り話にしても隙がない。 で四十七貫目も蓄えられていたのである。これ等貴重品の さて、こうまでして十年間に蓄えた金はどの位のもので概算が当時の値段で凡そ二百万両、現金と合せると、何と あったろうか。 四百万両 : : : つまり、十二万石の大名が、食わずに蓄めこ 駿府での家康の隠居料の禄高は十二万石であった。これんでも六十六年かかるほどのものが手許に残されていたの を家康の自から決めた四公六民の実収に直してみると四万である。 八千石になる。禄高と実収はこれだけひらくのだが、四万 ここにおいて、もう一度前に言した、 八千石を五合ずり、一両一石替として計算すると、一年間 これは汝に渡すけれども、汝のものではないのだか の年収は六千両ということになる。 ら、汝のために使ってはならない」 六千両が十年間だから、自分は献上物などで生活し、一 という秀忠への戒めを思い出すと、一層家康の面目がほ 銭も使わすに蓄えたとして六万両しかたまらないわけであうふっと眼前に浮びあがって来ると思う。 る。 家康の蓄財は、決して無思想のガメッさから来た所有慾 ところが家康の死んだときの遺産表には次のように書かではなく、 れている。 「ーーー・おのれは常に天道を恐るるを以って第一の慎しみと 黄金四六九箱 す。天道は第一に奢侈を憎むなり。金銭財宝をたくわうる 銀四、九五二箱 は、国用のためなれば一枚の衣もあだにはせぬぞ」 他に銀五十五包入一箱 そう言った家康の慎しみの姿がハッキリと見えて来る。 金銀混人のもの一箱 言葉を変えて言えば、秀吉が、国威発揚のためと信じて この概算、百九十万両。そして、更に高価な外国製の遺伏見城を造営したり、醍醐の花見を企てたりしたのと同様 品名がずらりと並んでいる。 、家康は節倹し、蓄財するのをやむにやまれぬおのれの 白糸、麝香、朝鮮人参、沈香、砂糖、葡萄酒から石鹸ま国家的任務と自覚して、粗衣粗食に廿んじながら、「預り 290
あったら、とうに人類は国境を取りはらって、愚かな戦争虫の居どころの悪い時だったら、私は相手を怒鳴りつけ て、さっさと帰って来たかも知れない。ところが、その日 などと絶縁出来ていたであろうから無理もない。 しかし家康は信仰を通じて、この仏教思想によるのでなの私は、 とうけん ( ーーーなるほど正直なことを仰っしやる ) ければほんとうの「平和」はあり得ないと透見し、自分の しみじみと感心して、出来るだけ、その秘訣にふれるよ 周囲をこれで堅めようとしたあとが歴然と残っている。 一切は私個人のためにあるのではなくて預りものでうに話して来た。 しかしムマ日 大抵の人はこれほど正直にものを言わない。 ある」 これが家康の生活信条であることが理解されると、彼のの企業家諸氏が、いちばん恐れているのが何であるかは私 にもよくわかっている ・し、つ 側近は禄高などはあまり問題に出来なかった : のが彼の安い俸禄で人を使う、秘訣になっているのであ競争力のすくない中小企業では、労使双方の善悪やその る。 理由は別にして、熱いストライキをやられてしまったので はそれで全部が終りである。 口先では人造りだの、社風の再建だのと言っていても、 九 問題はこの一点に集約される。それにしても、何うして人 ある中小企業の経営者の集りから、講演を頼まれて出向を安く使うかと言うに至ってはいささか主客転倒と言うべ きで、人間は、納得出来ない場所では、断じて安くコキ使 いたとき、私に向ってこう言った人がある。 したがって、「安 「ーー・・みんながいちばん聞きたがっているのは、家康がどわれて満足などしている動物ではない。 」ということ自体が、騒動の根を育てる大錯誤 うして、あの安い俸給で、ああ巧く人を使っていったか、 その秘訣ですよ。われわれが給料を値切るとすぐストライである事を忘れてはなるまい。 キになりますからな」 これは家康の場合といえども決して例外ではあり得な 285
