家康はそういうと、改めて、 どのに、川封してやってはくれまいか」 : しかし、何のために、そ「さ、これでご無心は終わった。秀頼どのの方はこれもわ 「あの一万石 : : : それはもう : しが引き受けるゆえ、忠隣に、何々を命じてゆくか、その ) よ、フな : 「実はの、わしが駿府へ隠居したばかりで無一文のおり相談を続けられよ」 六大坂から、方広寺修覆の寄進を求められたことがあ神妙にいって、また薄く眼を閉じた。 無い袖はふれぬと断わった。大坂へは太閤の残した黄すでに夜は深沈として更けていた。 工がたんとあるのだ。断わってもよいと思うたのだが、そ れをそのままにしておいたのは、やつばりわしの不実であ 六文銭系図 ' たわ」 「というと、いま、大仏殿の入用に」 「そうじゃ。今ごろわしが片桐を駿府へ呼びつけると、尖 た空気をいよいよ尖らせる道理 : : : そこで、何時そやの ここは麻布台の今井に新築されたばかりの真田伊豆守信 可進を忘れていた。それをやりたいと申して呼ぶのじゃ。 すれば向こうも納得して詰まらぬ誤解は避け得よう」 之の江戸屋嗷であった。 そこまでいって、家康は、改めてみんなの顔を丹念に見信之はまだ木の香の新しい自分の居間の戸障子を、日暮 よわした。 れ前から閉じさせて、叔父の真田隠岐守ともう二刻近くも 「わかるかの。わしが、今度のことで天下を騒がせとうは密談を続けている。 むろん近侍はいっさい遠ざけられて、時々激論の声が洩 い本心のあり方が : : : そのためわしは将車家にまで無心 又、人の気配すら感じられないひっそりとした静 してのけた。しんけんなのじゃ。この心をみなも決してれたり、 寂に戻ったりしていた。 れぬよ、フに。さもないと、騒擾の根を苅ろうとして、却 一て騒ぎを大きくする。騒ぎが大きくなると、泣くのは決すでに慶長十八年は暮れようとして、大久保長安の病死 そ - つじよ・つ によって描き出されたこの年の騒擾は、いまだに無気味な して大坂や江戸の市民たけでは無くなろうそ」 291
ーリスは軍船のグロープ号で平 陥落するものではない。その間には、むろんフィリップ三 「・ーーー英使節のジョン・セ 世からの援軍も到着するであろうし、徳川幕府を打倒し戸に人港すると、直ちに商館となすべき家屋を松浦法印に て、豊家の天下を回復してやれることにもなろう : 乞うて手に人れたそ : : : 」 そして、ます第一に密使を送った先は、どうやら加賀の そうした噂は、あたかも彼等を攻撃するために、英、蘭 客将になっている南坊高山右近太夫友祥の許と、高野山のの城塞が出来上がりでもしたかのような錯覚を起こさせ る。 そばの九度山に隠棲、今は真田幸村と名乗っている真田信 繁の許らしいとわかって来た。 リスと家康の会見が済む 柳生又右衛門は、しかし、セー までは、この事を家康に知らすまいと伏せておいた。 その前に、加賀の客将高山右近太夫の許へは、同じ加賀 英使節の一行は、面白おかしく旅をたのしんで来たのだ藩の捨扶持を貰っている本阿弥光悦をして自重を説かせ、 : 、実は彼等のその旅行が、全く思いがけないところで切真田幸村の許へは兄信之から手をまわして説かせる気であ つ ) 0 支丹騒擾の火つけ役を果たしていようとは : むろんそれ迄に、宣教師たちは、ロをきわめてイギリス いや、そう考えた時にはすぐさまその手配をすますのが とオランダの悪口をいいすぎていた。彼等こそは手のつけ 又右衛門の兵法なのだ。 られぬヨーロッパの無頼漢で、すべての人間が海賊なのだ したがって、セー リスが、家康との対面の模様を、楽し と極論して来ている。 