関ヶ原の戦は、いわば豊臣、徳川の従前の関係をきれい さつばり無いものとして、武力対武力、裸と裸で対決し こうして家康は、二十六日にはもう二条城へ引き揚げてて、弱者が斃れて強者が天下を取ったのだ。この間の関係 に一分の疑義もさしはさむ余地はない。 ゆき、その時にはすでに、壕の埋立奉行も決まっていた。 松平忠明、本多忠政、本多康紀の三人である。ところが それなのに、家康は、わざわざその遺孤に憐みをかけ、 この三人のもとへ、人夫を出すに及ばずとした三万石以下これが永代存続などという微温な慈悲心で接していった。 の諸大名から続々と嘆願者が詰めかけた。 このため、天下の人々に、やはり徳川家は豊臣家に臣従 むろん小藩は、今度の出陣で諸用がかさみ、手許が苦しすべきものであったかのような錯倒を強いる形になった。 かろうというので賦役をしなかったのだが、それでは「不 いったい徳川家が、曾ってどれたけ豊臣家の恩義に預 公平ーーー」だとい、つのである。 かったとい、つのか・ : ? いじめられた記應は山ほどあっ そこで改めて、一万石以上三万石までの藩にも各二十人たが、愛されたり、庇護されたりした覚えなどは微塵もな 宛差し出すように命令が追加された。 それにしてもこの壕の埋立に対する人々の考え方はまち 要は家康と秀吉の、個々に蓄積してあった実力の差が今 まちだった。 日をなしたのだ。したがって、今なお秀頼に憐みかける家 諸侯は直接白刃を交えて戦闘しあった直後なのだ。ただ 康の慈悲は、これを稀有のこととして感嘆はするものの、 しい敵意だナで、。 冫セヒとも勝利の工事に加わりたいとそのため大坂城に対しても世間に対してもはばかるところ いう者が多く、次は徳川家譜代の者の計算だった。 などよ、、 しささかもないと考えている 彼等はみな、こんどの家康の処置を手ぬる過ぎるとして「 , ーー・・もう謀叛などというバカな夢の見られないよう、徹 強い不満を抱いていた。 底的に壊して思い知らせてやれ」 相手に家康の愛情や道義が通じるほどならば、関ヶ原の これが徳川譜代の、家康、秀忠側近の者の考え方だっ おりに、助け置かれた恩を忘れて今度のようなことを企てた。 る筈はない。 しかし伊達政宗の考えはもっと復雑だった。彼は内心、 245
徳川家康 続蕭風城の巻・戦争と平和の巻 山岡荘八言冓言炎ネ土
ざらぬ」 なものと見える」 「なるほど : : : すると、相手の出方によっては、十八日の 勝重は柔和に笑った。 ご命日までに事が片付けば、ご供養差し支えなしという含 「すると、安藤どのは、豊家の内部は、すでに腐った : みでござるな」 と、見られるのか」 「腐らいで何としましよう。われ等他人ごとながら腹が立「御意ー が、果たしてそれに、気付くだけのご仁が大坂 ったり、泣きたくなり申した。大御所の次々のご好意も、 にあるや無しゃ : : : 」 全くもって糠に釘、誰もそれを受け止めるほどの器量の者「して、供養延期のご理由は ? 」 がござりませぬ」 「鐘銘がお気に召さぬ ! あれは徳川家を呪詛する文章 : : と、殊のほかのご激怒でござる」 勝重はそれには答えず、 「よに、銘が・ 「それでご使者の趣きは ? むろん開眼供養の中止でござ 「さよう、鐘銘の文中に国家安康、君臣豊楽の句がござ りよしよ、フなあ」 すると、何を思い出したのか、直次は急に顔をゆがめてる。この国家安康はいうまでもなく、家康の名を分断して 調伏をめざすもの、君臣豊楽は、訓んで字の如く豊臣の君 ポトボトと涙を落とした。 「世の中に、愚かな者ほど罪の深いものはござらぬ。誰を楽しむ : : : つまり豊家の世の繁昌を祈るものと、いま駿 も、もはや堪忍袋の緒を切って、中止の厳命と思わっしゃ府に集まっている学者たちが発見し、それを申し上げたの で、近来とかく健康のすぐれさせられぬ大御所は、不届至 極の沙汰とお怒りでござる」 「すると、中止の命令ではござらぬのか」 「さよう、中止では無うて、延期でござる。八月三日の供板倉勝重は、そっと膝の上にその文字を書いてみて、さ 養始め : : : これたけを、しばらく延期させよとのことでごすがに唖然としたように直次を見ていった。 直次はうろたえて、眼を伏せた。 ギ、る」 「なるほど、のう」 「延期 : : : 」 「大仏の建立にこと寄せて、徳川家を : : : それも大恩ある 「されば、中止ではござらぬ。罷りならぬというのではご
