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検索対象: 徳川家康 18
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1. 徳川家康 18

この少年のような微笑ましい純情さが、家康の信仰を支 と、言ってすべてこれを迷信と一笑し去れず、現代で も、大土木工事の始工式などには、言い合わせたようにおえ、人生を貫いている。その事を証明する例はまだ幾らも はらいをしたり、のりとを挙げたりする。言わば半信半疑ある。 の形の習慣を未だに残しているほどなのだから、戦国人の彼が、その第二子、結城秀康が亡くな 0 たおり越前家で 社会に祈願所、祈所の持つ意味は決して小さいものではは遺言によ 0 て禅寺に葬 0 たのを、浄土宗の寺院に改葬さ よ、つこ 0 せたり、家臣の誰彼に信仰をすすめたり、そして例の六万 つまり祈り方の技法によって、人間の願望が天地自然に遍の日課念仏を残していることなど : いや、それよりも天下を統一してから、各宗各派の高僧 感化されたり、届かなかったりすると信ぜられていたので こうえん たちを招いて、熱心にその教義をきき、講筵の席には近臣 ある。そしてその祈の技法は、密教の中にさまざまな修 も近づけず、その日は政務のための引見を断って勉強する 法をのこしている。 家康の私的信仰がそうした密教的な色彩を離れて、祈願というような、さながら学生そのままの熱心さは功成り名 所としては浅草寺を選びながら、菩提寺としては浄土宗の遂げた権力者として稀有の敬皮さであ。たと言 0 てよい。 増上寺を選んでいるのは彼の信仰が、いちじるしく現代人それなればこそ、彼の仏教に対する理解は深まり、彼が 死に直面して、諸侯に遺言されたという文章も、その生き に接近していることを物語っている。 しかもその信仰は、秀吉の場合のように決していい加減方から言って逆に信じられるものになっている。 「ー・ーーわが命旦タにせまると雖も、将軍かくておわせば天 なものではない。 慶長五年の関ヶ原の合戦のおりには彼は五十九歳であっ下のこと心易し。されど若し将軍の政道その理にかなわ 十九歳で迎えた大樹寺陣のおりと同じように、「厭ず、億兆の民艱難することもあらんには、誰にてもその任 りえど ごんぐじようど 離穢土、欣求浄土」の旗を立てて戦場に出ていることに注に代らるべし。天下は一人の天下にあらず、天下は天下の 天下なり。たとえ他人天下の政務を取りたりとも、四海安 目している人は少い おん 275

2. 徳川家康 18

にもなっていたことが想像される。 らば、それによってびたりと治安を維持して見せるのでな 秀吉がこうして刀狩りをはじめ、先ず武器を取上げておければ国民は人造りの方向へ安心して歩み出せない : いてから、日本中の検地にとりかかったのは三年後の天正と、これは又脱線したようだが、家康は、その国造りの形 十九年七月である。 体は幕府政治、中心思想は儒教と決めていった。 この頃から家康は、秀吉のかたわらにあって今で言う国そして「士・農・エ・商ー、ー・」の新秩序をきびしく実行 造りを考えだしていたと思う。彼がはじめて朱子学の藤原させることに依って、前二代の社長の遺業、統一と泰平の 二目標を完成させようと考えた。 惺窩を招いて会ったのがそれから三年目の文禄三年で、会 うまでには充分関心をもって彼の学問や人物について調べ 前にも度々述べたように、 この新秩序を実行させるため させていたに違いない。 には、猛獸どもが、どこでどんな暴れ方をしだしても先ず つまり秀吉が朝鮮の戦争に熱中している最中に、家康は鎮圧するだけの実力が必要であったことは言うまでもな その相談レ こ預りながらいったいどんな国を造るべきかに い。と言って、その当時いきなり四民平等などと言う意見 を出してみても、通用もしないであろうし、実はその悪平 じっと想いを凝らしていた。 現在池田首相の政治テーマにも国造り、人造りというの等が、下剋上の乱世を百十数年にわたって継続させた一つ が出て来ている。現在いきなり人造りと言われても、いまの大きな原因でもあったのだ。 日本には国造りの方向で全く違った意見の政党が対立して そこで先ず「士ーー」を第一において、士たるものの心 いるのだから、人々が面喰うのも無理はない。立派な自由得をハッキリさせた。士は実際には武力を持った領主と、 主義者を造ろうというのと、立派な共産主義者、社会主義その家臣たちである。明け暮れ戦争の続いている時には、 者を造ろうと言うのとでは、生活態度にも道徳にも百八十彼等は血刀をひっさげて戦場を馳駆する勇士であったが、 度の違いがある。したがって現在は人造りというよりも国泰平の世にそうした勇士は不必要なのだ。したがって彼等 造りの段階で、若し、自民党を信奉するのが自由民主主義な に、行政官としての誇りを「文武の奨励ーーこという形で 192

