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検索対象: 徳川家康 17
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1. 徳川家康 17

」プつ、つ、刀・ その意味では、長曾我部勢の出現は木村勢にとってまさ に救いの神であった。 「治兵衛 ! 敵の旗印は ? 旗印を確めよ」 むろん長曾我部勢は、木村勢を救おうなどと考えて出て 重成があわてて馬廻りの中に治兵衛の姿を求めて声をか けた時、すぐ又左手の久宝寺村に近い長瀬川原のあたりで来たのではない。彼等は彼等の勢いに任せて八尾村を突っ きり、玉串川の堤近くまで猛進してここで藤堂勢と激突し 「ワーツ」と、別の声があがった。 てゆくことになった。 「治兵衛、治兵衛は居らぬか」 この朝藤堂高虎が、早暁から発進の用意をしているとこ 「あ、これにござりまする」 ろへ、これも道明寺方面の銃声が耳に人った。 「今の鬨は敵に前後を囲まれたか」 「ーー、、誰であろう。もう国分をめざして出て来た敵がある 「ご安堵なされませ殿 ! 最初の鬨は藤堂勢、これに応え て左手であがった鬨は味方の長曾我部勢にござりまする」そ」 国分からの大和口をおさえようとする者がある程なら 「なに、長曾我部が」 「されば、藤堂勢は大坂道を進んで来た長曾我部に任せ、 ば、当然その北の大坂街道から立石街道へ進む者も、十三 われ等は若江に引きあげを : : : 」 街道から、高野街道へ出て徳川勢の本軍をさえぎろうとす る者もある筈だった。 「無念なツ。敵を前にして引きあげよとか」 「これはしたり。敵は藤堂勢たけではござりませぬ。井伊 そこで急を星田と砂の、家康と秀忠の本陣に告げ、その の赤備えもあれば、酒井・榊原の手強い諸勢もある。相手指図を仰ごうと考えたのだが、その暇はなかった。 に事欠くことはありませぬ。とにかくこの泥田の近くを寸 朝霧の流れの間に見るあたりはもういつばいの旗の波で あった。 時も早く ! 」 そう言うと、平塚治兵衛は馬をまわして、逆先頭の味方木村勢、長曾我部勢、増田勢、内藤勢などの諸勢が、八 尾、穴太、萱振、西郡の各村を埋めて動いている。 を、藤堂勢からそらして進めた。 藤堂勢右先頭の侍大将藤堂良勝は、まさか木村勢が転進 事実、ここで応戦したのでは、木村勢は鳥もちにかかっ しているのだとは気がっかず、 た蝶の大群になり下ったに違いな、。

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それぞれの守備幅が決められて、可成り入りくんだ戦場 と、思ったときに、尖兵たちの動きは更に意表を衝い ではあったが、 しかし真昼間同士討ちをしなければならな いほどまだ混戦にはなっていない。 ふり返って応戦する越前勢と、ほんの四、五度び槍を合 いったい何のために、こうした間違いが起こったのか ? わせたかと思うと、くるりともう一度反転してもと来た道 その事については、後日に至っても誰もハッキリとした を引き返しだしたのだ。 風聞では、この時両者の間に真田勢の置 越前勢は手ごわいと見て、やはり本多正純勢を攻める気言明は避けたが、 になったのだろうか ? いて逃げた一つの櫃があり、両勢はそれを奪りあったのだ その時には本多勢と松平定綱勢は、双方から寄りあってといわれている。 ところで、真田の尖兵は何れも騎乗で、櫃など誰も持っ 帰りの道をふさいでいた。 その中へ再び駈け込んだのだから、こんどは前ほど楽々て来ている筈はなかった。 実はそれは彼等が落として行った文箱の奪り合いだった 6 と通れるわけはない。 というのが真相らしい。 双方の槍と馬とがはげしい渦をまき立てて雄叫びの声が むろんそれは、如何にも各自が内応しあっているかのご 一気に闘魂を盛り上げる : : : かに見えた。 とく錯覚させる偽書が人れられてあったのに違いない : と、又しても真田の尖兵は、馬首をめぐらし、こんどは 越前勢の手薄な場所を、風のように紀州街道の方向へ消えと思うがそれも想像の域を出ない。 とにかく、両勢は、他勢の守備区域に立ち入るなとおめ ていってしまったのだ : それは前後せいぜい四、五分間のまことに奇怪な動きでき叫んで、はげしい同士討ちをはじめてしまった : と、その時茶磨山の幸村の軍配は挙げられた。すでに、 あったが、実は、奇屋な動きはこうして尖兵の消えてしま 左翼で越前勢とのこぜりあいが始まってはいたものの、幸 っこ・後に起こった。 この二十騎に足りない真田の尖兵を討ち取村自身の率いる旗本勢が疾風のように、味方同士で争って 他でもない。 ろうとして、双方から寄り合った本多正純勢と松平定綱勢いる本多、松平両勢の脇を駆けぬけ、家康の本営へ襲いか の間に、はげしい同士討ちが始まってしまったのだ。 かっていったのはこの時だった : ひっ