事であった。 鐘銘に徳川家呪詛の文句があるといった。それにもう一 「フーム」 っ棟礼の書き方が気に人らぬと : : : そういわれると宮寺の と、中坊左近秀政は首を傾げた。 「すると、市正どのの責任にて、明日の供養は執行すると場合、棟札には施主の名と工事の監督をした奉行の名、そ 仰せられるか : れに必ず大工の棟梁の名を三つ並べて書くことになってい 如何にも ! あとでお叱りあらば、この且元が切腹してた。 お詫び申す」 したがって今度の場合は施主は秀頼、奉行は且元、大工 秀政は案外おとなしく頷いた。 は中井正次の名を並べて書くべきだったが、且元は「中井 の名だけは並記させなかった。 「では、もう一度、その旨所司代に申し上げてみると致そ正次 う。確かに、生命に賭けても執行したいと仰せられるの それについて、中井正次は、内々で不満を抱き、所司代 に何か訴え出ていたのに違いない 「ご念には及び申さぬ ! 」 ( 鐘銘の中の、呪詛の文句とは何を指すのか : 「さらば、このままでお待ち下され」 或いは、棟札に大工の名を書かせなかったのはこの御堂 中坊秀政は、あっさりと席を起ち、雑鬧している参道をを「宮寺ーーー」とは見ず、豊家の徳川家を呪う私の戒壇と 避けて、馬を飛ばして所司代屋敷へ戻っていった。 でも解釈されたのかも知れない : ( それにしても、明日の今日になって中止とは何という皮 四 肉な難題であろう : そうだ。これは、はじめから難題を吹きかけるためにわ 使者が戻ってゆくと、片桐且元は、次第に唇までまっ蒼 ざわざ今日まで黙っていたのに違いない : に血の気をなくしていった。 今までは逆上気味の狼狽で、延期の意味の深さが、まる彼は、手を叩いて先ず伜の為元を呼び、それから更に、 警固に来ている青木民部少輔一重を呼ばせた。一重は七手 で呑みこめなかったのだ 組の組頭の一人である。 ( 待てよ : : これはしかし簡単なことではないらしいぞ :
付録 ( 参考地図及諸家系譜 ) 装幀稲垣行一 挿画木下二介 箱裂地麻地草花人家文様茶屋染 提供山口勉 表紙金版徳川家康直筆署名
徳川家康 1 続蕭風城の巻 戦国遺品 激流の杭 女使者 柱石砕く 入城軍略 友情三略 老いの決断 6 続蕭風城の巻目欠 四〇
ことりとゆか板に茶碗をおいて、 に眼をみはる気持であった。 、見捨ててお 「するとご貴殿は、豊家に仕える気はないが 七 けぬものを感じとった : : : それでご入城なされたことに相 「すると奥原氏は、生死によ 0 て宇宙〈つながれたものゆ成るようだが」 「仰せの通りでござる」 え、現世で主人は持たぬといわっしやるか」 はじめて豊政は、大きく頷いて微笑した。 幸村が急きこみ気味に間いかけると、奥原豊政はまた、 「この戦、われ等の眼から見ますると、実は豊家と徳川家 かすかに首を振った。 「それがしは、これを、柳生石舟斎のきびしい自戒と受取との戦ではござりませぬ」 「なるほど」 ってござりまする。いや、石舟斎の自戒はとりもなおさ 「これは切支丹信徒と、泰平にあき足らぬ牢人衆の、時代 ず、柳生一族の家訓であり、流脈一統のまさに受け継ぐべ に挑んでゆく戦 : : : それに、はしなくも巻きこまれ、否応 き奥儀の基石と存じ、これだけは踏みたがえまいと堅く心 なしに利用されようとしているのが、哀れな、太閤殿下の に誓ってござりまする」 ご遺族 : : : その事は、われ等の従兄弟、柳生宗矩もよう見 「フーム。