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検索対象: 徳川家康 15
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1. 徳川家康 15

そして、それと並行して、舅伊達政宗の仙台便りが、次 次に書き送られて来ていたのである。 はじめ忠輝は、かくべっこの舅に興味は持ってはいなか った。両家の縁組みが何を意味するものかは始めからわか っていたし、政宗の人物を見抜くには、まだまだ若すぎた からであった。 ところがソテロを伴って仙台へ帰ってからの政宗は、ぐ いぐいと忠輝の胸に喰いこむ、ふしぎな魅力と影響を持ち だしていた。 いったん死刑と決ったソロテを助けて、横幅五間半、長 さ十八間の巨船を造りあげ、これによってヨーロッパ服 越後にあった松平忠輝の許へ、旧教各派の宣教師たちがの構想を組立てていったのだから刮目せずにいられなかっ 2 「情報ーーー」と称するものを携えさせて、それとなく信徒た。 を送りこみだしたのは、長安の死後間もない頃からだっ その船の図もむろん送ってくれてある。マストは二本で あった。その主柱は十六間あまり、第二のマストも十間足 忠輝は、それ等の者を歓待した。江戸を離れて若さと無らすとある。 忠輝は、早速福島城の大庭に、この船の模型を造らせた 聊を持てあましている忠輝にとって、これ等来訪者のもた らす世間話は、彼のこころに「世界の風ーーー」を通わす明模型といっても実物大である。低い船台を造らせて、そ るく大きな窓に想えた。 の上に図面の寸法どおりの船体を組みあげさせてみたの 来訪者たちは、ただに世間話だけではなく、新しく南蛮だ。 しかし、長さ十六間余というメーン・マストの用材は残 から渡来した薬品、香料から切支丹関係の装身具、宝石な 念ながら領内では発見出来なかった。そこで、やむなく継 どの珍奇な品々をもたらして、彼の夢をふくらませた。 蕭風城の巻 巨城の呼び声

2. 徳川家康 15

又右衛門宗矩が意気こんで云い出すと、家康は、ちょっ れのお味方もなさるものではない。ただ世を騒がすもの と視線をそらしていった。 は、仏教徒たりと神道者たりと許さぬそと、筋を正して慰 撫させまする」 ( そんな講釈は小児にせよ : : : ) そうした不快さをあらわに見せた顔であった。しいし、 家康は、じろりと又右衛門を睨んでから頷いた。 「それで切支丹信徒はおさまろう。次に将軍家と上総介の又右衛門はひるまなかった。 「然るに、大御所さまは、わが心に敵をつくらねば、敵は 間の気まずさは何とするそ」 持たすに済むものとお信じなされて、ご汕断なされまし 「これは、伊達陸奥守に納めさせるが最上の策かと心得ま た。なるほど、大御所さまと秀頼さまの間には、みじんも する」 敵意は介在しませぬ。しかし、大坂城は別ものでござりま 「なるほど」 「陸奥守はその辺二重、三重に考えて、双方何れの信もまする。この城は、日本中の敵を引受け、びくともするもの だ断っては居りませぬ。悪く云わば二股、よく云えば深慮ではないぞという、はじめから四方に敵を意識した、太閤 3 2 が威嚇の城でありました」 : 間題は、これ以上敵意を持たせぬことが肝要かと存じ 「なに、大坂城は威嚇の城たと : まする」 「御意にござりまする。ものにはそれぞれ心がある。京 家康はまた軽くうなすいて、 「すると、残る大坂の秀頼どのじゃ。だいぶん信者が人りの禁裏建物は、戦など度外視して建てられた御所ゆえ、あ の前に立っても誰も戦意などは燃やしませぬ。ところが、 こんでいると思われる。これは何としたものじゃ」 間いかけられて、又右衛門は一膝のり出した。これには大坂城は違いまする。あの前に立ち、あれを見上げるほど の者は、この城に依って、憎い敵と一戦したら : : : 見上げ 大いに意見のある又右衛門であった。 るだけで、はげしい戦意を掻き立てられる城塞でこざりま する」 「なるほどの、つ」 「およそ兵法の行きつくところは、敵を持たぬことにござ 「それゆえ、追い詰められた者も、はげしい敵意を持った りまする」

