伊達政宗 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 15
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1. 徳川家康 15

「相わかった」 まっていた。 と、又右衛門宗は大きく頷いた。 悪い時には悪いことが重なるもので、服部正重からの報 「ご貴殿は、その証拠をすでに江戸へ差し立てられた。そ告で、 れで充分お答えになって居るようじゃ。では、これでご免「 , ー・・・・大久保石見守に叛心があった : 豕り・ましよ、フ」 と、いう風評はすでに重臣たちの胸で、動かすことの出 「何とそ、御前体よしなに」 来ない「真実・ー・ー , 」になってしまっていた。 「、い得ました」 「ーー・・、婿が申し出るのだから嘘ではない」 そういって立ち上がって、 とにかく相模守を呼べ。相模守がこうして連判状に 「幼少なものは、なるべく労ってあげたいものだが」 署名している以上、当然これは糾明の要がある」 ポツリと一つ謎を残してそのまま別れた 秀忠の側近には何といっても反大久保の色が濃い。そこ 正重は立 0 て送ろうともしなか 0 た。おそらく口と心ので土井利勝の名で大久保忠隣に登城を命じたのだが、事情 間には大きな矛盾がわだかまってあったからに違いない。 を知らぬ忠隣は登城を拒んだ。 ( どうしてあの石見守が、それほど大それた悪人などであ「ーー老来、気分すぐれす、御用ならば使者をも 0 て病床 るものか : : : ) まで仰せ聞かせられたい」 そう思っている点では、この婿も又右衛門宗矩と大して もともと嫡子忠常の死去に傷心を深めて、殆ど登城しな 相違のある筈はなかった。 くなっている忠隣だった。むろん本多正信が側近にあっ それなのに、逆に火の手を煽ってしま 0 ているのは何とて、思いのままに秀忠を動かしているのが、不快のもう一 したことであろうか : つの原因であったろう。そこへ、更に大久保長安の計報が 届いているので、がっかりした彼が病床に就いたとしても 不思議はなかった。 又右衛門宗矩は、江戸へ着いてみてびつくりした。それ ところが、城中側近への反応は全く逆であった。 彼が考えていたよりも数十倍もはげしい大火になってし 「ーー・事、露顕と見て登城せぬ。こうなれば相手に用意の 216

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つらしかった。 遅らせては正純の疑惑をうけかねない。 そういえば家康の正純に対する信用は異例のものであっ 正純にいわれたとおり、とこうの思案は道中ですること にして、正重はそのまま八王子へ向けて出発した。 た。今でもその父親の正信に時々「そち」とか「佐渡」と 一方、本多正純が、早朝に登城して家康に大久保長安の か呼び捨てにして叱りつけることがあったが、正純にはそ 死を告げると、家康の眉は曇った。 のようなことは無かった。 「茶阿、線香をあげてやれ」 その意味では豊太閤が晩年に、一にも二にも石田三成で それからロの中で唱命しながら日課念仏の筆をおいて正あったのとよく似ている。 純に向き直った。 或いは三成の轍を踏むまいとして、言葉遣いの端にまで 「家督のことなど、何もゆうては居らなんだか」 自戒しているのだともいえた。 「服部正重が、何か申していたのか」 正純は、儿帳面に答えておいて、 二人きりになると言葉はまた平素にもどった。 「お人払いを願わしゅう存じまする」 「上様、これは、所司代の板倉どのも、それから成瀬、安 : と、申しても茶阿と小女だけだが : 「なに人払い ・ : 」藤も、みな案じていることで。大久保石見守の世評がわる しいかけて頷いて、 すぎまする」 「みなしばらく座をはすせ。上野どのが大事なお話がおあ「それで : : : ? 」 . り・のよ、つじゃ」 家康は、相変わらず浮かぬ表情で、 近ごろ家康は意識して、人の前では正純にどのを付けた 「何か、証拠でも出て来たと申すのか」 り、敬語を口にしたりするようになっていた。近臣や侍女「まだ証拠はござりませぬ。しかし、所司代の許へ本阿弥 たちはおかしそうに面を伏せたが、家康は大まじめであっ光悦が、妙なものを持参しましたそうで」 「なに、光悦が 何れ自分の死後は大老格で諸侯に接する : : : その正純に 「はい。それは、都の画工宗達と申すものの絵によく似た 重みをつけておいてやろうとする、これも後々の用心の一秋草の図を塗りなし、緑の宝石をあしらった小箱たそうに てつ 201

