家康の方針は、どこまでも平和な交易にあり、世界に騷 「 , ーーわしもそれは、どこぞへ運ばうとして、何かの都合 動のタネを撒くような武器の輸出などもってのほかのことで長崎へ立ち寄った : : : そうに違いないと考えているのた であった。それゆえ向こうからすすんで船を焼き払われが、世間の噂はもっと奇矯を好んでの」 て、長崎奉行も、有馬晴信も狼狽しきっている。 「世間の噂とは : 「ーー積荷は白糸だった。おびただしい白糸を積んで来た 「つまり、イスパニヤもポルトガルも、もはや、日本国で のだが、実は、それが日本船から奪 0 たものを日本に売りの一戦はまぬがれぬ。というのは大御所も将軍家も、三浦 に来た : : : そうわかったので、あわてて船を焼いたのだと安針に瞞着されて、もはや動かすことの出来ないオランダ 一一「ロいふらしての」 派であり、イゲレス派になってしもうたと見ているわけ 勝重は光悦の人物を知りぬいているので、家康自身に報じゃ。そこで大坂城へ今のうちにたつぶりと武器を運び人 告出来ないことまでいつも打ち明けた。 れ、ここに立籠って一戦させる : : : つまり、そのため武器 ほう : : : でも、少々腑におちぬことがござりまするをわざわざ長崎へ運んで来たのだが、それが有馬晴信の反 感によって露顕しそうになったので、あわててこれを焼き どの占 ~ が腑におちぬな」 払った : : : そうなると、大久保長安も、秀頼さまもみな捲 ポルトガル船が日本の武器を強奪した : : : そこまできこまれる : : : 困った噂が立ったものよ」 はわかりまする。これは成程彼等にとって一大事、ジャガ 五 タラにせよ、シャムロにせよ、天竺にせよ、ルソンにせよ、 反対勢力の手にこれが渡ったのではたしかに不利になりま しようゆえ。しかし、その折角危険をおかして手に入れた 武器を、何故再び日本に運んで来たのか : : : 何故危い長崎 の港に入って来たのか : : : それが合点が参りませぬ」 「ーー。、・・その事よ」 と、勝重は眉根を寄せて首を振った。 本阿弥光悦は、一瞬呼吸を止めて板倉勝重を見返した。 光悦自身、そうした想像をして、身震いしたことがある からだった。 「ーーすると、ポルトガル船は、日本の船から奪うた武器 を、再び日本国に運んで来て、大坂のご城内にこれを蓄積
浦安針が仮名まじり文に訳して家康に捧呈した。 家康からは押金の屏風五双 : : : そして、両者の間に結ば 「ゼームス帝王書状のおもむきは、天道のおかげによれた「通商免許・ーー」の条々までが、使節の日本縦断で、 くわしく国中へ知れわたっていった。 り、大ブリタンヤ国、フランス国、オランダ国、三カ国 しよいよ妄想を大きく の帝王に、この十一年以来なり申し候。しかれば、日本そうなると、旧教側の宣教師は、、 の将軍さま御威光広大のとおり、我国へたしかに相聞こする。彼等の側からも、実は軍人の使節が一人やって来て いる。他ならぬ宝探しのビスカイノ将軍である。 え候。そのため、カビタン、ゼネラル、ンヨン・セー丿 ビスカイノは、大坂城に秀頼をたずねて、してはならな ス、これ等を名代として、日本将軍様へお礼申さすべく い放言をしてのけたり、無断で日本近海の測量をして廻っ 渡海させ申し候。 丿スよりはひどく行儀も かくのごとく申す通り罷成り候えば、互いの国の様子広たり、少なくとも英国使節のセー く広く大きく流通っかまつり、我国の満足浅からず候。評判もわるかった。 宣教師たちも実はそれを内心では気にしている。 向後は毎年商船あまた渡海させ、双方商人ねんごろにな らせられ、互いに望む物と商売仰せつけられたく候。そ そのひけ目が、一層彼等をあわてさせたり、妄動させる のうえ、日本将軍様御意のおもむき懇ろなるにおいて原因にもなっていった。 