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検索対象: 徳川家康 18
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1. 徳川家康 18

山宗哲を、何で側から遠ざけたかがわかる気がした。 「ーー・・・は、ツ。肝に刻んで : : : 」 あれ以来、家康は殆んど医師を近づけない。医師たちも そこではじめて、家康は秀忠の上に視線を移した。果た また詰らぬ怒りにふれてはと、詰めてはいても、宗哲のよ してハッキリ相手が見えているのかどうか ? どうやら、 うに指図はしようとしなかった。それをよい事にして家康今迄遠かった聴覚の方が冴えて、視覚がにぶっているかに は、一秒一秒を楽しみながら、われ亡き後の指図に没頭し感じられる。 ている。 「ー - ー - - ・将軍家よ」 「こなたは天海どのか」 家康はそこで一息ついて微笑を見せた。 崇伝の次に天海が顔を近づけると、 ご覧の通りじゃ」 とうげ 一品親王、東下のことは ? 」 家康は、子供にただすように言った。 「ーーーわかるであろう。人間に、わがものというは一つも 「ーーー何ごとによらす油断は禁物・ : : ・これがこの国のためない。 躰も : : : 生命も・・ に、いちばん大切な筋目 : : : と、固く信じて頼むそよ」 ご安堵なされませ。畏きあたりでも、およろこびで 「ーーーみな、水や、光や、空気のように、金銀財宝はむろ ござりまする」 んのこと、わがいのち : : : わが子、わが孫まで : : : 何ひと 「ーーーそうか。それはよかった。次に正純」 っとしてわが身の所有 ( もの ) ではござるまい」 十 . 正純は、これに居りまする」 家康はその時だけは、きっと双眼に力を見せた。仏教の 「ーーー正純、こなたは切れすぎる」 無所有を、嗣子秀忠の胸に刻みつけようとする努力の現わ れなのであろう。 「ーー - 。 = われ亡きのちはな : : 控え目に : 「ーー・・万物すべて、誰のものでもない : : : 誰のものでもな いと一一「ロ、つことは、みんなのもの : : : とい、つことじゃ」 「ーーーそして、家康が生涯の悲願は何であったか : : : それ「 をじっくりと考えよ。よいか、求めて敵を作るでないそ」 「ーーーみんなのものを預けられている・・ : : わかるかの。家 118

2. 徳川家康 18

康の生命もみんなのもの : : : それゆえずいぶん大事にした度目の遺産を渡す : : : よいかの」 「ーー・・ - ・ありがたく存じまする」 わ」 さり・ながら : 「ーーーよく、わかる : : : つもりにごギ、りまする」 さて、わしはこなたに遺産を渡す。これで三度目家康は息をついで、周囲にせまる人々の顔を見廻した。 じゃ。将軍職を譲ったおり。西の丸からこの駿府に移るとみんなによく聞いておけというのに違いない。 その意を察して、枕頭の人々は息を詰めた。 き。そして、こんどこの世から姿をかくす時 : : : だが、こ さりながら、これは、汝に渡すが、汝のものではな れは、こなたに渡すが、こなたのものではない。みなの預「 い。ゆえに、汝のために使うてはならぬ」 かりもの : : : 家康が預かってあったを、こなたに預け直し 心に刻んで : : : 」 てゆく・ : ・ : わかるであろうな ? 」 「ーー・第一は、万一のおりの軍用の費にあてよ」 九 「ーーー軍用の費に ? 」 「ーー、その通りじゃ。わが家は征夷大将軍、国内の叛乱を 秀忠にとって、家康のこの「すべては預かりもの : : : 」 鎮め得なんだり、外敵の来襲をはらい得なんだのでは職責 という思想は、かくべっ珍しいものではなかった。 は果たせまい。第一は、それ等万一のおりに備える軍用の 彼は、几帳面に一礼して答えた。 ご安堵下しおかれまするよう。秀忠は、決して一紙費に」 、い得ました」 半銭たりとも私は致しませぬ」 「ーーー第二は、饑饉のおりに備えよ」 「ーーーそ、つであろ、フ。そ、フいうお方じゃ将軍家は」 「ーーー・第一一は、饑饉に ? 」 家康は満足そうに頷いてから、 さよう。百姓たちはの、万民の糊ロのために、みず しかし、これは何度でも申しておかねばならぬ。も からは粗食しながら、泥にまみれて働くのだ。さりなが のの理だからの」 ら、何年に一度かは、必ず稔らぬ年がある : : : これは天 政治を預けある者への、深い試みと思うがよい」 「ーーわしはこなたに徳川家のあとを継ぐものとして、一一一が、 119