3. 徳川家康 15

そう附け加えられたおりには薄気味わるさは二重になっ というのは、その頃すでに大坂では、 いよいよ大御所は、大坂を取り潰す気になったそう そうした噂が女子供の間にまで流布されだしていたから 片桐市正且元は、大坂城内の自分の屋嗷に引き籠ったま そうなると、ご城内でいちばん直接に荒い風が当たって 朝から何か認めものに没頭していた。書状ではない 日記でもない ゆくのは千臣だっこ。 かといって、近々出来上がる方広寺大仏殿の記録でもな 千姫は、いまだに、そうした風が、どこから、何を原因 しようだった。 にして吹き出したのか知らずにいるに違いない 時々彼は筆をおいては嘆息し、又考え直して墨をすり、 大久保長安の死などは、彼女には何のかかわりもない間 3 聿を舐めては書きつづけている。 題たったし、切支丹信徒の思惑は尚更のことであった。 したがって、於みつの産み残していった幼い姫の母でも 実は、万一、大坂と関東の間に不幸な戦が勃発したおり 姉でもあり、同じ遊び相手のような立ち場でこれに のために、彼と家康の駿府で交した対話をそのまま書き残あり 接していた。 しておくべきだと考えたのだ。 実際のところ、昨年の秋、わざわざ駿府へ招かれて、 そこへもう一人また他の女性に秀頼の子が産れた。これ 「ーーー秀頼どのに河内の内で一万石加増をしたい」 は男の子で国松と名づけられた。 そういわれたおりには、且元は何となくゾーツと寒気が 千姫は、その国松の生母の素性すら訊ねなかった。伊勢 したものだ。 から奉公に来ている侍女に手をつけて産れたのだが、そう 「ーーー他でもない。この前の大仏修理のおりには一紙半銭した事は、秀頼のような身分の大名の家では止むないこと の寄進もしなんた。その償いだと思うてよいそ」 : と、いうよりも当然のことと考えて、疑惑もなければ 桐の片桐

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せ、それを先ず口に入れてから秀頼にすすめた。 「それはよい。 日々的場でなさるかの」 「毎朝三十射すつ。そのあと馬術を試みて、それから阿千毒味したから召し上がれ : : : という代わりに、 「どうじゃな秀頼どの、わしは又このように歯が生えまし の許で朝食を摂りまする」 たぞ」 「阿千の許での」 一寸心憎い返事であった。 と、ロを指さして噛んでみせた。 家康は大きく頷いた。 「歯がまた生える : : : ものでござりましようか」 ( わしが千姫のことをききたがっているのを察している ) 「どうじゃな、書物はいま何をお読みなされて居らるる そう間い返されるのを予期していた様子で、 : これは実はの、山に生えていた歯をわしのもの 「はい、貞観政要を」 に致したのじゃ」 「おお、あれはよい書物じゃ。して師は誰そおとりなされ「何と仰せられます ? 山に生えていた歯とは : てか」 「柘植でござるよ。櫛とおなじ柘植の歯じゃ。長崎にある 「妙寿院学校の学僧に来て貰うています」 茶屋四郎次郎がの、先年琉球王が駿府へ参るおりに、東作 「そうそう若君は、幼ないおりから習字が好きであったが と申すこの入れ歯の細工人を付けて寄こしてくれての、そ れが三月がかりで作ってくれた歯じゃ。それと、これ、こ べっ - : フ 続けざまに間いかけて、家康は、あわてて首を振った。 : これは紅毛渡来の玉に細工はやはり長崎の鼈甲 の眼鏡 : すでに酒盤が持ち出されていたからだった。 職人 : : : 泰平の世というは、さまざまなものを造りだして みせまするそ」 十 家康がわざわざ大きく口を開けて、その入歯を指で叩い 清正が、たまりかねて拳を眼頭にあてたのは、家康と秀てみせると、秀頼は期せずしてそれを覗き込む形になっ 頼の間に三献の盃ごとが済んで、家康が人歯の話をはじめ そのおかしさが、つし、 た時であった。 、こ清正の笑いと涙をいちどに噴き 酒盤に盛られた蒸し鯛を家康は、自分の皿に盛りわけさ出させた。