秀吉の菩提を葬いながら終りをまっとうしたただ一人の人 したがって、秀頼が十六歳になったら天下を渡して呉れ である。 などというのは秀吉の頭が老いと病気に乱れたあとの愚痴 この人だけは家康からも、そして徳川家の重臣たちから にすぎない。三成はその愚痴に忠実であろうとして、歴史 も決して軽蔑されたり、粗末にされたりしていない。そのの流れにさからって自滅し、北政所は冷静に秀吉本来の志 理由を、淀君への嫉妬から家康に味方していたからだと言 ・ : 天下の泰平を完うさせようとして生涯その菩提をとむ う人があるが、そんなケチなものではない。秀吉の生前らい得たという答えになる。 、諸侯の前で平然と政治にロ出し、夫婦喧嘩を遠慮なく 北政所がただの才女や虚栄心だけの女だったら、秀吉の してみせる北政所である。或いは女性として幾分嫉妬の感死後どうしてあっさりと大坂城の二の丸を、家康の宿所に 情もあったであろうが、秀吉の死後までそんなことにこだ明け渡して、京都の三本木へ移ったりするものか。 わっていたとは思われなし不 、。ムは、この人だけは石田三成若しこれが、淀君への嫉視や張合いからであったら、正 などより遙かに冷静に良人の志が何であったかを見きわめ式には秀頼は北政所の養子という名義になっているのだか 2 て誤らなかった人であったと思っている。いや、大抵の人ら、いよいよ城内に頑張って、淀君とその勢力を争ったに が知っていながら、小さな妄執に負けて愚劣な誤りをおか違いない。 すものだが、この人だけはそうではなかった。良人の豊太 ところがこの女豪傑には、そんな先行きの見えない、歴 閤の志は、海のものとも山のものとも思えない、幼少な秀史の流れにさからうような愚かなことは、亡父の名誉のた 頼に天下を取らせようと偏執するところなどにはない。信めにも羞しくて出来なかったのだ。そこでさっさと京都へ 長以来、天下の泰平を希い、戦国に終止符を打たせること出ていって、自分から時の推移に処する手本を示しなが にあった。それなればこそ秀吉も、自分の方針に従わない ら、子飼いの大名たちに去就を誤らないよう忠告をつづけ 信長の子の信孝を自害させたり、柴田勝家を亡ばしたり、 ていったと見るべきである。 織田一族を臣従させたりして来ている。 そうなれば家康も、女だからと言って袂して侮ったり軽 はずか
事実にぶつかり、実力か 日本耶蘇教年報の千六百四年の分の中に次のように認め う、人力では如何とも成しがたい ら言っても人物識見から言っても当然のこととして三代目られている。 社長に就任し、はじめて前二者の理想や悲願もふくめた泰「ーー現時の日本はその総国の君たる公方に頼りて太平を 楽しめり。公方国を治むるに遠慮と秩序をもってし、各 ~ 平を軌道にのせて革命を成就させていったのだ。 短気な生れつきの家康が、一見ひどく気の長い人間のよ至極自由にその業に従う ( 中略 ) 異教の君として又すこぶ る自由の国として、少なからぬ嘆賞の値あり」 うになれたのも私はやはりこの信仰のせいだと田いってい 千六百四年は慶長九年で、家康が公方 ( 将軍 ) になった る。信仰を持つ人はどこか ' 翌年の報告である。 「ーー・・天を恐れる・ : ・ : 」 と言う慎しみがあり、ひどい残虐やひどい無理はしない ものだ、と言って、殺人や放火が日常茶飯事になっている 乱世の無秩序さをそのまま放置しておいたのではない。 日本にやって来ている宣教師が、日本を「自由の国」と 前にも述べたように彼は征夷大将軍になると同時に、百 して嘆賞に値すると報告することはそう簡単になし得るこ 姓の斬捨を厳禁し、士・農・エ・商の階級制をしいて、と とではない。 にかく万民の安心して生きられる世の扉を開いたのだ。 信仰を持った革命家 : : : 人を殺傷する代りに、安居楽業それが「ーー・すこぶる自山の国として、少なからぬ嘆賞 に値する」のでは布教の価値が半減する。少くとも彼等の の新秩序をひらいた立派な一個の革命家であったのだ。 彼の治世が日本人ではなく、当時日本にあったキリスト第一の任務は、蕃地の民の解放救済にあった筈だからであ 教の宣教師たちの眼にどう映ったかを記してゆけば、いかる しかもそれは関ヶ原の戦から数えて四年目とは言え、家 に家康ぎらいの人でも、彼の功績たけは認めなければなら 康が正式に「公方ーー」になった翌年の報告なのだから、 なくなろう。 281