3. 徳川家康 18

内実はご出陣よ」 いや、諸大名だけではない。町人も百姓も、 この噂は江戸の旗本たちの間にまで喧伝されて、中には これは何かあるそ」 まことしやかに、 と、一応首をひねる筈であった。 「ーーー伊達勢はすでに仙台を発している」とカ そしてその疑間は当然また江戸の浮説と結びつく 後勢も主君忠輝を取り返そうとして高田を出た」とかいう 「ーーー伊達さまが、一戦覚悟で国許へ引き揚げられた。そ物騒な流言になって町人たちをびつくりさせた。 れを征伐なさるのだそうな」 したがって、一度鞘におさめた槍をとり出し、弓づるを 「ーーそうじゃ。それで伊達の婿君にあたられる松平上総調べ、鉄砲を磨くという事態にまで成っていった。 介忠輝さまは、すでに召し捕られて、深谷の城に幽閉され江戸にある仙台屋嗷は三つとも厳重に門扉をとざし、万 ておわすそうな」 一に備えて在府の侍たちはそれぞれ武装していたし、浅草 「ーーすると、ご実子でありながら、舅御に味方して、父河岸の松平忠輝の江戸屋敷は、米津勘兵衛田政の手で接収 御の大御所に弓を引こうとなされたのか」 され、奥方の五郎八姫は、井上主計頭正就によって仙台屋 「・ーーーそれゆえご勘当になったのじゃ。いや、召し捕られ嗷に送り届けられたという蹲であった。 てしもうたのじゃ」 そうした噂の中で、家康は駿府を発っと悠々と東下し 「ーー・。・では、この正月ごろはいよいよ伊達征伐か」 ところが江戸ではそうばかりはいわぬそうな。伊達沼津へ泊まり、更に三島では伊豆の代官たちを召集して も並みのお方ではない。向こうから攻めて来て、江戸で戦訓示をし、箱根を越えると、小田原では、更に大規模な鷹 になるやも知れぬというてな : : : 浪人どもの中には奥州へ狩りをやってのけた。 よろいびつ 鎧櫃をかついで出て行く者が絶えぬそうじゃぞ」 これ等の行為もまた一層庶民の噂の渦を大きくする。 「ーーーすると、関東の大鷹狩りは、実はその合戦のための 行列は、輿に乗っていながら、乗り替え馬を三頭ひかせ ご出陣か」 た物々しさで、供の者は小具足姿。こうなれば、噂を煽る 「ーーーそうじゃ、人心を不安におとし入れぬためのこと。 のは当然のことであった。

4. 徳川家康 18

いま日本人はめざましい経済的な躍進をとげつつある環の打切りようはない。 が、早晩この行く手に、新地図に示された「四つの経済圏実はこれが文明行詰りの姿なのである。文明が行詰ると いうことは、人間の思考のどこかに未熟なところがあっ 国家群ーーー」に立ちはだかられて、散々に叩かれはしなく : とい、つことな とも、ストライキを煽られたり、関税干渉を受けたり、陰て、現実の進展について行けなくなった : に陽に相当苛烈な妨害を覚悟して、その対策を練りに練っのである。 そうなれば、いったいどこが「未熟ーーーー」であったか、 ておかなければならないということなのである。 えぐ まずその欠点を剔り出してみなければならないという順序 現在の日本は極東ではなくて、「極西ーーー」たとアメリ になる 力の雑誌に書かれている。極西というのは西洋文化の吹き われわれは今日までさまざまな科学の余慶を肯定もし、 だまりという意味だ。老いたヨーロッパの後塵をうやうや しく拝す国と受取って差支えはあるまい。その日本ですら享受もして来た。そしてその進歩が産み出した原水爆によ そうなのだから第二次大戦後に誕生したばかりの新国家群って、 もはや全力を賭けて戦うそ」 の前途はいよいよ多難なことになろう。経済戦争というこ ということだけはその科学の名によって厳禁されてしま とになると、大砲その他の武器を、自分では発砲せずにこ れを商品として幾らも売込むことが出来るからである。 ここに人間の考え方の「未熟」さを探り出す手がかりを さて、戦争を無くするために、国境を取払おうという歴 史的な至上命令がどうしてこうややこしく、又しても紛争求めなければなるまい。何ゆえ科学は、悪人だけを懲す : 贈い相手だけを殺す : : : という手段を、個人主義を奉 問題はここなのだ のタネを孕んで来るのであろう : じて来ている人間どもの世界から奪い去ってしまったのだ と私は思、フ。 武力と武力の戦国が経済の戦国になり、経済上の争いがろうか。 又次の戦争を誘発する : : : これではどこまで行 0 ても悪循原水爆によれば、贈悪も愛情も、喜びも悲しみも共に一 つつ」 0 306

