市正 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 16
349件見つかりました。

1. 徳川家康 16

大蔵の局が、怖えたように答えていった。 来なくなったそ : : : と、思いがけないことを口走ったので 「実は、こちらから参ろうと存じ、市正どのの都合を伺い ごギ、りまする」 に差し出したのでござりまする。 : ところが、市正どの 「それで、そなたは ? 」 の方から : : : 」 「思わず身をのり出して訊き返しました。いったい何と仰 せられましたぞ市正どのと : : : すると市正どのは平然とし 「よろしい ! 」 と、淀の方は甲高くさえぎって、 て難題を持ち出して来たのでござりまする」 「次が急所じゃ。順序をたがえるなよ」 「その難題、念のためにもう一度申してみよ。よいか、市 もう一度念を押して、自分はまた眼を閉じて聞く顔にな正の申したとおりに申してみよ」 つ」 0 「かしこまりました。一つは、ご母公さまを人質として大 「始めに、市正どのに声をかけましたのは、この尼にござ御所のお側に差し出すこと。二つは、若君にこの大坂城を 明け渡し、他所へお移り遊ばさるべきこと。そしてその三 りまする」 つは、若君さま、直ぐさま江戸へ下られ、直接将軍家に降 正栄尼の言葉も、緊張の度を超えて次第に高くなってい る。 伏を申し入れること」 不意に又ワーツと一声、淀の方は泣き出した。今度の泣 「これは市正さま、お患いではござらなんだので : : : と、 申しましたのは、今ごろ市正が土山の宿にとどまって居るく意味は、二老女にもよくわかる気がした。 が、その泣き声は一声だけでビタリと止んだ。そして前 というのは、わらわが、駿府で腹をこわしたように、市正 も何ぞ患うたせいであろう : : と、こう思うていたからでよりも一層切口上の詰問が淀の方の唇からほとばしった。 「右三カ条の承引なくば、一戦に及ぶと、市正は申したの こさ、りましよ、フ」 じゃな」 「すると、市正は ? 」 はい。こんどのことが案じられて、自分一人では「仰せの通りにござりまする」 大坂へ戻れなんだ : : と、こう申しました。そして、その 「さらば、改めてそなたたちに間いかける。そのおりの市 あとで、われ等の骨身を削って待ちわびた、十七回忌も出正の態度はどうであったそ」

2. 徳川家康 16

「默 ( り・ゃー・」 二老女もまた、その熟考をさまたげまいとして、呼吸に 眼をつむったまま淀の方はさえぎった。 まで気を配って沈黙する。 「それはこなたの意見じゃ。その翌朝、尼は腹をこわした 「さて両人」 「よッ のじゃな」 : はい、恐れ人ってござりまする」 「両人とも土山へ着いた : ・ : ところが、その旅舎に、まだ 「それでそなた達は、十二日に鞠子へ立ち戻った。そのお片桐市正が泊まっている。そう知ったときそなた達ははじ りには、市正は何としてあったぞ」 めてびつくり致した : : : そうであったな」 : はい、寺僧にたずねましたところ、人れ違いにご「仰せの通りにござりまする。二人とも、もう市正どのは 出発と承り、徳願寺では会うこと叶わす、会うたは土山のとうに京へ到着し、ご供養のお指図をなされておわすもの 戸宿にござりまする」 : とばかり信じきっていたからでござりまする」 「、ふーも」 「よろしい。そこで改めて問いましよう。よいかの、こな 淀の方は男のように深く大きなため息して、再びカッとた達は土山の宿においてこなた達の許へ市正の訪間を受け 眸を開いた た : : : そのおり市正の申したこと、順を追って述べてみよ。 順序をたがうな。順序をたがうと判断の狂いになるそよ」 「意見を申せ。よいか、こんどはそなたたちの意見じゃ そ。徳願寺を人れ違いに発ってあった市正の所業、こなた 又しても男そのままのきびしい語調 : : : 二老女はそっと 達は何故 ? とは思わなんだか」 不安な互いの顔を確かめ合った。 十七回忌のご命日が切迫していることゆ え、いろいろとお指図のためであろう : : : そう思うて、少 しも不審には思わなんだ : : : のう大蔵どの」 「正栄尼の申すとおりにござりまする」 淀の方は手をあげて、二人の言葉をそこで切らせ、三度 び眼を閉じて考えこんた。 「さあ申せ。市正はこなた達の座嗷へ入って来た : : : 案内 した者は誰であったそ」 どこか神経の異常さを匂わす淀の方の問いかけに 「案内して来たは二位の局 : : : でござりました」