すると貴殿は禄をもって豊家に仕えるものでは 抜いて居りました」 ないと、いわっしやる ? 」 真田幸村はチクリと胸に針を刺された感じであった。ま 「御意。天は人の上に人は作らず、人の下にも人を作らぬ さに豊政の云うとおり : : : 或いは幸村自身もまた、わざわ ・ : ・ : 何れもこれ生死の大事によって直接宇宙につながれた 一視同仁の子でござる。その自覚を堅持して生きるが石舟ざ豊太閤の遺孤を事件の渦に巻込もうとしてゆく一人なの かも知れなかった : 斎の血脈を継ぐものと心得まする」 真田幸村は、もう一度膝を叩いて、それからあわてて茶「しかし、それがしは従兄弟の考えに従って人城を決した のではござりませぬ。従兄弟はとにかく将軍の兵法指南、 を喫した。 「なるほど、これははじめて柳生新陰の奥儀をのそいた気それだけ徳川家に近い位置にござるものゆえ、改めてこの 奥原信十郎豊政は、わが思案を練りあげてござる」 が致す : : : かたじけのうござった」 133
ばならないいのか ? 」 と、豊政は庭木戸を出ながら又思った。 と反間はしなかった。反間が逆に相手を警戒させること 一方は世間の表裏を知り尽し、しかも作戦用兵では古今 になっては取りかえしがっかなくなる。 無双の徳川家康という老虎であった。 おり 彼は、たしかに柳生宗矩の懇望によって大坂人りを決し そして、その老虎は、この大坂城という華麗な檻に飼わ ている。しかし、それは、関東方に味方するとか、諜者になれている若い一羽の鷹を、こよなく愛しているのだが、世 るとかいう、ゆがんだ考え方に出発したものではなかった。 間の風は、その愛情を通わせようとはしないのた。 彼自身の目で今度の戦の本質をはっきりと見扱いた結果 ( 両者の間をさえぎるこの檻はいったい何であろうか : の決断であった。 この戦は、豊家と徳川家の憎悪を爆発させてゆく戦檻をへだてて、一頭の老虎と一羽の鷹が互いに恋情を燃 ではない したがってその渦の中で溺れようとしている者しあいながら、しかも相喰まねばならぬ運命におかれて悲 は、柳生新陰流の誇りにかけて救わなければならないも嘆にくれている。 の」と。 その檻を破って両者の情を通わせようとして選ばれたの その間にもし一点の濁りがあるとすれば、それは柳生宗が偶然にも柳生新陰流の精神たった。 そして一方の柳生宗矩は、これを老虎の立場から : : : っ 矩のつかんだ新陰流が正しいか、それとも奥原豊政のそれ まり、老虎の生涯を傷つけまいとして助けようとし、もう が正しいかという、ひたむきな意地と竸いだけであった。 そして、そのことはハッキリと真田幸村にも公言している一方の奥原豊政は、鷹の立場を、戦乱の犠牲に供してはな らぬものとして立ち上がっている。 し、秀頼にもそれとなく告げている。 しかし、今すぐ秀頼にそうしたことのすべてを理解させ考えてみると、これは一つの流脈にとってまことに大き な試錬といえた。 ようというのは、まだまだ大きな無理であった。 そこで彼は、おだやかに、秀頼のお言葉どおりに仕える おそらく柳生宗矩は、将軍秀忠の馬廻りにあって、しき 旨を答えて千姫御殿を辞去していった。 りに、秀忠の手綱をしめているのに違いない ( おかしな愛情のもつれ : : : ) そうなると奥原豊政もそれに負けていてよいものではな 2 46
「 ' 第二の不審は、市正の交りは、豊家の重臣よりも徳川家「第三は、故殿下の十七回忌を行ない得ないにしては、あ の者との交りがはるかに深く、且っ広いということであり まり駿府との往復が多すぎる : : : ということにござります まする。ご母公さまもご存知の通り、彼はわざわざ大御所る」 のご側近に近づき、舎弟主膳正貞隆の娘をわが養女とし治長の声はいよいよ滑度を増していった。 て、本多上野介正純が舎弟忠郷に嫁がせて居りまする。そ「本年に入りましてもます年賀はよいとして、その後三回 してわが子の孝利には、嘗って大久保長安と天下一代官ぶ : つまり今度までに四回往復致して居りまする。