いる。しばらく誰も出入りはしなかったものと見える。 うに思われる。早速大炊を呼んで、お父上ご出府の、旅の 相談に駿府まで遣わそう。まだ大炊は城内に居るやも知れ「お召しなそうで」 利勝は、坐りながら丁字を除って小声でいった。 ぬ。居たら、ここへ参るようにと告げてくれぬか」 「大炊か。お父上ご出府について、みなの意見はまとまっ 柳生宗矩は、うやうやしく一礼して座を立った。 オカ」 ( わかったらしい ) そう思うあとから、まだ些少の不安は残っていたが、そ秀忠は眼を開かずに、組んだ腕たけ膝におき直した。 「 ( ときい・寸 ( せぬ」 れは今ここでロに出すべきではないと自戒した。 利勝は、首をふりながらひと膝すすめて、 土井利勝が駿府まで出向いてゆく。さすれば、秀忠の思 「ご出府と同時に、おだやかに仙台屋嗷を手中におさめ、 案は、もう一度家康の試問にあうのだ。 ( 足りないところがあれば、大御所さま、ご自身で訓えて御台所や忠輝夫人を質とせよ : : : そして、そのあとは相手 の出方を見まもる : : : というのが本多佐渡の申し分、その ゆくに違いない ) そう思って、長い廊下を表へ戻ってみると、表では土井他はそれよりもみな激しゅうござりまする」 : というからには、在府の藩士は反抗 「そうか。激しい 利勝ばかりか、本多正信、酒井忠世、水野忠元などが居残 って、家康出府のことについて、まだしきりに談論していするであろうゆえ、血祭りに斬り伏せてしまえとでも申す のか」 「それよりも」と利勝は答えた。 宗矩には、その論議の内容は聞かずとも察しがついた。 「大御所さまがご出府なさる : : : ということは、この際、 そこで土井利勝に、秀忠の呼んでいることを耳打ちする と、そのまま退城して、土井利勝は急いで秀忠の許へ出てご自身で江戸の後詰めを遊ばすお考えゆえ、将軍家は伊達 つ「 ) 0 征伐にご出陣、そのお覚悟が肝要ではあるまいかと」 いわれて、はじめて秀忠は眼を開いた。 秀忠は腕を組み、眼を閉じて、睡っているのかと思うほ どに静かな姿で坐っている。 火桶の炭火は、白い灰になり、灯台の丁字が長くのびて
このお躰で、果たして上洛出来るであろうか ? ) ふとそれを想わせられたのは、六日に曹洞宗の法問を聴 かれた後であった。 土井利勝は、そのおりにはまだ「伊達の叛心放棄ーー」 には半信半疑であった。 この法間が、言わばこの年、元和二年の「学間初め」 家康の関東巡遊が、却って彼の闘志を煽り、 で、二刻近くの聴間の後、座を立っと、ふらふらとよろめ 「ーー・・・・・何時かやられるものならば : いて、附添っていた茶阿局に危く支えられたほどであっ そんな追いつめられた覚悟に導きそうな危惧を感じてい しかし、家康自身は、少しもそれを意に介している様子 そこで、日々緊密に江戸と連絡をとりながら、しばらく はなく、九日になると、土井利勝に江戸へ帰るように命じ 駿府にとどまって、成り行きを見る気になった。 事実、伊達挙兵の噂が、江戸市中でもっとも喧伝された 「そなたがお側に無くては、将軍家が何彼とご不自由なさ のは年が明けてからで、 ろう。帰ってよいそ」 そう言ったあとで、梅の花の咲く頃に、自分ももう一度 この正月の油断を衝く気かも知れぬそ」 将軍の側近にも、そうした説をなす者がかなりあった。 江戸へ行き、十三歳になった竹千代の、京都で行なう筈の しかし家康は、問題にしなかった。 元服の儀式の打ち合わせをするゆえ、その下準備をしてお こまかい指図をしていった。 頼宣、頼房の二子と共に正月を迎えると、今年もまた何 この時竹千代の師傅を命じられているのは、酒井忠世、 十度となく口にした、例の信濃路の故事を二児に語り聞か せながら「兎の雑煮」を祝い、二日から上機嫌で諸臣の年土井利勝、青山忠俊の三名で、竹千代元服のことは、すで 賀を受けた。 に、家康から京都へも通達されている。土井利勝は、命じ : と、しみられたままに江戸へ帰ることにした。 疲れている : : : というよりも、枯れかけた : そして、出発の支度を整え家康の居間へ伺候すると、家 じみ感じられるおだやかな新春で、土井利勝と共に居残っ た柳生宗矩が、 康は、老眼鏡をかけ、机に向かって何かせっせと書いてい 、 ) 0 っ ) 0