士である重役の下に、農という局長をおき、工という部長 は一一 = ロ、つまでもない。 その意味では「士・農・エ・商ーーー」の階級を順序としをおいたと考えてもそう大した間違いはないと思う。 わざ て示したのには、何も彼も新しい目をもって、斬り取り支ただ工にたずさわる人々は、それそれが、その技に依っ 配の常識から、健全経営に移らなければならない諸大名へて慰められ、みずから楽しみ得る境地の余裕を持ってい る。それが武士は喰わねどの痩せ我慢や、天を相手の農耕 の教えも大きく含まれていると私は思う。 よりも、職人と呼ばれるエ人が下位に置かれ、置かれても 武将大名の家で、健全な家法を立てて行こうとすれば、 士である家臣の人物がいちばん大切なのは、言うまでもな不公平な待遇ではないと考えられた理由のようである。 い。が、次に大切なのは農民である。農民が経済面の中心 四 で、彼等がしつかりして呉れなければ藩は存立しないから そこで、立派な士をもち、安堵して耕作に従う農民があ秀吉は天才的カンによって工芸の発達を飛躍させ、所謂 る : : : となったらこんどはエに力を及ばせ。商はその次で桃山文化の隆盛期をつくり出した。その裏には言うまでも よい。商人は利を追って集るもので、世が治まれば捨ててなく農民の生産と生活とが安定度をたかめ、庶民の食生活 おいてもひとりでに発展してゆく性質を持っている。 が軌道にのりだしたと言う事実があったからだが、それに しかし工は必すしも抛っておいてよいというのではな しても、それぞれ工芸家の頭にまで「天下第一ーー」とい い。これは農民が安堵して働くようになったら、商以上にう秀吉好みの呼称を許して技を竸わせた手腕のほどは天晴 その発達には力を注ぐべきものである : れであった。 すえもの そうした施政の順序、家法存立のための、事の緩急軽重陶物の天下第一、絵画の天下第一、彫刻の天下第一、塗 を指導してやろうという意味が多分にあった。 師の天下第一、鋳物の天下第一 : : : 何でも彼でも頭に天下 つまり必要度に応じてつけた階級制で、その意味では、第一を許してゆく。今のように文部省の指揮下に委員会な 201
ないが、ただの判官屓位では納得しないものが逞ましくあり、先生はその声に応えて書かれたのではなかろうか。 育らて来ているらしい。 それにしても先生の所論や功績の認め方は、それから七 家康の生涯とその功業は、大坂落城のおりの事を除け十余年後の今日、私の言わんとしていることと符節を合し ば、大抵の識者には肯定されていると私は書いた。ところているというのは、後学である私にとって何という大きな がその識者の中でも、「ーーー天は人の上に人を作らず、人喜びであったろう : 家康の施策は、その理性において、決して当時のヨ ] ロ の下に人を作らず」の言葉で、明治の大智識人と仰がれて いる慶応義塾の創立者、福沢論吉先生に、徳川家康論があッパの立憲国に劣るものではなかったのだ。それほど深い : と、これは私が一一「ロ その中で先生は家康を絶讃していることがわかった。 用意と理智が、秘められていたのだ : 実は私もいままでそれを知らなかったのだが、六月三日 うのではなくて、福沢先生がおっしやっているのたから面 付の産経新聞、板倉卓造氏の月曜論壇にそのことが載って白い いる。それを C 誌の記者が、早速私に送って呉れた。私 公はただに日本 はびつくりした。福沢先生は家康を「 国の一人にあらず、世界古今絶倫無比の英雄として、共に 功名を争うものなかるべし」と言っている。これは明治二 福沢諭吉先生が、家康の功業を「世界古今絶倫無比の英 十三年の十二月、時事新報紙上に数日にわたって連載され雄」と絶讃して呉れていることを確認したのだから私はも はや、家康の功業について繰返すことは止めにする。 た長篇の社説であったという。 ただ彼が秀吉の功業をそのまま頂戴した狸だったなどと 明治二十三年と言えば憲法が発布されて、わが国にはじ いう俗説はなるべく早く消滅して欲しいものだ。このこと めて議会が開設された年である。或いはこの頃に、憲法政 治など布いてみても、後進国である日本人に県してその運は自主性の不足な日本人の雷同性を意味する以外のなにも 、このでもなく、現にそうした残影はそのまま日本を濶歩して 用の能力があるかどうかというような声が世界のどこカ ~ びいき 2