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よ」 0 いや、その斉射があたりの山河をふるわしてとどろき渡は : しかも、この緒戦は、味方の士気の鼓舞をめざしてわざ ったときには、戦場の空気は完全に一変していた。 」川勢の浮足は喰い止められ、彼等の敗勢が、そのままわざ買って出た一戦なのだ。退くことなど思いもよらない。 おとり 同じことが、この時、片倉勢の中でも当然大きなおどろ 見事な誘いの囮に変わった結果になっている。 真田勢が自信満々に槍をそろえて突撃してゆくと、敵もきになっていた : さるもの、十数分の激闘でサッと兵を引いてしまった。両 五 者の距離は五、六丁もあろうか。 「仲々あざやかな用兵ぞ。敵を見きわめよ。何れの手勢おそらく伊達勢の方でも真田勢との決戦は避けたかった のに違いない。 幸村は、立ち直って、これも向きを変えている北川勢を 道明寺ロの正面にあたるいちばん北には水野勝成と大和 点検しながら声をかけた。 勢の諸将をおき、その次には本多忠政の伊勢勢、松平忠明 「はい。敵は音に聞こえた伊達勢の、片倉小十郎が手勢にの美濃勢とおいて、いちばん南の誉田村めざして進んで来 、一」ざりまする」 たのが伊達勢だった。 」川宣勝に答えられて、 ところが、真田幸村もまた、道明寺ロの正面を避けて同 「なに、片倉か : ・・ : 」 じく誉田村へ出て来てしまった。そして、両者ははしなく さすがの幸村もこの時ばかりは凍り付いたような顔にな もここで激突しなければならない破目におかれた。 つ、 ) 0 それでも片倉小十郎は独断を避けて部下の将に相談のか 「そうか、片倉勢であったのか : たちを取った。 さあ敵は前面にわれ等の選ぶに任せている。どの軍 戦国の戦場にはつねに予期しない無情な伏勢があるもの 勢に立ち向かうぞ」 」川宣勝の軍勢はすでに真田勢と重なり合ったが、その ( 幸村がみずから避けたいと希っていた婿の手勢 : : : ) それがいきなり彼の煎面に立ちふさがって来ようと右手には山川賢信、その左には福島正守、大谷吉久、伊木