「一」、れはいっこ、 を、再び下総の船橋に呼び出し、それから二人で放鷹しな 「案ずるな。京の押えにはの、伜一人、紀州のあたりにおがら佐倉の土井利勝の城に赴いた。 して、そなたに力を協わせるように固めておこう。よい 、それゆえ、如何なる事が起ころうと必ず禁裏は守護し 佐倉の城に着いた家康父子は、城主の上井利勝を加えて ぬく : : : その覚で、充分策を練っておけ。これはそのた 曰くあり気な密談 ~ こ入った。 めの骨折り料よ」 この時も柳生宗矩は警護として三人のそばに控えさせら 直孝はしばらく茫然とした表情で家康を見上げていた が、やがてその意味が汲みとれたと見えて、はげしく肩をれていた。 ふるわしだした。 十一月も下甸に人って、家康の周囲には火桶が三つおか 柳生宗矩は、もうその時にはさして驚ろかなかった。これ、燭台も四基にふやされていた。 の用意こそは : : : 父石舟斎の新陰流の要諦。家康はそれを 「わしは、これから両三日、船橋から葛西のあたりで放鷹 いま、この世の堅めに活用している。どこかで父が、快心を楽しんでの、二十七日には江戸に戻るそ」 の笑みをうかべて頷いているような気がしてならなかっ 家康がそういい出すと、土井利勝は、 「それまでに、仰せのことは」 そうしているところへ、将軍の一行もやって来た。そし と、神妙に答えた。何か家康の意を受けてそれを実行す て今度は父子そろって、岩槻、越ヶ谷、鴻ノ巣と共に狩りるという意味らしい。 して、将軍秀忠は鴻ノ巣からいったん江戸こ帚っ三、、 リオカ家 ( 何のことであろうか ? ) 康はまだ引きあげようとしなかった。 宗矩は、はじめそれがわからなかったが、しかし、この 将軍とわかれて又越ヶ谷に赴き、葛西から下総の千葉時、すでに家康は、こんどの旅の目的は果たしていたの へ出て、更に東金の本漸寺へ来て泊まった。 「又右衛門も火のそばに寄るがよい この頃には狩りのかたわらもつばら開墾と水利の開発に と家康はいっ。 ついて指図をしていたが、十六日には江戸城へ戻った秀忠 っ ) 0 ヾつ」 0
: などと軽々しく意見は申さぬ 「ーーー兄弟の情はそぢにはわからぬ。嘆願してみよと申すしてこの際伊達を一挙に : がよいて」 のだ ! 」 土井利勝はホッとした表情で頭を下げた。 ほんとうに忠輝を助けたいのならば、そういうに違いな い。それが、なるほどと感心して言葉を切ったので、土井利勝も実は戦にはしたくなかった。しかし、どうすれば 伊達政宗が、心底から甲冑を脱ぎ捨てる気になるか ? と 利勝は、 なると、まだ確固とした自信はない。やはり家康の知恵を ( やはりこれは本心ではないらしい ) 借りねば済まぬと素直に思った : と、解していった。 「折角大御所さまが、伊達への睨みに供えさせられた悲し い犠牲、その効果の半減するような差出口は、慎むべきか 関東大演習 と ~ 仔じまするが」 「そうか。予の考えが浅かったか。よし、それならば上総 介がことは伊達の問題が片付くまで黙っていようか」 「挈」、れが宀且しゅ、フ、一」ギトり・きしよ、つ」 「では、それは後の事にして : : : いよいよご出府となれ家康が、先ず上総介忠輝を深谷の古城に謹慎せしめてお いて、江戸からやって来た土井利勝と密談を重ね、いよい ば、予も川崎あたりまではお出迎え申し上げねばならぬ。 途中で何れへ立ち寄られるや ? 何分にもご老齢、万一のよ駿府を発って江戸に向かったのは陰暦の九月二十九日で こともあらば取り返しのつかぬこと、道中の警備はいうまあった。 この年は閏年である。したがって でもなく、ご無理なご日程にならぬようくれぐれも上野介前にも記したように、 太陽暦に直すとすでに十一月の末。七十四歳という年齢か とよう打ち合わせてのう」 らすると、いよいよ冬籠りの季節に入りかけている。 「それは充分に : : : 」 それが駿府を発って関東で大鷹狩りをやるというのだか 「では、明日にも発ってくれ。江戸の蛙どもにも、蛙ども らしい思案があった : : : そう思わせねば不孝になろう。決ら、諸大名が、その意味をあれこれ浮説するのは当然だっ 9
