毛利勝永 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 17
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1. 徳川家康 17

「その、死ねまするはいけませぬ。後藤どのほどの大剛の 幸村が、敢えて治長に裁可を乞いに行かせたのは、この 士に元来生死は無い筈ゆえ、あるはただ勝利だけでござろ出撃に対して秀頼がどのような反応を示すか、それを知り たかったからなのだ。 いったん城を出でて戦えば、帚 : これは失言仕った。いかにもこれで勝て リらぬ者も数多く出るであ ましよ、つ。の、つ田、フじ」 ろう。したがって、即刻別杯を携えて出座あり、士気を鼓 薄田兼相は六尺豊かの肩をすくめて微笑して、そのま舞し、行を励まして欲しかったのだ。 ま、書付けを毛利勝永の手に渡した。 それでこそ秀頼、治長、幸村、基次の指揮系統も規律さ 毛利勝永はそれを福島正守に渡し、正守は更に大谷刑部れ、上下の心もきびしく通い合う道理であった。 の子の吉久に廻した。 ところが、治長は間もなく一人で戻って来た。 「上様にもご異存はない。軍監には伊木遠雄を仰せつけら 「これでわれ等も、父や兄の敵になったわ」 細川忠興の子の長岡興秋が、そう言って笑ったとき、 れた。油断なく、すぐさま出陣の用意あるように」 「では、その陣立て、直ちに上様のお目にかけて参りま 後藤又兵衛が、まっ先に聞えよがしの嘆自 5 をして、チラ と幸村をかえりみた。 木村重成が口をはさんだ。 幸村はわざと眼をそらした。 「長門どの待たれよ」 ( 又兵衛は、これで死ぬ気になった : 幸村はさえぎって、 幸村はそう思った。 「これはやはり、修理どののお手から上様のご裁可を仰ぐ 「ーーー武将の義理」というものは不思議な誇りと見栄につ ながっている。 べきものと心得るが如何であろう」 「なるほど、これは心付かぬことを申しました。では、大 豸屬が、こんどの勝敗は、お身一人の向背にかかってい 野どのに」 るとまで褒めちぎった基次を、盃もやらずに戦場に送り出 こうして再び大野治長の手にもどった書付けは、治長のす : : : そうなると、基次は、家康の知遇にこたえて開戦の 手で秀頼のもとに運ばれた。 日に戦死しようという気になるものた :

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であったことはすでに書いた。 が無ければ始めから手を引く方が賢明なのだ。 その十丁の間で両者の激突が始まるまでに、幸村は、わ ところが、毛利勝永は、そこまで深く幸村の心を読んで が身の目的も執着も、きれいに捨てなければならなかった はいなかった。両者の違いはそこにあった。彼は、ほんと のだから苦しかったろう。 うに、侠気と意地のために玉砕する気になっている。 し 」の四文字にすぎない。 文字に書くと「臨機応変 ( どうせ死ぬのだ。一泡吹かせて ! ) かし、その中には、幾千万人の生命と運命がむごたらしく その二人の差が、ついに毛利勢を踏みとどまらせず、一 賭かっている。 挙に応戦、そのまま進撃させてしまう結果になってしまっ 真田幸村は、直ちに浅野勢裏切りの流言を飛ばして、邀 撃から進撃に転じさせた。 いかに目的に齟齬した開戦であっても、次善の好機は的 確に擱まなければならない。 ( 緒戦の勝利は勝利ではない 昼食はすでに取らせてあったしあと自分をのぞいて七騎 7 これでは無計算な斬死に終わろうものを : 幸村にとっては眼の前がまっ暗になるほど大きな衝撃での影武者たちに、誰は何の方面に出没せよという命も伝え てあった。 あったであろう。 、いったん動きだした毛利勢はもはや、どう引き止め 伜大助の従兄にあたる大谷吉久。たびたび自分を九度山 ようもない、文字どおり騎虎の勢いで戦場の鬼になってしへ誘い出しにおとずれた正栄尼の子の渡辺内蔵助。それ まっている。 、冬の陣のおりに、真田丸へ軍監として乗りこんで来て いた伊木遠雄。それ等が参謀で、九度山以来の郎党はいう そうなれば幸村の方で、この変化に応じてやるより他に よ、つこ 0 までもなく、し / ー刀十 / 、ま幸村の指揮下にある者は、どれを取って ′、刀し、刀 も戦うために生まれたかのような俊秀ぞろいであった。 そこへ松平忠直の、毛利勢以上に無計算な尖兵ー襲、 かって来たのである。 家康の陣は ? と見ると、 、か、か、れ - ッ , かかれ ' ・」 この時、越前勢と茶磨山の真田勢との距離は十丁あまり

