上様 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 16
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1. 徳川家康 16

「見られる通り、ご本陣は木村長門がご近習を指揮して固しかし、まだ秀頼は、わなわなと震えながら立ったまま であった。 め、上様はご無事にわたらせられるゆえご安堵ありたい。 なお、大砲はコケおどしじゃ。被害はほんの少々 : : : 不 心「藤野半弥か。応戦はまかりならぬと申した上様の御諚、 得者が鹹外へまぎれ出ての、いまに至って火を放った。そそれそれ牢人衆に伝えたか」 れゆえ、寄手があわてくさって、和議を結ぶ気があるのか 又有楽が口を出したとき、 無いのかと大砲玉に問わせたまでのことよ。牢人衆が立ち「誰が、誰が応戦するなと申したツ」 わめ 騒ぐことのないよう、充分ご用心なされたい」 突然秀頼が喚きだした。 幸村は、何かいおうとして、又、考え直した。 「予は : : : 予は : ・ : 道大を見殺すな。道大に続けと申した 和議について、彼はまだ一言も、秀頼の命令は聞かされのだ。それはならぬ : : : そういわれたは母上じゃツ」 ていなかった。しかし、 いまそれを詰ってみたところでど まだ若い藤野半弥は顔をゆがめてあざ笑った。 うなろう。それでなくとも母と子で、はげしく罵りあった 「上様、そのご命令ならばご無用になされませ。牢人衆は 後に違いないのだ。 仮に上様のご命令を伝えたとて動くことなど思いも寄ら 「バカな話よ」 ぬ。大砲の音を耳に致して、みなみな腰をぬかして居りま と、又有楽斎は舌打ちをくり返した。 すわい」 「な : 「敵に通じて大砲を打たせたのは、この有楽であろうと、 : なんだとッ」 女どもが申すのじゃ。するとそれを信じての、わしを斬れ 十 と申すたわけが出て来たそうな。おお斬るがよいとも。有 楽斎はもう生き過ぎて、われとわが身の扱いに困じ果てて「残念ながら、有楽斎さまのお眼がね通り、牢人衆は立身 いる。斬ってくれたら甘酒進上じゃ」 出世が目あて。立身するには勝たねばなりませぬ。ところ と、その時また転がるようにしてかがり火の明りの中にが勝っことなどは思いも寄らぬ。天守へ射ち込まれた大砲 男レ込んで来た者がある。 玉が柱を折って軒が傾き、女子衆が七、八人傷ついた : と、聞いたたけで腰をぬかし、誰もわざわざ討って出そう 「由・し上げ・、一よ・一 9 」 207

2. 徳川家康 16

「それゆえ、即刻ご本丸の大広間に参集これあるように、 考えてみると、これも空疎な言葉であったが、ここでこむろん上様もご臨席遊ばされる。各自お急ぎあるように」 れだけのことをハッキリさせておかないと、混乱のおりに幸村はつつしんで両手を突いて、重成と視線が合うとか 秀頼や淀の方の首級を狙って敵方へ駆け込もうとする者のすかに眼顔でうなずいた。 出現を防ぎ切れないと見たからだった。 どうやらこれで事は決したらし い。好戦の悪霊どもは、 治長も胸をそらして頷いた。 この巨大な城の空間にみちみちて、おそらく手をふり、足 「おのおの方のご誠忠、われ等も決して忘れはおかぬ」 を振って哄笑乱舞しているに違いない。 そこへ、七手組の人々が緊張した表情でやって来だし が、そのいまわしい悪霊の乱舞を、ハッキリとその眼で っ ) 0 見得る人が幾人あったか : 真野頓包、伊東長次、青木信就、郡良列などの面々に続 いて、再び木村長門守重成が入って来た時には、十六畳の 大愚の執念 治房の家の座敷は、縁まで人が喰み出しそうになってい 「おのおのに申し上げる」 重成は、帰って来ると、自身人をわけて上座にすすん 再び通る時はあるまいと、いちいち訣別の言葉を投げて 「上様には、このたび織田有楽斎父子の出奔を殊のほかに通った東海道であった。 それを二カ月経っか経たぬかに、又々引っ返さなければ これも又、関東の誘いに違いない。贈 お憤りあそばされ つくきは関東 : : : このままは捨ておけぬゆえ、早速戦評定ならなくなった家康は、名古屋の城に入るまでひどく不機 嫌そうであった。 を開かれる旨仰せ出されました」 四月十日の午後である。 「では、あの上様が」 城頭の黄金の鯱は、その日も燦然と空を圧していたし、 上体を浮かす治長を手で制して、 6 ) 0 3