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そうなると、どんなに好まぬ敵でも相手にせずにはいら戒する空気があったかも知れない。 しかもこの日の、この時点では、 れない破目になる。真田幸村はついに軍配をあげてこれに 「ーー、・浅野長晟の寝返り ! 」 立ち向かった。 が、その位置からいって最上のものであった。 幸村にしては、言いようもなく残念だったに違いない。 浅野勢は、関東方の最左翼にあたる紀州街道を、伊達政 幸村が床几を起っと、同じ装東の八人の幸村が八方に飛ん 宗や松平忠輝の軍勢よりも少し遅れて進んで来た。 ところが前方に銃声がしだしたのだ。 毛利勢はこの時すでに伏兵戦から逆襲戦に転じている。 彼等は本多勢を中央に引き入れて、左右からこれを挾撃浅野長晟は当然のこととして、 ( 若しも決戦に間に合わなんだら : しだしている。 という危惧を抱いた。 真田兄弟が退きだした。 そこで、彼等は伊達や松平勢の脇を一気に駈けぬけ、ま と、その時になって、ふしぎな流言が飛びだした。 っしぐらに今宮村から生玉、松屋ロの方向へ出ようとした。 「浅野長晟勢が、寝返ったぞ ! 」 その瞬間を狙って流言は放されたのだ。 その流言は、言うまでもなく幸村の影武者が放ってまわ 「ーー・、見よ ! 浅野勢は寝返って、大坂城めざして進みだ ったものに違いない : したそ」 四 「ーー・、それはまことか、間違いないか」 「ーーー何の間違いがあろうそ。見よ、あの勢を」 この日激戦の渦の中で、関東勢を混乱させるため、最も この流言が与えた影響は大きかった。何れも全神経を右 効果のある流言は、浅野勢の寝返りか、前田勢の寝返りで あった。 手の敵に向けている時に、左手の背後から浅野勢に襲われ たのでは、ひとたまりもなく潰走しなければならなくなる。 、かに徳川方の親藩や譜代の者が反乱を起こす筈はな 先ず越前勢が動揺し、続いて、小笠原、諏訪、榊原、秋 。と、すれば、浅野家も前田家も、豊家とは特別の関係 田、浅野 ( 重長 ) 、水野と体形を崩しだした。 にあり、家康や秀忠の旗本には、心ひそかにこの両勢を警 06 ) 0

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その意味では忠直の若い無謀の怒りが、老巧な真田幸村 っこ。しかし、それにしてもこの薬は少し利きすぎたよう である。 の作戦を、根底からゆさぶり立てる結果になった。 この時の越前勢の猛進ぶりが、如何にはげしいものであ ( こんな無謀な戦があるものか : と言ってみても何うなることでもなかった。腹はふくれ ったかは、当時の民謡に残っているので想像される。 ているゆえ、餓鬼道におちることはない。さあ、真っすぐ 冫閻の庁へ行けというのだから、手がつけられない。 かかれ、かかれの越前勢 「掛れッ ! 掛れッ ! 」 たんだ掛れの越前勢 忠直の怒号の下で、本多忠朝勢は・ハタ・ハタと倒れてゆ 命知らずのつま黒の旗 : ・ いや、その本多勢と越前勢が一つになって次々に毛利勢 若い忠直がまっ先に立って声をからしているさまが眼に の銃前に立ちふさがり屍を越えて突撃を続けるのだ。 見えるようだ。 そうなると、伏勢は四千。越前勢と本多勢を合わせると と、言うのは、越前勢と真田勢の距離は約十丁ほどだっ たが、その間には小さな池や窪地などがあり、その小丘と二万を超える数になる。 むろん、忠朝指揮下の真田信吉兄弟も動きだしたし、浅 小丘の間には、実は、毛利勝永の四千の兵が伏されてあっ たのだ。 野長重、秋田実季、松下重綱、植村泰勝などの人数も竸い 立って動きだした。 この毛利の伏勢に、まっ先にぶつかったのは、越前勢に このおりの毛利勝永の銃隊の働きぶりは古今に絶するほ おくれまいとして、動きだした本多忠朝の銃隊で、両者の しかし、それでも数から来る制 ど巧妙なものであったが、 激突に越前勢がからんでいった。 まだ早いー われ等の狙っているのは越前勢ではな約はまぬがれがたい 「掛れッ ! 掛れッ ! 」 くて、そのあとから進んで来る家康の本隊なのだ」 生命知らずのつま黒の旗は、退く気などみじんもない。 この思いがけない開戦を顔いろ変えて止めようとしたの 全滅させない限り、この敵の出足はさえぎり得ない。 は真田幸村だった。