3. 徳川家康 18

ついに再び見直される日がやって来た。 てその絵に、後に至って勝海舟が添え書きをしている。そ 人類が第二次大戦を経て、原水爆という思いがけない凶の添書もまたきちんと一幅に表装されて付いている。 器の下でその対立に戦慄しなければならなくなったからで幕末の偉人の中でもずばぬけた視野をもっていた勝海舟 ある。 は、家康の偉大さについてこうした意味のことを言ってい それまでも社殿の結構につられて西洋人の訪れる者、ある。 とを絶たない日光ではあったが、今ではここから平和の日 「ーー・家康の偉さの裏には、本多正信などの功臣の働きが の光が改めて世界に向けて射しかけようとしているかに思あったというがとんだ事だ。家康の偉大さに比べると正信 える。 の悧巧さなどは太陽と星ほどのひらきで、取るに足らぬ。 私がこれを書いている時に友人の政治家氏の許から不家康があまり偉かったので、小悧巧な正信などまでが、い 思議な贈物が届けられた。それは珍しい家康の絵画に和歌かにも大きく光って見えたのだ」と。 この海舟がまた次のようなことも言っている。 をそえた遺墨で、その一幅には何と花を開いた梅の花の古 木の枝に、一羽の鳩がとまっている。鶯ではない、はっき 「ーー家康の構想した封建時代の仕上げをしたのは三代さ りと鳩なのである : まだが、この三代さまの世作りのほんとうの功臣は、土井 利勝でもなければ沢庵禅師でもなく、実は柳生宗矩だった のではないか。 しかし宗矩は、どこまでも自分は陰にかく 十八年回顧 れている。将軍を立てたり沢庵禅師を立てたり : : : つまり ほんとうにみんなを生かして使ったあの時代の大人物は実 は柳生宗矩なのではなかったか」と。 その勝海舟が、この一見ふしぎな「梅鵡図」なるもの に、神祖は余暇を見てはよく書画を書いた。この構図、ま たまことに神祖ならではの雄渾な思いを秘めたもので、言 うまでもなくこれは珍重すべき真黷であるが、見れば見る 私はまだ寡聞にして、梅に鵡という絵を目にしたことは なかったし、耳にしたこともない。 ところが家康はそうした下思議な絵を描いている。そし 173

4. 徳川家康 18

すっかり悄れていた茶屋は京都へ帰してやったし、忠輝統ぶるがゆえに、憂うること更になし。然れども、天下は 一人の天下にあらず、天下は天下の天下なり。若し将軍の にも警護はつけた。 1 一口ーレ・ 楙原清久の殉死はおさえたし、久能山へご遷座の用意も政道理にかなわず、億兆の民艱難することもあらば、唯こ ても取って代わらるべし。四海安穏にして、万民、その仁 すでに手落ちはない。 京都のことは、板倉勝重と松平忠実がしつかりと固めて恩に浴すれば即ち可、われにおいていささかも怨みに思う ところなし」 あるし、江戸の留守居には酒井忠世が当たっている。 秀忠は仰天して、あたりを見た。家康はパッチリと眼を 心にかけられた駿河文庫の整理と群書治要の板行には、 京から来た役者たちを督励しながら、林道春が夜に日を継開いて、視線を、ひたと秀忠に据えている : 「ー、・・・将軍家よ」 いで努めている。 「よよッ ( 他にお、いにかかることといえば : それはやはり石川、大久保などの旧臣のことかも知れな秀忠はわれを忘れてひれ伏した。 。しかしそれももはや処理しおわった。美濃大垣の城主 石川忠総に家成の家督を継がせ、忠総に随従してあった大 久保忠為には、大垣にあって新田を開墾させ、やがて家名「将軍家よ」と、又家康は言った。 「忘れまいぞ。われ等の遺す言葉を」 の立っ道を開いてやった。 「よッ ( したが、まだお父上は、何そ気がかりと見えて : : : ) 「この世のものはの、誰のものでもない。誰のものでも無 ふと、又家康の寝顔を見やり、秀忠はハッとして居すま いとは、みんなのためにある : : : と、い、つことじゃ」 いを正した。 「それは、もう、肝に刻んで : : : 」 あたりには深淵のような静けさがひろがって、燭台の灯 の燃える音さえ氷っているのに、ハッキリと家康の声が耳「みんなのため : : : これがいちばん大切な急所なのじゃ。 、ま生きてある人々だけの みんなのためと言う意はのう、し 朶を打って来たのである。 これから無限に生まれて来 「 1 ーわれ天寿まさに終わらんとすれども、将軍、天下をもの : : : ということではない。 しお 四 138

