ている矢先に、正信の口から忠隣の名が出て来たのだから 事を鎮める含みの筋かと心得まする」 正信の思いがけない発言で、一座はちょっと動揺した。驚くのも無理はなかった。 酒井忠世にせよ、水野忠元、青山忠俊にせよ、みな伊達しかし、この時も家康は黙っている。そうなると、まだ 政宗をそのように甘く見てはいなかったからであった。 正信の言葉をさえぎり得る者はなかった。 それどころか、彼等の眼には、大久保長安を煽動したの 「それがしの口から、大久保相模守を推す : : : ということ ち、忠輝を担ぎあげたのも、実はみな伊達政宗ではあるまで、ご不審に思われる方があるやも知れませぬ。事実、こ の正信は、近ごろの相模守どの所業は不央に存じて居りま いかという疑念が強く残っている。 しかし、家康が薄く眼を閉じたまま聞き人っているのする。さりながら私情と公儀の混同は許されませぬ。上方 に赴いて、不穏のきざしある信徒や大名どもを叱りつけ、 で、誰も口ははさみ得なかった。 「さて奥羽の地は陸奥守に一任となれば、関東から信越、また右大臣秀頼さまに正面から、抱かれた神父や宣教師、 またひそかに乱を狙う牢人信徒など、ことごとく吐き出さ 東海の地、これは江戸で充分に押え得るゆえ問題はないと かみがた して、大切なは上方にござりまする。この上方の鎮撫にあせて禍根を断ち得る者は、相模守をおいて他にあろうとは 2 たる者は、並大抵の者では叶いませぬ。と、申すは、すで思われませぬ」 そこまでいって、本多正信はちらりと将軍秀忠の方を見 に相当な信徒が右大臣秀頼さまの袖にすがって画策しだし ている。これを一掃出来るはどの重みと実力を持った者 : ・やった。 : となりますると、大久保相模守以外に人は無いかと心得秀忠は、凝然として陶器のように控えている。 かんみん 「或いは世間では、本多正信め、また政敵を皮肉な陥罠に まする」 追い込んだ : ・ ・ : などと噂する小才子があるやも知れませ 再び一座は声のないおどろきに打たれて息をのんだ。 ぬ。そのような悪評を歯にかけて逡巡すべきときではな 五 、。相模守は、伊達陸奥守同様、自身も信徒と思われてい それでなくともこんどの事件の背後には、大久保忠隣とることゆえ、この人の口から説かれることには説得力がご 本多正信父子の派闘の争いがからんでいる : : : そう思われざりまする。又相模守とても、今までの世間の疑惑を一掃
そして、現に石川康長と康勝とが、亡くなった長安と特 忠隣の室は数正には従兄にあたる家成の孫娘であった し、現に当主康通の嗣子の忠総は実は大久保忠隣の二男で別懇意だったことは事実で、正純のいうとおり、問題の連 あった。 判状にも頭首の方に名前を並べているのである。 「そうか。忠隣は年とっているゆえ、そうせねば、上方で そんな関係なので石川家成の家系の方へは触れず、石川 数正の家系の方をきびしく罰しておいて、それから大久保愚痴と不満を洩して歩くか」 しかし、自分のすぐ次に連判した、石川兄弟や富 忠隣を上方へ派遣せよといっているのだ : 田、高橋等が除封された後となれば、身を引緊めて事にあ たると存じまする」 考えように依れば、本多上野介正純は、長安の遺族まで家康は寒気がした。 処罰してしまったのだから、ここではそれに連る政敵、大まさに正純のいうとおりではあったが、それにはあまり 久保忠隣を一挙に葬ってしまおうとしているのかも知れな に冷たい政略の切れ味だけで、もう一つ大切な「まことー っ」 0 ーー」があるかど、フかが危ぶまれた。 そのためには、直接忠隣の二男が養子になっている石川 ( 問題は、将軍家が、どう考えているかにかかる : : : ) 家成の家系よりも、太閤の許へ、主家を裏切って出奔した 家康は忠隣以上に老いているのだ。