めと仰せら しかしそれはいわなかった。やはり高台院は、秀頼と豊 れまするか」 : そんなものじゃ。殊に尼どのは、そうするお気家のため、家康には一目も一一目もおかねばならぬと、われ とわが身の勝気を押さえた。 で仏門に入られた筈ではなかったのか」 133

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を抱きこんで、それからわらわにも、話を聞かせてくれた満の道だけを歩かされた女性であった。 わけじゃの」 高台院と秀吉の間には、身を尽くして交わりあう若い日 とにかくご上洛となりますると、充分に手落ちの の睦みがあったであろうが、淀の方にはそれは無かった。 ないよう計ろう必要がござりますゆえ」 はじめから年齢の差を思うまいとする被征服者の立ち場 であり、ようやくその立ち場を克服したころには、人生の 「修理」 「十、ツ 坂をのばる者と下る者との違いが大きく二人の間にわだか し」 まっていた。 「そちも市正から、このことは聞いて居ろうな」 「はい。高台院さまよりお話のあったことは存じておりま これは秀吉にとっても大きな負担であったろうが、淀の する」 方にとっても、たまらなく大きな不満であった。 「そちはそれを、何故今まで黙っていたのじゃ」 そして、その不満の結品として目の前に立ちはだかって その次にはいち そこまではまだ穏やかな口調だったが、 いるのがいまの秀頼であった。 どに癇立った声に変わった。 はじめは秀頼を溺愛することで、一切の不満を忘れよう 「なりませぬ ! たとえ誰が何といおうと、秀頼さまを上として来たのだが、秀頼自身は一向にそうした母の希いに 洛させること、このわらわが許しませぬ」 ははまらず、勝手に一人の我儘な男として歩きだしてしま っている。 ( いったい何のためにわらわは生きて来たのであろう : 淀の方の癇立った高声は、近ごろではさして珍しいこと ではなかった。 妹の阿江与の方は見事に秀忠をにして、たくさんの子 かげで人々はこれを「後家の高声 , ーー」と呼んでいる。 宝にめぐまれ、ついに三代将軍にもなるべき竹千代まで挙 げている。ところが淀の方は、たった一人の秀頼ともいよ その呼び方には軽蔑もあったが、また同情も憐愍もふくま れていた。 いよ距離を大きくして、今では母の意志などたすねようと 女性としては、淀の方はまことに同情に価する、欲求不もせす、大事をひとりで決めるようになっているのだ : れんびん 172

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「ーー・でもお祖父さまが、そんなにきびしく躾けようとし秀吉が、どんなに秀頼を愛したかという話は、あらゆる て、若しもみんながひがむようなことがあったら : 人の口から繰り返し聞かされた。そして、当然秀頼は、天 千姫がその疑問を口にしたとき、或る者は笑い、或る者下の主でなければならないのだと、非難まじりの皮肉にも はたしなめた。 度々出あった。しかし天下人になるためのしんけんな教育 大御所は、三人のうち、もしひねくれて大名に価しないを、誰がいったいしようとしたか ? 者があったら、さっさとその座から引きおろし、不都合が第一秀吉が、そんなことをしていた様子は全くない。風 あれば切腹もさせるだろうというのであった。 邪を引かせないための心配や、泣かせないため、転ばぬた わが子 : : : という理山だけで、ご大身の大名にするといめの心尽しはあたろう、しかしそれだけでは、無事に育ち うのでは、大御所自身の良心が納得すまい。 はしても、天下人の教義とは無関係ではないか : そこで、それぞれ大名にする代わりに、それにふさわし 「ーーー大名は多くの領民を預かるのです。その責任を幼い い器量の人間に鍛えあげておく : : : そこに無限の愛情があ心に灼きつけておこうとなされて、美味いものは家来たち るのだと説明した。 に、そして大将は乾飯をと : : : そうお聞かせなされ、実行 「ーーー、幼い方々に、それそれ封地をあてがわれたのは、ご させておわすのに違いござりませぬ」 自分の年齢をお考えなされたうえのことながら、このよう 千姫が、折りがあると秀頼の居間にたすねるようになっ にしてやるゆえ、このような、封地をお預けなさるにふさ たのは、ただに思春期に入ったせいばかりではなかった。 わしいご器量の人間になってくれよという、しんけんな親 ( 可哀いそうな秀頼さま : : : ) の祈りがこめられて居ると存じまする」 秀頼の食膳にはいつも三分の二は食べ残されるほどの馳 そう説かれた言葉が腑におちればおちるほど千姫は、淋走が並んた。そして、侍女や小姓たちは、それを以て「天 しさが増していった。 下人にもなられるお方ーーー」にふさわしい御膳だと思いこ 何彼と言えば、彼女の想いはすぐさま秀頼につながってんでいる。 くるのだが、秀頼の育てられた環境はどうであったろう : なるほどそれで五体は見事に育つであろう。が、天下人 にふさわしいほどの、中身の、精神面はどうなっていくの 240