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「退くなツ。退くとあとから来る庵原勢の邪になるぞ。 る間に双方の隊形が崩れてゆく 進んで死ぬのだ。すすんで : : : 」 「退くなツ。ここが大事の瀬戸際ぞ」 ふかで 月手良利は、もうその時に深傷を負っていた。最初の槍その怒号もしかし、長くは続かなかった。「ワーツ」と いう潮のような庵原勢の喊声が川手勢に追いついた時に ぶすまを突破する時に、強か股を突かれていたのた。 は、もう川手良利の姿は先頭には無かった。 しかし彼は背後を見ようとしなかった。 乱戦の中で壮烈な斬り死をしてしまっていたのだ。 木村重成が、彼の手勢の動き出した瞬間に、 こうして庵原勢と川手勢は人れ代わった。と、思った時 「ーーーーあせりだしたな」 には木村勢の退き方もまた、最初に予期していた作戦では そう見たのは的中していた。 無理もない。ほど遠からぬ八尾から道明寺へかけての戦なくなってしまっていた。 の、銃声と鬨の声とが波のように聞こえてくるからだ。 木村重成が、 、右先手に選び出された井伊家の老将庵原朝昌は、 と、ほそをかんだのはこの時だ。 何度も使者を出して良利を押さえていた。 討って出る時は、右先手も左先手も同時がよいと。 川手勢、庵原勢を斬り込ませておいて、井伊直孝の本隊 ところが若い良利は、そうは思わなかった。何れか一方は、不思議な重量感で、ゆっくりと動きだしている。 が先に討って出るとその方面へ敵の注意は集中し、他の一 直孝に決戦を挑むには先ず庵原勢を蹴散らさなければな 肝心の味方の方が崩れだしてしまってい 方が出易くなると計算して、すすんで先に討って出たのでらないのだが、 る : ある。 しかし今は、その庵原勢に援護され、更に背後から支援重成は浮足立った味方に、踏みとどまれと叱撻する代わ されている。 りに、いきなり馬をあおってやって来る敵の流れの中へ割 って入った。 ここで川手勢が崩れ去ったら、それこそ庵原勢までその 勢いに捲き込んで、救いがたい混乱を描き出すに違いな それは、しばらく、激流にさからう一個の巌のように見 えた。おそらく十数人は斬っておとしたに違いない。やが したた

7. 徳川家康 17

駆けまわりながら秀忠の本陣の方を見やると、本陣のす ぐ左前方にあった藤堂高虎勢と井伊直孝勢は、何と ! 天 もしも勝ちに乗じた毛利勢が前方へ姿を見せなかった王寺側の味方が破られたと見てとって、その方向へ進撃を ら、将軍秀忠はもうしばらく開戦を延ばしていたかも知れ開始しているではないか : ( これでは将軍家の御本陣が裸になる : : : ) 「退くなツ。進め ! 何のこれしきの敵に」 というのは恰度昼食の時刻にあたり、戦に馴れない幼い 弟たちが、父のうしろで弁当を開いているころ : : : と、察槍をふるって周囲の敵を見わけては突き、突いては見わ けている間に、ぐんぐんと敵の流れは秀忠の旗下近くに殺 せられたからであった。 到する。 ところが毛利勢の逸走が、有無をいわさず開戦させるき つかけになってしまった。 ( いったい土井勢や酒井忠世勢は何をしているのか ) ところが、酒井勢も土井勢もすすみ過ぎて、敵に背後に それにしても、いささか汕断を衝かれた感はまぬがれ得 まわられたらしい。戦場で背後にまわられた兵ほど弱いも のはない。 前田勢の先鋒本多政重の隊は、急いで東方よりに進み、 土井利勝の軍勢はよほど狼狽したと見えて、越前勢が 書院番頭の猛将青山忠俊、大番頭阿部正次、大番組高木正 次の順ですすんで毛利勢に応戦したが、その時更に岡山口「かかれ、かかれの越前勢。ーーー」と、その勇ましさを謳わ れているのに、遁げぶりを謳われることになってしまっ から大野治房、道大兄弟の軍勢が、真一文字に秀忠の本陣 めざして進撃を開始して来たので、戦場はあっという間に すべてはほんの数十歩の間隔差であったが、その間に、 敵味方を判別しがたいほどの大混戦になってしまった。 大野治房と道大兄弟、それに木村宗明、内藤長宗等の軍勢 阿部正次は縦横に馬を駟って味方を叱撻してまわった。 「ーー、同士討ちをするなツ。味方は長途をやって来ているをなだれ込ましてしまったための手違いであった。 この時、槍を ので色が黒いそ ! 陽焼けしている色の黒いが味方なる崩れて逃げて来る酒井と土井両勢の前へ、 ひっさげて駆けつけた黒糸おどしの二騎がある。 6 9