決断は容易であった と信じられている石川数正の伜たちを葬る方が容易であっ が、それが秀忠の肚に入っているのでなければ、死後に大 た。いまだに頑固な旗本たちは、 きな混乱のタネを蒔きちらしてゆくことになろう。 「よし、上野どのの意見はわかった。それについて誰ぞ他 三河武士の恥辱は石川伯耆の裏切りよ。あれさえな くばご譜代は完璧の忠義者揃いであったのに : そんなことを囁き合っている。 いい終わらぬうちに、酒井忠世は、 そのたびに家康の胸はキリキリと痛むのだったが、今更「それがしは、相模守は不適任だと存じまする」 「しかし : あれは、わしも承知していた出奔なのだ : : : そんなことは 口に出来ることではなかった。 と、こんどは父の正信が考え深げに口をはさんオ よ」 0 278
信高、日向延岡の城主高橋元種と、相模守や長安が署名のない謀叛人であり、そして、大久保忠隣はその長安に利用 された人のよい大長老という断定の上に起った発言だっ 次に、麗々しくここに名を列ねてござりまする」 おし顔をして、連判状から眼をそらした。 もっと穿った見方をすれば、長安の遺族を処刑した以 石川康長兄弟は、家康にとってはいまだに忘れられな い、豊家に随身した形で家康のために働きつづけて逝った上、それ等と親しい者は、この際断固として排除するのが 徳川家のために安全ではないかという政治的な信念らしか 石川数正の伜たちだからであった。 「お許は、まだ、そのようなものを持っていたのか」 「キ、 0 。しこれはこれで、充分われ等に思案のもとを与えて「すると : : : すると上野どのは、忠隣にその身の不都合、 くれます。このあたりに署名した者どもが、いちばん長安その身の落度を、周囲を罰すことによって充分自覚させ、 と懇親を重ねたもの、しかも、その奥向きは何れも熱心なそのうえで上方へ遣わせと申すのか」 「御意にござります。さもないと、相模守どのは、上方へ 切支丹信者にござりまする」 もら 参って却って方々へ愚痴や不満を洩して歩くおそれがあ 「それゆえ、それ等を先ず罰せよと申すのか」 「御意にござりまする。彼等こそは、以前にご当家を裏切る。何分もうお年ゆえ、そうなっては天下のためにも大き って、豊太閤の許へ出奔した三河武士の風上にもおけぬ石な不利、大久保家のためにも利益には相成りませぬ。相模 守はご存知の通り、石川一族とは特に懇親の間柄にて : : : 」 月イ」日が伜ども : : : それに富田は四国で、高橋は九州で、 そこまでいって、さすがに正純はちょっと言葉を切っ それそれ長安が密貿易の陰謀に加担しようとした者ゆえ、 これが封を没しておいて、その後で、相模守を上方に遣わた。そのようなことは、自分が説明するまでもなく家康が よく知っている。 しまする」 家康は低く呻いて又双眼を閉していった。 家康は唖然として正純の顔を見まもった。 この秀才はまた、何という恐ろしい妖刀の斬れ味を示し なるほど大久保忠隣と石川家の関係は両家が、祖父の清 て来るのであろうか。 康時代から忠勤を励んで来ている関係で、一族同様の睦み 彼にとっては、もはや大久保長安は、動かすことの出来を重ねている。 277