5. 徳川家康 15

幸村は、間わず語りに、その覚悟を打ち明けてしまっても、大坂城の後家と遺児が哀れゆえ、これにお味方してや いる る覚といわれた」 わが身の栄達も、子孫の繁栄もふり切って大坂方へ味方「・ する : : : と、松倉豊後守にはひびくのだろう。 「たが、どうしていったい、ご貴殿は、大坂へ人鹹なさる 或いは、ここが人間の悲しいところかも知れない。人そぞ。宜しゅうござるか左衛門佐どの。紀州の浅野家では、 れそれが異った顔を持って生まれて来ているように、それすでに貴殿をきびしく監視致してござるぞ」 「それは充分 : それの考え方には他人を人れない個々の密室が存在する。 その意味では豊後は幸村の思想の部屋へは人りこめない人「いや、紀州家の監視だけならば或いは脱出も可能であろ 間だった。 う。もともと浅野家は豊家の縁類、或いはそれとなく見遁 してくれまいものでもあるまい : たが、ご貴殿は、こ ( これは、とんだ情の人だ ! ) 豊後はそう解釈した。いや、そう解釈しなければ、幸村こで大御所の秘命をおびてまいったそれがしの忠言までも もまた父の昌幸同様、百に一つか二つの大坂側の勝利に賭しりそけられた」 「その儀は何とも : ける大博奕打ちという答えになってくるからだった。 「そうなると、もう一度、それがしは左衛門佐どのを説か 「いや、それがしはよい。それがしは、左衛門佐どのはや ねばならぬ」 はり安房守どののお子であった : : : そう思えばそれで済 済まぬことが一つござるぞ」 豊後は豊後で、誠実な情において、幸村に劣る気はなかむ。が、 「、一」ギトり・ましよ、フなあ」 った。彼は膝の前のタバコ盆をおしのけるようにして、 「ご貴殿の考えには、始めから一つ、大きな考え落ちがあ「ござるとも ! われ等はこれより関東へ立ち帰って、と るよ、フに、い得るが々 . 扣であろ、つ ? 」 にかくこの儀を大御所に復命せねば相成らぬ。そこじゃ間 「考えおち : : ・・」 題は : : : 大御所はお身も申されたとおり、何とぞしてこの 「さよう。ご貴殿の覚はわかった , ご貴殿は、戦は避世から戦を無くしたいー この世を浄土にしたい想いで凝 けられぬものと見る。そして、必す敗れるとわかっていてりかたまっておわすお方じゃ。その大御所が、お身は大坂 308

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ないほどがっちりと礎石を据えたものだったからなのだ。 それが、若し揺らぐものと知ったら、秀忠はそのカの半 分も出し得まい。とすると、これは、大久保相模守忠隣よ 柳生又右衛門は、近ごろの家康が、わざわざ川越の喜多 りも、同じ連判状に連署している舎弟忠輝の存在の方が、院から天海上人を招いて、天台血脈の相承を受けるのを表 ぐっと比重を増した重石になってくるかも知れない 面の理由として、禁裏に対する幕府のあり方を、詳細に諮 ( 家康はそれを考えて涙ぐんでいるらしい 間している事実をよく知っていた。 柳生又右衛門は、家康を見ているのが苦しくなった。 当時の天海は、権僧正から正僧正に任ぜられ、毘沙門堂 この年になって、いちばん安定していると自信していた門跡を賜わって、禁裏のご信認はかくべつのものがあっ わが家の中に、大きな間隙が出来そうになっている。それた。 はつい二、三日前までは、家康の想像もなし得なかったこ そうした天海の意見を容れて、家康はいま主上に一万 とに違いない。 石、そして院に二千石の供御を奉って、さて、皇基永世ご 「よし、長安が後始末は、黙って将軍に任すとしよう。又安泰のためには、将来どのような心構えが必要であろうか 右衛門の思案はどうじゃ」 と仔細に意見を間いただしている。 「それがよろしゅ、フ : : というよりも、重臣一同に知れわ むろんわが家のことはすべて定まったものと見てのこと たってしまいました事ゆえ、他に手だてはないかと存じまで、おそらく、それを自分の生涯の仕上げと考えてあった にしなし する」 ところが、それは、それほど強固なものではなかった。 「しかし、忠輝や、相模守のことは、まさか将軍には押し つけ得まい。よって、長安の遺族の始末がっき次第、わし戦国の無秩序さは克服し得たものの、泰平になって、 は江戸へ出かけて来よう。な、それがよいであろう又右衛次々に芽生えて来る新しい間題の根は、家康の経験だけで : と、家康がもし反省 は処理出来ないものを含んでいた : 又右衛門は、こんな自信のない家康の姿を見るのは始めし、迷いだしているのであったら、いったいこれから先は ど、つなろ、つか : てたった。 230

