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検索対象: 徳川家康 18
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1. 徳川家康 18

とにかく彼等を養い得るという味な方法だった。 刀が、実は、盗賊同様の過去を持った人物であったとか、 現在でも町の暴力団狩りは熱心に続けられている。しか 江戸初期の三甚内の一人である鳶沢甚内も盗賊の首領であ ったとか言う話は、家康の人造りの融通無碍な生きた政治し私はパチンコ屋の景品買いや、竸輪場からまで締め出そ うとしだしたときに、正直なところハラハラした。現代の 挿話としておもしろい。 」の知恵がない。いや、人情が 鳶沢甚内は、本所に一町貰って古着屋町を開いたので古政治にはこの「古手買い ないと言ってもよい。何れ無職でよこしまな袋小路を歩く 着屋甚内とも言われているが、彼はその配下を二人ずつ一 組とし、大きな袋をかつがせ、これに「公許ーー - 、・」の焼印人々なのだ。それが悪だと責めるだけで、生き得る道を閉 してしまったのでは別の出口へ流れてゆくに決っている。 を押した鑑札を持たせて、「古手買おう」「古手買おう」 案のごとく彼等は、街娼をねらい麻薬へ流れて、パチン と江戸中をふれ歩かせた。甚内がそもそも盗賊の頭なのだ コや竸輪よりも幾層倍か手のかかる危険な人間悪のたまり から、この古着買いもその乾分で、みな実は甚内のもとに を作った。 草鞋をぬいだ小盗人なのである。 石出帯刀に牢を預けたなどと言うのも同じ知恵からであ したがってこの盗人どもは、一人で出したらどこでもと ったろう。集団化した野盗が、罪人を奪還しに来る怖れが の木阿弥になるかわからない。そこで二人一組にしておく あるとしたら、その仲間から情報を集めたり、それと巧く のは、とりも直さず互いが互いの監視役なのでもある。 彼等はもともと小盗人なので、こうして町をまわりなが交渉したりするには、その道に顔の利く者が最適任者であ きよう力い ら、新しく侵入して来た外来の盗人どもを見落さない。そり、彼等の口から説かせることが最も効果のある教誨手段 れが大物であればそっと親分の甚内か奉行所へ密告するでもあったろう。 こうして「人を活す」ことを主眼にした世造り、人造り し、小物であれば、これを甚内のもとへ伴って同じ古手買 : と、言っても、決して人間を甘やかしたのではない。 いにしてしもう。親分の甚内はそうして買い集めた古着を 一町内すらりと出した店に並べて売ってゆき、その利益で今の政治は民主主義に名を藉りた媚態政治で、一票を頂く こぶん 195

2. 徳川家康 18

えていた人が、何人かあったのではなかろうかという空想 ど、喜々として彼の立てた新秩序に従って行ったのだ。 もなし得られる。 さて、話を国家安康の鐘銘問題に戻してゆこう。 それにもう一つ、大坂落城の後の日本は次第にヨーロッ これは家康もむろん無理な言いがかりであったことをよ パの旧勢力である南蛮人 : : : つまり、イスパニヤ人、ポル く知っている。大久保長安の死、伊達政宗の月の浦の船 トガル人などを遠ざけて、ついに鎖国のときには新興勢力 出、それから切支丹大名の圧迫 : : : と、この三つの出来事 と、大坂城を包む暗雲とが、家康をして、無理を敢えて行である「オランダーーー」一国だけを、長崎の出島に残して 交易を許していった事情についても当然考察の要がある。 う決意をなさせているのは年表を見ればハッキリする。 大坂落城を契機にして、日本におけるヨーロッパ人の勢 いや、もう少しく解説を試みるとすれば、家康がこの : これは誰も 「国家安康」の鐘銘にいんねんをつけた日時と、大坂方がカ図もまた全く書改められてしまったのだ : これに応じて諸国の浪人どもを城内に招き入れた日時との動かすことの出来ない事実なのだが、これを案外軽視して 比較もちょっと忘れてはなるまい。 家康が、方広寺の上棟式の延期を命じたのが、慶長十九とにかく大坂の冬夏二つの陣の間にも、家康はしきりに 年の七月二十一日で、大坂方が諸国の浪人を集めて城に入秀頼の降伏をのそんでいる。出来ることなら前田家の芳春 院のように、淀君にも江戸に出て来て、江戸屋敷に住まう れたのは八月の十七日。 この間はわずかに二十六日である。当時大坂城から駿府ようにと希望している。 これも世間で、狒々オヤジが、まだ淀君の色香に執着を へ使者が往復すれば二十日はかかる。そんな時代の二十六 日間で、相手がやるならこっちもやるぞという打てばひび残しているかのように伝えられているのだが、これも飛ん だお笑い草である。若し家康が、淀君の肉体を欲している く気構えが、大坂方にあったことは否めない。 と一言うよりも大坂方でも「或る事件ーーー」の伏在か露顕のであったら、江戸へ連れてゆかれては困るのである。一 かを知っていて、もはやこれは戦うより他にあるまいと考一家康が、往復二十日もかけて、駿府から江戸まで通って ひひ 2