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でいるからの。何ぞ彼等から、耳よりの話でも聞いたおり られていた。 には、泰平維持のためじゃ、洩らして下され」 光悦は、息を詰めてそれを読んだ。 そういって帰ってゆくと、光悦は、しばらく茫然と坐っ 読みながら時々赤くなったり舌打ちしたりするのは、於 ていたあとで、あわてて、於こうの届けて来たという緑のこうが柄にもなく、光悦を忘れられない初恋の人として、 感傷を綴った部分が出てくるからであった。 ト箱に気がついた。 ( あの女 : : : 自分の暮しに不満を覚えるたびに、とんだと ( そうだ、中に何ぞかくして入っているかも知れぬ : : : ) ころへ逃げ込んでいたものた : 於こうが光悦を真剣に愛していたという言葉は、几帳面 な光院には、とてもそのままは信じ切れなかった。義妹が 光悦の想像は的中していた。 於こうから届けられた小箱は、ふたを取ると中はカラで義兄を恋慕する : : : そんな想像は、光悦にいわせると、そ あったが、耳もとで振ってみると、かすかに紙のすれ合うのまま姿勢の乱れた、許すべからざる不倫のような気がす ような音がする。中に空洞が出来、二重底になっている証るのだ。 しかし、於こうが、自分に敵意を抱くかわりに、肉親と 拠であった。 して縋りきっていた心根はわかりもしたし哀れにも感受さ そこでもう一度たんねんに紐を解いて蓋の喰い合う部分 れた。 を調べてみると、金砂子になっている内側の箱が音もなく とにかく於こうは、光悦が想像していたとおり、大久保 とれていった。 長安との愛欲生活に、そのまま没入出来る女ではなかった 「あ : : : やつばりそうだ ! 」 そして、その底には、光悦にも見覚えのある宗達の売りらしい 憎みながら愛し、愛しながら憎んでゆく女の宿命が、や 出した土産ものの絵紙がぎっしりと詰めてあった。 しかもその一枚々々にこまかい細字がび 0 しりと書付けりきれない切なさで筆のあとににじんでいた。 読み終わるまでに一刻あまりかかった られている。それぞれ書いたおりの日付があり、時には一 そして、於こうが光悦に訴えようとしているのは何であ 枚の紙に「光悦さま」という宛名が二つも三つも書きつけ