3. 徳川家康 16

んど、将軍のお側について上洛中だとある。よいか、なぜ 将軍は、わざわざ上洛戦を急がぬのか。世上では、大御所 秀頼は、その父豊太閤とは似ても似つかぬ六尺豊かの躰が急くな、急くなと使者をやるので、将軍はジリジリしな がら手控えてあるという。その方は、これを何と思うそ」 躯にめぐまれている。それが近ごろゆたかに肥え、そのう え戦を前にしての緊張が、ある種の威風を誘いだし、声に 「あ、その事でござりまするか。それならばご賢察のとお まで凛とした張りが加わって来たようだった。 りと、い得まする」 饗庭の局などはこれを見て、祖父の浅井長政にそっくり 「ご賢察、とは何のことじゃ」 になって来たと懐しそうに述懐する 「仰せの通り、将軍家はまだご老年ではござりませぬゅ 「その方は、その、柳生宗矩と争って、故郷を捨てたと申え、お気が短い。それを大御所がたしなめておわすように して居ったの」 存じまする」 「御意にござりまする。宗矩は、われ等に徳川家へ味方し 「豊政 ! 」 「十、ツ て戦えとすすめました。ところがわが家は、故太閤殿下の ご舎弟、大和守秀長さまにかくべつご恩がござりまする。 「大御所は、何故合戦を急がぬのじゃ。その方は兵法者、 それゆえ、万一のおりのお役に立ちたいため、ご奉公にま思うままを述べてみよ」 かり出まいた者にござりまする」 「恐れながら、その前に、上様へ申し上げたい儀がござり 「豊政 ! 」 まする」 「よッ 「聞こう。遠慮はいらぬそ。何事もハッキリと申せ」 「その方、柳生と争って故郷を捨てねばならなくなった : それは、そばにある千姫を意識した、若々しく鋭い間い であった。 : と、すれば、まさかその後も柳生から眼はそらせまい」 豊政は相手の心をはかりかねて、小さく首を傾げていっ 奥原豊政はぐっと上体を立て直した。 「上様のご情報網に、上様のお生命を狙って、山口重政 「眼をそらさねば、あれこれ思案がある筈じゃ。柳生はこが、当大坂城にまぎれ込もうと致したことは相届いて居り 139

4. 徳川家康 16

泣きゃんだ二、三分間は無言の静寂、そして淀の方が顔たことから、この母に聞かせてたもれ」 「よ : をあげた時には、意外なほどその声はやさしかった。 し」 「さきほどこなたは、上様を、こなたが呼んだのではない 千姫は、ちょっと首を傾げるよ、つにして、 : そう申されましたなあ」 「大御所さまは、上様を攻めるお気がないのでは : 「はい。そう申し上げました」 そんなことを申されました」 「そして上様は、戦を忘れているのではない。大切な所用「なに、大御所に戦意はないと : があって参ったのだ : : と、仰せられましたなあ」 「はい。上様も、予もそのように田 5 うと仰せられ、江戸の 「そ、つ : ・・ : で、ござりました」 爺がなっかしいと : 「その、上様の大切なご用 : : : と仰せられたはどのような 千姫がそこまでいうと、淀の方はあわててシーツと自分 ご用であったか、話してたもれ」 の唇へ指をあてた。顔色はまっ蒼たった。 はい。ここで奥原豊政とか申す者に会うためでござりま 九 した」 「ほ、つ、凩〈一原に・ : なぜ、奥原を表にお呼びなさらぬので淀の方は、自分の唇に指をあてたまま、早口に千姫の言 あろう。なぜ上様は、自分のご家米を、わざわざかくれる葉を、自分の声で追いのけようとした。 ように訪ねたりなさるのであろう」 「上様がそうしたことを仰せられたは、何ぞ思うところが あってに違いない。そうじゃ ! それは、奥原豊政が心を 「今は戦そ。城内で、人の眼をぬすみ、特別の者とひそか探ろうためじゃ。なあ、姫もそう思うであろうが」 に会う : : : そなた、それはよくないことと上様をお謙め申 意気込んでたたみかける言葉の下で、千姫はゆっくりと してか」 首を振った。 「いいえ、わらわは気がっきませぬでしたので」 「いいえ、違いまする」 「気がっかぬ : : : では、改めて訊ねましよう。その奥原豊 「なに違う : : : 違いはせぬ ! この城の運命をかけて 政と、上様はどのような話をなされたぞ。さ、豊政の申し全軍を指揮遊ばす上様が、そのようなことを心底から思う 159