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それにしても、家康の旗下までが無人になろうとは : に眼を引きつらせて戻って来た。 その日の激戦ぶりが「細川家記」には次のように記され 「昌吉も味な知恵を出し居ったそ」 その時には、秀忠の周囲は血と汗に濡れた味方の人数でている。 ひしひしと固め直されていた。 こちらより、ひたもの無理に戦をかけ候ところ ( 越 しかし、その人数の中に、再び姿を見せなかったのは安前勢の仕掛けに続いて ) 一戦におよび、戦数刻あい支え候 て、半分は味方、半分は大坂方勝にて候いつれども、こち 藤彦四郎たけではなかった。成瀬正武、篠田為七などの荒 らの御人数、数多これあるにつき御勝ちに成る : : : 」 小姓たちは、みな半裸のまま敵の中で斬死して、この思い たしかにそれは圧倒的な人数の勝利で、戦上手の勝利と がけない危機脱出の人柱になっていたのた : ーしいがたいものがあった。 九 この日家康の本陣の側面を突こうとして船場にあった明 まことに五月七日の一戦は、家康の生涯を飾る最後の戦石勢の遊撃が成功していたら、恐らく家康か、秀忠か、何 れか一人は討死していたに違いない。明石勢は越前勢の一 としては出来のわるい戦であった。 岡山口に向かった秀忠も九死に一生を得た感があった部は撃破したものの、水野勝成の隊にさえぎられて、つい 、家康の旗下も三度び斬り崩されて危機に追い込まれに目的を達し得なかった。 したがって家康の旗下を三度びも無人にしたのは他なら この混乱の原因はやはり、東西両者の心構えの相違からぬ真田勢であり、更に、これに家康を討っ機会を与えなか ったのは、全員斬死の覚悟をもって、 来ていたといってよい。 、か、か、れッ かかれツー・」 一方はそれそ「 一方は、みな今日を最後の心意気なのに、 と怒号しつづけた越前忠直の若々しい激闘ぶりであった れ泰平の世の大名として、複雑な計算が胸にあったからて といえる。 あろ、フ。 それに毛利勝永の戦上手と、真田幸村の神経戦があぎや家康は最初に身辺に人影の薄くなったとき、内藤主馬を 呼んで、 かに功を奏したせいもあった。 ) 00

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( ーーーわしはまだ死ねぬ ! まだ、家康にも秀忠にも、贈 りものをして居らぬ ) こも簡藤井寺にはすでに毛利勝永のひきいる三千が先着してい それは、おそらくこの戦場に駆られて来ている誰レ 単には理解し得ないふしぎな人間の意地であった。 幸村はすぐさま勝永の陣をおとずれて道明寺方面の、後 いや、その意地すらも夜明けを待って天王寺を発したと きには消え失せて、いまはただどうして戦いぬくかの一点藤、薄田両勢の戦況をたすねた。 「もはや勝敗は決した様子にござる」 民家の一軒に床几を据えさせた毛利勝永は、幸村の肚を 彼は、家康の陣していると思われる星田のあたりの山ぎ 薄々察しているらしい わの空に、冷静な視線をなげて駒をすすめた。 生駒から続いたそのあたりの山脈に、霧とたけは思われ「敗れた両隊の残兵が続々こっちへやって来る。何れも見 るかげもなく戦い疲れた雑兵たちでござる」 ない雨雲のただよいが感じられる。 「それは残念な」 ( 星田は今朝は小雨気味かも知れぬ : : : ) と、幸村は澄して答えた。 若し小雨が降っているとすれば、家康は自分の年齢を考 「それがしの到着が、いま少し早かったら、ご貴殿と共に えて陣は出まい。家康の居らぬ戦場で斬死しても意味はな 後詰め出来たものを : : : 気の毒なことを致しました」 そうした時の幸村は憎いほど冷静な嘘つきでもあった。 こうして、後藤基次や毛利勝永から救援の求めのあった 彼は、彼が到着しなければ毛利勝永も前進し得ないこと 場合は急行出来るようにして、幸村はむしろ悠々と進んで をよく知っていた 彼がわざと急行しなかったのは、後藤基次の掉尾を飾る むろん若江から八尾の方へも気はくばっている。 ための戦に、毛利勝永まで巻き込ませてはならないという 藤井寺村に着いたのは四ッ半 ( 午前十一時 ) ごろであっ 思案もあった : そこへ又福島正守、渡辺内蔵助、大谷吉久、伊木遠雄等 6 」 0 しようぎ とうび