は、商人を貴国に残し置き、両方懇和を仰せつけなさる 十三 べく候。然る上は我国へも日本の商人を自由に呼び人 れ、日本の重宝の物を購人売買申しつけべく候。この上 英国使節の一行が平戸へ帰り着いたのは、陰暦では九月 幾久しく申す通り、日本へも疎心なく、用事申し入るべ末ごろに当たっている。 く候。そのため御意を得申すべく候」 したがって、まだ一行が三浦安針と共に旅している時 に、もう一つ柳生又右衛門宗矩を仰天させる情報が仙台か そして、その折の英国から家康への贈物は猩々皮十間 ら入って来た。 仙台へは柳生又右衛門だけではなく、服部一族の手も、 弩一挺と象眼人り鉄砲二挺と長さ一間の遠目鏡一個であっ 239
られると、われ等に日本国占領の意図があるといわれても宣教師一同の迷惑は計り知れませぬ。彼の測量は、金銀島 弁解の仕様がござらぬ。陸奥守さま、哀れな鳥を救うて下の発見が目的ながら、その測量図が他国の手に渡りまして 六、、れ」 は日本国の不利ゆえ、これは私が生命にかけても取り戻す 政宗は、唇をゆがめて舌打ちした。 か、或いは将軍家へ献上ということに致させます。なお私 むろん政宗とて、始めから儼乎として救う道が閉ざされは、日本の国の国恩に報いるため、大船を建造して、交易 発展のために微力を尽しとう存じますると : ていると見れば、乗り出している筈はなかった。 彼には彼の持って生まれた叛骨と、如何なる場合にも禍「すると、それを陸奥守さまが将軍のご覧に入れて下さる を転じて福となすほどの自負は胸中にある筈たった。 わけで」 「困ったご仁じゃ」 「それより他に策はあるまい。そして、われ等からも口添 えするのじゃ。ソテロこそはこれからの日本国のために、 政宗は、ポツリといって嘆息を吐いてから、 「とにかく上申書をお書きなされ」 無くてはならぬ大切な聖者と存じまするゆえ、ビスカイノ と、きびしくいった。 や大久保長安などとは、同じ眼でご覧なさらぬようにとの 「何よりも、ビスカイノが、お身を脅迫して困る旨、彼の 正体を、お身の方から訴え出るのじゃ。これはの、表面は 「あの、大久保長安などと : イスパニヤ国の使節ゆえ、如何に悪しざまに申したとて、 「そうじゃ。本多父子が面白くないと思うているのは、長 事が面倒になるゆえ召捕られるおそれはない。そこで一日安や相模守じゃ。これとはやむない交りはあっても、心底 も早く、彼を日本国から追い帰して貰いたいと、丁重に願からの知己ではない : : : そう見せておかねば、哀れな鳥が い出るのだ」 狙いの外へ飛び立てまいが」 「なるほど : そういってから政宗は、又深沈とした表情になって考え 「彼は、大坂城を見物したいと申してきかないゆえ、同伴こんだ。 致しましたるところ、かくかくの不都合な放言を致しまし まだ何か気にかかることがあるらしい。 た。このような人物に長く日本に滞在されては、われわれ 271
安南からの国使を薩摩に迎えたのも、薩摩の島津家久 が、琉球王の尚寧を連れて、駿府から江戸へ出て来たの も、そして、日本製の帆船が、はじめて太平洋を押しわた名古屋の築城には、加藤清正の、計算を無視した協力が ってメキシコ航行に成功したのも、明国の福建省総督と勘最も目立った。 彼は命ぜられた国役の義務を、消極的に果たすのだとい 合符の復興をはからせたのもこの年であった。 う態度では全然なかった。 これで家康政治はとにかくその礎石をがっしりと据えた のだ。 彼はすすんで城下の丘陵を切りくずし、ひろい城下町の 信長の天下布武の時代から、秀吉の軍国主義時代のこと土地増成をやってのけた。 を思うと隔世の感がある。とにかく儒学をもって教学の筋そして、問題の礎石を曳く「石遣り」のおりには、ほん とうに天下を驚倒させるほどの派手ごとをやってのけた。 を通した、平和な封建国家が出来あがったのだ。 