げに日記に認めている頃には、すでに国内でははげしい底 人間の心理作用は微妙なもので、彼等の憎悪が激しけれ流が、渦巻きだしていたといってよい ば激しいほど、反対に恐怖の影も大きくなる。 ( これだけ憎んでいるのだから、当然向こうも、それ以上 「ーーー予はイギリスの礼式によりて御座に至り、国王の の復讐を企てすにはおくまい : 書を呈せり。大御所はこれをその手に取り、その額のと そして、そのイギリスが、オランダと共に、ついに日本 ころまで捧げ、後方に離れて坐せし通訳 ( アダムス、三 へ進出の機会をつかんだのだ。 浦安針 ) に命じ、アダムスを介して、予が長途の旅行の 237
真田幸村の妻は西軍の謀将大谷吉継の娘であったが、兄うが、どうじゃな正信、お許の思案は ? 」 ~ 上田城主伊豆守信之の妻は、徳川家の四天王、本多平八 「されば、それがしはまだ右大臣にお会わせ申す時機では 忠勝の娘なのだ。したがってこの方は格別の間柄でもあない : と、存じまする。それよりは、所司代の板倉どの @ ので、みんなはそれでロを噤んだ。 と相談し、先すもって、騒動の根となりそうな信徒の処置 「どうじゃな。他に何そ耳新しい情報があったかな。無け : これが大切かと心得まする」 ばそろそろ評定に戻ろうぞ」 「騒擾の根になる信者どもをのう」 家康の声で、膳は下げられた。 「恐れながら、その第一は前田家に加判として登用され、 今までは雑談、これからは評定 : : : そのけじめをきちん 能登の地に三万石近い知行地を得ている南坊高山右近太大 J つける意味で、何れも上下の襟を正した。 と、同じく前田家に客将として身を寄せてある内藤飛騨守 「さて、大久保長安や切支丹信者の策謀と関わりありと思如安の追放こそ肝要かと心得まする」 ) れる者どもは処分し、大久保相模守を上方へ遣わすこと 「なるほどの、フ」 よでは決定したと思うが : 「内藤如安の知行は四千石と聞いて居りまするが、高山の 家康が口を切ると、将軍秀忠がそのあとを引き取った。 それを加えると四万石に近いものゆえ人費に不足はない道 「仰せのごとく相模守上方派遣は決定致しました。し か理 : : : 彼等から国内の信徒糾合の檄が飛びますると、恐れ 」、相模守に、どのような内意を授けて遣わすべきか、そながら、そのかみの一向一揆を想わす天下の大事になりか ~ 内容は充分吟味せねばならぬ。先ず第一番に、相模守をねませぬ。この方から先ず早急に手を打つべきかと心得ま 〈坂城に遣わすべきや否や ? 」 する」 そこでチラッと家康の方を見やって、 落ち着きはらった声でいって、ちらっと秀忠を見ていっ 「そのことから決めねばなりませぬ」 家康は大きく頷いた 十五 「では、それについて各自の意見を : : : 大坂へ遣わすとい , ことは、当然右大臣に会わすべきや否やという事になろ秀忠は、正信の視線に促されて家康を見やった。 っ ) 0
と、す そこで彼は、その僧侶そのものを仏教と観、禅と割り切 日本人は、決してキリシタン信者だけではない。 ってしまったのかも知れない。 れば、キリシタンの新旧両派の対立抗争によって、他の日 へんきよう ( わしの日蓮大聖人にささげる信仰はそのように偏狭なも本人を動乱に捲き込むようなことがあってはならない筈た のてはないそ : : : ) 光悦は、すぐそのことから自分を省みて、いくぶん顔の 考えてみると、自分と本家の光刹の争いなど、その点で 赤らむところが無くもなかった。 はまことに日蓮大聖人に面はずかしい小事であった。 信仰は、人それそれを幸福にもするが盲目にもする。