3. 徳川家康 16

い込んでの帰途であった。それが、秀頼の代理として大法「市正さま、何となされましたぞ。何故黙っておわすの 要の指図一切を任されている片桐且元が、このようなとこじゃ。さ、大御所は、こなた様に何と仰せられたか、承り ろに滞留しているさえ奇怪きわまることなのに、その口か ら、 且元の顔いろ変えての沈黙を、正栄尼はもう完全に一 ' 臭 い ! 」と見てとって、追及するものの口調になっていた。 「ーー法要は間に合わぬ : ・・ : 」 こうした場合の女性の誤解は直線的だ。 そういわれたのだから二老女が疑惑を抱くのも無理はな っ一 ) 0 ー刀 / 「、、つじゃ」 と、大蔵の局も合槌打った。 ( もしかすると、法要延期のからくりは、片桐市正の陰謀 「それで、われ等も市正さまのあとを追って参ったの なのではなかろうか : じゃ。市正に聞け : : : そういわれて、何も聞かずに戻りま とっさにそう思っての反間だったのだ。 且元はむろんそうした受け取り方はしていない。彼は二した、では、お役目が済みませぬ。なあ正栄尼どの」 老女の言葉通りに受け取った。 ったい大御所さまは、どのような 「ほんにそのこと : 難題を仰せられましたぞ」 ( 家康は、女どもには何もいわない : こうなると彼女たちの追及は、責任感よりも興味であっ それは且元にとって全く思いがけないことであり、同時 た。いや、日ごろの反感を剥きだしにして意地わるい加虐 に、あり得ることにも田えたのだ とにかく天下の一大事なのだ。 趣味のとりこになっているのかも知れない。 あぶらあせ 一ーーーー女子供のロ出しすることではない」 片桐且元の額には膏汗がじっとりと浮きだした。顔いろ そういう考えから、いうべきことは、責任者としての市は紫がかった蒼さになり、灯火のかげが、陰惨なまでに反 正にいってある。市正の口から聞くがよい : : : そう伝えた面の陰りを深めて見せている。 「そうでござったか : : : お前さまたちには、何もいわなん としても、決して不自然なことではなかった。 ( これは、いよいよ追い詰められた : : : ) 「それゆえ、市正に訊け : : : そう仰せられたのじゃ。さ、 彼が愕然として顔いろを変えたのはそのためだった。 2

4. 徳川家康 16

淀の方は蒼白な顔をゆがめて頷いた。 九 「で : : : その五つの不審、申してみよ。わらわもな、女な 「何を笑うぞ。修理 ! こなたわらわを女子と侮って、ロがら総見公の姪、浅井長政が娘なのじゃ。その不審に条理 十 ( ギこ、 があらば、こなたの前に両手をついて詫びてやろうぞ」 ーオしことを申すものじゃ。わらわや若君の意見も聞か 「申し上げませいでか」 : とは何たる無礼ぞ。さ、どう決したか ず、心を決した : 両者の空気は次第に痴話のもつれの形をとりだした。そ 申してみよ」 れを渡辺内蔵助は、射抜くような眼をしてじっと見詰めて 淀の方にたたみかけられて、治長もムッとした。 「むろん、片桐市正かこの修理か、近々対決のうえ去就をいる。 「第一の不審は、ご金蔵の莫大な黄金の量にござります : と、申すことでござりまする」 決する : ・ 「ほう、すると、片桐がこの城にある限り、こなたはわらる。彼は一ト月ほど前に若君から、軍用金の有無をおたず ねなされたおり、五万の兵が籠城せば、せいぜい三月は持 わの許を去るというのか」 ちますまい。大仏殿の再興で豊家のご金蔵も底をついた : 「御意 ! 」 : と言上致しました。それが此度び、市正の舎弟主膳正の 「おもしろい。こなたが、それはど市正を邪推しておると あらた は知らなんだ。こなたは、市正が帰路板倉勝重の許へ立ち手許よりその鍵を召し上げて検めますると、十万の兵をも って三年間籠城しても、立派に賄い得るだけのものが残っ 寄ったを、あの鐘銘の難題に、はじめから加担してあった てござりました。何の要あって軍用金のことまで主君を欺 証拠と申すのじゃな」 「ご母公さま、大野修理も武士でござりまする。ただそれこうと致したのか、これ不審の第一にござりまする」 だけで軽々しく去就など、なんでロに致しましようや。市そういわれると、淀の方もびつくりしたように嘆息し 正には、他に五つの不審がある。それゆえ、主君に報告すた。 る前に所司代の許を訪れた : : : その不謹慎をとがめすに居「そ、それは、事実か修理」 られないのでござりまする」 「何で私が嘘いつわりを申しましよう」 「さ、もあろ、フ」 「で : : : 第一一の、ふ : : : 不審は ? 」 7