5. 徳川家康 16

次第に癇立っ声になって、さすがに淀の方は、人側へ並にそそがれている。この場にこのままあって、於千どのの んで平伏している老女たちに気がついた 身に、万一のことがあったら、上様は何となさるご所存 「上様、いよいよ戦となれば、女子には女子の覚悟がなけそ」 ればならぬとは思われませぬか」 どうやら、それが淀の方の本心らしく、あびせるように 「むろん、それは : : なければなりますまい」 いいながら、秀頼の前へ坐っていった。 「ならば、この城の空気、総大将として、おわかりなされ て、こギ、いこよしよ、つ」 大将として : ・・ : 」 「上様にとっても、於千は愛おしい御台であろう : 「されば、この戦、敵はいったい何者と思し召すぞ。将軍愛おしくば愛おしいように、何故かばっておあげなさらぬ 家はいよいよ伏見の城へ人られ、大御所は二条城を出るとのじゃ。このような場所へ昼間おわたりなされたら、味方 いう : : : 上様も、戦を忘れてこのような場所に入りびたるの侍共は何と思うかお考えなされてか : : : やはり御台所は ほどならば、御台所が何者の姫であったか、思い出されて曲者ぞ。上様をわが身のそばに引きつけて、そのお口から もよい舌じゃ」 秘密を聞きだし、これを関東へ通報なさるご思案に違いな : さなくばこの戦の最中、しかも昼間から : 「母上 ! それは今仰せられることでは : 「上様 ! それが上様のお心得ちがい : : : 於千どのは、敵そこまでいうと、淀の方の眸はもう真ッ赤になった。 の総大将の孫姫ながら、わらわにとっては姪なのじゃ」 わが身の言葉にわが身で感情をつのらせるのがこの年齢 の女性の通有性だった。 「それゆえ、かようの場所では : 「いいえ、そうでは無い ! それゆえ : : : 於千どのの身が たしかに淀の方が、ここへやって来たのは、このような 案じられ、わらわはわざわざやって来たのじゃ。上様とて場所で、このような高声をあげて争うためではなかった : 城内の風聞はお耳になされておわす筈じゃ。もしも、ここ から、ご城内の様子が敵に洩れては味方の不利と : : いま城内に、千姫は徳川家の廻し者、汕断するなという声が 城内の人々の警戒の眼は、この御殿の一角に焼きつくよう方々であがっている。 155

6. 徳川家康 16

る。しかしわらわはそうは思わぬ。いいえ ! わらわの眼 たときに、 がもしも狂っていたら : : : その時にはこの母が、まっ先に 「上様のおっしやることはそれだけか」 幸村がいちばん気にかけていた女性の発言になってしま敵対して死のうほどにここでは和議を結んでたもれ , 一 これは又、秀頼以上に赤裸々な母の計算、母の感情に なってしまった。 「みなの者、よう聞かれたであろう」 「よいか。関東では、所替えはせぬといわれる。わらわを 淀の方の声はあやしく粘って、みんなの頭上へ流れてい 質にもせぬといわれる。所領も削らす、家臣は新旧ともに 「上様の仰せのとおり、この和議をすすめたはわらわなのお構いなしといわれる。それに、これ、このように千姫ど のもこの城に預かってあることゆえ、みなみな異議は申す まいぞ : : : いや、わらわの眼に狂いがあって、この和議が おそらく取り乱したわが子の弁護をしてやりたい母の心 に違いない。それにしても当時の女性としてはあまりに出味方の損 : : : と決まったおりには、先ずわらわを斬るがよ い。わらわとて、意地もあれば誇りもある女子ぞ : : : 」 過ぎた発言だった。 「上様はな、情に弱いお方なのじゃ。それゆえ、みなのた 七 めに死のうといわれる。だが、それはみなを愛おしんで、 却ってみなを裏切ることになる。みながこの城に入って戦幸村は聞いているのが苦しくなった。 うてくれたのは、上様を太閤殿下のお子として、立派に生淀の方はみじんも嘘はいっていない。 母として、わが子の生命を救いたいの一心で、牝獅子の かそ、フためなのじゃ : : : そ、つであろうが」 ように奮い立っている いっているうちに、眼は血走り、声はいよいよ高くなっ しかし、それは、どこまでも牝獅子自身の計算で、ここ 「その、みなの心を忘れて死に急ぐは不都合ゆえ、この母に集まった人々の計算ではなかった。 : よいか、みなよう覚えていてくれるよ が和議を計った・ ここに集まった人々が、いま考えているのは、果たして うに : : : 上様は関東方には一片の情けもないといい張られ「ーー秀頼一人の無事」たけであろうか。 つ ) 0 つ ) 0 221