以前に豊太閤の馬のロ取りだった原三郎左衛門と林又一 清正のいう世界一の国はいくぶん誇張があるにしても、 日本に来ている宣教師や船乗りたちが、日本と家康とを自郎に命じて、六条三筋町から選りすぐった太夫百数十人を 国への通信の中で褒めちぎっているのは疑いもない事実で動員させ、それについて来た美女たちを加えると、その数 あった。 四百人を超え、これが名古屋の地に時ならぬ百花撩乱の花 ただしそうしたうちに、オランダ国王の国書の中に、イ園を現出した。 当時の太夫というのは、ただに酒間の遊女であるだけで スパニヤ、ポルトガル両国を警戒せよという一句があり、 はなく、女歌舞伎の和尚でもあった。 更に、有馬晴信のポルトガル船焼き討ち事件というのが、 慶長八年、出雲の阿国が、歌舞伎おどりをはじめてか 一抹の妖雲を感じさせはしたものの、それ以外には、全く ら、廓の女たちの中へこれが次第に浸透して、彼女たちは 順風満帆の新日本の姿といえた。 えんや そして、その日本の隆盛を象徴するかのように、名古屋四条河原にすすんで小屋掛けをし、昼の間に艶治な舞台姿 城は東海道に威容をあらわし、日本中の諸大名は又、争っを見せては夜の客を誘いこむという風に変わっていたのだ て江戸に、その妻子をおくようになっていった。 いようらん
彼はその文中に、家康の死後に起こるべき、徳川家内部 実力無きものは、もはや再び日本には帰って来まい。依 の紛糾について用捨なく語りかけていた。 ってこれは国内の大掃除にもなるのたと書いてあった。 家康ほどの巨樹が倒れてゆくと、どんな場合にも波紋は そして、メキシコの総督や宗総取締に提示する覚書の写 上下に及ぶものだ。そして、その後継者にこれを撫圧してしも同封してあったが、それには政宗の複雑な意志が、む ゆくだけの器量がなければ、云うまでもなくその祖業は覆しろ一種の神韻をただよわして織り込まれてあった。 滅するであろう。 日本とメキシコの通カノ、 ヨー、レノンのマニラ市に不利を与 大久保長安の死とその後の事件は、その避けがたい紛糾えるものではないこと。家康には通商の希望だけあって、 の伏在をかたる小さな一例にすぎない。 しかも、忠輝はま侵略の意図は全くないこと。通商が、イスパニヤに利益を だ若いのだから、泰然としてあらねばならぬ。 もたらすものであれば、当然同国系のフランシスコン会派 こんど政宗が、黒船を造り牡鹿郡の月の浦から出帆させは幕府から厚遇されるに至るであろうことなどを詳しく記 るのも、実は遠きを慮ったそれ等への備えに他ならない したあと、柳生又右衛門が何度首をひねってみても、ついに 4 2 せつかくここまで育って来た日本国が、ここらで、内乱その真意の解ききれないふしぎな文章で結ばれてあった。 や外国勢力の衝突で挫折させられてよいものではない。 この使節を派遣丁る政宗は、次代の皇帝となるべ そこでは百尺竿頭一歩をすすめて、日本国の繁栄にまこ き最強の実力を擁してあり、しかも家康の信頼厚く、こ とに寄与するものと、然らざるものとをきびしく選別し のたびの使節派遣は、家康もその子の将軍も決して不快 て、第二の礎石をおくべきときである。 とするものではない。依って充分に政宗が使節のために 日本国発展のためには、南蛮側のフィリップ三世がよき 便宜を計られたい」 や、それとも紅毛側のゼームス一世がよきや ? この便宜が、やがてフィリップ三世に謁見したおり、軍 まだ誰も真正の調査を遂げた者はない。そこで政宗は万艦三隻をすみやかに日本国へ : : : というよりも、家康が信 里の波濤の外に使節を送り、これ等を直接調査させるとと認し、将軍が喜んで協力している次代の皇帝、政宗の許へ もに、大貿易路の開拓を命じて、ソテロや他の神父どもの派遣せよということになるのだから、まことに複雑な含み 忠義心と実力とを試みようとしているのである。 を持った不思議な文章というべきたった。