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ーー」の礎石 駿府城へは帰れず、さりとて、いったん出発した江戸城しかし、それ等はかくべっ彼の心に「安心 の西の丸にも戻れなかった。そこで、しばらく中原やら小 を据えはしなかった。 杉やらに留った頃を想うと、今でも胸が冷たくなる。 戦が無くなって十四年 : : : すでに戦国を知らぬ若者たち ( ここが大事じゃ。ここが人生の締めくくりをせねばならが巷にあふれて、彼の説く「泰平ーーー」のありがたさは、 ぬところ : : : ) 彼等の、い肝に通らぬようになりたしている : 家康は小杉で忠隣の追放を決心すると、再び江戸に戻っ 何よりも、真田昌幸の子の幸村までが、ついに彼の憂い て、切支丹のことは金地院崇伝に、自分の死後の用意は、 を理解しようとしなかった : : : そのもどかしさは、身内を 喜多院の天海を招いてこれをはかった。 引き裂かれるようであった。 今考えると自分でもおかしくなる。 ( 又、あの惨めな、戦国乱世になってもよいというのか ( こんどは、この始末のつかぬ間に死んでゆくのではなか つ、つ、か・ しかし、この叱呼の声は今の若者たちの頭上では、春風 そうした不安が濃くなって、急に家康は、和歌が詠みた と同じひびきしか持ち得ないもののようであった。 くてたまらなくなって来た。 忠輝もそうであったが、秀頼にしても例外ではなかっ た。自身は泰平の中に身をおいて、易々と暮らしていなが はっきりと「辞世の用意 」とい、フ亠臥はなかった ら、どこかで波瀾にあこがれている。 何か訴え残しておこうとする切ない本能のあがきたっ 冫育しかかって来たらひと たらしい しかも、その波瀾がほんとうこ、 たまりもなく覆滅してゆくであろう。 そこで彼は駿府へ戻ると、曹洞宗の法問を聴きながら、 ( 実力などはまるでないのだ : わざわざ冷泉為満を京から招いて古今集の伝授を受けた。 こうしたことを考えながら庭に立ってあやめの花に対し 林道春にもう一度論語をはじめから講義させ直したり、 五山に命じて群書法要、貞観政要、続日本紀、延喜式などてゆくと、家康は大声をあげて泣きたくなった。 の中から、永世にわたって公武の法制の基となるべきもの ( 七十三年のわしの生涯もまた、ただの悪夢であったとい 、つの、か・ を拾い出すように命じたりした。 347

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と、す そこで彼は、その僧侶そのものを仏教と観、禅と割り切 日本人は、決してキリシタン信者だけではない。 ってしまったのかも知れない。 れば、キリシタンの新旧両派の対立抗争によって、他の日 へんきよう ( わしの日蓮大聖人にささげる信仰はそのように偏狭なも本人を動乱に捲き込むようなことがあってはならない筈た のてはないそ : : : ) 光悦は、すぐそのことから自分を省みて、いくぶん顔の 考えてみると、自分と本家の光刹の争いなど、その点で 赤らむところが無くもなかった。 はまことに日蓮大聖人に面はずかしい小事であった。 信仰は、人それそれを幸福にもするが盲目にもする。盲 人間はこうした小事を超克して、より高い真理をめざし 目の信仰は迷信に堕し、やがて、信仰者自身に手痛い裏切て生きてこそ生き甲斐を感じ得る : : : そう思うと、光悦は りで報いて来る : 早速利長に会って、再び都に住みたい旨を打ち明けた。 が、間題は、そうした熱烈な信仰を持つものが、その宗 利長は大賛成だった。 門の危機を感じとったときに、ど、つ動くかとい、つことだっ 利長が光悦の生活を援助しているのは、いわば彼から都 の情報を得たいからで、決して彼を側に侍らしておきたい からではなかった。 ( 仮りに、大御所が、日蓮宗門は叩き潰せ ) と、いわれたとする。 こうして、光悦が加賀を引き払い、都へ出て米たとき そうした時に、光悦は手を拱いて、その命令に従うこと は、すでに夏であった。 が出来るかど、つか : 「ご無沙汰いたしました。長らく都に住んだ者には、どう ( 出来る筈はない ! ) も田舎暮しは向きません」 と、すれば、当然、三浦安針によって、宗門の危機が招本家の叔父光刹をたずねたおりに、そこで光悦は、光刹 来されたと信じている、南坊はじめ、多くのキリシタン信の手から、例の美しい緑の小箱を渡された。 者は、黙ってこれに従う筈はないという答えになる。 一止廾八王子にある於こうが、光悦の許へ届けて呉れるよ その答えがハッキリした時に、光悦は加賀から腰をあげ うに : : : そういって送って来たゆえ、加賀へ便りを求めて たといってよかった。 いたところたと光刹はいった。 、 ) 0