5. 徳川家康 16

は、彼にとっては的外れにえたのだ。 ろう。板倉勝重、近ごろこれ以上の不快を覚えたことはご イ、らぬ」 「板倉どの、仮に密使の儀は事実としても、合戦籠城とな れば戦費は莫大なものでござる」 「お待ち下され」 且元は、次第に落ち着きをとり戻した。それは勝重の怒「まだ強弁なさろうとか」 りの原因が、彼の考えてもみなかった誤解にもとづくもの 「強弁ではござらぬ。戦には莫大な戦費が要る。が不肖市 正、そのご金蔵の鍵を預かる身でござるそ」 とわかったからであった。 「なに、ご金蔵の鍵を : : : 」 「この市正が、所司代の友情を裏切る : : : そのようなこと はじめて勝重の語勢が停まった。しかしその顔から怒り のない証拠は、大坂へ立ち帰れば充分にお示し出来よう、 ますお心を静めさせられて、それがしの申し分お聞き取りの影は消えなかった。 「市正どの、お身はいったい本気でそれを申されるのか。 下され」 しかし、板倉勝重は、人が変わったようにはげしく首をご金蔵の鍵、すでに取り上げられたをご存じないのか」 そして再び憐れむような続けざまの舌打ちだった。 振りつづける。 「九度山の真田だけではござらぬそ。長曾我部の残党へ も、豊前小倉の毛利勝永へも、安芸の福島正則へもみな密 使が出されている。それどころか、籠城のおりの兵糧米を 「なに、ご金蔵の鍵を」 買い占めようとして、ここもと、大坂の米価の高騰はうな こんどは且元の顔いろは一度にサッと蒼ざめた。 ぎのばりじゃ。いや、まだまだある。すでに福島正則はそ「何ということじゃ : : ご存じないわ」 の呼びかけに呼応して、莫大な米の輸送にかかった旨の知 板倉勝重は声をおとして、 らせもあった。これでも、そこ許は、存ぜぬことといわれ「御舎弟の主膳正貞隆どのは、お身にそれを連絡しなかっ るのか」 たと相見える。市正どの、よう聞かれよ。ご金蔵の鍵が開 かぬままで、市井の米価が騰貴すると思わっしやるか。ご 且元は、思わず笑った。思わず笑いたいほど勝重の心配貴殿はいまだにご金蔵の鍵が、ご舎弟の手中に無事である 6

6. 徳川家康 16

と、正栄尼が、大蔵の局に眼くばせしながら応じていっ 「われ等の骨身を削って待ちわびた十七回忌も出来のうな 「われ等女子どもには何も申すことはない。申すことはみ な片桐どのに伝えてある : : : そう仰せられましたなあ大蔵 と、正栄尼がききとがめた。 どの」 「何と仰せられましたそ、市正さまは」 「いかにもそうであった。そうじゃそうじゃ。で、市正さ : と、あきらめてはならぬかも 「いや、出来のうなった : まには、何と仰せられましたそ」 知れぬ。が、祥月命日の十八日には、もう間に合わぬこと とたんに且元は、居すまいを直した。その顔面からは血 こ、どのよ、つ に決まった : : : それより、大御所はこなた衆 ~ の気がひいて、体全体が凍りついたかに見えた。 な難題を出されましたそ」 「さ、何と仰せられたか聞かせてたもれ」 : と、見てとって、意地わるく正栄尼は 正栄尼は、息をのんで、大蔵の局をかえりみた。大蔵の尋常ではない : どうこう 問い迫った。 局も、大きく瞳孔をひらいて息をつめている。 ( いったい市正は、何を、わらわ達にいおうとしているの 十六 正栄尼にしても大蔵の局にしても、城内の空気を反映し 座敷の隅で二位の局は唇をゆがめて且元をみつめてい る。彼女はまだ且元が、意地わるく女達を揶揄しようとして、決して且元に好意は寄せてはいなか 0 た。 その反感が、いまや露骨に二人の間に通いあっている。 ているものと思っているのかも知れない ( いったい市正は、何を考え、何を企んでいるのであろう 「 ~ 甲正さき 6 、しオし , - 、つこ、大御所さまの難題 : : : とは、何のこ とでござりまする ? 」 家康とも茶阿の局とも直接会って、何も心配することは 「と、いわれると、格別ご難題は」 無いといわれて来ているのだ。 身をのり出して訊く且元に、 したがって十八日には盛大に法要が行なわれるものと思 「〉て、つじゃ」 6