それゆ りを誇った権臣伊奈忠政の娘をめとる。又所司代板倉勝重え、仮にギリギリまで大坂方の挙兵をおさえさせ、その間 とは水魚もただならず、本多上野介、安藤直次、みな彼とに幕府へ戦備の時を与えて、最後の一瞬に中止させる。そ 親交がござりまする。嫡男出雲守孝利には、われ等は堀対の中止の理山は鐘銘を口実に : : : などと、仮に敵の内意を 馬守の娘を媒的しようと試みましたが、あっさりと断わら受けようとすれば、受け得る余裕も時間も充分あった。い れました。即ち、豊家の家臣をきらって徳川家の権臣に近や、その反対に、彼がどこまでも豊家の忠臣であったとす づこうとする : : : これ不審の第二にござりまする」 れば、これほどしげしげと駿府通いをしていながら、つい いったん堰を切ると、流れるような治長の弁舌。淀の方に何の気配も気付かなんだということ : : : 果たして市正は は、いっかそれに引き入れられている自分を感じて赤くなそのように眼先の利かぬ人物なりや ? これに不審を抱か ざりしは、われ等も怠慢 : : : と、今更悔ゆるところにござ りまする」 十 「、も、フよしー・」 あわてて淀の方はさえぎった。 して、不審の第三は ? 」 「そういえば、わらわも、こなたにいいおとしたことがあ そう訊き返した時には、淀の方は内心ひどく狼狽しだし ていた。 「いい落としたこと : そういえばたしかに片桐且元の所業には腑におちかねる ところがある : : : と、思いたしていたからたった。 「老女たちはな、家康どのには何もいわれなんだ。よう来
がら、われ等には退散したくも行く先がござらぬ。のう長 の陣屋に諸将を呼びあつめた。 大野治長、同じく治房、同じく道大、木村重成、真田幸門どの」 一瞬、みんなの眼が光った。わけても後藤又兵衛は、そ 、藤基次、長曾我部盛親、明石守重のおも 村、毛利勝永彳一 だった九人が集まり、先す、織田有楽斎父子の出奔と東海れが耳に痛かったと見え、 の事情の切迫を告げていくつもりであった。 「真田どのは異なことを仰せられる。一片の義心を持って この時には、すでに幾分の金銀が、「軍用金ー・ー」とい豊家のために生命をささげようとする者を、行く先のない う名で諸隊に配分されている。したがって、呼び集められ牢人風情とお笑いなさるお気か」 幸村は微笑しながら首を振った。 た諸将の方が、治長よりも遙かに戦機の到来を感じとって 「決してさようなことはありませぬ。いまの日本国では、 「本日は、まことに心外なことをお知らせ申さねば相成ら この城からの行く先と申せば徳川どのの天下より他にござ らぬ。したがってこの城に止まるものは徳川どのに通する ぬ」 心のないご仁 : : : という意味にお取り下されてもよい」 治長が沈痛な表情でいい出すと、治房と道大が異ロ同音 「なるほど。さすれば、出てゆく者は二心のある者か」 に口を開いた。 「しかし、行く先の無い者 : : : という反省もまた大切。こ 「有楽斎父子めが、裏切ってござる」 だが諸将はかくべっ驚いた様子はなかった。もう殆んどの反省から出発せねば結東がなりませぬ。それがしつくづ く考えまするに、関ヶ原の合戦のおりの、絶家減封九十余 がそれを知っているもののようであった。 : と、決めるは早計。家、その後の廃絶三十数家。これを合しますると一千万石 「ご両所のお言葉ながら、裏切った : に近く、牢人の数はかれこれ三十万人におよびまする」 退散なされたとか、逐電なされたとか申す方が至当でござ 治長は、幸村が何をいい出すのかと眼を丸くして膝をす り・寺しよ、つ」 真田幸村は、おだやかな眼で木村重成をかえりみながすめた。 ら、 「その三十万人のうち、一部帰農したもの、再び諸侯に召 し抱えられたものは約半数と見て残りは凡そ十五万人。そ 「行く先のあるご仁は退散なされて苦しからす : : : さりな 379