盲 人間はこうした小事を超克して、より高い真理をめざし 目の信仰は迷信に堕し、やがて、信仰者自身に手痛い裏切て生きてこそ生き甲斐を感じ得る : : : そう思うと、光悦は りで報いて来る : 早速利長に会って、再び都に住みたい旨を打ち明けた。 が、間題は、そうした熱烈な信仰を持つものが、その宗 利長は大賛成だった。 門の危機を感じとったときに、ど、つ動くかとい、つことだっ 利長が光悦の生活を援助しているのは、いわば彼から都 の情報を得たいからで、決して彼を側に侍らしておきたい からではなかった。 ( 仮りに、大御所が、日蓮宗門は叩き潰せ ) と、いわれたとする。 こうして、光悦が加賀を引き払い、都へ出て米たとき そうした時に、光悦は手を拱いて、その命令に従うこと は、すでに夏であった。 が出来るかど、つか : 「ご無沙汰いたしました。長らく都に住んだ者には、どう ( 出来る筈はない ! ) も田舎暮しは向きません」 と、すれば、当然、三浦安針によって、宗門の危機が招本家の叔父光刹をたずねたおりに、そこで光悦は、光刹 来されたと信じている、南坊はじめ、多くのキリシタン信の手から、例の美しい緑の小箱を渡された。 者は、黙ってこれに従う筈はないという答えになる。 一止廾八王子にある於こうが、光悦の許へ届けて呉れるよ その答えがハッキリした時に、光悦は加賀から腰をあげ うに : : : そういって送って来たゆえ、加賀へ便りを求めて たといってよかった。 いたところたと光刹はいった。 、 ) 0
キリシタン旧教の熱心な信者である南坊が、この事件を興、瀬田掃部などはむろんのこと、実は前田利長も、また 果して知らすにいるのかどうか ? ところが南坊はそれを同じような考えを持っている。 よく知っていた。 「ーー , 正しい信仰たけが、正しい佗びに通ずるようです」 そんなことまでいったが、 彼はこれを、新教派のオランダやイギリスが、いよいよ 政治的なことは、つとめて避 三浦安針の手を通じて、家康に旧教派の弾圧を決意させた けようとする様子が見える。 手始めと解しているようだった。 ( 避けようとしているところがおかしい : 果してそれが真実だったら、日本国内でも遠からす、南南坊の高山右近と会ったことも又、光悦を都へ帰す原因 の一つになった。 蛮人と紅毛人の争いがある : : : という答えになる。 だが、金沢での南坊、高山右近は、信仰と茶の話以外に は、決して踏み出そうとしなかった。 彼は、自分の信仰をまもりぬくために、茶室へのがれた光悦は南坊のいうことが、わかるところもあり、反撥す のだといった。 るところもあった。 和敬静寂の利休の佗び茶は、彼に四畳半の祈りの場所を彼はひどく潔癖いちがいな理想家らしい。その点では本 与えてくれた。一茶器の争奪に知行を賭けるような逸脱し阿弥光悦と同質の人間かも知れない。 たこの道に、ほんとうの茶と信仰とが、彼をなぐさめて呉 それが南坊 : : : つまり、南蛮流の坊主と自称するだけで れる唯一のものになったといい あって、切支丹信者としてはみじんの隙もないようだっ 「ーーー利休居士も、もう少し長生きされたら、禅とは縁をた。 切られて、キリシタンと茶を結ぶことになっていたかも知 ところが、その反対に、仏教の話、神道の話、わけても れません」などといった。 禅の話などになると頭から耳を藉そうとしなかった。 彼にいわせると、亡くなった蒲生氏郷も、そしていま大或いは彼が、ある時期に出会った僧侶が、ひどく自堕落 坂城内にある織田有楽斎も、みな本心はキリシタン信者な宗教家とは認めがたい破戒坊主であったのかも知れな で、その他にも、牧村政治、芝山監物、古田織部、細川忠 9