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表面はどこまでも淡々とした磊落さを装ってはいるもの 「さ、これで未熟者は片付きました。では人数割を仕ろ ( これが最後の戦か : : : ) 矢立から筆を抜いて「茶磨山ー・ー」と先ず認めてから、 そうした感慨は、誰の胸にも言い知れぬ重みでのしかか みんなの顔を見渡した。 「この茶磨山にはそれがしが陣取りたいと存じますがご異っている。自分の名の所在を確めたあとでは、大抵が大き く嘆自 5 した。 長岡興秋、槇島重利、江原高次の諸将は天王寺と一心寺 「そうなくてはなりますまい。お願い申す」 の間にある石華表の南に陣を敷くことになり、毛利隊の東 毛利勝永がすかさず応じた。 「真田どのに茶磨山、それがしはこの天王寺の南門に備え前方に大野治長の銃隊を伏せ、後方の毘沙門池の南には冶 長の本隊と後藤、薄田、井上、木村、山本等の残兵がおか たいと存ずるが如何 ? 」 むろんこれにも異論のあろう筈はなく、幸村はもうさられることになった。 舎弟の大野治房は、言うまでもなく左方岡山口の総大将 さらと茶磨山へ自分と共に備える者の名を書き加えてい である。 る。 茶磨山ーーー 真田幸村、大谷吉久、渡辺内蔵助、伊木遠雄、福島正守、 同正鎮。 そう書いてそのまま筆を添えて勝永の手に渡した。 勝永は、それをチラリとわが子勝家に見せてから「 天王寺南門毛利勝永」としるし、その前面にわが子勝家の 名と、浅井永房、竹田永翁と二老臣の名をおき、更に、左 右に、吉田好是、篠原忠照、石川貞矩、木村宗明と、一々 その人の承認を眼顔でもとめながら記人していった。 大坂方の諸将が、茶磨山で最後の軍議を重ねているおり に、家康は、星田から枚岡にすすめた陣中で、思いがけな い訪客を迎えて、しばらくこれと密談していた。 家康の旗

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「それがしは大丈夫じゃ。河内ロの敵の先鋒は藤堂高虎と 井伊直孝のよし、真田どのはこの方に充分お気をつけて下幸村は何か言おうとする毛利勝永を眼でおさえて、黙っ て盃を受け取った。 され。して、この先鋒に当る味方は ? 」 「木村長門守が若江に陣し、長曾我部と増田盛次とが八尾 ( もはや、又兵衛に生き残る気はないらしい ) 実は、それを確めに来ずにいられなかった幸村だったの に陣してゆく予定でござる」 「ほう、重成どのが若江に : : : 」 又兵衛に生き残る気があれば、後の作戦も変わって来 そう言った時、ふっと又兵衛の顔は曇った。案じて いたわ る。が、それが無いとなれば別の覚悟がなければならぬ。 る : : : というよりも、それは若い重成を労る年長者の憂い であったろう。 差された盃をぐっと乾して、 「では、呉々も明日は、思う存分に」 あとになって考えると、後藤基次はこの時すでに「 「お、つ、思、つ ~ 仔分にー・」 幸村に援軍は頼めない」そう心を決めたもののようであっ 基次は、晴れ晴れと繰り返して、こんどは盃を勝永に差 若江で決戦となれば、その相手は、河内口をやって来るしていった。 「毛利どの、生まれて来ただけのことはござったわ。ご貴 選りぬきの家康や秀忠の旗本勢 : : : もし、真田勢を又兵衛 の方に割かせて、この方の援軍が無くなったら : : : 戦に馴殿もご存分に」 れた基次にその労りがない筈はなかった。 勝永は又何か言おうとして、しかし、思い直したよ、つに これも大った。 「何れにせよ、それがしは仕合せ者でござる」 基次は腰のひさごをはずして、幸村の前に盃を差し出し 九 「大明までお手を伸ばされた豊国大明神のお子には頼ら結局幸村と勝永は、後藤基次に何もいわずに天王寺に引 きあげることになった。 れ、江戸のご両所には惜しまれながら討死出来るワ。こ の仕合せは武人最高のものでござるて。ハッハッハッ 「ーー今夜半、道明寺でわれわれ三人は出会い、夜明け前 ) 0