5. 徳川家康 18

ものトーー」を大切にしていったのである。 は、所有慾を「権利ーー」と教え込まれて数世紀を経て来 こうなると側近の者だとて、どうして俸給の値上げなどているのだ。ただしかし、その「権利ーーー , 」と「権利ーーー」 の衝突が、闘争や戦争の原因であったこともまたハッキリ を、自分の方から要求出来よう。 これは上様に預けておく方が、泰平のためによいのとして来た事実である。 したがって今日の課題は全く別なところにある。 その納得が、言わず語らずのうちに必ずあったと私は思戦争や闘争の原因になる各個人や集団の「権利ーー」か う。もっともこの頃の庶民の第一の願望は「泰平ーーー」でら、人間の個々の幸福を損うことなく、どうすれば解放さ あって、それが続くとなれば、他の不平は少々位押えたでれるかにかかっている。 あろう。百数十年の戦乱に懲りごりしている心情は、、 そうした明日の人類に課せられた命題を想うとき、日本 のわれ等にはわからない。 人として、戦国時代の宗教観をかえりみ、その中から家康 それに、まだ個人主義などと言う存在にふれたこともなの信仰を拾い出して味わってみるのは、決して無意味のこ かったのだから : とではない。 私は大久保彦左衛門が、兄忠佐の遺領を継いで大名にな家康は、その構想をことごとく実現することは出来なか れと言われたとき、 った。その点では、人間は彼の考えていたよりも数倍、ど いや、旗本で結構です」 ん慾でもあったし、まだまだ不幸の原因を無数に探し出せ そう言って僅々二、三千石の知行で満足したのも、こうる感覚的な生きものでもあった。しかし、江戸時代三百年 した家康の生き方に接して来たうえでの納得であったと思の平和はただ圧政たけで維持されたものでもない。家康の 創業の中に、その理想の芽は、仏教信仰を通じて僅かにあ と言って、これが今日、そのまま自分の使用人に通する ったのであり、それが原水爆戦におびやかされながら宇宙 であろうなどと思ったら錯覚も甚だしい。その後の人 間時代に入ろうとして右往左往している今日の時点では、大 29 ノ

6. 徳川家康 18

「ーーー天下泰平、治世長久は上たる人の慈悲にあるぞ。 と、いうのである。あまりに文意が立派なので、これが 慈悲とは仁の道、奢りを断って仁をよろすの根元と定 果して家康の言葉であったかどうかを疑う者がなくもな め、天下を治む」 い。むろん自筆のものが残っているわけではないので、歴 と、いうのであった。仁は儒から、慈悲は仏教から来て いるのだが、 史家として一応疑問を持ってみるのは当然なことであろ それは同じものだと断じて、 う。しかし、彼の他の場合の言行などから比較検討してみ「ーーー奢りをたて」と、訓えている。 たんか 」であったと信 て、私は、これが家康の最後の「啖呵 この奢りをたって、彼がどのように身辺の費用を節して りんしよく じてよいと思っている。 いったかは前に書いた。時には吝嗇と言われながら、食事 この文意は、彼の天下に対する考え方を示しているだけ までを切りつめて実行している。 ではなく、 この事については彼は次のように言っている。 「ーーー取れるものなら取ってみよ。おれはそう易々と崩壊 「ー・ーーおのれは常に天道を恐るるを以て第一の慎みと しやし するようなものは造って居らぬそ」という、実力に対する す。天道は第一に奢侈を憎むなり。金銀財宝をたくわう 自信満々の意味も含んでいる。 るは、国用のためなれば、一枚の衣もあだにはせぬそ」 私はしかし、そうした面からだけこの言葉の内容を吟味 つまり自分のために節約するのではなくて、国用の費を しようとするものではない。彼の信仰している仏教の思想貯めるのだと言っている。 面からこれを検討してみて、彼ならば、 このあたりに仏教の訓えている無所得、無所有の思想が 「ー・・・・・・・・天下は一人の天下にあらす、天下の天下なり : ハッキリと滲み出ているのである。私は前に、家康は自分 という言葉が当然出て来なければならないことに注目しの体や生命も「ーー・・ - ・預りもの」と考えていたと書いた んいのである。 その証拠は後にあげるとして、これは観念として理解は 彼の治世の、い掛けとしては、 出来ても、実行はしにくいものだ。もし実行仕易いもので おご 284