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は、日本国に住みつきたいのだ。それも全教徒の偉大な支 配者として : ( ソテロの間題は、わが家に決して無関係な間題ではな 「ーーーあの船は、修理のきかぬほど壊れては居らなんだと いう : : : それをわざわざ堺の沖で沈めたそうな。それも、 大坂城へ秀頼どのを訪ねたあとで : : : 陸奥どのも、心され と、もう一度政宗は、始めから事件の臘を追ってみた たがよいと思うそ」 ソテロの坐礁させた船が、実は、修理不能というほど大破 しているのではない・ : という事実が、どうして将軍秀忠 将軍秀忠にそ、つ注意されたとい、つことは、秀忠もも、フ、 の耳に人っていったのか ? 伊達家とソテロの関係をよく知っているということだっ それが政宗には薄気味わるい事に思えた。 政宗自身は、ビスカイノがソテロを脅迫し、ソテロはそ とにかくソテロは松平家に出人りして、忠輝夫人の師父 れを拒むことによって、日本の大司祭という地位に就こう になっている。それに大久保長安と親交を持ち、政宗とも認 とする野心の妨害をおそれてこれに従ったのだ : 会っている : : : と、睨んでいるのかも知れない。 しかし、これはどこまでも海上の出来事で、陸にいる者そこで政宗は、さりげなく答えて来た。 「ーーーでは、ソテロをわが屋嗷に招き、教義を聴間すると に洩れる筈のないことだった。 いう形にして、それとなく彼の野心を探ってみると致しま それを将軍は知っていた。 ソテロと申すはやはり油断のならぬ曲者らしいぞ。 したがって、今日こうして政宗とソテロが相対している あ奴は、自分では日本国の交易をひろめるためならば、ノ ことは、将軍も先刻ご承知という事の運びであった。 ビスパン ( メキシコ ) はおろか、イスパニヤ本国までも口 ーマまでも使いする : : : などと申していながら、その実日 「ソテロどの、その嘆願書の件はそれでよいが、まだ一 不を離れる気はないらしい」 つ、わしの腑におちぬことが残っている。まさか、お身 は、この政宗をあざむくようなことはなさるまいの」 そういわれた時には政宗はゾーツとした。 確かにその通り : : と、政宗も睨んでいる。ソテロは実「もってのほかでござる。何で陸奥守さまを」

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浦安針が仮名まじり文に訳して家康に捧呈した。 家康からは押金の屏風五双 : : : そして、両者の間に結ば 「ゼームス帝王書状のおもむきは、天道のおかげによれた「通商免許・ーー」の条々までが、使節の日本縦断で、 くわしく国中へ知れわたっていった。 り、大ブリタンヤ国、フランス国、オランダ国、三カ国 しよいよ妄想を大きく の帝王に、この十一年以来なり申し候。しかれば、日本そうなると、旧教側の宣教師は、、 の将軍さま御威光広大のとおり、我国へたしかに相聞こする。彼等の側からも、実は軍人の使節が一人やって来て いる。他ならぬ宝探しのビスカイノ将軍である。 え候。そのため、カビタン、ゼネラル、ンヨン・セー丿 ビスカイノは、大坂城に秀頼をたずねて、してはならな ス、これ等を名代として、日本将軍様へお礼申さすべく い放言をしてのけたり、無断で日本近海の測量をして廻っ 渡海させ申し候。 丿スよりはひどく行儀も かくのごとく申す通り罷成り候えば、互いの国の様子広たり、少なくとも英国使節のセー く広く大きく流通っかまつり、我国の満足浅からず候。評判もわるかった。 宣教師たちも実はそれを内心では気にしている。 向後は毎年商船あまた渡海させ、双方商人ねんごろにな らせられ、互いに望む物と商売仰せつけられたく候。そ そのひけ目が、一層彼等をあわてさせたり、妄動させる のうえ、日本将軍様御意のおもむき懇ろなるにおいて原因にもなっていった。 は、商人を貴国に残し置き、両方懇和を仰せつけなさる 十三 べく候。然る上は我国へも日本の商人を自由に呼び人 れ、日本の重宝の物を購人売買申しつけべく候。この上 英国使節の一行が平戸へ帰り着いたのは、陰暦では九月 幾久しく申す通り、日本へも疎心なく、用事申し入るべ末ごろに当たっている。 く候。そのため御意を得申すべく候」 したがって、まだ一行が三浦安針と共に旅している時 に、もう一つ柳生又右衛門宗矩を仰天させる情報が仙台か そして、その折の英国から家康への贈物は猩々皮十間 ら入って来た。 仙台へは柳生又右衛門だけではなく、服部一族の手も、 弩一挺と象眼人り鉄砲二挺と長さ一間の遠目鏡一個であっ 239