3. 徳川家康 18

個人としては暴力はいけないと小学校でも教えている。人らしい。 すべては話合いの解決によるべきだと。これは、十中八九ストとなれば海戦まがいの暴力もやむを得ないが、ヤグ : そんなことを言ったところで、市 、。こもかかわサの喧嘩は許せない : までの個人がそう思い込んでいるに違いなし ~ らず、集団になると、がらりと性格は一変する。「闘争井の拗ね者が承知して引きさがる筈はない。問題は、われ われがほんとうに闘争して生きているのか。それとも相互 」によらなければ何事も解決しないという : してはならないとする考え方が支配的であると言ってよで助け合いながら生きているのか、そのいずれの面が多い かについて、社会生活の実態を冷静に見つめ直すべきとき 。皮肉な言い方をすれば個人間には話合いを、集団では に来ている。 まの世相、今の教育の矛盾で 喧嘩を奨励しているのが、い それでなければ、われわれは「戦争ーーー」という呪われ ある。 そこで一人一人の場合はまことによい子が集団強姦をやた鉄鎖からの解放など、思いも寄らず、東西両勢力のかざ ってのけたり、対校喧嘩に母校の名誉を賭けたり、一致協す原水爆の脅迫の下で、おびえたひがみと絶望感を、いよ いよ精神面に積まされてゆくたけのことになろう。 力して受持教師を撲り倒したりして両親をおどろかせてい るのが現状ということになる。一教師が、一人の生徒に体その一つの例を私は昨日、大阪の松下電器に赴いて聞い 罰を加えると全父兄の間で大騒動になるが、生徒の集団にて来た。ソ連からミコャン副首相がやって来て、日本のテ 教師がなぐられた時には極秘にする。つまり集団は闘うべレビエ場を見るために松下の工場を訪れたとき、会長の松 きもの : : : と思い込ませられた皮肉な結果である。そうし下幸之助氏と、ミコャン氏の間で、いろいろ面白い会話が た人間が、より壮大な集団の闘争である戦争だけはやらな交されたものらしい。 いようにと叫んで闘ってゆく。そんな滑稽な矛盾をふくん「ーー・貴国ではいま、テレビの年産は何程なるや」 で、ハラハラと道徳の低下をなげいたり、次の闘争の準備「ー・・・。百五十万台から七十万台の間なり」 に精魂をすり減らしたりして智恵をなくしているのが現代「ーー・それは甚た少ない。日本では、私のところ一社でも 298