7. 徳川家康 18

「ーーー・・もよや霰 4 リはは終ったのだぞ」 平服をまとった猛獣たちに、その事を納得させるかにか かっていた そうした事情のもとで考えぬいて表面に出て来たのが 「士・農・エ・商」である。 190

8. 徳川家康 18

る。これに士心を持たせてゆけば充分に質のわるい武士よ 荒廃していたのでは藩主の生活は成立たない。 と言って百姓も同じ虫を持つ人間なのだ。仲々もって鞭りは、行政面での適任者にもなり得るのだ。 だけで働くものとは限らない そこで領主は「農ーー」である領民のまず安定した状態 現に朝鮮出征のおりの島津藩などは、この百姓の逃散にを希うことを仁政の第一と考えて、それなりに尊重してゆ あって困りきっている。こうした領主と百姓の関係は現代くようにと言う意味が、士の次に農をおいた思案の中には 含まれている。恐らく家康のことだから農民の中の良質の の経営者と労働者の関係によく似ている。あまり苛酷なこ とをすれば、 者の中には、晴耕雨読の者も出て、ここから有用の材が現 れ、士分に登用出来るかも知れないという期待はあったで 「ーー・ー・お陽さまの照るのはここだけではない」 むしろばた どこの藩でも精農ならば喜んで迎えるのだと、筵旗が立あろう。 ってゆく 収穫は四公六民 : : : これがずっと守られていたら、百姓 たちはもっと仕合せであったが、時代の推移に従って、江 それにもう一つは「農ーーー」 にはまだまだ多くの天災的 な障碍が、人間のカではどうにもならぬものとして存在し戸の中期からこれはみじめに崩れている。 しかし家康が、士の次に農をおき、自分自身の三度の食 た。人事を尽しても必ずしも収穫は保証されるとは限らな い。その意味では百姓はつねに「天ーーー・」を相手にして生膳に、少し贅沢なものが出ると、 きているのだ。 「 , ーー百姓は何を食っていると思うぞ」 この事は、ただに収穫の重要性からだけではなく「人材つねに百姓と比較して節倹を説き、池田総理同様に、麦 を造るーー」ためのプールとしての意味も持っていた。暴めしを喰い続けたことは事実らしい こう書いて来るとここでもう一つ、家康のために弁解し くれた武士たちには、とにかく「天ーー、、」の威力の存在を イ冫オしところが百姓ておかなければならない事がある。それは家康のガメッイ 知らしめて、これを制禦してゆく也こよ、。 証拠として、家康が晩年になっても年貢の受取りを書いて は日々その「天ーーー」 ( 自然 ) と対決しながら耕作してい 197