6. 徳川家康 15

そう てもう一人は堺の宗薫であった。 室お六の方だけを側において且元を自室に通した。 なおのふ それ等の人々の情報によると、上方では、大仏殿の供養お六の方は、黒田五左衛門直陳の娘で、家康の死後喜連 を期して旗挙げ と、見る見方が決定的になりつつあっ 川頼氏に遺一言によって再嫁した側室の中の最年少者であ る。 ト呂吏 すでに諸国の牢人は続々として京、大坂に集まってい 十三歳のときから側にあって、側室というより、 る。いちばん悪い想像は、大仏殿前に集まった大群衆が、 い兼看護婦といった存在たったのだが : そのまま蜂起して武器をとり、一挙に二条城から所司代屋それが「側室ーーー」にあげられたときに若侍たちゃ侍女 嗷を襲撃し、更に、禁裏へなだれ込んで行きはすまいかと たちの間に二つの噂が流れていった。 いう想像だった。 若侍たちの噂はたぶんに羨望をかくして家康の健在を讃 ( そんなことをさせてよいものではない : えるものであったが、侍女たちの解釈は逆であった。 片桐且元がやって来たのも、それに無関係ではなく、果お六の方から家康にいい寄ったというのである。 たして秀頼が大坂城を出る気になったかどうか ? その見 ただの腰元衆でいようより、お部屋さまで未亡人になっ 通したけは立てて来る筈であった。 た方が、ずっとよい身分の大名の許へ再嫁出米よう。それ 家康は、額に暑い陽射しを片手でさえぎりながら、ゆっ を計算して、お六は炬燵代りにすすんで家康の閨へ入って くりと居間に戻った。 いったというのであった。 中庭を隔てた一棟では、今日もせっせと僧儒たちが机を或いは家康も、そんな気持ちで近づけたのかも知れな 並べて、古書の書写にあたっている : い。時おり眼を細めて、 こなたはまことに気のつく女子じゃ。わしも長いこ とはあるまい。こなたの身の立つように考えておいてやら 片桐且元がやって来たのは、それからまた半刻、すでにねばのう」 足腰を揉ませながら、そんなことを侍女たちの前で洩ら 八ッ ( 午後二時 ) に近かった。 家康は、わざと正純や直次は遠ざけて、まだ十六歳の側すことがあった。 349

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「如何にも」 位の気力はまだまだ失っては居らぬつもりじゃ」 と、信十郎はかすかに頷いた。 もう一度又右衛門は声をたてて笑った。 「兵法の腕ではの、おぬしの方が、幾分わしに立ちまさっ 「わしが大事を打ち明けた。それをお身はニべもなく断わ ているに違いない。そうなければ、石舟斎どのが、お身を った。そこで、わしは止むなくお身を斬ろうと思うた。す 大御所に推挙はせなんだ筈じゃ」 それは兵法たけかの信十郎。それだけではなるとお身は、六人でわが周囲を固めながら、お身の方から はべつに斬りかからぬ : : : そういわれるわけじゃ」 い。ここの間題じゃ」 「それが、石舟斎どのの訓えと思えばこそじゃ。したが、 又右衛門も一度あげた切ッ尖をおろし、離した片手で胸 先に斬ろうと心を決めたはお身の方、遠慮は一切無用と思 を指さした。 「どうじゃ。闘志を出さぬか。出さねば話は決着せぬそ」わっしゃい」 と、その瞬間だった。 信十郎は蒼白く表情を硬ばらせたままで首を振った。 「わしの方からは斬りかからぬ。胸の問題 : : : といわれて パッと、右手の若者の槍のケラ首をはねのけて、又右衛 3 は尚更じゃ。石舟斎どのの剣の極意は不殺刀にある」 門の躰は庭先へ飛んでいた。 「なんじゃと」 「追うなツ と、信十郎が一喝した。 「すすんで斬るは、道義不明の戦国時の殺人刀 : : : それを 犯しては、わしは石舟斎どのに、あの世で破門されるであ 一喝した時には又右衛門の躰はもはや芍薬の花を背にし ろう。斬りかかられよお身から : : : 」 て、真直に刀を座敷へ向けていた。 「信十郎の阿呆めが、父の名を出して、わしの闘志を鈍ら せ居ったわ」 と、又右衛門は一息吐いた。 「これはしたり、奥原信十郎豊政は、道理を述べたまでの 「味な知恵を出されたそ信十郎が」 こと : 「さよう、われ等はどこまでも守勢で参る。無刀取りの秘 奥とまでは参るまいが、お身の刀術を受けて立っ : : : その 「聞かぬ ! われ等の弱味を知っていたのじゃ。卑怯な奴