7. 徳川家康 16

二位の局は、焦慮しながら旅で病んでいる姿を想像して恐らく二老女は肝をつぶしたことだろう。 来ただけにムッとした。 「ーーーそのようなことは、若君さまもご母公さまも、市正 「市正さまはお人のわるい。また女どもをおからかいなさ から、一言も伺うては居りませぬ」 れまするか」 そうなると、こんどは家康が唖然とする番であった。 : なんのことじゃ。わしはの、ひと足先に徳願寺は 「ーーそれは、いったい真のことか」 出てみたものの、お前さまがたのことが気にかかり、やは 何で偽りなど申しましよう。そのようなお話があれ りここで、事情を聞かねばと思うて待っていたのじゃ」 ば、ご母公さまが、われ等に打ち明けない筈はござりませ 「ホホ : : これはしたり、ではご病気ではござりませぬのぬ」 で : : : 実は程なくこれへ大蔵の局と正栄尼さま、あわてて そうなると且元の立場は、まことにおかしなものであっ お見舞いに参られまする」 片桐且元は、顔いろ変えて立ち上がった。 それで無くとも、七手組の連中の中には、市正は関東へ 「そうか。それではわしの方から出向くとしよう。二位ど内通しているのでは : : などと私語している者もあるそう の、急いで案内を」 且元が二位の局を追い立てるようにして、自分の方から 十五 二老女の座敷へ押しかけると、二老女はびつくりして彼を 片桐且元は、二位の局の言葉から自分への強い反感を受迎えた。 け取ると、それもこれも、みない家康の難題のせいであろ「これは市正さま、お患いではござらなんだので」 、つと田った。 且元はそれには答えす、 彼はまだ真正面から移封の話はしていない。それが、ど「案じられての。わし一人先には大坂へ戻れなくなったの んな形で、二老女にハネ返って来ているか ? 家康は、そのことを且元と堅く約東してあると、二老女そういったあとで、彼自身もいちばん気にかかっている に申し聞かせたに違いない ことを思わす口にしていった。 まこと

8. 徳川家康 16

たよう来たと、それはそれは、下へもおかぬもてなしであであろうがツ」 ったそうな」 「フーム」 ・ : なんと、仰せられまする」 治長も眼を剥いたまま唸った。 渡辺内蔵助が噛みつくように聞きとがめた。 「すると、母者どもをそのまま無事に帰したのも、戦を自 「すると、先刻仰せられた、難題の数々よ、、 ーしュ / . し一口 唯分の方から仕掛けたという、不義の名を取るまいための用 心力」 がご母公さまのお耳に入れましたので」 「そのことよ」 まだまだわれ等に和睦の道はあ 「いや、それ以上じゃー 淀の方は、そろっとあたりを見回した。始めは且元が嘘るように見せかけて、少しでも汕断させよう魂胆に違いな などいう筈はないと決めてかかっていたのが、どうやら彼 い。それを : ・・ : あの、片桐市正め : ・・ : ノメノメと戻って来 女も、治長の弁舌に魅されて、一つの不審にゆき当たった たら、いったいどうしてくれようぞ。八ッ裂きにしても足 7 の、らしい りぬのはあの裏切者 ! これは修理どの、さっさと血祭り 「家康どのはな、返事は市正に申してやったゆえ、こなた にあげてみせねば士気はたもてぬそ」 衆は何も案することはない : : : そういわれただけであった そうな。ところが、帰路土山の宿に着いてみると、とうに 大坂へ帰った筈の市正が、ここで老女どもを待ってあっ 渡辺内蔵助の声は怒号に近い。 た。そして家康に申し渡されて来たというのが例の三カ条 しかし、それを淀の方は、もはやたしなめようとも、叱 であったそうな。わらわを家康の側女に出すこと。大坂城ろうともしなくなっている。 は明け渡すこと。そして、そのうえ、秀頼さまは江戸の将人間の思考の変化をささえる支点というのはいったいど こにあるのだろ、つか : 軍に詫びにゆくこと : 「それ見よ ! 」 相手は片桐且元という裏も表もない一個の人物。しかも 唐突に内蔵助が扇子ではげしく畳を叩いた。 ・伐はこここよ、よ 。しオい。したがって反駁もしなければ釈明も 「市正めは古狸の同類たとわしがとうから申していた通りなし得ない