て、日々余暇々々には筆を取られているそうな : : : それ 彼は又上機嫌で五郎八姫をかえりみて、 に、そうそう、越前の兄上が禅寺に葬るように言い遺した 「こうなると、越後の築城は、万事舅御の思うままじゃ。 その方が、舅御もうるさくなくてよいかも知れぬ。長安はものを、それはならぬ、われ等は代々浄土宗、葬り直せと いわれたそうな : あれで仲々扱いにくいところもあるからの」 「まあ、そのような : 五郎八姫は、その時にはもう、全く別のことを考えてい るようすだった。 「それゆえ急くなと申したのだ。急いてわざわざ睨まれる にも当たるまい」 じっと視線を川面にすえて、豊かな頬に春の潮のきらめ きを映している。 忠輝にとっては、いまはまさに人生の陽春だった。 忠輝は、それをひどく美しいものに思った。しかし、何 と云って褒めたがよいのか、うまい言葉が見当たらないの で黙っていた。 五郎八姫は ふっと何か云おうとして、考え直したよう に又黙った。 と、とっぜん五郎八姫は酔ったような眸を忠輝に向けて「 可攵、信仰のことでそのように大御所さまをはばか らねばならないのか ? 」 「殿も、わらわと同じご信仰に帰依して下され。さすれば それを忠輝に訊ねてみようとして思いとどまった。 ちょうけん きっと、このまま天帝のご寵仆が続きましよう」 父の伊達政宗はそのことでは、つねづね家康を褒めてい 「なに、忠輝にも切支丹になれとか : 「はい。わらわは、このままの祝糧を、のがしと、つ、こさり ご自分の信仰を側近に押しつけようとせぬ。あの ませぬ」 点、大御所はさすがじゃ。やはり苦労の中で学ばれた慎し 「よし、それも道々考えよう。だが、その返事はあまり急みであろう」 くなよ。駿府のお父上の信仰はな、これまた並大抵のもの 信する信じないは理論ではなく、したがってこれは強制 ではないのた。近ごろは日課念仏六万遍の浄書を思い立っすべきものではない : : : そうした父の言葉が二重に姫に働 5
「合掌してゆく心の向こうに : : よいかの於みつど が身もいわずに居れぬことになった : 「そうじゃ ! わが身の罪をおもい、わが身の汚れを詫び の : : : 総じて神仏は合掌せぬものに恩寵は垂れないもの じゃ。合掌はわが身の罪をおそれ、わが身の汚れを詫びるてゆくやさしい心の向こうにの : : : そして、その合掌で人 聞は、まことの信仰を撮みとる。信仰を攫んでゆけば必ず 光悦は、ほんとうに刺すような眼をして於みつを見詰め幾つかの誓いが生まれる : : : その誓いを践みながら神仏の だしていた。 教えを奉じて生きるところに始めて鬼を追う力が恵まれて : これ来るものじゃ」 「わが身の罪をおそれ、わが身の汚れを詫びる心・ 於みつは、光悦も、ある意味では一匹の「鬼」なのでは の無い者は人であって人ではない。わが身の目的たけをた だひたすらに追いかける : : : これは、形は人であってもあるまいかと思 0 た。これほどひたむきに正義を追 0 てゆ な、人とはいわずに鬼というのじゃ。鬼はどのような形でこうとする者を、まだ他に見たことがないからだ 0 た。 と、光悦も、そうした自分に気付いたらしい。 目的を達そうと、それは事業でなくて鬼業ゆえ、必す永く : わしも鬼だ : : : と、いいたげな眼をしている は続かぬものじゃ」 於みつは、びつくりしたようにまじまじと光悦を見返しぞ。たがな、わしは鬼ではない。わしは、すでにお前の歩 いた道を通って信仰の門をくぐった。そして、そこで日蓮 ている。 或いは光悦の反応が期待以上に強かったので驚いている上人にお目にかかったと思わっしゃい。お目にかかると、 上人様はいろいろとお指図を下さるものじゃ。これは菩薩 のかも知れない。 