5. 徳川家康 18

り」お身分意見をききなら、足りぬところは固め直す 「これで沁戸の護りは充分、なきなく駿府へ戻って正月 ・ : そのつもりであったが、片倉の病気で俄かに帰国は残 秀忠は相変わらず謹厳な表情で控えていたが、土井利勝念至極 : : : 聞けば片倉は亡くなったそうな。おカ落としで あろうと : は、宗矩をかえりみてホッと小さく嘆息した。 宗矩はびつくりして家康を見直した。 「まだ大炊は心配しているらしい。何しろ、江戸の噂が大 政宗の不意の帰国を、家康は、片倉景綱の病気見舞いと きすぎるのでな」 しかし、そうしたことをそのま 取り繕ってやったらしい。 「江戸の噂 : ・・ : と、仰せられますると ? 」 「伊達がことよ。しかし、伊達はもうあきらめたわ。支倉ま素直に受け取る政宗であろうか。政宗は、おそらく、 「ーーーあの狸めが、又小細工を」 から未だに便りはなく、片倉景綱は死んでしもうた。そこ 頬をゆがめて嘲笑うに違いない : : : そう思ったときに家 で今度は、わしの方から助け船を出してやる。又右衛門 康は、また信じられないようなことを口にした。 それでよいであろうな」 「上総介が御台のことも詫びてやったわ。あれが愚か者ゅ 宗矩は小首を傾げて家康の次の言葉を待った。 オカその 伊達政宗が、叛意を翻した : : : 家康はそういっているらえ、姫にまで思わぬ嘆きをかけて済まなんだ。・ ' ー、 しかし、それは、そう簡単に宗矩に信じられること代り、両家後々の誼みのため、伊達の世子忠宗に、将軍の ではなかった。 娘一人を進ぜよう。天下のためじゃ。まげてご承引あるよ 、フにとの、フ」 ( いったん矛はおさめても、あの気性は : : : ) 家康は淡々といって、それから土井利勝をふり返った。 家康は、そうした宗矩の危風には気付かぬもののように 「大炊は反対での、だが、これで戦が一つ買えれば安いも 言葉を続けた。 「わしはの、伊達にくやみの便りを出してやったぞ。今度のよ。そうであろうが」 の放鷹は、お許と二人でやりたかったと申してな」 四 「伊達どのとお二人で : : : ? 」 「、、フじゃ。、 宗矩はそっと上眼で利勝を見やった。たしかに土井利勝 しうまでもなく、これは江戸の固めの見廻 8