7. 徳川家康 16

に和を結び、それで、胸算用の百分の一にも足らぬ分け前上様のお側には騎虎の勢いの若衆たちが多いこととて、中 でおさまるものと考えている : : : そんな単純な相手とわか中もって、われ等の存慮が通じませぬ。修理は敵を怖れて いるのだ、という臆病説は、まだよいとして、それがしが れば、何を好んで論議を重ねる必要があろう。 : となると、つ ( やはり、わしの考えは間違っていなかった : 臆病風に吹かれて、ご母公様まで動かした : かつにロも開けませぬ」 これは、仮にここで和議を成立させてみたところで、ど 「なるほど」 うなるものでもなかったのだ : 「それどころか、この修理は、関東方で若しも主謀者に詰 家康は或いは寛大に旧領安堵か、その程度の替地を与え てくれるとして、豊家自身の経済が成り立っ筈がないでは腹切らせよという条件を出したおりには、身一つに責を負 うて切腹する覚悟でござるものを : : : 」 したがって和を結ぶとすれば、抱えすぎた牢人群の処置幸村はハッとして治長を見直した。治長の声が妙にうわ をまずまっ先に考えて、実行可能の方策を確立しておくのずって来たと思うと、彼の眼のふちはまっ赤になってい 1 2 る。 でなければ意味はない。 ところが、その最大の牢人問題を、どうにかなろうで深 ( 泣いているのだ : く考えている様子もない。 と、すると、 ~ 伐自・身にとっては、これがせいいつばいの だ淀君と、その周囲の人々の、大砲への怖えや、地下計算であり誠意であったものらしい。 掘進の噂を信じて和議をすすめようとしているだけらし ( なるほど、人生にはいろいろあるもの : : : ) 「修理どの」 「されば、ご貴殿への頼みというのは、他でもない。上様 : ~ し。いや、これは取り乱したところをお目にか : とい、つことで、こざ のご説得をお引き受け下さるまいか : 「ご貴殿の上様想いのご心情、それがしにはようわかりま した」 「なるほど、ご反対は、上様だけと仰せられた」 「では、お引き受け下さるかご貴殿の申すことならば、 「何も彼も上様のおためと思えばこその和議 : : ところが

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「姫に : : : 於千どのに : 千・姫はみんなが退ると、静かに姑に向き直った。 : どうしてそれがわかるのじゃ」 「始めのほどは、ただ勇ましゅう戦うお覚悟 : ・・ : でも、戦 「上様は、お母上さまのことをご心配なされておわす : レ月員がごイ、りまする」 於千は、そう受け取って居りまする」 「なに、わらわのことを : 「いわいでものこと : : : それで近ごろ上様は布えておわす ご孝心ぶかいお方ゆえ、それでわざわざ於千の前 とでも見られてか」 「いいえ、いよいよ真剣になられましたゆえ、万一のおり へ豊政を呼んだもの、それに違いござりませぬ」 の事までお、いにかかるようになられた : : : そして、いちば 十 んご心配なは、不利な戦のおりのお母上のこと : : : 於千に は、それがようわかりまする」 淀の方は、わが耳を疑った。 「よあ ! 」 ただに老女たちをびたりと押えて退らせただけではな く、千姫の言葉の裏には、淀の方さえ圧倒しそうな自信の淀の方は、すぐさっき、怒りに任せて姫の黒髪に、手を かけなかったことにホッとした。 支えが感じられる。 ( ようまあ、大人になったもの : ・・ : ) 「それで : : : それで : : : 上様は、どうご思案なされたの それは昻ぶっていて済む時ではないと、必死で騒ぐ血をじゃ」 押えて来ている淀の方にとって、頼母しくもあり、いじら 「わざわざ豊政をわが身の前に呼び出され、大御所を憎ん しくもあり、おどろきでもあった。 では居らぬものの、やむない意地で戦をする。それゆえ、 「すると上様は、母の身を案じて : : : 奥原を姫の前に呼ば万一のおりには、母を頼むそと れたといわれるのか」 「待ちゃれ ! 待ちゃれ姫 : : こなたさっきは、それはわ 「上様は : が身を労るもの : : : そう申していたではないか。あれは嘘 姫はまたその眼を虚空に放って、 じゃといい変えるのか」 「こたびの戦が、並々ならぬ苦戦になろうと、次第にお覚「いいえ」 悟を深められておわします」 千姫はまた奥深いところで、何かを探るような眼つきの 261