4. 徳川家康 18

「ーー内府 ( 家康 ) は日本においても、京都においても、 とか「おなっ預り分」とか「おちか預り分」というよう 関東においても、歴代の中にて最も富裕な君にして、巨額に。 の金銀を貯蔵している。そのため到るところ、すこぶる人中には「女房衆寄合ー・ - 。ー」の預り分などもあるところか 人に恐れられる。京都方面の内府の住居なる伏見の城にも ら、西洋人の眼には「独占」と見えたこの蓄積も、家康の 貨幣を貯蔵していたのだが、数日前、その重量のために梁内部では、自分のものではない預り分 : : : つまり今日で言 が折れて一室が陥落した。この莫大な財宝は、ひとり内府えば、自分は「銀行ーーー」のつもりなのがよくわかる。 ことごとくこれを独占している。そればかりか近頃再び金役職名があったら、おそらく「 日本銀行総裁、徳川 鉱山が発見され、毎年非常の高を発掘して富を加えること家康」ともいうべき精神内容で、その総裁が、公私とも になった ( 後略 ) 」 に、わがものにはあらずとして、日々の灯火から食膳の贅 家康の「預りもの」と信じての節倹による蓄積が、西洋まで戒めて生きていたと考うべきである。 人には「内府これをことごとく独占」して、世間を布れし これ等の「預分」を秀忠がすっかり整理し終ったのは、 めている力に見える。したがってこの蓄積が、 或る意味で元和二年の十一月だったらしい。 この整理完了の日付は「辰の霜月二十一日」となってい は「兵力。・・・・ー」と同等の、一つの威圧になっていたことは 否めない。 て、駿府城勘定方の、戸田金左衛門、岡部小左衛門、布施 、天野伊豆守の六人が しかし、家康はこの四百万両に及ぶと言われる莫大な遺与兵衛、若林角兵衛、井出兵左衛門 これに署名捺印している。 産を、少しも自分のものとは思っていない。 その概略は、 その証拠に、久能山の金蔵にあった、 一、金四六九凾 黄金四百七十凾。 一、銀四、九五三凾 銀 四千九百五十三凾。 ほかに、銀五十五包人一凾。金銀混入のもの一凾。銀銭 銀銭五十五行李。 などの中には、それそれ「何某預分」と、すべて「預五十五行李。 此の概算、百九十四万余両。 分ーーー」なる記帳区分がなされている。「おしい預り分」 157

5. 徳川家康 18

き、それから外れたものを悪政とするのか ? その辺のこ 「さよ、つで、こギトり↓ましよ、フか」 とは ~ めいまいたオ 「坪刈りと申してな、一歩 ( 一坪 ) からの刈り上げが一人一 「すると、領主が領民をいじめましたおりには、直接将軍日の食糧じゃ。一年は三百六十日、それゆえ一反歩は三百 家へ訴え出よ : : と、仰せられまするので ? 」 六十歩 : : : つまり一反歩は、農耕して生きる仏の子一年間 「そうじゃ。そうなくては領主の悪政を押えきれない場合の賄い料 : : : ここからすべては発している。太閤はそれを が、出て参ろうほどになあ」 カ往昔より 反別をふやすために三百歩にしてしもうた。 ; 、 「将軍家が一揆のお味方をなさる場合もある : : : というこも農耕の技術もすすみ、精出して働けばそれはとにかく補 とに相成りまするが」 えよう。それで太閤の非は一応間わぬこととする」 「そうじゃ。一揆にも、理の通らぬわがままな一揆もあろ 「なるほど」 うが、領主の悪政によるものも、出て来る時があるかも知「しかし、忘れてはならぬことは、そうして地上に生まれ れぬ」 たものは、とにかく、一人、一日、一歩の地を耕せば生き そこまでいって思い出したように、 られるぞという、これがこの世に生まれて来た者へ平等に 「その方は、古人が一反歩を三百六十歩 ( 坪 ) に決めたい 与えられている慈悲なのだ : : 生まれた以上は生きてゆけ るよ、つに・ われを存じて居るか ? 」 : との、大きな神仏の配慮なのだ。この天意を と、思いがけない間いかけだった。 忘れてはまつりごとは無い。よいか、みなそれそれ生き得 「さあ、それは存じませぬ。が、太閤さまの検地以来、一るように天は慈悲の手をのべてあるのた」 反歩は三百歩 ( 坪 ) と改められ、今ではそれが通用致して 宗矩は息をつめて、寒風に鳥毛立った家康の横顔から首 居るかに」 筋を凝視していった。 「その事よ。太閤は、一反歩の意味するものを知らなん 隠居所を建て、そこで安らかな老後を : : : と、思った家 だ。明け暮れの戦に没頭していて故実など学んでいる暇が康が、こんなところで、何をいおうとしているのか ? 一反歩は三百六十歩でなければならぬ池の面にはビ = ウビュウと風が皺立ち、羽毛のような風 7 ものだ」 花までがまじり出している。 2