( わるい時に、わるい者が来たものだ : てある五月四日。 丿スが : といって、これは又本衛門などに、どうなることでもな : というよりも、英国国営の東印度会社 黄金島ジャパングの名で呼ばれる東洋の日本国をそのかった。 カカ下の取り引き先に加えようと決議したのは二年前の慶 ーリスはすでに へ十六年三月のことで、その年の九月にセ 〕ンドンのテームズ河口を「日英国交開始の全権委員」と 柳生又右衛門は、初めに切支丹の人々の動揺の原因を、 して船出していたのである。 大久保長安の死にあるものと軽く考えていた。 ところが、実はそれは、イキリス国王ゼームス一世の使 リスは、平戸に着いて領主の松浦法印とその孫の壱 圦守隆信に会うと、直ちに同国人であり、家康の側近でも節が、日本国に到着したということの方が遙かに大きな風 波の原因になっているのを知って、改めて情報網を密にし のる三浦安針と連絡をとるよ、フに依頼した。 そこで松浦法印は英船到着の知らせを持たせ、三浦安針ていった。 リスが、駿 そして新しくわかった事は、平戸にあるセー 」と、ウィリアム・アダムスの許へ、至急平戸へ急行され 府へ出した使者の帰着が遅いので、甚だ不機嫌になってい にいという使者を立てたのである。 ー「ることとい、つことであった。 この使者は初めから陸路をとった。先す三浦半島の安全 ) 所領地をたずね、そこで安針の妻の馬込氏に会って、安実はこの不機嫌さが、わざわざ彼を迎えに平戸まで赴い は彼がすでに通過して来た駿府にあることを知らされた三浦安針と彼との仲をしつくりさせす、そのため安釗 は、生涯故郷の土を踏むことなく日本で果てる原因にもな っているのだが、それはとにかく : : : 平戸に落ち合った両 そこで再び駿府城へ引っ返して、安針に面会し、安針と イギリス人は六月二十五日に、連れ立って平戸を発って駿 ~ ( に平戸へ向かったのである。 実はこの事が、セーリスの駿府参向の噂以上に、イギリ府に向か 0 た。 したがって、大久保長安の死によって、何事かが起こり ( 船到来の噂を大きく日本中へ撤き散らす結果になってい そうな不穏の空気につつまれている時に、日本中へ完全に ) 0 234
泰平になったというのに、こんどは、南蛮人と紅毛人の争「その通りじゃ いの中に巻きこまれる : : : そうなったら、 いったいこれは光悦は、叩きつけるように答えた。 : となれば、こ どうなるのじゃ。日本中の民百姓の願いはいったいどうな「大御所さまが、紅毛側にふみ切られた : るのじゃ」 れに対抗しようとする南蛮側が日本で求める拠点は大坂よ 光悦は、われにもあらす昻ぶって、はげしく膝をたたい り他にあるまい」 ていた。 「しかも、その大坂城よ、、 まナま、大御所さまの堪忍 十四 がようやくみのり、春の風が吹きだしているという : : : 」 「 4 じさよー・」 於みつは、息を詰めて光悦を見返した。 光悦の案じていることの意味はよくわかった。探ってみ「しかしこの春風の城はの、建物は無類に堅固ながら、人 てくれといわれている話の要点もはっきりした。 物配置の点から見れば無防備にひとしい女子供の城 : : : 」 いや、それ以上こ、、 しまの於みつにからみついて来るの は、大坂城内にある淀の方の顔であり、千姫や千代姫の顔「こなたも、納屋蕉が血筋ならばわかるであろう。この であった。 城の春風を絶やしてはならぬのじゃ。この城に春風の吹い 「おじさま、するとおじさまは、若しその焼き討ちとかがている限り、畿内近畿はいうに及ばす、日本中の民百姓 大御所さまの御意に出たことならば、日本国中が、再び乱は、みな春風 : : だが、ここにあやしい争いの風を持ちこ 世になりかねない : と、お案じなさる : : : ? 