り」お身分意見をききなら、足りぬところは固め直す 「これで沁戸の護りは充分、なきなく駿府へ戻って正月 ・ : そのつもりであったが、片倉の病気で俄かに帰国は残 秀忠は相変わらず謹厳な表情で控えていたが、土井利勝念至極 : : : 聞けば片倉は亡くなったそうな。おカ落としで あろうと : は、宗矩をかえりみてホッと小さく嘆息した。 宗矩はびつくりして家康を見直した。 「まだ大炊は心配しているらしい。何しろ、江戸の噂が大 政宗の不意の帰国を、家康は、片倉景綱の病気見舞いと きすぎるのでな」 しかし、そうしたことをそのま 取り繕ってやったらしい。 「江戸の噂 : ・・ : と、仰せられますると ? 」 「伊達がことよ。しかし、伊達はもうあきらめたわ。支倉ま素直に受け取る政宗であろうか。政宗は、おそらく、 「ーーーあの狸めが、又小細工を」 から未だに便りはなく、片倉景綱は死んでしもうた。そこ 頬をゆがめて嘲笑うに違いない : : : そう思ったときに家 で今度は、わしの方から助け船を出してやる。又右衛門 康は、また信じられないようなことを口にした。 それでよいであろうな」 「上総介が御台のことも詫びてやったわ。あれが愚か者ゅ 宗矩は小首を傾げて家康の次の言葉を待った。 オカその 伊達政宗が、叛意を翻した : : : 家康はそういっているらえ、姫にまで思わぬ嘆きをかけて済まなんだ。・ ' ー、 しかし、それは、そう簡単に宗矩に信じられること代り、両家後々の誼みのため、伊達の世子忠宗に、将軍の ではなかった。 娘一人を進ぜよう。天下のためじゃ。まげてご承引あるよ 、フにとの、フ」 ( いったん矛はおさめても、あの気性は : : : ) 家康は淡々といって、それから土井利勝をふり返った。 家康は、そうした宗矩の危風には気付かぬもののように 「大炊は反対での、だが、これで戦が一つ買えれば安いも 言葉を続けた。 「わしはの、伊達にくやみの便りを出してやったぞ。今度のよ。そうであろうが」 の放鷹は、お許と二人でやりたかったと申してな」 四 「伊達どのとお二人で : : : ? 」 「、、フじゃ。、 宗矩はそっと上眼で利勝を見やった。たしかに土井利勝 しうまでもなく、これは江戸の固めの見廻 8
「大炊、お父上はの、江戸の蛙 : : : と、予やその方等のこ そこまではわかるのだが、しかし、最後に話された上総 とを申されたそうな」 介忠輝のことについては、土井利勝は、まだ納得がゆかな つつ ) 0 、刀ュ / 「井戸の蛙 : : : でござりまするか」 「井戸ではない江戸じゃ。ギャクギャグと鳴きわめくだけ 人間の言葉には、つねに表裏の意味がある。秀忠は本心 で、急所が一本抜けているというご比喩であろう。考えてで忠輝を父に会わせたいと思っているのか ? みると、われ等は些か事を好む。臆病のきらいがあった それとも、嘆願の意味をふくめて、実は処分を促そうと そ」 しているのか ? その点があいまいだった 秀忠はそう言うとはじめて火桶に手をのばし、うず高い 利勝は、ここで忠輝を助けることには反対たった。蛇の 灰の中からまっ赤な炭火を掘りだした。 生叔しよ、、 しよいよ反感を深めるばかり : 「それからもう一つ、上総介のことな。上総介はおとなし 「恐れながら、上総介さまにご対面はまかりならぬ : く深谷へ移って参る。ご出府のみぎり、もう一度だけご対 と、仰せられた時は何と致しましようや ? 」 面をお許し下さるまいかと頼んでみよ」 利勝は狡猾に反間した。答えの中から、秀忠の本心を探 ろうというのである。 「それがしの考えでは、上総介さまご処分がすでに伊達政 土井利勝はぐっと上躰を立てて秀忠を睨み返す形になっ 宗への大事な威嚇 : : : つまりは睨みの一つかと心得まする っ ) 0 力」 ( 大御所に戦をする気はない ) 「それゆえ、それには、触れるなと申すのか」 みだ 「よ、 0 秀忠はそ、ついっている。 うかつに触れては、大御所さまのお心を紊すばか しかし、今のままでは捨ておけないので、これ以上の我り : : : 深谷へ謹慎してあれば、そのままにしておく方が、 儘は許さぬぞと、出府して来るのは政宗への示威のため政宗を畏怖せしめ得ようかと : : それを秀忠は、睨みに出て来る、といったのに違いな 「なるほど」 秀忠はここでも又意外なほどに素直であった。 8