6. 徳川家康 18

「わるかったー 久々の拝顔にて、うれしさのあまり心な彼は、所へ戻っても、まだ涙をおさめなかった。はじ い事を致した」 めて、自分も、他人に信じられていたことを知った : : この それから政宗は、みんなの方〈向き直 0 て、重々しく一や、自分のような者でも信じてくれる人があ 0 た : み↑ / 感動は彼の生涯でただ二度、一人は自分を育ててくれた虎 「お許し給われ。されば、これにて : : : 」 哉禅師であり、もう一人は家康であった : : と、述懐し 「ーー・そして、二人とも、その得難い事実に気付かせてく 生死の筋目 れた時は、この世を去ってゆく時であった : そういうと、すでに家康の死を予感したものの姿で鳴咽 聞いているうちに実は宗矩も泣いたものだ。 柳生宗矩は、その夜、政宗を宿所にたすねて一刻あま 男と男が、ほんとうに知りあった時は死の直前 : ・も ) は り、膝を交えて話しあった。 やどう戦おうにも相手はそのうっし身を消してゆくとき 実はそれは、将軍秀忠の内命もあっての事であったが、 : これは、いったい皮肉なのだろうか、それとも哀しい 宗矩自身、訪れてみすにいられない興味もあったからであ人間の業相なのであろうか ? る。 ( これで一つの対立は消えた : ( あの、一筋繩ではゆかぬ政宗が : 秀忠の許へ帰って報告するときの宗矩は、いっか政宗の 見かけどおり、果たして家康に屈服したのかどうか ? 弁護者に変わっていた。 あれも又、平然と切支丹信仰を装。た時のように、彼一流「ーー大御所さまの大きさが、ついに独眼童を翼の下につ の芝居ではあるまいか ? そんな疑間が、 ' とこかに残ってつみこんでござりまする」 あったからだ。 しかし、その宗矩が、更に哀しい事実に当面したのは、 ところが、今度はそうではなかった : 京から勅使として武家伝奏の権大納言広橋兼勝と、三条西 108

7. 徳川家康 18

五 秀忠の許からは、青山忠俊につづいて、安藤重信、土井 利勝と見舞いが遣わされ、更に二月一日には秀忠自身が江家康は、将軍秀忠の着到を知ると、 「寝たままご無礼 : ・・ : 」 戸を発して駿府へ向かった。 と、会釈して、すぐさま訊ねた。 これまで来られなかったのは、また伊達の動向に、いにか かるものがあったからに違いない。 「江戸は、平穏でござろうな ? 」 「はい。至って平穏にござりますれば : : 一日も早くご快 秀忠は、二月一日の辰の刻 ( 午前八時 ) に江戸城を出る と、昼夜兼行、翌二日の戌刻 ( 午後八時 ) には駿府へ着い復のほど」 家康はそれには答えず、おだやかな視線を秀忠と並んで て父を見舞った。 江戸から駿府までは途中に八里の箱根山を距てて、四十坐った三人の子供に移して、 四里二十六丁 ( 一七九八キロ ) の道のりで、普通ならば五「みなみな、将軍家のおいいつけに、異背はならぬそ」 と、小声でいった。 日はかかる。それを、わずかに三十六時間で駈けつけてい るのだから道中一睡もせずの旅であったことがよくわか 三人は声をそろえて「はいツ」と答えた。 る。 「将軍家よ。くれぐれも、われに代わっての」 「、い得て、こざりまする」 その時にはもう名古屋から義直も駈けつけていたので、 「それから大炊よ」 秀忠は、義直、頼宣、頼房の三人の弟を連れて家康の枕辺 をおとずれた。 秀忠のうしろに控えた土井利勝を眼で招いた。 「これら三人の者どものありよう、将軍家に申し上げてお 四人そろって父の見舞いに、看護に当たっている茶阿の いてくれたであろうな」 局は眼をまっ赤にしてこれを迎えた。 「はツ。くわしく言上致してござりまする」 自分の産んだ子の忠輝だけが除外されている。それを想 秀忠と視線を合わせながら答えていった。 うと、今更のように悲しさが胸をしめつけてくるのであっ 後に「御三家ーーー」といわれた義直、頼宣、頼房、三家 102