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は、実は都から来た公卿の姫 : : : そのため彼女も幼時から 若い女が声をかけたが、老嫗はちらっとその方を見ただ 姫と呼ばれ、それがそのまま嫁してからも「御前ーーー」と 〕で筵のうえの小豆選りをやめなかった。 髪があまりに白すぎるせいで、皮膚のいろが赤く見え尊称されることになったらしい 子供もまたたくさ この春桃御前は、美しくもあったが、 しかしその顔だちは、おかしいほど柳生又右衛門そっ ん産んた。 、りだった。 又右衛門の生母 : : : というよりも、柳生石舟斎の正室と長男の厳勝、二男の久斎、三男の徳斎、四男の五郎右衛 」て、この隣りの奥ヶ原から嫁いで来ている春桃御前であ門宗章、五男の又右衛門宗矩の他に女子も四人産んでい る。それだけではなく、妾腹の子たちもまた手許に引き取 って、みなそれぞれ似合いの縁を求めて嫁がせている。 すでに七十歳を越えた老嫗の「春桃御前」もおかしかっ そして、良人石舟斎の死後は、ひとりこの里に残って、 」が、里人たちもいまだにそう呼んでいるのだし、ご本人 その菩提を弔いながら静かに余生をすごしている。 そう呼ばれてご機嫌のようであった。 「小豆の虫を選りおわ 0 たらな、又土いじりをするゆえ 御前の父は奥原遠江守助豊といって、このあたりでは柳 に、陶土を水にひたしておいてくれぬか」 亠家と肩を並べ、南北朝時代から何か大きな動乱のあるた 召し使いの小女が、側にいると思ってそういったとき、 ) に志を合わせて戦って来た豪族の家柄であった。 その奥原家から輿入れした娘をなんで「春桃御前」と呼彼女の手許に影が射した。 誰か人が来て立ったらしい。老嫗はゆっくりと顔をあげ かのか、今の若い村人の中にはもう知らないものが多い。 しかし年寄りたちは、 となたであろ、フ : 「はて、お客人でござりましたか。、、 「ーーそれはお美しくて、やさしくて、春の桃を見るよう 小女どもがご案内もせいで : : : 」 はお方でな」 と、なっかしそうに述懐する。 立っている人影は笠の端に手をかけて、なっかしそうに 裏山を見上げている。 このあたりの豪族ぐらいでは、 「御前 , ・・・ーー」という呼び方は稀であったが、彼女の生母「相変わらす、四十雀が、いつばい来て居りますなあ母上」 つ」 0