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しかもそれと殆んど時を同じくして、船場に陣取り、関 のろし 正午まではまだ悠々としていた戦場は、一瞬にして眼も 東勢の側面から斬りこむ手筈の明石守重の一隊が狼火をあ るつぼ あてられぬ砲煙と叫喚の坩堝に変わった。 げて進撃を開始した。 「退くなツ・ ・ : 退いてはならぬそ。将軍家と大御所の御前 このあたりの駈け引きは、真田幸村が前々から考えぬい なるぞ ! 」 ていた奇襲の手筈に違いない。 すでに双方の旗本たちもこの流言の渦巻にまき込まれか そうなると浮足立った関東勢には、遊軍の明石勢の進撃 けて、その間を、飛び歩く赤装東の真田勢と、白装束の毛 が浅野勢の反乱と区別のつかないものに見えて来る。 らせつ 利勢とが、手のつけられぬ羅刹のように眼立ちだした。 「ーーー汕断するなツ。浅野勢が裏切ったぞ」 「、ーーー退き口を考えよ」 五 ただその中で、越前の大将忠直だけは声をからして怒号 家康は正午にはまだ天王寺の前面までは到達していなか している。 った。若しこれが、進みすぎていたら、まっ先に彼の本営 「掛れッ ! 退くなツ。臆病者めが、掛れッ ! 」 こうした混乱を戦い馴れた大坂方の毛利勝永が見落とすが乱戦の中心になってしまっていたであろう。 おそらく本多忠朝や小笠原秀政は、その家康の本営を突 筈はなかった。 かせまいとして死守の覚悟を決めたのに違いない。 今だ。一挙に秀忠の本陣を衝けつ」 大坂方の大野治長、治房が行動を開始した時には本多忠 苦戦している本多忠朝勢の中を突っ切って、そのまま将 軍秀忠の先備、前田利常勢のまん前へ出て来てしまったの朝はすでに全身に二十余力所の傷を負っていた。 しかし一歩も退かずに毛利勢の槍ぶすまの前に立ちふさ がって奮戦し、小溝につまずいてのめったところを毛利勢 前田勢の前衛の位置には本多康紀と片桐且元が控えてい の槍隊の一人に突き伏せられて戦死した。 たのだが、これは見事に不意を衝かれた形になった。 小笠原秀政父子も同じであった。 と、その岡山の前方にあった大野治長、治房勢が、これ 保科正貞と共に、毛利勢の竹田永翁の隊を破り、天王寺 また七手組の面々を従え、斉射をあびせて猛進撃を開始し 6 ) 0