して、誰もふしぎに思わない。 却って非科学的になりかねない、妙な一面がありすぎはし たとえば例の安保反対騒動である。あの時の反対の理由ないであろうか。 は、安保改定は戦争につながり、日本はすぐにも戦争にま ある殺人容疑者が証拠不充分のために無罪になる。物的 き込まれるというのが、その反対の理由であった。そして証拠を求めるという科学的な態度はうなすけるが、そのた 若い女学生が踏みつぶされるほどの大騒ぎを演じたのだめ、殺されている被害事実までが、 が、その後一向に戦争などは起らない。これほど見事な認 科学捜査の拙劣さだよ」そんな言葉で簡単に忘れ去 識不足はないのだが、当時カンカンになって騒いだ人たちられてい 0 たとしたら何という非科学的なことであろう。 の中で、一人でも「あれは私の見通しが誤っていました」 ところが現実にはそうした場合はザラにある。証拠だけ 率直にそう言って不明を詫びた者があったであろうか。 に裁く力を持たせすぎて、真実を剔り出そうとする努力の 煽動すれば安易に動く国民と見くびられたのでは、これか方を忘れてしまっている。 らの日本の損失は、はかり知れないものがあろう。この辺 歴史と人間の関係にも、しばしばそうした場合がある。 でもう少し家康の経験主義を尊重し、これを見習う必要がそれで小説と手を切れないのだ : : というと、小説はいか ないであろうか。 にも非科学的な個性の所産になりそうだが、目の前の証拠 いったい歴史という学問は、生きている人間の実体把握の有無よりも、納得出来るか出来ないかに支点をおいて真 の面においてもはや間隙なく実体に接近し、密着し得てい実を追究してみたいという人間の本能なのであろう。 るのであろ、フか その意味で歴史にもしばしば異説なるものが顔を出す。 私にはそう信じられない。また学問は学間であって人間これは多く、歴史というより小説になっている場合が多い は人間のような気がする。それなればこそ私は歴史よりものだが、とにかく日本にも「異説日本史」という二十巻に 文学にひかれるのだと言えばそれまでながら、われわれの近い書物が堂々と出版されているのたからおもしろい 歴史に対する態度には、科学的であろうとすればするほど現に私も、こうした異説をとりあげて「生きていた光 330
底を歩きながら、そのことだけを考え続けた。 ( それは、剣と剣とで相対して、全く恐怖感のない人間が ~ いよ、フに・ それだけに、畳の上で死ねる人間は、戦場で逆上したま ま死ぬ者よりも、ずっと不幸なのだとも言える。 家康の死は後者ではなかったろうか ? 駿府へ隠居 : : : と言うと聞えはよいが、事実は家康が独 裁者で、将軍秀忠はその影にすぎなかった。 泰平の世の仕上げも、賞罰も、貿易も、教学も、人事 父の石舟斎は、はじめて新陰流の始祖、上泉伊勢守に出 も、みな家康の思いのままであった。 会ったおりのことを、よく宗矩に語って聞かせたものだ。 その家康が、人間としてはいちばん恵まれた、しかもい 「ー・ーわしはわが師に会うまで背が低くての、二階の見え ちばん破綻を見せ易い畳の上の往生という皮肉な刑罰 ( ? ) ぬ人間だった。二階の見えぬ人間は、二階のあることさえ を科されたのだ。 知らぬ。ましてその上に住まう人のあることなどわかろう 如何に家康が自己鍛練の出来た人間でも、どこかできっ筈もない。わしは、まず最初の一本、軽くあしらわれて、 とポロを出そう。それを見きわめて、おのれを磨く砥石に まだそれに気付かなんだ。そこで威丈高になって、もう一 するぞ : : : そんな人のわるい期待が、宗矩にはあるようだ本 ! と、いったものじゃ」 つ ) 0 そういっては石舟斎は、ほんとうに額の汗を羞かしそう それが、ことごとく裏切られた : に拭くのであった。 ほんとうに意識の無くなるまで、家康は、破綻らしい破「 , ー、・それで二本目は ? 」 綻をついぞ見せずに死んでいった。 「ー、 , 、・何の、苦もなく又叩き伏せられたわ。その時にはゾ そうなると、宗矩と家康の、人間の価値のひらきは大き ソと肌が粟立ったぞ。つまり、二度負かされて、わしは はじめて二階をのそいた。この世には、格段の世界に住ま 宗矩はまだ、家康のような練達した人間が存在していて めくら も、それの見えない盲目であったことになる。 ( ーーーわしは果たしてその程度の人間なのだろうか : それが、夜明けまで、宗矩の歩みを止めさせない原因 : のようであった。 148