6. 徳川家康 18

「そうか。宗矩は、何も彼も知っては居るが、予に報告致「さあ、それは : 「いったんは済もうが、あとで再び乱になる : : : というの す所存はない : : と申すのだな ? 」 「御意のとおりにござりまする」 では腫物の根は断てぬ。その辺の、お父上のご思案は何と あったやら ? 又、何と仰せられずとも、何うお考え : 宗矩は又さらりと答えた。 あうん 「これはどこまでも上様と大御所さまの間で、阿広の呼吸と、そこ許は見て参ったか、わが身の師として、そこ許の の合致せねばならぬところ : : : その間にわれ等ごときが介思案、予に教示してはくれまいか」 入して、機微をみだすは以てのほか。されば、大御所さま こんどは宗矩が少なからす狼狽した。怒りはしても、こ いんぎん が、こう申し上げよ、と、仰せられた事のほかは、上様かれほど慇懃に間い返されようとは思ってもみなかった。 「もったいない : らかくべつお訊ねのない限り、決して申し上げは致しませ といおうとして、しかしあわてて宗矩はそれをこらえ 秀忠は渋い表情で、また軽く舌打ちした。 た。下に諍臣なくば上の慢心はおさえがたい。われこそは 「理屈じゃのう」 ほんとうの諫諍の臣であろうとして、宗矩はいまだに仕官 「そうお気付き下されば、又右衛門も立っ瀬がござりますも加封も一切拒んで側近に仕えているのだ。 「そうお訊ね下されば申し上げます」 「又右衛門、大御所ご在府中のご滞在は二の丸と致そう。 わざと尊大に構え直した。 したが、お父上ももはやご老齢、それにまた大坂のおりの「実は大御所さまは、われ等に意地のわるいご質間を遊ば ご疲労も残っておわそう。したがって、子としてなるべくされました」 早く事をおさめて駿府へお戻り願いたい」 「ほう、どのような質間をなされたぞ」 「それがご孝心かと心得まする」 「これは空想のついでじゃが : : : そう仰せられて、この世 「そこでそこ許に訊ねるのじゃが、伊達を江戸へ呼び出にまだ一匹、藪から出て、新しい世の秩序の檻に人ろうと し、二心のないことを誓わせる : : : それで事は済むと思う しない人喰い虎が残っている : : : 」 がと、つじゃ ? 」 「人喰い虎がのう : : : 」 5

7. 徳川家康 18

家康」の推薦文も書いて頂いている。そこで私は文春と新 聞の双方を見て、 「その手は喰わぬぞ」と先ず言った。雑誌の方には「いや な男、徳川家康」という題名の一文が載って居り、広告の 方にはそれにまさる歌い文句が付されている。そこで相手 は、私がカーツと来ると見たのだろうが、そうそうマスコ ミばかり喜ばせてやってよいものではない。そこで私は早 速前号の本誌を取出して、末尾の数行を指で示した。読者 諸氏も覚えていて呉れるだろう、そこにはちゃんとこう書 いている。 「ーー・・・国家安康などという鐘銘問題をきっかけにして、次 次に事を構えたやり方は、あれは大政治家のやり方などと 一一一口うより、むしろ市井の無頼漢のいんねんのつけ方に似て 今日私がこの稿を書き継ごうとしているところへ、或るいる。つまり、あの事実を従来の史家や世俗の解釈と同じ 人が、ニャニヤしながら文芸春秋の七月号とその新聞広告受取方をしてゆくと、私の家康観は、実は、はじめから崩 れていって存在しなくなりそうだった : の双方を持参して現われた。 と、つで 相手は眼を白黒した。尾崎さんの家康嫌いの文章もこの 「ーー・・先生は尾崎四郎先生と仲がよいのでしよう。。 一点に発している。いや、それより何より、こうした家康 す、ひとっこの文章の反論を書きませんか」 尾崎先輩とは仲がよいなどという間柄ではない。尊敬もが大嫌いな尾崎さんゆえ、私は尾崎さんを尊敬し、接近し て、そこから何ものかを学び取ろうとしているのだと私は しているし、廿えさせて貰ってもいるし、第一私の「徳川 運命の五月八日 315

8. 徳川家康 18

この矛盾は、実は私の家康に対して抱いた最初の疑問での母をどうしてああもきびしく追い詰めていったのであろ あり、従来の歴史学者の、家康のために惜しむところでも あったのだ。 「国家安康ーー」などという大仏殿の鐘銘問題をきっかけ 或る者は、ここに至って家康が本来の残忍性を残りなく にして、次々に事を構えたやり方は、あれは大政治家のや 露呈したものだと言い、又或る者は、これこそ彼も老衰り方などと言うよりも、むしろ市井の無頼漢のいんねんの し、欲ポケした証拠であると決めつけている。 付け方に似ている。 或る者は惜しみ、ある者は責め、更に又ある者は、 つまり、あの事実を、従来の史家や世俗の解釈と同じ受 これが戦国時代の人間像なのだ」 取方をしてゆくと、私の家康観は、実は、はじめから崩れ とさえ、割切っている。 ていって存在しなくなりそうだった。 私はしかし、そう簡単には決められなかった。私の調 ところがやはりそうではなかった。私は、まだ前人の気 べ、私の納得して来た限りの家康は、そんなに残忍性を持付かなかった一点を、多くの資料の中から探りあてて、そ った人間ではなく、さりとてそれほど老耄していたとも思れで家康を書きはじめることにしたのである。 えない むろん欲ポケするほど小さな計算に終始した未熟な人間 ではなく、戦国人の群像の中に没し去るほど個性のない単 純な人物でもなかった。 それどころか、天下は盗るべきものと考えていた戦国人 の中から出で来って、全く異った厳格な「新秩序ーー」を 打立てていった大政治家なのだ。 その政治家が、実際にはすでに無力化している秀頼とそ ろうも - フ 314