忠輝が、連判状のことなど少しもこころに掛けていない長安どのに手落ちもあらば、本多父子は、得たりかしこし と大久保忠隣さま攻撃の材料になされましよう」 とわかると、花井遠江守は、ホッとしたり、逆に心配にな 花井遠江守は、自分の不安を必要以上に誇張して、 ったりした。 「私の案ずるのは、その一点にござりまする」 ( 風評のようなことは断じてない : そう思うと同時に、事実の如何にかかわらず、これが何「フーム」 と忠輝は、淡白に頷いた かに利用される場合もあるという不安であった。 「恐れながら、殿は、近ごろ大久保、本多の二宿老が、至「つまり、長安が病気で倒れた。そのおりに連判状が世に って不仲のよしの取沙汰、お耳になされてござりまする現われ、あらぬ噂が飛んでは、大久保忠隣が迷惑する : と、こう申すのだな」 力」 「というと、本多上野父子と、大久保忠隣がことか」 「これはしたり、若し、その連判状が、両者の争いのタネ 「御意にござりまする。世間の噂では両宿老、遠からず激にでも相成りましては、迷惑致すのは、相模守忠隣さまだ : など 突は避けられぬ。何れにも用心して加担するな : けではござりませぬ。殿のお名も出れば、大坂の秀頼さま と、専ら警戒してあるよしにござりまする」 も、越前のご先代秀康さまのお名前もみな出て参ります 「それとこの忠輝と何のかかわりがあると申すぞ。わしはる」 そなたに、長安が病状をたすねているのだ」 「よいよい。その時には、予が直々みなに説明してやるわ」 「恐れながら、遠江もそれにお答え申し上げているのでご ざります。大久保長安どのはご存知のとおり、大久保相模「何じゃ。おかしな顔をして」 「では念のために伺いまするが、この連判状を利用して宿 守忠隣さまご推挙によってご出世なされたものでござりま 老の一方を蹴落さんとして、若しもこれを大坂方と結んた する」 ご謀叛の連判状 : : : などといいふらされましたる節は、何 「あ、そのことか」 となさるご所存で」 「さよ、フに軽く仰せられず、よくお聞きとりを : ・・ : そし て、姓まで相模守より頂戴してあるほどの間柄、仮に何ぞ「なに、大坂とわれ等が結んで : : : 」
「相わかった」 まっていた。 と、又右衛門宗は大きく頷いた。 悪い時には悪いことが重なるもので、服部正重からの報 「ご貴殿は、その証拠をすでに江戸へ差し立てられた。そ告で、 れで充分お答えになって居るようじゃ。では、これでご免「 , ー・・・・大久保石見守に叛心があった : 豕り・ましよ、フ」 と、いう風評はすでに重臣たちの胸で、動かすことの出 「何とそ、御前体よしなに」 来ない「真実・ー・ー , 」になってしまっていた。 「、い得ました」 「ーー・・、婿が申し出るのだから嘘ではない」 そういって立ち上がって、 とにかく相模守を呼べ。相模守がこうして連判状に 「幼少なものは、なるべく労ってあげたいものだが」 署名している以上、当然これは糾明の要がある」 ポツリと一つ謎を残してそのまま別れた 秀忠の側近には何といっても反大久保の色が濃い。そこ 正重は立 0 て送ろうともしなか 0 た。おそらく口と心ので土井利勝の名で大久保忠隣に登城を命じたのだが、事情 間には大きな矛盾がわだかまってあったからに違いない。 を知らぬ忠隣は登城を拒んだ。 ( どうしてあの石見守が、それほど大それた悪人などであ「ーー老来、気分すぐれす、御用ならば使者をも 0 て病床 るものか : : : ) まで仰せ聞かせられたい」 そう思っている点では、この婿も又右衛門宗矩と大して もともと嫡子忠常の死去に傷心を深めて、殆ど登城しな 相違のある筈はなかった。 くなっている忠隣だった。むろん本多正信が側近にあっ それなのに、逆に火の手を煽ってしま 0 ているのは何とて、思いのままに秀忠を動かしているのが、不快のもう一 したことであろうか : つの原因であったろう。そこへ、更に大久保長安の計報が 届いているので、がっかりした彼が病床に就いたとしても 不思議はなかった。 又右衛門宗矩は、江戸へ着いてみてびつくりした。それ ところが、城中側近への反応は全く逆であった。 彼が考えていたよりも数十倍もはげしい大火になってし 「ーー・事、露顕と見て登城せぬ。こうなれば相手に用意の 216