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しかし、そうした淀の方の平素の感に、今日の千姫と 香を燻じておくがよい」 声はまだ平静たった。しかし、こんな妙なところで、退秀頼は冷たい水を浴びせかけた。 ( やつばり於千は嫁であった : : : ) くもならず、人るもならずで待たされては、誰であって 何故そうした感情になってゆくのか。 も、そう機嫌よくもして居られるものではない。 : よ、。では、ご免下さりませ」 男と女のあらわな姿を見せつけられると、あらゆる同性 刑部卿の局があたふたと居間のうちに消えた時には、淀は敵に見える : : : そんな女らしい妬心が、まだ淀の方のど の方の額には、ハッキリと癇筋がうきあがっていた。 こかに生きているからであろうか : 「上様 ! 」 やがて障子が開いた。そして、入口へ坐った千姫が、 淀の方は、足許に両手をつかえている千姫を無視して、 「いらせられませ」 と、挨拶した時には、淀の方の視線は、上座にある秀頼まっすぐに秀頼の前に立った。 の上に、射ぬくように据えられていた。 「わらわは上様が寸暇もおしんで、表で戦のお指し図をな 4 されておわすものとばかり思うていました」 五 秀頼は、それを何う受け取ったのか、 「母上は、また、何故ここへ ? 」 淀の方と千姫の間は、侍女たちが絶えず気にしているよ 珍しいことぞといわぬばかりの反間だった。 うな、世間のつねの嫁と姑の感じではなかった。 ここにも十一年の歳月がもたらした、切り離しがたい愛「上様は、ここは、わらわが来てはならぬ場所 : : : とでも 思し召されてか」 情のきずなが張りだしている。 「そうではない。ただ、何故と : : : 」 自分の子といっては秀頼一人 : : : それが、何の邪心もな 妹の分身を迎えてから十一年も経っているのだ。今で「上様こそ、今ごろ、このようなところに何故おいで遊ば は何れがわが子かわかちがたい。連れて来られた頃の阿江しまする。今日明日にも、戦の火蓋は切られようとして、 与の子とは、まるで別の姿の千姫に育っているからであっ足軽小者の末々まで、心もそそろの戦支度、それを城の主 の上様が : : : 」

10. 徳川家康 16

ぐさま大御所に告げロするぞ。秀頼はな、何事によらず、 楽斎の子の尚長と、治長の子の治徳との別離を悲しんでい あの江戸の爺に相談する。相談するとも。すると申して : るのに違いなかった。 木村重成は、それら二組の母子のうしろに、途方にくれ : ・神明に誓って血判したのじゃ」 「上様 ! 」 た面持ちで坐っている : と、淀の方が、たまりかねたように口を出した。 十六 「みな、上様のご無事を祈ればこそ、和議を希うたのでご ざりまする」 「も、つ一阯くなツ」 「そう : : : そのお陰で、戦は終わったのであったわ。ワッ 突然秀頼が、側室たちの手を振りほどいて脇息を叩い : ・飲め ! 芽出度いのだ。みんな飲んで飲んで : すでに彼は武装を解いて、肥りすぎた躰が白綸子の小袖 : ・飲みつぶれよ」 「そのことよ。さ、二人とも、もう笑うがよい。何の案す からはみ出しそうな着崩れた酔態だった。 「関東〈参 0 たからとて死ぬわけではないわ。それどころることがあろうぞ。尚長と治徳にはの、それそれ上様にお か、みなが死ぬのはいや : : : 戦はこわいと申すゆえ、和議願いして、献上ものをととのえさせて持たせてやろう。向 こうに着いてからも、むごい目に会わぬようにの」 を結んで助けてやった。泣くことはあるまい、泣くこと 「恐れ入ってござりまする」 「さ、母の心はようわかるが、涙を拭うて、上様からお盃 はい。ご免なされて下さりませ」 を頂くがよい。上様、子と別れる母の心は、女子ならでは 「ほんに、未練なさまをお目にかけました」 わからぬもの : : : 決してお叱り下さりまするな」 「ト或止めえ ! 」 「おお叱るものか。さ、飲め ! 」 と、又秀頼はわめいた。 「よいか、女子どもによくよく申しておくぞ。ひとつ、秀盃を突きつけられて、鼓をおいた二位の局が、いそいそ とそれを二人に取り次いでやった。 頼は大御所に対して、今後謀叛の野心は持たざること : すると、又、 いい合わしたように一座へは鼻をすする声 そなたたちが、もしも秀頼のいうことを聞かなんだら、す 234