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主上が、政仁親王 ( 後水尾天皇 ) に正式にご譲位なされ 離れた放縦さで展開すると、対人間の感情を滅茶々々にし たのは、翌十六年の三月二十七日のことであったが、その かねない とにかく後陽成天皇は、その風紀のみだれに逆鱗なされため家康は、十五年中に米せなか 0 た上洛を、十六年の春 に至って果すことになったのた : て、これが処分方を、実力者である家康にご下問なされた。 この事は一見甚だ権威を欠いたご処置であったが、打ち 五 主上にも、何う取り裁い 続く乱世のあとであってみれば、ご てよいのか見当もっかなかったからであろう。 ご退位は残念なことながら、新帝のご践祚は芽出度 公家たち自身が、禁裏の尊厳や体面の維持について見いこと : 識、教養を無くして育った結果に違いない。 当然政治を預かる将軍秀忠が上洛すべきところを家康が これに取って代わるかたちになった。 そこで家康は、これらの公卿たちを厳科に処することに よって風紀を正されるよう答申した。花山院忠長、飛鳥井すでに健康すぐれすと噂されながら、おのれの功績を清 雅賢、大炊御門頼国、中御門宗信などが流罪に処されたの正にまで讃えられて、古来まれなる長生きと祝福される 「古稀」を迎えた家康なのだ。 はその結果である。 この事は、立ち場を替えていうと、主上みずから、幕府新帝の受禅は三月二十七日、即位式は四月十二日と知っ て、最後の上洛に老後の一切のよろこびを確かめ直す気に に、禁裏へ干渉の道を開いてやった事になりかねない。 したがって、当然風紀間題とは、全く別の、禁裏の権威なったのは、長い苦難の坂をのばりつめた人間として、き わめて自然の願望といえよう。 の間題として、宮廷の内部へ対立のタネを撒いていった。 この時には、すでに家康は、日課念仏六万遍の悲願を立 慶長十五年の始めに後陽成天皇が、退位を申し出られた のはそのためであり、家康は、その延期を奏請していたのてて、日々これを実行していた。 だが、それがついにそのままでは済まなくなっていた。 一日生きのび得たら、その一日を感謝する」 こうして、名古屋城のほば完成した年である慶長十五年それは、功成り名遂げた人間の辿り着く、充実した静寂 呪といってよかった。 の末には、主上の退位は決定的になっていた。 げきり , ル ことひと

10. 徳川家康 15

遠出 後は は いや輝事 は江 い の花 ッ す新 だ井 久は 日長 保別 安ま がす保姫 ら江 やね の卒 三 : 奥 か顔 な酒 た構 倒遽 る一 が変 ) 起え だ選 たや つな 当形 し申 動尾 たな たれ も濁 、何 うず君そ 遠は だれ 0 よ 三謀 、あ : 走ロ 結を ら聞 、は い企 が風ごで 言平、 は慮 、れ 、は 、る 大カ 安連 あし、 オ↓、 ま久 な保 の状 連ぬ と判 、み : 笑 い当 ーイ可 そ軍風 あ名 に妻 連政 判治 て坂 に実 お城 し秀 ま頼 たわ 力、 の困原 つ た と と は れ た 他 に 事 情 が あ る と し、 メ、 再 出 来 る の か 出 来 ぬ の ッ フ ム 安 め が に て そ な と っ 、な輝風下方悪 言平 の 由 こ ざ り ま す る 大 殿 よ り の 知 ら せ 冫こ り ま す る ぬ そ / ノ . 事 か ん な 事 よ り 長 の 病 生、 叩 状 あ る た し , 困 と が る と そ く と は あ ギ た り ま る ら : 叛め を 心、 し 状 が る の 領 へ お 不多 り 切 な と き と 、はれ じ 連 て判甚 の 、将 う家評 の あ い ろ 出 っ オこ も の か と し も が だ 思 の も っ た に は な に じ や と は い ら ぬ 申 と し、 つ た ろ に り る し、 そ れ 大 久 長し 安 の 卒 中 分 き な ら ぬ ど の な じ や か と て 並 に 内 し を で と く 、お 目 は も ま し つ 力、 と る と ろ るそ代 に っ き 近 ろ ら 評 が 江 尸 は 六 ま は の ま ま で よ ろ し ゆ ま 越 目リ の 先 き な 署 な 風れ大 、わ っ て い訊ゆ て い っ は し、 あ れ に は 隣か ど忠う 市 は た り と ん て 動 つ と な し、 五 の あ か あ ど いイ可、 じ や お 方 も 同 席 せ ぬ が よ い と す ク ) か し、 つ . 五 . さ は じ め の た の か 江 の 。最 初 の 拶 で 女 た す ) は を つ れ は し り 長 が 考 ん た 世 界 の 海 乗 出 と た 力、 挨何カ 、事 つ ノ ) に 立違来 い な に 連 状 ど判の の と 0 の 守 ろ て ・つ て て お を 申 六 れ 、ば申 は状姫 の と ギ ま る つ た よ し せ ら は 予 が や 12