8. 徳川家康 18

喜多院は星野山無量寿寺といって、天台宗の古躡 : : : と家康はそれには答えず、 いうよりも、家康とは切っても切れない関係にある南光坊「やはりまだ、念が足りぬ。このままではならぬとわかっ 天海がいま住持をしている寺なのだ。 しみじみとした口調でいった。 天海は、いそいそと家康の一行を出迎えた。 宗矩はむろんそれを「伊達対策ー・ー・ー」についてであろう と想像した。ところが次の会話は、ひどく飛んで、彼の知 喜多院にやって来ると、家康は人々に境内や庫裡で昼食識の環の外へはみ出していった。 禁中ならびに公家の諸法度 : : : そうした前例 するように命じ、自分は、天海と二人だけで方丈に入って「とにかく、 つつ ) 0 のない、雲の上のことにまで差出口をしたのは、この家康 若し天海が、特に宗矩に声をかけなかったら、宗矩は、 なのだ」 そこで何が語られてゆくのか想像もっかなかったに違いな 「それはたしかに」と、天海は応じた。 「それで、どう遊ばすお覚悟をなされたので」 忘れもしない、それは二十八日のひと狩りすませた後 「されば、御坊は、そのかみ頼朝公が、野州の二荒山に一 品親王の東下を乞うた前例がある、と申されたの」 の、未の刻 ( 午後二時 ) であった。 「御意にござりまする」 「柳生どのに、お見張りを頼もうか」 「わしもただの差出口 : : : 決して私の利害のために禁裏の 天海が、そういって眼顔で招いてくれたので、宗矩一 ことにまでロ出したのではない : ・ . しごⅱ 、う証拠を、ハッ 人、身辺護衛の役として、庭に向かった方丈の縁に坐し、 二人の密談を背で聞くことが出来たのだ : キリと後世に残さねば、国体を軽んじた賊になり下がる」 「なるほど、お道理で」 「ご思案は決まりましたか」 二人になると天海はいっこ。 「そこで御坊に頼みたい。二荒山の寺社復興をやろうほど に、前例にならって、そのご門主に、一品親王お一人、ご 「お疲れでござりましよう。呉々もご無理は遊ばしませぬ とうげ 東下のことを、禁裏へお願い申してはくれまいか」