「大炊、お父上のご思案はそのようなところにはないぞ」 「すると大御所さまは、ご自身で伊達征伐にご出陣 : 言いながら秀忠は思わず唇辺に笑いをうかべた。 と、ご覧なされまするので ? 」 宗矩の言った「井戸の蛙ーー」をもじった「江戸の蛙」 「その逆じゃ。ハ、・ を思い出したからであった。 「その逆」 「お父上はな、伊達という虎を睨みにおいでなさるの 「と、仰せられると、大御所さまより何ぞ ? 」 カお考えはほ 「いや、かくべっ仰せ越されたことはない。ー、 「睨みに ばわかった。依って、お許は至急駿府へ参ってくれぬか」 さすがに俊敏な土井利勝も、目を丸くしたまま首を傾げ 「それがしが駿府へ : 「そうじゃ。お父上のご予定では、今月中に駿府をご出発た。 ありたいお心のご様子、その旅のお打ち合わせを済まして「そうじゃ。伊達政宗と申す、泰平の世の秩序の檻に入ら ぬ虎をな。この虎を怖れると戦になる。虎一匹のために戦 おかねばなるまい」 「それは当然 : : : さりながら、大御所さまを迎えるわれ等をするような愚かなことは、お父上は好ませられぬ」 の評定、ひとまず決定しておくが順かと心得まするが」 「それゆえこの虎を、ご自身でお睨みなさる。睨んで睨ん 「その要はない。予の心がすでに決まって居るからの」 で虎を檻に入れればよいのじゃ : : : そうじゃ。こう申せ。 「上様のお心が : 「そうじゃ。よいか、駿府へ参ったらお父上にこう申し上お父上のあとで、われ等も虎を睨もうほどに、睨み方の急 所、先ずもってお訓えおき下さるよう : : : そう申せ。そう げよ。御鷹野の範囲、どのあたりまでに遊ばしまするや、 申せば、それで旅の打ち合わせになろう」 それを詳しく承って参れ : : : 」 と、一「ロいかけ・て、 と、もう一度首を傾げて考えて、土井利勝はハタと膝を 「いや、それではならぬわ。それでは叱られるわ」 叩いていった。 : ? なんと叱られまするので」 「なるほど ! それ、それでござりましたか」 「獲物次第よーー、。獲物次第で奥州までも参るそと : ・・ : 」 5
ったが、伊達政宗の到着する二十三日の前日、二十二日の とにかく伊達は当代稀有の曲者、お側には藤堂高虎と柳 朝またぶり返して起きられなくなっていた。 生宗矩を控えさせ、大小は預からせたうえ枕頭に通すよう それだけに「政宗御見舞に参上ーー」と到着を告げられに : : : そう決まったのだが、 大小の事は、政宗の方が、病 た時には、将軍秀忠のまわりはちょっと殺気立った。 間へ通る前に、さっさと自分の方からこれも出迎えた松平 「ご重態じゃ。病室へ通すことなど思いもよらぬ」 勝隆に預けて病間へ人っていった。 「まだ、疑惑の解けぬ身ではないか。笑顔など見せてよい 家康は、土井利勝が取り次いだ時には、わかったようで ものか」 もあり、わからぬようでもあった。 青山忠俊がもっとも強く反感を見せ、本多正純がこれに したがって、政宗を病間へ通して平伏させる。それだけ 次い でよい。それだけで決して仮病でもなければ、薨去をかく しかし、伊達政宗は、相変わらす強引で、家康に会わせしているのでもない : : : そうわからせたうえ、万が一にも られぬほどならば、即刻将軍にお目通り致したいと申し出 礼を失する態度があったら、将軍秀忠の前で震えあがらせ よ、というのが側近の肚であった。 ところが : そうなると、どこまでも穏やかに、相手の叛心を消滅さ せるよう : : : そうした家康の意志がわかっているだけに、 政宗を案内してみると、家康は病床に起き上がってい その扱いは簡単に決めかねる。 た。純白の夜具を重ねて、それにもたれ、紫の布で鉢巻き 「ーーーー大御所ご発病とうけたまわり、万一お目にかかれぬをして、政宗の姿を見ると、 「おお、よう来られた : ようなこともあらば生涯の悔いと、夜に日を継いで仙台よ り出て参った。政宗の胸中は、大御所さまご存知、必すよ はっきりとした声でいった。 う来てくれたと仰せられる。到着のご挨拶だけ申し上げた 眼の中は少しく紅い。が、視線も澄んだおだやかなもの し」 であった。 重ねていわれて、到頭、土井利勝がこれを取り次ぐこと 「わしの方から迎えにやろうかと思うていたのじゃ。よう こよっこ 0 来られた : 104