「といって鬼を憎む憎しみだけでは、これは決して退治ら行、これは鬼業、これはしてよし、これはならぬそと : それゆえ、こなたも自信をもっていま目の前にある信仰の れぬ。神仏のご加護がなければなあ」 ご門をくぐればよいのじゃ。こなたが、これこそわが身の 「神仏の : : そう思うた門をな。その門をくぐってこ くぐるべき卩 : 「それそれ、そのような眼をして神仏を探すものではな 神仏は虚空におわすわけではない。こなたの胸の奥 : ・そ、一期一会の誠の心がけがひとりでに味わえる : : : 」 : その合掌してゆく心の向こうにしかおわさぬのだ」 754
「実はの : : : 」 ー三十二歳といえば男ざかり、父御の身としては、やりき と、又秀忠は話をそらした。 ぬ打撃でござりましよう」 「それゆえ、気にかかる。ソテロは切支丹の者ゆえ、それ「尾張大山の城主、平岩親吉が、この年は越せまいと : 大御所にはその事でひどく不機嫌のよしでござる」 ( 外の信仰を邪教と申す」 秀忠は、冷静に話をつづけた。 「平岩どのが : : と、申しますると、これは老衰でござり 「それは : : : そうでござりましような」 亠ましよ、つ . な」 、。卆の死を邪教信仰のせいといわれる 「人間は強くてしイ 「さよう、本年七十歳であろうか : 、心を紊すやも知れぬ」 「老衰でも、先に死ぬは不忠 : 「恐れながら、ソテロは、そのように小さな人間の弱点なでござりましようか」 しカ六、士 : 、衝きは致すまいと存じます」 実は、その頃もう平岩親吉は、新しく出来た名古屋城の 二の丸で卒していたのだ。 と、秀忠は首を傾げて、 家康が人質として駿府にあった竹千代時代から苦楽を共 「相模守の不謹慎な気儘めと、諸国の切支丹蜂起の噂が一 一になる : : : つまり、大久保相模守も、実は、切支丹一揆にして来た親吉は、家康の嫡男、秀忠にとっては兄の信康 ~ 味方をする気で、近ごろは出仕もしていない : : : そう煽を育て、更に又、五郎太丸義直の傅役として、大山城を宛 する者が、あったとしたら、どうなろうか」 てがわれた徳川家の重臣なのだ。 イ ) 正宗は、わざと投げ出すようにいってのけた。 それたけに、秀忠はわざわざ阿部四郎五郎正之を遣わし 「それならば、出仕せよと、厳しく仰せられねばなりますてこれを名古屋に見舞わせたのだ。 し」 その見舞中に親吉は死んだのたが、死んだ場所が、新し 秀忠は、幾度もかすかに首を動かした。 い名古屋の城内だったことから問題が一つ残った。 「で、ソテロの処置は ? 」 生涯を徳川家にささげきって生きたこの老人は、少しで 「上様のご意見から先に伺いとう存じまする」 も、新しい名古屋城と、その城主の五郎太丸義直 : : : この ・ : と、大御所は不機嫌なの 179
大体秀忠の性格は消極的で陰険にすぎると思った。何事家康がそういったと聞かされて、その時にはそんなもの も父のいいなりのように見せかけて、その実好悪の感情は かと思っただけであったが、今になって思い返すと、これ かな . り・はげし、 0 もまた秀忠の陰気な干渉の一つであったように思われる。 いったん利害が対立すると、なかなか相手を許そうとせ「 , ーーー兄じゃとて、将軍の家臣なのだ」 そうした無言の威圧を加えるため、肉親の兄の死後にま ず、秘かに罠をかけて、その前で長者の装いを崩さない。 そうした例は大久保長安の処分だけでなく、ソテロの処で干渉する。それも信仰という特殊な人間感情を無視して の弾圧だったのではなかったろうか : : : そう考えると、い 分にもハッキリと現われていた。 よいよ許しがたい気がして来た。 