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ない。その一つは伊達政宗の性格についてであり、もう一 が光悦の癖でもあった。 つは大久保長安の人間についてである。 「他のことでは申し上げることはごギ、いません : : : が 家康はどあらゆる種類と立場の人間に、よく眼のとどく 一つ光悦が心にかかって居りますのは上様の宗旨に対する 人は珍しい。それでいて人間には幾つか肓点があるものだ御態度でござりまする」 「なに、宗旨の話 : : : 光悦、そなたはわしに、宗旨変えを たとえば信長は新奇好みで、少々変わった働き者でなけ せよというのではあるまいな」 ればすぐに飽きる癖があった。そのため、荒木村重をそむ 「いや、宗旨変えをして頂かなければならぬほど、上様の かせたり、佐久間、林などの旧臣を追わせたり、明智に叛ご信仰が浅いとは思いませぬ。しかし かれたりしてしまっている。 といって、光悦は、言葉の選択にしばらく迷い、それか 秀吉にもそれはあった。これは利休居士を切腹させた晩ら思い切っていってのけた。 年特にいちじるしく、追従者にしてやられて諫言の耳に入「つまり、他宗に寛大すぎる。この心は逆に申し上げます らぬおごり地獄へ堕ちていった。 ると、またまた信仰が甘いのではあるまいか : : と、光悦 秀吉自身、ほんとうに信長に、い服していなかった癖に、 は、いにかかるのでごさりまする」 追従と才覚で取り繕って来ている。晩年になって逆にそれ「ほう : が性癖の中へ滲み出して来たような気が光悦はしている。 家康は、妙なことを訊くものだという顔つきで、しばら 家康は、それに比べると欠点は少なかった。人間にこれく黙った。 以上隙のない完全さを望むのは、望む方が無理かも知れな 「上様、私はやはり、何宗とも争わず、何宗とも平等に交 : と、思わせるほどでありながら、やはり小さな肓点易一 9 る : : : そのような態度は甘すぎるのではないかと存じ と思えるものが残っている。 まするが、如何なものでござりましよう」 「おお何も遠慮はいらぬぞ。申してみよ」 「フーム」 大らかな表情で向き直られて、光悦は、ちょっと固くな 「いや、決して上様に日蓮宗になって頂きたいなどと申す った。が、固くなるはどそれはいわすには済まされないののではござりませぬ。同じ切支丹宗の中で、南蛮、紅毛の っこ 0 197

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家康はそれ以来、近侍の眼にも、いくぶんもったいぶつ を忘れずに行動して欲しいと言った。 どこまでも校長は家康で、林道春は教頭にすぎない。校た姿勢になった。 長に、きびしく道を行なうこころが無ければ、道春が逆立道春も若者らしい情熱を燃やしているのだ、が、功成り 名遂げた家康にも、まだ少年のようなところが残ってい ちしても教学の筋は通らぬというのである。 る。 「ーーーよ / 、、いに入った . トンキン 九月三日に角倉与市に東京渡航の朱印を授ける時など、 家康は、笑いながら、しかし幾度も頷いた。 「ーー圭たる者は、つねに、洩る舟に坐し、焼くる家の下家康はいかめしい顔で言った。 「ー。・ー・・・・よいかの、礼を正さっしゃい。 外国のあなどりを受 に臥す心根が肝要なのであろう。この家康が先生を裏切る ことはよもあるまい。わしも六十余年、あれこれと考えてくるも尊敬を受くるも、礼がもとじゃ」 参ったからの」 五 そして、家康自身の感懐を、 この身の道理をのぶれば天地に満ち、天地の道理を - 。かネ・ーー・」について、深い関心を示しだしたのは 縮むれば、わが一身のうちにかくれる」 確かに林道春の影響らしかった。 人と天地とはもともと一体、それを悟って、愚かな者それまでは家康は、どこかで秀吉の隔意ない対人法にあ も、貧しい者もみな、わが一身のうちのこととして生くるる種の憬れを抱いているかに見えた。 しんじよ、つ のが家康の信条であり悟りなのだと告げてゆくと、道春は いかにも気さくに、誰の肩でも叩いて胸襟を開いてゆく 眼を輝やかせて逆にこんどは感動していった。 ・ : そんな人交わりは、秀吉には出来ても、家康には出来 これは恐れ人りました。まさにその通り : : : 上様 なかった。出来ないだけに、却って羨望をおばえていたの は、まこと人間の大樹でござりまする。大樹は四方に偏っかも知れない てはなりませぬ。いや、偏っては茂らぬゆえ、ひろびろと ところが、それは逆に人間を軽薄にして合理の線から逸 枝葉を伸ばして大樹に育っ : : : 林道春は、その大樹の下脱させ易いと反省したらしい で、よろこんで誠の道をひろめましよう」 したがって、夜になっての雑談のおりなども、例の説教 183