」 まれたらどうなるそ : : : わしはそれを案じて、実は加賀か や、総見 ら戻って来たのじゃ。用心にしくはないそ : : : い 光脱は、きびしい眼をして頷いた。 公 ( 信長 ) から太閤殿下の御代を経て、大御所さまの代に 於みつは、又追いかけるように、自分の不安を口走っ ようやく手に入れたわれ等が泰平 : : : これを南蛮人や紅毛 「そして : : : そして、もしそうなれば、大坂と江戸の戦い人に取り上げられてよいものか」 になりかねない : : とご覧なさる ? 」 聞いているうちに、於みつの躰もわなわなと震えだし っ ) 0 5
「大体南蛮、紅毛人の国々では、五年間戦がないと祝いま 五 すそうで。ところが日本国にはもう十年間も戦がない。戦 がないゆえ庶民の集落がどんどん家並を増してゆき、これ家康は一瞬、あわてて耳へ片手をあてた。 がみなみな安心して暮しを楽しむ。現今世界で最も進んだ 「肥後どの、何と申されたぞ。お身が、遊女どもの先頭に 国は日本国だ・ ・ : : 心底からそう申していたのでござります立 0 て、あの、木遣りを仕るとな」 清正はわざと笑顔を渋面にして、 「それで : : 、お許は、何かやると申されたの。一世一代 「ご異議がごギ、りまするかな」 の派手ごととか : 「いや、異議があるも無いも : : : それは、本心かの」 「されば : 「何でわざわざ清正が、駿府まで嘘をつきに参りましよう 清正は胸をそらして又扇を立て直してから、 ゃ。日本国が世界一の泰平なよい国に相成った。その祝い 「日本国が世界一のよい国に相成 0 た : : : そうなればこれとあれば、清正も、遊女どもの群にまじり、同じ衣裳をつ は祝わず . にいてよいことでは、こざりますまい」 けて踊りもすれば音頭もとって見せまする。あの世から太 「なるほど、これは道理じゃの」 閤殿下も浮かれてとび出してくるようなお祭り騒ぎがやっ 「この清正とて、まんざら田舎者でもござりませぬ。そこて見とうなりました。しかし : で名古屋城の石やり木遣りに、前代未聞の派手ごとを仕清正はそこで又髯をしごいて、 る。つまり京から原三郎左、林又一郎のやからに命じて、 「大御所がご反対 : : となれば、これは思いとどまります 遊女どもを数百人呼びよせ、これに当今流行の女歌舞伎のるが」 者どもを加え、揃いの衣裳をまとわせ、この清正みずから 「フーム」 音頭を取って曳かせまするが、この儀、ご異存はござりま 「よくよくご思案あってご返答下さりまするよう、ご存知 せぬか」 のとおり、秀頼さまも、淀のお方も、ここもとお心を和ら そういうと清正はまたぐっと胸をそらして家康を睨んでぎ、感謝をこめて大仏殿の再建をおはじめなさるとか : っ一 ) 0 されば清正は、一世一代の派手ごとを : : : 」 6
「ほんに、南蛮側ではそう受取りましよう」 しよ、つか」 ・ヨーロツ。、よ、亠よ 光悦はうなずいた。要点だけは聞かせておかねば、於み「そこじゃ。わしが案ずるところは : : と、思ったからだ。 南蛮、紅毛と、まっ二つに割れて争いのまっ最中だそう つに網の張りようもあるまい : 「この事件のいちばん大切なところはの、有馬修理太夫晴な」 ~ し。イスパニヤ、ポルトガルの側と、オランダ、イゲ 信さまが、私憤にかられてご一存で南蛮船に立ち向かった レスの側にわかれて : : : 」 か ? それとも大御所さまのご内諾を得て戦おうと決心し たかが大事なところじゃ」 「その事よ。その争いは並大抵のものではないらしい。同 じキリシタンながら宗派も二つに割れてしもうての。あの 「というと、その点がまだはっきり致しませぬので」 : と、だけは察し海、この島と、行く先々で血を流しているそうな」 「そうじゃ。