いや、ソテロの例などは、伊達政宗の助命を容れたのだ からまだよいとして、兄である越前の秀康に対しても、何 たぶん忠輝は切支丹の信仰に人るだろう : : : その時にも 処か冷酷で陰険に感じられた。 また無法な干渉をして来るとしたら、黙ってこれに従うべ きであろうか : 秀康は慶長十二年の閏四月八日に北の荘城に死んでいっ ( これは父に会っておかねばならぬ ! ) た。数え年三十四歳であった。 その時も実は秀康は毒殺されたのではあるまいかなどと第一世の中は、ただ国内の諸大名を威嚇してあればよい というような時代ではない。 いう噂が立ったりしたのであった。その噂の裏には、たぶ 父自身が交易を奨励し、二百艘近い御朱印日本船が世界 んに秀忠の性格の陰険さが匂わせられている。 ィリッビンから宀女 ~ 用、シャムロ、 秀康は、生前禅宗に帰依していたので、はじめ遺骸は曹の海に乗り出して、フ ジャガタラなどに続々日本人の部落や町が出来かけている 洞宗の孝顕寺に葬られた。しかし間もなく、家康の命令と という時代なのだ。 称して、浄土宗の運正寺に改葬され、その戒名まで変えさ 大久保長安もそれを目ざして、自分のために備えていて せられた。はじめは「孝顕寺吹毛月珊」と称したのだが、 くれたのだし、現に舅の伊達政宗は、雄大な構想で、ヨー 運正寺に改葬されると「浄光院森厳道慰」と改めさせられ ロッパの服をめざして活動を開始しているのだ。 ( 兄の将軍は、そうした時勢にふさわしい人柄といえるか 「ーーー松平一族は浄土宗であるべきもの : : : 」 262
「もうよい。そうは成らぬ。成るものではござらぬ。将軍た出来事だった。 家のお手前はの、それがしがもう一度取りなし申そうゆ その快川和尚に育てられ、二十歳を超えた頃には早くも 少年上人と呼ばれたほどの俊才が、この虎哉禅師である。 え、先刻の嘆願状を忘れぬように : 吐き出すようにいって政宗は、不快さをかくすために膳 伊達政宗の父左京太夫輝宗は、正室最上氏との間に長子 が生まれると、これに梵天丸という、仏教好みの名をつ の上の箸を取った。 ( これで、また無事平穏か。大御所は、よくよくご運の強けて、それからその教育者を僧侶の中からも求めていたの いお方じやわい : そして、政宗が六歳のおりの元亀三年に、米沢近郊の資 九 一、に招かれて来て政宗の学芸の師となったのが虎哉禅師 : しかもこの虎哉禅師はそれからすっと政宗の師として 伊達政宗が、浅草病院の聖者、ソテロをわざわざ屋敷に 招いて説教を聞いたという噂は、間もなく江戸中に流布さすでに八十二歳になっている。 六歳の政宗が、四十五歳になっているのだから三十九年 れた。 にわたる師弟関係で、これも又世上に知らぬ者のないこと いや、それそれの大名の江戸屋嗷から全国へも知れてい 、、こっ ? ) 0 ったに違いない : と、いうのだ その政宗が切支丹の説教を聞きだした : 伊達政宗といえば、政宗が梵天丸といった六歳のおりか ら遠山覚範寺の虎哉禅師に育てられ、その指導によって完から、これは一つの大きな話題たったに違いない 或る者はこれを、娘である松平忠輝夫人の影響であろう 成された豪邁な武将と信じられていたからだった。 この虎哉禅師は美濃国方県郡馬馳に生まれて、おなじ美と見、又ある者は、大久保忠隣にすすめられての人信では 濃出身の名僧、大通智勝国師快川の弟子である。快川が甲あるまいかとも噂した。 むろんこれをそうした信仰上の問題と見ない見方も無く 州の恵林寺で織田勢のために寺を焼かれ、 十よ、つこ。 「ーーーー火も、ま」冴し」 世のつねの禅僧以上の武将である。目的は信仰にあるの と、喝破して、火定に入ったことは当時の武将を唸らせ 、 ) 0 ノ 76