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そこで、さしてあてにもせぬ自分に信濃のうち十万石を 基次につづいて、毛利勝永も起ちあがった。これもどこ 贈ろうなどと言わせたり、後藤基次をお身一人の向背で勝 カ・汁しナ、、こっこ。 敗が決するなどとおだてたりもする。 こ吏お、つとする時には、褒めるに限る : 人が人を有効イ しかし、そうした人情の機微を、世間知らずの秀頼に求め 戦の巧者と下手との差は、出陣のおりの鼓舞の仕方にか る方が無理であった。 かっている。 とにかくこうして大和ロ迎撃の部署は決定し、幸村と基 戦国人の人間関係では、特にそれが大切なかなめをなし 次は直ちに発進の準備にかかった。 ていた。 むろん大坂方とて八方へ諜者やもの見は出している。そ 羽害だけで その一挙一動に生死が賭かっているだけに、」 動くわが身 : : : と考えると、たまらなく味気ない人生になれ等の報告を検討すると四月二十八日以後、東軍大和ロの 諸将は、いずれも奈良およびその附近にあって、伏見の秀 り下る。 そこでわざわざ「義理ーーー」という旗を心におし立て忠、二条城の家康の発進に呼応する備えであった。 そこで、大坂方は三十日いつばいに準備をおわり、後藤 て、そこに救いを求めてゆく 基次の第一陣は薄田隼人正兼相と明石掃部助守重を両翼と いま後藤又兵衛基次を支えているのは、その一片の「義 して、五月一日に城を出てその夜は平野に宿営し、ここで 理ーー」を貫こうとする人間の「意地ーーー」であった。 東軍を待っことになった。 又兵衛だけではない。毛利勝永にせよ福島正守にせよ、 続いて第二陣の真田幸村は、毛利豊前守勝永を副将とし 大谷吉久にせよ、みなそうした義理に支えられて胸を張っ て城を出て、これは、天王寺にとどまって、更に敵が何れ ている。 いや、真田幸村自身にしても、それは充分にあることだの進攻路を取って来るかを見きわめる位置についた。 っ ) 0 大坂方の迎撃戦の配備はこれで完了したことになる。 これに対して水野日向守勝成の指揮する東軍大和ロの第 家康は、そうした戦国人の心理もまた憎いほどよく洞察 一陣、本多美濃守忠政の指揮する第一一陣、松平下総守忠明 している。 3

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その意味では忠直の若い無謀の怒りが、老巧な真田幸村 っこ。しかし、それにしてもこの薬は少し利きすぎたよう である。 の作戦を、根底からゆさぶり立てる結果になった。 この時の越前勢の猛進ぶりが、如何にはげしいものであ ( こんな無謀な戦があるものか : と言ってみても何うなることでもなかった。腹はふくれ ったかは、当時の民謡に残っているので想像される。 ているゆえ、餓鬼道におちることはない。さあ、真っすぐ 冫閻の庁へ行けというのだから、手がつけられない。 かかれ、かかれの越前勢 「掛れッ ! 掛れッ ! 」 たんだ掛れの越前勢 忠直の怒号の下で、本多忠朝勢は・ハタ・ハタと倒れてゆ 命知らずのつま黒の旗 : ・ いや、その本多勢と越前勢が一つになって次々に毛利勢 若い忠直がまっ先に立って声をからしているさまが眼に の銃前に立ちふさがり屍を越えて突撃を続けるのだ。 見えるようだ。 そうなると、伏勢は四千。越前勢と本多勢を合わせると と、言うのは、越前勢と真田勢の距離は約十丁ほどだっ たが、その間には小さな池や窪地などがあり、その小丘と二万を超える数になる。 むろん、忠朝指揮下の真田信吉兄弟も動きだしたし、浅 小丘の間には、実は、毛利勝永の四千の兵が伏されてあっ たのだ。 野長重、秋田実季、松下重綱、植村泰勝などの人数も竸い 立って動きだした。 この毛利の伏勢に、まっ先にぶつかったのは、越前勢に このおりの毛利勝永の銃隊の働きぶりは古今に絶するほ おくれまいとして、動きだした本多忠朝の銃隊で、両者の しかし、それでも数から来る制 ど巧妙なものであったが、 激突に越前勢がからんでいった。 まだ早いー われ等の狙っているのは越前勢ではな約はまぬがれがたい 「掛れッ ! 掛れッ ! 」 くて、そのあとから進んで来る家康の本隊なのだ」 生命知らずのつま黒の旗は、退く気などみじんもない。 この思いがけない開戦を顔いろ変えて止めようとしたの 全滅させない限り、この敵の出足はさえぎり得ない。 は真田幸村だった。