「虫も殺さぬようなおだやかな顔をなされてのう」 丹の教会堂をこわし、宣教師の追放に当たっている大久保 そこへ灯りをささげた若侍が人って来ると隠岐守は、急忠隣の改易が、江戸で決定したということだった。 彳川家三代に仕えて来た大久保一族の棟梁が、僅かな仮 いで腰をあげていった。 「そうじゃ。松倉どのは、もうお城から戻ってあろう。事は瑾で小田原城主の地位を追われてゆく 一刻を争うのじゃ。夜中ながら早速お訪ねすると致そう」 忠隣はすでにその処分を、薄々知りながら小田原城を出 発して来たものらしい。家康を城内に監禁して強訴しよう としたのがその原因である。もはや主従ともども三河の地 、、、ムで苦楽を共にした頃のような、親しさになれた我儘は許さ 真田隠岐守が、松倉豊後守重正をどうロ説いたのカ 倉はそれから間もなく、再び江戸城の西の丸へ引っ返してるべくもないことだったのだ : おそらく家康は、父祖の忠勤を想って斬るようなことは 滞留することになった家康に会い、そのまま江戸を発って しかし、人のいい忠隣が、この処分を所司代か 東海道を西上すると、自領の大和から紀州へ人って、真田あるまい。 らいい渡されたときに、どんなにはげしい憤りを示すであ 幸村の隠棲している九度山の閑居を訪ねていった。 ろうかと、それを考えるだけで松倉重正の胸はつぶれそう 九度山は高野山の北の谷で、紀の川の南岸にあたってい る。大橋を南へ渡ってゆるい勾配を、右へのばると、太陽であった。 それに比べると、もう一つの高山右近や内藤如安等が加 の光りをいつばいに浴びた傾斜地に流人の住居とも思われ 賀で召し捕られたという噂はそれほど気にはならなかっ ぬ八つ棟造りの建物が建ち、廐がずらりと並んでいた。 おそらく父の昌幸が、例の気性に任せて建てたものであた。これも、たぶん殺されはすまい。というのは、高山も ろう、ちょっとした城廓を思わすほどの構えであった。 小西も何度か大坂城から迎えの密使が誘い出しに行ってい るのに、 すでに慶長十八年は暮れて、十九年の正月半になってい る。 ここで戦はしてはならない」 ここへやって来る途中で松倉重正は二つの大きな出来ご逆に密使を説いて帰して、信仰の命じるままに泰平の重 とを聞かされた。その一つは今京都にあってしきりに切支要さを説きつづけたと聞いているからだった。 301
外の者は人れ得なかったからであろう。 木は例の調子で、かなり強い皮肉は述べたものらしいが、 と、同時に寸時の猶予もなく、六男忠輝の福島城を同国 ンでに反応は動かしがたい、といって来た。 「ーーーよいではないか市正、ご母公の痴語であれこれ干渉の高田に転築するよう下命した。 ゞれるよりは、修理が役職をもっての発言ならば、お許の その責任者は伊達政宗で、いうまでもなくこれは大坂城 刀でも役職をもって反対すれば済むことじゃ。今かれこれが欲しいと臆面もなくいってのけた彼の申し出の拒絶を意 」、つと、却ってこちらの値打ちが下がる」 味していた。 いわれてみるとそんな気もした。 そして、正月二十六日に捕えられた加賀の高山右近と内 それに、当時大仏殿の巨鐘鋳造に必要な鋳物師三十九人藤如安はそのままさっさと長崎へ送られた。 ~ 銓衡中でもあり、かたがた忙しさにまぎれて、且元は気 それ等の手順は全く、一分の隙もないあざやかなもの ~ かけながらそのままにしてしまった。 で、都で逮えられた大久保忠隣は二月二日に近江に流さ その間に、家康の方では着々と、動乱阻止の手を打ちすれ、同日附けで大久保忠佐の居城であった沼津城もまた、 プめていた。 本多正純と安藤直次の手で取りこわされていった。 