かわからぬ状態に陥った。 そして更に続けて、絶望の知らせを書かなければならな くなった。 根が勝気な女性だけに、局は、自分からは忠輝のことは 、 ' とこまでも冷静な家康が、わが 「ーーー相国さま御煩い、追々御くたびれ成され候。この十口にすまいと思ってした。。 一日よりは一切御食事もこれ無く、御湯など少しく参り候子のことを忘れている筈はない。あの人並みすぐれた我慢 強さで、じっといい出す機会を待っているのに違いない 体に候。もはや今明日の体に候。何ともにがにがしき儀、 申すばかり無く候 : : : 」 事実、深谷に謹慎している忠輝からは田中で倒れて以 そうなると枕頭にあって、殆んど不眠不休の看護を続け て来ていた茶阿の局は、もうじっとしていられなくなって来、三日にあげす病状を問うて来ている。局はその都度、 ご勘気の身なれば、軽挙はきびしくつつしむようにといっ 多くの側室の中で、この頃家康のほんとうのみとりをしてやった。 万一のおりには母が知らせる。その前に、無断で出て来 ているものは彼女一人 : : : 家康は、時々大きく眼を開い るようなことがあると、却って父の思案をみたることにな て、じっと彼女を見詰めることがよくあった。 る : 「ーーー疲れたであろう。しばらく休むがよい」 : と、局は見ていた。土井利勝はじめ、秀忠の そのたび彼女の胸に錐を立てて来るのは、わが子忠輝の敵は多い・ ことであった。 側近は、いまだに忠輝が、将軍家の律義な性格に反撥し、 ( 自分だけが、ほんとうの家康の妻であったのかも知れなみずから大坂城に人って天下の指図を狙っているかのよう に思いこんでいる。 家康も当然それをよく知っているので、じっといい出す 最後のみとりをしながら、彼女は、何時か家康がいいだ すであろう忠輝のことを、つねに切なく、歯痒く待ってい機会をうかがっているのに違いないと : ところが、その家康が、何もいい出さぬまま明日をも知 れぬ危篤の身になった。 ( 忘れておわすわけはない しオしこのまま捨ておいてよいのであろうか : ところが、その家康が、十二日には、何時息を引き取る ( 、つこ、、 125
る、数限りない人々のために、大切に扱わねばならぬ : 「第一には、わが家は征夷大将軍なれば、いったん事のあ という慎しみのことじゃ。早合点して、今生きている者どるおりの軍用の資に : : : 」 もが、みんなで分け奪りしてみても意味ないのじゃ」 「そして、第二には、饑饉に備えるのでござりましたな 「よ、ツ し」 あ」 「みな、こうしてこの世からは、裸でかくれて行くから 「そうじゃ。何年に一度かは、お陽さまがかげつての、土 地が冷えて、稔らぬ年があるものよ。そのおり路傍に、一 「決して ! 決して、そのような誤りはおかしませぬ。子人の餓死者も出してはならぬ。そうしたおりのために、つ 孫のために大切に」 ねに用意を怠るまいそ」 「キ、ツ 「そうか。わかってくれればそれでよい。改めてもう言う し」 「第三、第四は申さいでもわかるであろう。われも他人も いえ、何なりと : : もう一言 : : : 秀忠は、お父上のおみな、同じ神仏の子、お陽さまのまな児なのだ : : : その理 言葉を、一言でも多く : ・ : ・ はいツ、一語でも多く聞きとうを悟れば、戦はおろかな天への謀叛とわかる筈 : : : 人々は ごギ、りまする」 の、殺し合うためにあるのではなくて、仲よう助けあい、 「ならば言おう。つねづねのことを。わしはつねに節倹をはげましあって栄えるためにあるものじゃ。他人を贈い 第一の徳として生きて来た。これは金銀財宝みなわがもの : と、思う心が湧いたおりには、魔がさしたそと深く恥 ではない。大切なみんなの預りものであればのことじゃ」 じよ。さすれば必ず天の恩寵は : 「十、ツ そこまで聞いた時であった。 「その預りものを、今度びも悉皆こなたに渡してゆくぞ」 「もし、上様のお脈が : : 上様の : : : 」 「ありがたいことに ~ 仔じまする」 茶阿の局に、はげしく膝をゆすられて、秀忠はハッとわ 「しかしながら、これは、こなたに渡すがこなたの物ではれに返った。 ない。ゆえに、 こなたのために使うてはならないのだ」 父の枕辺に坐ったままで、ウトウトとまどろんでいたら 「その儀ならば : : : 固く、胸に刻んでござりまする」 139