9. 徳川家康 18

どというのを設けて、それが銓衡を重ねるなどという、わ手柄とする必要は少しもない。 しかし、江戸の職人たちが たんか かったようでわからない手数をかけてゆくのではない。ま 好んで使った「ーー・・・宵越しの金は持たねえ」という啖呵に るきり素人の秀吉が、一人でドシドシ天下第一を決めてゆはちょっとした味がある。 くのだから、まことにさつばりしたものだ。 これは主に大工や左官、それから鳶の者と言った階級の 誰それに挨拶して、誰のところへ渡りをつけなければ「働きさえすれば、明日は明日の収入が約東されている」 : などと言うのと違って、秀吉一人の好みに投じさえすという安心感の裏付けがあっての啖呵で、エが、農の下に れば天下第一の文化勲章にありつける。「桃山色」は鮮明おかれた事から来る卑屈さや暗さなどはみじんもない。 に出て来る筈であった。したがって桃山時代の工芸の特色のあたりに特技をもつものは暗くさせずに済むものという は、工芸そのものよりも秀吉の気性や好みを調べた方が早人間観察が鋭く光っている。 くわかる。ただそうした時代に本阿弥光のように芸術村さて、最後の「商・ーー」の場合は、これはちょ 0 と複雑 2 2 まで作った芸術家が、秀吉のことを頭からくさしているのである。 はただの臍曲りなのかどうか : というのは、家康自身が、実は自分も商行為をやりなが とにかく家康は秀吉のように人心に陽気の灯をパッと一ら、士・農・エ・商と、商人をいちばん下位においている 度に点す特技はもっていなかった。しかしこれに水をかけ からである。 るようなこともしなかった。本阿弥光悦に従えば、エの発家康が自身で商行為をやってのけたいちばん大きな証拠 達進歩もまた生活の安定を約束する泰平があってこそで、 は彼の遺産の中に歴然としている。彼は自分の遺産を三度 その点では秀吉は、まだまだ信じがたかったが、家康はあび二代将軍秀忠に渡した。その第一回目は、征夷大将軍の りがたい人だと述懐している。泰平の世が続きだすと工芸職を退いたときであり、第二回目は、二年間ほど江戸城の 品の需要度はぐっとひろまり、職人と言われる工芸家、建西の丸にいて、いよいよ駿府に移るとき、第三回目は駿府 築家の繁栄も当然に約束されるのだから、それまで家康の に隠居してまる十年、彼の死んだときである。

10. 徳川家康 18

「困ったものよのう」 女房を引き取らす : : : 」 そこまで一一一〔ってから思い出したよ、つに、 「将軍家は政宗に気押されて居る。それではならぬのだ 「そうじゃ。仮に、上総が女房は引き取って貰いたい。そ 、別に将軍家の の代わり、伊達家の後を継ぐ嫡子忠宗には が、困ったものよ」 「と、仰せられますると、ここでは公儀の重みを見せよ、 娘一人を進ぜて両家は懇親に : : : そう申したとせば、相手 とのご意見でござりましよ、つか」 も腹は立てられまいが」 「そうではない。言わいでも、責めいでも、相手が遠慮す「あの、将軍家ご息女を」 るようで無うてはならぬと申すことじゃ」 「養女でもよいわな。要は天下の泰平よ」 家康は軽く言ってから、 家康は渋い顔でそう言うと、 「上総介が女房どもは、 「よしよし。一思案してみようほどに、しばらく退って休 引き取ると申したのか」 ~ しいいえ : : : その話に答えもせす、さっさとご帰国んで居れ」 あっさりと忠元を退らせて、すぐにこんどは、もう一人 なされましたので」 「そうか。話の仕掛け方が軽すぎたのであろう。将軍家謁見を待っている柳生宗矩を呼び人れさせ、 も、苦労が足りぬわ」 「又右衛門、伊達が短気話を耳にして居るか」 と日国しカレオ 「総じて人と縁を断とうとする時は、両者の間に誤解や感「はい。江戸ではその噂が誇大に伝えられ、中には戦にも 情のもつれの残らぬよう、別の手当て、別の配慮が大事ななりかねまいなどと : 「そうか。どうじゃ。そこ許の見透しは ? 」 ものじゃ」 「伊達どのの酔狂も、今度はチト度が過ぎましたように存 「と、仰せられますると ? 」 「わしは、あれの官位をすすめた。庶長子の秀宗には宇和 じまする」 島十万石を遣わした。これ等はみな、その手当てなのだ。 「そうか。酔狂と見るか。しかし、瓢簟から駒、のたとえ もある。こっちの構えは大上段がよいか、それとも正眼が この手当てで敵意のない事をよく示し、そのあとで上総が 9