9. 徳川家康 16

母、二位の局が差し加えられた。この方が年齢がずっと若 正純自身、困り果てたという表情で間いかけた。 かったので、二人の介抱役兼相談役というところでもあっ 「それでは : : : あの、ご引見下さらぬと仰せられる」 「会う気はない。市正は未たに何一つ約東を果たして居ら 且元は、途中馬で駆けつけていたので、五日の夕刻にはぬ。見損うた : : と、たた一言じゃ」 すでに、大坂からの使者の宿所と定められている鞠子の徳且元は眼の前がまっ暗になっていった。 願寺に入っている。 「市正どの、それがしが今宵内々でお訪ね申したはご貴殿 二老女が乗り物を急がせて同じ寺の別室に人ったのは十の立場を想うてのことでござる。大御所とのお約東、果た 日の日暮れ : : : 且元が二度目の謎を突きつけられた後であしてご実行ありしや否や、ご実行あらばその確たる証拠を つ】 0 それがしまでお示し下されたい。さすれば、ご会見の斡旋 もなりましよ、フが、さなくば、このまま引き取って頂くよ 四 り他にない空気でござる」 大蔵の局と正栄尼が大きな恐怖を励ましあって旅をして 且元は、しばらくはただわなわなと震えるたけであっ いる頃に、片桐且元は、鞠子の徳願寺にあって、手きびし いわれてみると、一々胸に覚えがある。内々でもよい。 い家康の「ーー、・男の応対」を受けていた。 こんども又いつもの例にならって、徳願寺へ到着すると大坂城は引き渡し、郡山へ移る旨の承諾までは取りつけて 同時に、且元は寸刻も早く家康に謁見したい旨を届け出おくようにと : 「市正どの」 また、正純は追い詰めるように言葉を続けた。 ところがその日の深夜に至り、本多正純が単身で訪ねて 来ての返事は、完全に彼を動顛させるものであった。 「今日この場でご返答もなりますまい。又承れるものと思 「ーーー大御所さま、もはや市正などに会うてみても始まる うて参ったわけでもない。が、ご側近にあれば、われ等に まいと仰せられる。いったいご貴殿は、大御所さまに何をは、大御所さまの望むものが何であるかは凡そのところは お約東なされてあったのじゃ」 推測出来る。大御所さまはの、こんどのご供養を、豊家移 4

10. 徳川家康 16

「兄上、なぜ黙っておわすそ。むろん兄上も一戦のお覚悟 を決めて戻られたのでござろう。それならばよし、さもな ければ、若君のお前かご母公の前で、斬られなければ詰め 腹がオチ : : : 心を据えてお考えを承りとうござる」 「兄上 ! ご返事がないのは、この場で切腹のお覚悟か」 「舎弟よ」 紀州高野山下の秋は早い。 はじめて且元はロを開いた。 真田左衛門佐幸村の九度山の屋敷の柿はもう色づきだし 「三カ条の条件はな、あれは、ご母公や若君がご推察のとている。 おり、大御所の出した条件ではなく、この且元の思案なの 晴れた日には時々軒先まで仔をつれた雉がやって来て、 仲よく餌をついばんで遊んでいった。 「では、あのう : : : 」 「お父上、片桐市正は、一族を引きつれて大坂城から茨木 「待たっしや、。 しかし、三カ条のうち、一カ条だけ何れの居城へ退去したそうでござりまするなあ」 : が、いま、それも をとるか、評議をねがう気であった : 読書をしていた一子大助に話しかけられて、愛刀に拭い をくれていた幸村は、 無駄になった : 「挈っらしいの」 そういうと、且元は再びロと眼とをともに閉じて石のよ うに動かなくなってしまった。 と、関心もなげに答えた。 「片桐市正は、大坂方が敗けると見たのでござりましょ 「そうであろうな」 「片桐市正が引き揚げる城へ、お父上やわれ等は入城して ゆく 信濃の伯父御は何と思われましようか」 入城軍略