9. 徳川家康 18

この松姫は、はじめ織田信長の嫡子信忠と許婚の約束が したがって、この「女狩り・ーー」は、それほど執拗なも あったのだが、三方ヶ原の戦のおり、信長が家康に味方しのではなく、家康と武田の遺臣の考え方には大きな差があ ったのではあるまいか。 たので破談になっていた。信玄が死んだときには十八歳な のだから、かりに家康がその姫を欲しがったとしても無理家康の方は、かくべっ誰でなければならぬなどと言うの ではない ところが武田方では、それを抜きざしならない この松姫はしかし、到頭家康の閨列には入っていない。 勝利者の厳命のように受取って、悲壮な身代りを選んで差 出す : : : という事はあり得ることだ。 天目山で勝頼が果ててから、しばらく栗原の海洞寺にかく れていたが、やがて甲斐にいては危いというので、武蔵の 「信玄息女ーーー」と大樹寺にあるお竹の方は、 あんげやま 安下山に勝頼の二人の遺児 ( 姫 ) を連れて、八王子槍組同そ後肥前の名護屋の陣中に伴われ、そこで難産のために 心などの庇護を受けながらついに剃髪し、横山村の信松院死んでいるし、於都摩の方も後には、秋山越前守の娘とハ ッキリわかってしまっている。 にあって生涯を閉じたという。 しかも、その勝頼の二人の姫は、後に岩城城主の内藤忠 ここでもう少し意地のわるい見方をすれば、家康は、そ 興と高家の宮原義久に嫁いで、生涯を全うしているのだか うした武田家遺臣のからくりを万々承知の上で、黙って据 ら、この「女狩りーーー」の話もそのままには頂きかねるふ膳を二つとも喰べたのではあるまいか しがある そう考えないと、その後の話と辻褄が合わなくなる。と 武田の遺臣たちは松姫を家康に浚わせまいとしてさまざ にかく武田系図には、穴山梅雪の妻のことがハッキリと次 まな苦心はしたかも知れない のように書かれている。 しかし、そのニセ者を二人まで掴ませられた家康が、後 「ーーー梅雪、天正十年三月家康公に属し、武田陸奥守と改 に松姫の志操堅固を褒めあげたり、勝頼の遺児を快く嫁がめ、養女汕川彦八妻を家康公の妾となし、武田万千代を産 せたりするであろうか。 む。七郎信吉と号す。見性院高峰妙顕」 240

10. 徳川家康 18

その中で、信長はまず暴力をもって暴力に対抗し、 当時の人々がどの位貧しかったかは、恐らく今日の人々 「ーー、信長は神仏である ! 」と、呼号して、彼に従わない には想像もっくまい。家康の幼年時代の松平家で、歴とし た武士の家にこんな例がある。その家に待望の長女が産れものは用捨なく斬り捨てた。彼が本能寺で明智光秀のため に倒されなかったら、恐らく、天下を統一した後の理想も た。この初めての子供のために夫婦は新しい「産着。。ー。」 の布子一枚を作 0 てやろうと約束した。そして、日々の所表面に出て来たであろうが、彼が本能寺に倒れたために、 用を節しながらその「産着ーーー」の出来たときには子供は彼の理想は「天下布武ーーー」の範囲以上にはわかっていな 八歳になっていたという : その信長の布武による天下統一の事業はそのまま秀吉に この貧しさはきわめて特殊の人々を除いて、日本人の上 に平等にのしかかっていた。宮廷でも費用がなくて即位式よって継承されたのだが、秀吉の統治の根本田」想はどこに あったのだろう ? 彼は関白となり太政大臣となって、天 を何年も延期したなどはまだよいとして、葬式の出せない ままに幾十日もご遺骸をそのままにしてあ 0 たり、天子の子の許で政治を執る形はと 0 たが、それが果して彼の理想 供御のため僅かに居残った女官が、破れた築地塀の外で春を堅持しての、「これでなければならぬーーー」というギリ ギリの確伝に基くものかど、つかははっきりしない。とにか をひさいだなどと言われるほどに困窮をきわめていた。 大名く彼は朝鮮出兵でつまずいて、人間としては言いようもな そんな乱世ゆえ生命の保証などありようがなく、小 い焦慮と不幸の連打を浴びながらこの世を去った。 である松平家でも、家康の祖父清康も、父広忠も家臣のた ここではじめて祖父も父も乱世に奪われ、母とは一年半 めに二十五歳前後の若さで生命を落している。 言葉を変えて言えば、殺さなければ殺される時代であで生別を強いられ、数え年六つの幼時から十九歳の春ま り、生き残るためには他人を殺傷するだけの腕カ武力を持で、人質生活をさせられたという、文字どおり、乱世の被 0 ていなければ、話にならないとい 0 た悲慘きわまる野獣害者の一人として成人した家康が、政治の表面に現われて 」こ、もう一つ是非と 。こ ; 、ムは、その家康を語る前 ~ 時代であった。 187