長崎奉行も関係ありそう : 「その事ならば、私も耳にして居ります」 がつくが、その余のことはの」 「そこじゃ。その争いの最中に、大御所さまがもし南蛮船 「で、大御所さまのご内諾を得てなければ : 「それならば、さして案することはあるまい。事は日本国を焼き払え : : : そうお命じなされたとなったら南蛮側では どう取ろうか。紅毛人の三浦安針は、ついに大御所さまを 対ポルトガル国ではなくて済む。船長と有馬さまの争いに なるからの。有馬さまに不都合な点があれば、大御所さま動かして大御所さまは紅毛側にお味方なされた : : : 遠から : これはの、 ず南蛮人は、日本国から追放かみな殺しか : はお叱りなさる : : : というだけで済むであろう」 不思議な形で大御所さまのご理想や、われ等の希いを粉々 「と、すると、その反対の場合には : に砕きかねない大駿動になってゆく」 「それがわしの案ずるところじゃ。こなたも知っての通り、 いま交易は、大御所さまの最も望んでおわす泰平日本の大 国策じゃ。このことは、南蛮人側でも紅毛人側でもよう知「われわれが、今日まで大御所さまにお味方して、微力を っている。その大御所さまが、ポルトガル船の焼き討ちに傾け尽して来たのは、みな泰平の世が望ましかったからな : と、なったら、これは焼き討ちをのじゃ。戦国乱世には懲々した。もうあのような悪夢の世 ご内諾を与えられた : 界はまっ平ご免と : : : ところが、それで日本国はようやく 命ぜられたと取られるやも知れぬ」 6 5
フィリッビンの大王であるフィリップも三世に至って、そ 違いない。 ちょうらくき いや、その上にもう一つ名古屋の地が、実は、彼の父とろそろ凋落期を迎えている。 も兄とも想う豊太閤の出生の地に近く、そのあたりには幼したがって、家康、秀忠を上に頂いて出来上がった日本 。・、つか : そう豪語 国は、やがてそれをも凌駕する日が遠くない : い清正の夢もちりばめられてあったのではなかろうか : 人間から人情を全くぬき去ることは出来ない。と、すれして、黄金島発見を眼ざして日本に来た、セパスチャン・ ビスカイノ将軍を煙に巻いたということたった。 ば名古屋の築城は清正にとって、この地に眠る父祖の霊に ビスカイノ将軍は、前にも記したとおり、表面は前フィ 錦を飾ってみせる供養の意味もたぶんあったと考えてよか ろう : リッビン太守のドン・ロドリゴとその一統三百五十人の漂 家康もまたむろんそのあたりの微妙な人間心理を察し得流者を、家康がメキシコに送りとどけてやった答礼に来た というのがその名目たったが、 真実はそれを口実にして、 ないようなものではない。 そこで彼の造った名城に黄金の鯱を飾らせて、新しい日マルコボーロの「東方見聞録」による日本の黄金島探しに やって来たのだ。 本の完成を祝ってやったと考えるのが至当であろう。 したがって、野心を世界の海に持っ長安は、こうした黄 この黄金の牝牡の鯱一対には、約二千枚の金鱗があり、 これに要した黄金は小判で凡そ一万七千九百七十五両とい金狂に、そっくり黄金で出来た城でも見せて驚倒させてや りたかったのであろう。 われて庶民を驚倒させたのだが、それを少しも驚ろかない まだまだ日本人の考えることは小さい。みな量見が 人間の中に、一度卒中で倒れながら不死身の立直りを見せ「 狭すぎて、この長安の掘り出す黄金をよう使いきらぬの て、再び方々の金山に挑んでいる大久保石見守長安があっ こうした長安の豪語は特殊なものとしても、この黄金の 彼は、この黄金の鯱などは、 鯱の噂が、一層豊家の大仏殿再建にまで派手な風を送りこ 小さい小さい」と大ったそ、フな。 新しく出来あがった日本国は、いま、世界で第一等の国んだことは否めなかった。 なのだ。イスパニヤ、ポルトガルの両国からメキシコ、 いま、大坂では決して幕府や家康に楯突こうという考え