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労をねぎらい、一両日間休息せば、国王に対する返書を 遣わすべしと予に告げしめたり。 リスが楽しく日本を縦断してゆく間に、次の騒乱の 次に江戸にあるその子 ( 将軍秀忠 ) に会う意なきかとた ずね、予がその計画あるを告げるや、大御所は、旅行に芽生えは、日本中で動かしがたいものとなりつつあった。 要する人馬供給の命を発すべく、又帰着のころには書簡むろんこれには、次第に勢力を仲ばして来ているイギリ ス王、ゼームス一世への、在留宣教師の恐怖があったこと は出来上がって居る旨伝えしめたり。 御座所を出て戸口に至れば書記官長 ( 本多上野介 ) 予をはいうまでもない。 使節のセーリスは軍人なのだ。それが軍船のクロープ号 待ちうけ、石段のところまで予を送り、予はこのところ で乗りつけて、先に家康の側臣となっている英人の三浦安 にて轎輿を従えて旅宿に帰れり : 針と手を携えて駿府と江戸を訪間し、見事に条約を結んで 帰ったのだ。 リスの一行は、こうして十二日の正午駿府を発して こうなれば、彼等を「手のつけられぬ無頼漢ーー」と、 2 鎌倉江の島を見物し、十四日に江戸に入って将軍秀忠に謁 悪罵し続けて来た旧教の宣教師たちが、狼狽するのは当殀 のことであった。 それから一週間江戸に滞在して二十一日に浦賀に向かっ このゼームス一世の書翰は、従来のイスパニヤ、ポルト た。浦賀にある三浦安針の屋敷にとまって、安針の夫人、 馬込氏の親切な待遇に満足しながら、二十九日に再び駿府ガルなどの外交文書に比べてひどく荘厳な感じのものであ ったらしい へ帰りついた。 紙質は奉書の蠍紙で、幅二尺縦一尺五寸、三方に緑の縁 そして、彼自身の旅行がそのまま無気味な風波に変わり つつあるなどとはっゅ知らずに、家康の返書と贈物と、通どりで、唐草模様があり、それを、三つに折り、更に二つ 商許可状を貰って、十月九日に駿府を発し、悠々とまた京に折り返して金鋲で閉じて鑞で封じてあった。むろん署名 都、大坂を通って、十一月六日 ( 太陽暦 ) に平戸に帰着しはゼームス一世の親署である。 この親書を誰も通訳出来る者は居なかったので、当然三 たと楽しそうに日記に書いてある。 3

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妬心もないというふうだった。それで却って秀頼の方が恥 9 かしがり - 、 「ーーわしは、今度こそ秀頼どのに大坂を出て貰わねばな これはここで育てぬ方がよいかも知れぬ。常高院に らぬことになった、と、思うのだが、お許の思案はどうで 相談してみるがよい」 そういって、京極家の家来、田中六左衛門の妻を乳母とあろう」 して、ゆくゆくはその家へ預けるつもりのようであった家康にさり気なく口を切られて、且元は狼狽以上の戦慄 が、女どもはその千姫に、はげしい敵意を向けだしている。 を覚えた。 そうした時に、家康はわざわざ片桐且元を駿府へ呼んで卩ーー大御所さま、それがしは : : : それがしは : : : 豊家子 むしろ 飼いの、右大臣さまの家老にござりまする」 加増を申し渡したのだ。且元の方では針の筵にすわらせら 「ーーーそれゆえ、事をわけて相談してみるのだ。このよう れたような気持ちになるのも無理はなかった。 「ーー・実はのう、世間にあらぬ噂がみだれ飛んでいる。むなことは、わしとお許の間でつまらぬ掛け引きなどする必 ろんお許の耳へも入っているであろうが : : : 」 要のないことよ」 一応話が済んで、酒盤とともに家康に話しだされた時に しかし : : : 大坂のご城内には、それでなくとも、市 は、もう彼の肚も据わっていた。 正は、徳川方に内通しているのではないかなどと : : : 」 何といわれても仕方がない。ここでは豊家存続のため、 「ーーー市正」 : と、こころを ただただ一部の者の策動を詫びるばかり : 決めたからであった。 これはの、一豊家の間題ではない。天下の安危にか かわることだ」 ところが家康は、彼を詰問する代わりに、田 5 いが冫なし 「ーーーそれだけに、そのようなご相談は、大御所から、受 相談を持ちかけた。 けたくはないのでござりまする」 まるで片桐市正は、徳川家譜代の忠臣でもあるかのよう な口吻で : これはしたり、お許は、公私を取り違えているよう じゃの。よいかな、お許はなるはど豊家の家老 : : : した、、、、 373