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一度銃声がとどろくたびに、後藤勢の中で倒れる者が殖 い出しを考えていたのだ。 えだした。 その意味ではこの道明寺附近から八尾、若江へかけての 「よし、敵の鉄砲隊を先す倒せ。後藤勢の鉄砲組はごく僅 戦場は、関東勢の意志で選んだ戦場と言ってよい。 かぞ」 「ーー勝ったの。野戦になればこっちのものだ。そうだ。 小松山を占領して敵の出方を監視するがよい。奥田三右衛西軍は、まっ先の鉄砲組平尾久左衛門の一隊に関東勢の 筒口が向けられると、今度は猛然と槍先をそろえて松倉勢 門と松倉豊後に先駈けせよと申して来い」 戦場が決まってゆくと、そのあたりの高地の占拠は、当に突きかかった。 その勢いは当るべからず : : : あわや松倉勢は全滅 : 然双方の狙うところとなってゆく こうして、まっ先に小松山をめざした奥田三右衛門忠次と、思われた時に、堀直寄と水野の本隊がやって来て松倉 は、しかし、その寸前にこれを占領していた後藤又兵衛基勢と入れ替った。 この頃まで双方の人数は互角に見えた。ところが小松山 次の蹄にかけられて戦死してしまったのだ。 頂きへ帰ると、後藤勢は又、声をそろえて鬨の声をあげに銃声を聞いて、 「すでに始まっている。おくれを取るな ! 」 てゆく。 大和ロの第二番手、三番手を追い抜いた伊達政宗の四番 「しまった ! すでに敵が山上へ陣取って居るぞ。何者の 手の先頭、片倉重綱の一隊が戦場に到着したので、彼我の 旗団・じゃ」 大和五条の領主松倉豊後守重政は、それが後藤又兵衛と勢力の均衡は崩れかけた。 いや、そこへ更に第三番手の松平忠明が、 知ると北側から銃口をそろえて、攻略に立ち向かった。 もうこの時には、攻撃に加わる東軍は松倉勢だけではな「伊達勢に追いぬかれたそ。敵の鉄砲など物の数ではな っ一 ) 0 。槍ぶすまで突き崩せ」 山の東側から猛烈な突撃を下命した。 「すわこそ、遅れを取って笑われるなツ」 こうして関東勢には続々と新手が加わる。しかし、西軍 藤堂高久勢につづいて、天野可古の一隊がこれは、山の にはそれが無かった。 北西にまわりながら攻略の輪をしばった。

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幸村は誉田村の西に兵をおさめると、すぐさま西軍全体 引きあげの法螺が今度は真田勢の側から吹かれた。 の戦況を集めにかかった。 「ここで眼一くとは何としたこと」 彼が、冬の陣から今までに、最後まで信用出来る戦力 だが、父の眼の方が正確だった。片倉勢は意味なく退い : と期待しているのは、実は毛利勝永勢と長曾我部盛親 たのではない。 片倉勢危うしと見てとって、伊達勢の手から奥山出羽の勢ぐらいのものであった。 あとは勇ましすぎたり、感情に走りすぎたり、自我が強 精鈩が、これも自慢の騎馬隊をくり出して来た : : : それを すぎてお山の大将でありすぎた。 見きわめての引きあげだったのだ。 大助が若し勢いに任せて敵を追っていたら、その奥山隊 ( ほんとうの戦はむずかしいものだ : それたけに幸村もそれに憑かれてしまったのかも知れな に退路を断たれて、若い生涯をここで閉じたに違いなかっ い。が、戦に憑かれた男だけに彼の計算には王、がよ、つ 奥山隊の到着寸前、真田勢は誉田の村落の西に向かってた。 八ッ半 ( 午後三時 ) 近くには、もう敵も味方もへトへ 整々と退きだした。若江で木村重成が討死してゆく頃であ 疲れて、体力の限界を越えてしまっている。無理もない。 殆んどの軍勢が、夜中の八ッ ( 午前二時 ) には行動を起して いたのだから : したがって、これからは、誰が、何うして、何のくらい 後に至ってわかったことながら、この日の片倉隊で、 : というのだから、この時の激の戦力を明日に残し得るかの間題になってくる。 傷の者は一人もなかった : 「さ、戦はこれからだ。ひと先す休め」 突がどのようにはげしいものであったかが想像出来よう。 小休止を命じて各ロの情報を集めてみると、八尾の長曾 真田方でも大助幸綱はじめ、渡辺内蔵助も、福島正守 我部勢は藤堂勢に手痛い打撃を与えて、久宝寺に残兵をま も、大谷吉久も、みな何ほどかの手傷を受けていた。 とめていることはわかったが、若江口に出ていった木村勢 いや、それよりも冷静無比の幸村の軍配がなかったら、 は層所がわからなかった。 ここで西軍は壊滅していたかも知れない。