五 秀忠の許からは、青山忠俊につづいて、安藤重信、土井 利勝と見舞いが遣わされ、更に二月一日には秀忠自身が江家康は、将軍秀忠の着到を知ると、 「寝たままご無礼 : ・・ : 」 戸を発して駿府へ向かった。 と、会釈して、すぐさま訊ねた。 これまで来られなかったのは、また伊達の動向に、いにか かるものがあったからに違いない。 「江戸は、平穏でござろうな ? 」 「はい。至って平穏にござりますれば : : 一日も早くご快 秀忠は、二月一日の辰の刻 ( 午前八時 ) に江戸城を出る と、昼夜兼行、翌二日の戌刻 ( 午後八時 ) には駿府へ着い復のほど」 家康はそれには答えず、おだやかな視線を秀忠と並んで て父を見舞った。 江戸から駿府までは途中に八里の箱根山を距てて、四十坐った三人の子供に移して、 四里二十六丁 ( 一七九八キロ ) の道のりで、普通ならば五「みなみな、将軍家のおいいつけに、異背はならぬそ」 と、小声でいった。 日はかかる。それを、わずかに三十六時間で駈けつけてい るのだから道中一睡もせずの旅であったことがよくわか 三人は声をそろえて「はいツ」と答えた。 る。 「将軍家よ。くれぐれも、われに代わっての」 「、い得て、こざりまする」 その時にはもう名古屋から義直も駈けつけていたので、 「それから大炊よ」 秀忠は、義直、頼宣、頼房の三人の弟を連れて家康の枕辺 をおとずれた。 秀忠のうしろに控えた土井利勝を眼で招いた。 「これら三人の者どものありよう、将軍家に申し上げてお 四人そろって父の見舞いに、看護に当たっている茶阿の いてくれたであろうな」 局は眼をまっ赤にしてこれを迎えた。 「はツ。くわしく言上致してござりまする」 自分の産んだ子の忠輝だけが除外されている。それを想 秀忠と視線を合わせながら答えていった。 うと、今更のように悲しさが胸をしめつけてくるのであっ 後に「御三家ーーー」といわれた義直、頼宣、頼房、三家 102
こそ泰平と申すもの : : : 何時か、この事を竹千代にも、よ う聞かせてやってくれよ」 こうして、その夜は瀬子の善徳寺に泊まり、家康が駿府 へ帰着したのは、元和元年も押しつまった十二月の十六日 であった。 この時、伊達政宗の密命をおびてヨーロッパに渡ってい 家康はすでに政宗の叛意はおさえ得たと信じていた。 た支倉常長の一行は、ローマからチビタベッキヤを経て、 ( 政宗は石田治部ほど妥協性のない男ではない ! ) フロレンスからリポルノに向かって旅していた。 むろんフィリップ三世からの援軍などは派遣出来る事情石田三成も先はよく見えた。彼は、太閤死後の天下が、 こなかった。。、、 どのような形になりゆくかをよく知っていた。知っていな カそうした連絡が日本にあろう筈もなく、 がら、感情に殉じなければいられない型の人間だった。潔 上総介忠輝を深谷城に幽され、重臣片倉景綱に先立たれた 伊達政宗は、仙台城にあって家康からの手紙を前にし、わ癖というよりも、それはやはり情意の調和を規制しきれ が身のたぎり立っ叛骨の血の奔騰に、じっと相対していたず、大きな歴史の流れに叛いて自爆してゆく悲劇の芽をど のである : うすることも出来ない生まれつきの男であった。 家康は清水まで出迎えに来ていた第十子の遠江中将と連 しかし伊達政宗はそうではない。つねに局面に対して冷 れ立って駿府城に入ってゆくと、後を追うようにして江戸静にヨミの出来る男なのだ。 と、つ、刀し 三成はトボけることも出来なければ韜臨することも出来 からやって来ていた土井利勝と対面した。 土井利勝は、伊達政宗から、将軍家にあてて丁重な返書ない生一本な男であったが、政宗は、出て来る答え次第 。、届けられた旨を知らせに来たのである。 で、道化も演すれば、空トボけても見せられる人間の幅を もっている。 その時家康は「フン」と言っただけであった。 おそらく彼は、家康が自身で出府して、江戸の周辺の武 備をくまなく点検しだしたときに、 最後の正月 8