9. 徳川家康 18

家 康 登り口には竹矢来が結われ、番所と番所の間は駿府小十 人組の番士たちで固めていた。その間を宗矩は、陣笠姿 で、終夜行きっ戻りつしていたのだ。 別段、彼が警固に立たなければならないほどの警戒すべ き聞き込みがあったわけでもなく、密命によるものでもな つつ ) 0 , 刀子 / ただ「家康の死」ーー・という出来ごとが、彼自身の内部 へふしぎな昻ぶりを反応させて、じっとして眠ることを許 さなかったのかも知れない。 事実、家康の死は、柳生宗矩にとって一つの大きなおど ろきであった。 彼は戦場の死をさして難いものとは思わなかった。気負 い立って闘志をこらした一匹の野獣が、その闘志をむき出 したまま死んでゆくのだ。しかし畳のうえの往生はそう容 易なものとは思えなかった。 一点の未熟さがあっても、それは七花八裂の迷いの姿を 描き出す。愚痴は愚痴を呼び、未練は未練を呼んで果てし 家康の遺骸が久能山に葬られてゆく夜、柳生宗矩は、久もない醜態を暴露させずにおかないものだ。 しぶりに亡父石舟斎の夢を見た。 しかもその老醜しか知らぬものには、それ以上の「死ー その夜の彼は、久能山下の登り口を警固していた。 将軍ー」の存在は信じられなくなって来る。 秀忠は山頂にある。万一のことのないよう、彼自身すすん ( 死のおそろしくない人間はある筈がない : で不寝番を買って出たのだ。 宗矩は、その夜も歩かずにいられないもののように夜の 余話のはじめをあえて小説風に書かせてもらおう。 也に継」、つもの かた 147

10. 徳川家康 18

「はい。合戦などと意味のない兇器を弄ぶ迄もなく、命令 「その時、そなたは、竹千代どのに、この虎一匹、どう扱一つで片付けられる。そうなってこそ、牙も爪も無意味で えよと教えてやるそ。それを考えてみてくれぬか」 あったと気が付きましよう」 「わかった。詰らぬことを訊ねたものじゃ。これは内々に 「これは、ご難題 ! 」 言いながら宗矩は、しかし、楽しそうであった。鹿爪らのう又右衛門」 しく首を傾げて考えて、 「仰せまでもござりませぬ」 「では退って、そちも休息せよ。わしも又どうすることが 「その時には」と、身を乗り出した。 「老いたる虎を、諸侯ともども御前へ召し出し、新しい将将軍家への、よい助太刀になるかを、じっくりと考えよう のら 「呉々も、太刀は抜かず、血は流さずに」 軍家にこう宣せまする」 「流したのではわしの負け : : : そう言いたいのであろう又 「どう言わせるそ ? 」 「諸侯のうちには、わが祖父や父と共に、戦国の世を戦い右衛門は」 「恐れ人ってござりまする」 通して来た者もあろう。それらの者は祖父や父にとっては 「ようわかった。来る春の上洛、それから竹千代どののこ 朋友じゃ」 「朋友、のう」 と、頼んだぞ」 「それゆえ、友誼からの遠慮もあったであろうが、予はそ そう言うと、家康は帯していた短刀一ふり、つと宗矩の 前へ差し出した。 うではない。予は生まれながらの将軍なるを忘れまいぞ」 「取っておけ。備前兼光じゃ」 「ほ、つ」 「十十 6 ッ 「予の命に従わぬ者あらば、用捨なく、不都合な家臣とし て取り潰す。さよう、い得おくように」 家康は思わず奇声を発して唸っていった。 「そうか。竹千代どのの世になれば、生まれながらの家臣 ど・もか」