都へ出て来て、耶蘇会堂をこわし、伴天連の追放と諸大 : という動きが、譜代 忠隣を、せめて沼津の城へでも : に、禁教をふれていた大久保忠隣が、正月十九日改易に の間にあったからである。 2 されていった。 そして、当然の措置として、二月十四日には、この処置 それを申し渡された時には、もはや忠隣は手も足も出なに何の異存もなく、それぞれいよいよ将軍家に対して忠誠 」所司代の監視下にあった。 を励むという起請文を譜代の老臣奉行たちに提出させた。 所司代をして改易を命じさせると同時に、家康は再び江 それだけではなかった。 ノを発って、自身で小田原城に人っていったものらしい。 これで幕府側の : : : というより、徳川家内部の騒動とい そして、そこに、将軍秀忠を呼び寄せて、直ちに小田原った側面を鮮かに裁いてみせたところで、都から勅使とし の破却を命じた。 て、広橋兼勝、三条西実条の両卿が駿府へ向けて出発し さすがに譜代の重臣の代わりに、小田原城へ大久保氏以 っ ) 0 2
いや、彼たけがそう思っているのではなくて、実はその怯のそしりを免れまい。 事をいちばんよく知っているのは本多正信父子だと思った 「ご決定のことゆえ差し控えて居りましたが、この直次、 のだ。 大久保相模守で片付くようなことではないと存じまする」 そうなると、忠隣はその責を負って失脚せねばならなく 「では、どうすれば片付くと申すのじゃ」 なる : : : それでは、この長老の末路があまりに哀れゆえ、 「恐れながら、右大臣秀頼公に大坂城を出て頂く : : : それ 派遣決定の前に反対しようとして発言したのだ。 でなくば片付かぬ今度の騒擾を、お歴々はお忘れなされた ところが、それは家康にさえぎられて、すでに忠隣の派顔でご評議を続けられる。直次にとっては、まことに心外 遣は決定してしまっている。 至極の儀にござりまする」 決定してしまえば、もう何もいうことはない。それに従はっきりといい切られて、一座は俄かに色めき立った。 うより他にないからだった。 末座で、柳生又右衛門はホッとした。誰がどこでそれを 「直次、何故黙っているのじゃ。そちは、忠隣の派遣に反 いい出すかと、彼だけは始めからその時を待っていたの 対なのじゃな」 直次は黙っていた。 秀頼が移封と決まり、それを承諾してゆけば、集りかけ そう見破られたのでは、いよいよ発言は出来なくなる。 た信徒や神父も、集まろうとしている牢人どもも、野心や 「直次 ! 」 夢の置き場がなくなり、ちりちりに散ってゆく他なくなろ 家康の声が又一段と尖って来た。 「将軍家のご裁断に不服は許さぬそと申したろう」 彼等の野心を育ててゆくものは秀頼という人物ではなく 「よッ て、「大坂城ーー」という城なのだ。 「この家康でさえ、従うものを、そちが反対してみてどう ( 秀頼には野心などはみじんもない : なるのじゃ。大久保忠隣の上方派遣は決定したことなの 「そうか。すると、直次は、直接秀頼に会って大坂城開け だ。その忠隣が鎮圧に失敗した時には何とするか」 渡しの交渉をせよ : ・ : いや、その交渉の出来るほどの人物 直次もムッとした。ここまでいわれて黙っていては、卑でなければ派遣の意味はない : : とこう申すのか」 、、 6 ) 0 281