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の指揮する第三陣、松平上総介忠輝の第五陣と、奈良に結「いよいよ、出て来たようでござるなあ」 彼は鋏をおいて、道明寺附近の見取り図に向き直り、 集したのが四月三十日。 「それがしは、今夜半に、この平野を発し、藤井寺から道 伊達政宗の第四陣だけは、四月三十日には木津にあっ 明寺に到って敵を待つ。出来得ればそのまま国分に進む所 て、奈良に入ったのは五月三日であった。 伊達勢が何ゆえ、遅れて奈良に人ったかについては、表存ながら、万一の時には、片山から小山に拠ってひと泡ふ 裏さまざまな理由があるのだが、それには今は触れないこかす思案でござる」 その言い方があまりに淡々としているので幸村と勝永は とにする。 とにかく、伊達勢が遅れて到着したために東軍の奈良進顔を見合せた。 「後藤どの」 発が五月五日になったことだけは忘れてはならない。 東軍がこうして五月五日に水野勝成の第一陣から順次奈「なんでござるな真田どの」 : のおりには、直ちにご連絡下さるでござろう 良を発し、亀瀬越え、関屋越えの進路をとって国分に向っ ているという知らせが、天王寺にある幸村の許に届いたのな」 : これはしたり , 戦は敵の出方次第。背 は五月五日の正午近かった。 いよいよ決戦の時が来た。後藤どのと最後の打合せ後にご貴殿がお控え下さる。又兵衛は安心して働くつもり でござる」 をしておきましよ、つ」 : と、なったおりには直ちに進撃 「敵が国分に進出した : ・ 幸村は知らせを受けとると同時に、毛利勝永を呼び寄せ をさし控え、われ等にお知らせ願いたい。幸村もはじめか て、おだやかに言った。 あわ ら兵を協せて戦いたいところながら、若江、八尾の方面 に、敵方河内ロの者どもが近づいてござればそうもなりか 幸村が、毛利勝永を伴って平野の陣中に後藤又兵衛基次ねる」 を訪れた時、基次は幔幕の中で床几にかけたまま髯の手入「ハハ・ れをしていた。 基次はまた大声で笑った。 しようぎ 3

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幸村は、ゆっくりと諸将の方へ向き直った。 くなりましようなあ真田どの」 幸村は頷いた。 「城中の諸将もみなこの茶磨山から天王寺附近に出て貰う て、ここに東軍を誘致する。相手が無うては決戦もなりか 「さて明日の戦場でござるが 幸村が軍扇を膝に立てて言いだした時には、みんなの視ねるからの」 : 、こもっともで′」ざる」 線はまだ大助と幸村の上に半々におかれていた。 「そして、別に一隊を船場におき、正面に相対した総勢の 大助の打ちしおれた姿から、わが身の位置をハッキリと 合戦最中に、ひそかに下寺町を経て、この茶磨山の南の方 見つけ出しておかなければならなかったのだ : に迂回させる」 ( そうか、今度の戦も、いよいよ明日をもって幕を閉する 「なるほど。これはよい ! 」 毛利勝永は、さすがに合槌の打ち方が巧みであった。彼 死所を選ばなければならないのは、大助父子だけではな もすでに幸村の胸中は察しすぎるほどに察しているからで くて、実はこの場に居合わす、すべての人々に課せられた あった。 運命だったのだ : 「改めて申し上ぐるまでもなく、雌雄を決するはこの天王「すると迂回して来た一手は、ここで敵の背後に斬り込 寺附近となりましよう。冬の陣のおりは籠城という手もごむ。このあたりが家康の本陣になろうというお見込みでご ギ、るな」 ざったが、今度びは総濠を埋め尽されてそれも無い・ 「仰せの通り、ここが勝敗の決するところと成りましょ 幸村は、そこで微かに笑った。淡々とした死に対する心 のゆとりを、ハッキリとみなに甦らせようとしての笑いでう。と、申すは、本日引きあげの途中の散見ながら、この あった。 あたり一帯の沼地、深田、池、壕などの近くにはそれそれ 目印の紙片をつけた竹竿がさりげなく立ててござった。家 「仰せの通り、こんどはきれいさつばりでござるて」 康の指図によって、何者かがひそかに地勢を調べまわった と、毛利勝永も笑いに応じた。 ものと見える。用心深い敵ゆえ名残りなく戦いたいもので 「されば、城中の諸当 ~ こよみな出て戦うて貰わねばならな 5