きゅうち 「相模守儀は、近年旧知の人々多くみまかり、痛く気おち 警告を発したからにござりまする。したが、上方のことは また詳しくはわかりませぬ。切支丹大名のうち、大坂 ( 秘致し、隠居を願い出ようとしているおりに嫡男を失い、一 かに連絡する者が出はじめ、加賀にある高山南坊の許へ層落胆仕り、とかく健康すぐれす、近ごろは病臥中の山に 、こギ、り - まする」 も、しきりに往来する者がある : : : と、聞きましたゆえ、 これは、加賀どのに充分ご監視あるよう申し人れておきま家康は、じっと忠世を睨みつけるようにして、 「それたけか。誰そ見舞いにやってみたのか」 した」 鋭い声で問い返した。 「大坂城内の模様は ? 最も新しい情報を」 「最も新しい知らせは、ポルロ、トルレスなどの神父が城と、それまで静かに眼をほそめて控えていた本多正信が 内に出人りし、速水甲斐、渡辺内蔵助などとしばしば密手を挙げて酒井をさえぎった。 「これは普通の評定ではない。大久保相模守がことは、こ 談、それに、明石掃部が説教の座に連なるを名目として、 大野治長、織田有楽斎などの許に滞在、ここらから加賀のの正信から申し上げましよう。実は相模守は、本日も、そ れがし父子と同席は不快至極と申して、屋敷に引籠り居る 南坊の許へ密使が発されているかにござりまする」 ものにごギ、りまする」 そこまでいった時であった。又家康は、脇息を叩いてそ はっきりといい放って家康を下から見上げた。家康は舌 の話をさえぎった。 「大炊の話には意見が無い。手ぬるいそ。それより大久保打ちした。 「そのようなことを知らぬ家康と思うて居るか。何を忠隣 相模は何故この席に顔を見せぬ、何が不平で出て来ぬの が怒っているのか、それを申せといっているのだ」 じゃ。その方たちにはわかって居ろう。それから申せ」 「されば、相模守は幼少のおりからこの正信とは肌が合わ それは、平素の家康とは思えぬ性急さであった。 ぬげにござりまする。彼は剛直、それがしは、一向一揆の おりに一度逐転、再びお見出しに預かるような不埒者 : その不埒者とその子の上野介が、将軍家と大御所のご側近 に詰めきって、天下のまつりごとを壟断する。許せぬ僣越 「大久保相模守のことはそれがしが : と、酒井忠世が口をはさんだ。 かみがた 271
大久保兄弟としては、この人選でホッとするのは当然だ たが、それにしても、彼等は、あまりに父の思慮とは 離れすぎたところにいた。ここはとにかく、松平忠輝の許 ら使者を立てて貰うべきところであった。 松平忠輝の生母、茶阿の局はこの時も家康の側近に仕え 、いて、身辺の雑用をつとめているのだ。先す松平家から ボ阿の局を通じて知らせてゆけば、家康の耳へは、その死 にけがおだやかに告げられてゆくことになる。 ところが、それをせずに婿を使者に選んでしまった。こ 服部正重は、二十六日に江戸を立って二十八日の夜には ) 婿は尋常の婿ではない。日本中の風評に、。 ヒーンと鋭い 駿府へ着いていた。 を立てて、如何なる事件も嗅ぎわけようとする服部衆の そして、家康の前へ出る前に、本多正純の屋嗷へ草鞋を 人なのだ。 ぬいた 彼は、この使者を拒みはしなかった。拒みはしなかった「夜中ながら、大切なご用で、服部正成の次男が御意を得 全く別の警戒網を張ることも忘れなかった。 たいと罷り越した。お取り次ぎ願いたい」 大久保長安の世評があまり香ばしくないからたった。 そう申し人れると、すでに寝ていたらしい正純は、寝巻 そうか、いよいよ亡くなられたか」 きの上に袖なしを羽織って、自室に通した。むろん人払い 亡くなれば当然本多父子の攻撃が開始されよう : : : そうである。 よった時に、長安の婿である自分の立場はどうなろうか ? 「たしか、正重といわれたの」 彼は、大久保忠隣と本多父子の不和の原因をもう一つ別 ~ ところから見ていた。 正重は、おだやかな笑顔で、 それは将軍秀忠が継嗣と決定する時の事である。本多父 「服部の伜めが、何の用で参ったかご存知でござりましょ 」は現将軍の秀忠を推し、大久保忠隣は越前の秀康をおし 、つな」 た。その時から両派の間には、一つの宿怨が結ばれた : 服部正重はそう考える人物であった。 火山活 196