を主将に迎え、家康を討っことを論議する。国 慶長五年 ( 一六〇〇 ) 五十九歳 7 月肥日増田長盛、佐和山城の会合を家康に報告する。 2 月日家康、下野足利学校の元佶をして「貞観政要」 を刊行させる。 7 月日吉川広家、安国寺恵瓊の、石田三成・大谷吉継 3 月日オランダ船 リーフデ号、豊後に漂着する。家 等と上杉景勝との夾撃による家康攻略に反対 康、同船のイギリス人ウィリアム・アダムス等 し、毛利輝元の出陣を阻止せんとする。国 を大坂城に引見する。国ル 7 月新日毛利輝元、石田三成の招きに応じ、大坂に着 3 月是月陸奥会津の上杉景勝、石田三成と謀り、陸奥会 津城の西南神刺村に築城する。越後春日山の堀 7 月日毛利輝元、家康の留守佐野綱正に大坂城西の丸 秀治、これを家康に報告する。Ü* を明け渡させる。正綱、家康の側室を山城淀に 3 月是月上杉景勝の臣藤田信吉、景勝が石田三成と接近 移し、伏見城に入る。国 するのを諫言し、老臣直江兼続と衝突して、会同月同日豊臣の奉行長束正家・増田長盛・石田三成等、 津を去る。甥 家康の罪科十三ケ条を挙げ、家康を討っことを 4 月 1 日家康、伊奈昭綱を陸奥会津に遣わし、上杉景勝 諸大名に告げる。い の非をさとし、速かに入京することを勧める。 同月同日石田三成、会津征伐に従軍の諸大名の妻子を大 坂城に入質にしようとする。この日、丹後宮津 6 月 2 日家康、大坂城西の丸に諸将を集め、会津征伐の の長岡忠興 ( 細川忠興 ) の室明智氏 ( ガラシャ 軍議をひらく。 7 夫人 ) 、これを拒み、死去す。 6 月日家康、兵を率いて大坂を発し、山城伏見に入同月同日黒田長政の母・加藤清正の室等、大坂よりひそ る。同 かに逃れる。 6 月日家康、伏見城の留守を鳥居元忠・松平家忠等に 7 月四日石田三成、伏見城の明け渡しを要求する。留守 守らせる。国 % 鳥居元忠、これを拒否し、変を家康に報告す 5 月日家康、近江石部に泊る。近江水口の長束正家、 る。伏見在城の木下勝俊、元忠と別れて城を脱 明日、城内に饗応せんことを申入れる。家康、 出する。この日、三成等の諸将、伏見城攻撃を 夜半、急に石部を出発する。国幻 はじめる。国得 7 月 2 日家康、江戸に入城する。囲・ 7 月日家康、下野小山に出陣する。鳥居元忠の報告を 7 月日大谷吉継・増田長盛・安国寺恵瓊等、石田三成 うけ、諸将を召集してその去就をただす。黒田 と近江佐和山城に会合し、安芸広島の毛利輝元 長政・福島正則等、誓言を提出する。い・ 116
止する。 8 月 2 日家康、尾張名古屋に着く。徳川義利 ( 義直 ) に 美濃の地三万石を加増する。 2 6 月 3 日飛騨高山城主金森可重、山城伏見に卒する。 8 月日家康、駿府に入る。 6 月日幕府、諸大名に命じて、各居城以外の城塁をこ 8 月日筑前博多の商人島井宗室歿す。 わさせる。〔一国一城の制〕 9 月 8 日家康、秀忠の使者小姓組番頭水野忠元を謁見す 6 月四日越前北荘城主松平忠直・陸奥仙台城主伊達政宗・ る。同 7 加賀金沢城主前田利光 ( 利常 ) 参議となる。 9 月日これより先、家康、越後福島城主松平忠輝の驕 壬 6 月幻日秀忠、参内する。鰤 惰を憤り、駿府大番頭松平勝隆を越後に遣わし、 7 月 7 日家康、金地院崇伝 ( 以心 ) 等に命じ、諸法度を これを譴責し、勘当を命じる。この日、勝隆、 制定させる。この日、秀忠、諸大名を山城伏見 駿府に帰り、これを復命する。ついで、忠輝、 城に集め、武家諸法度を定める。 2 ・蛎 居城福島を去りて、武蔵深谷に屏居し、後にさ 7 月日元和と改元する。 2 眄 らに上野藤岡に移る。 2 ル・同 7 月Ⅱ日幕府、諸大名を国に帰らせる。 9 月日家康、曹洞宗の法問を聴く。同 7 月日禁中公家諸法度を定め、前左大臣二条昭実・秀 9 月幻日長門萩城主毛利宗瑞 ( 輝元 ) の子秀就の江戸屋 忠・家康、これに連署する。・ 敷、火災あり。陸奥仙台城主伊達政宗等の屋敷 7 月四日秀忠、江戸に帰らんとして山城伏見を出発する。 も延焼する。 9 月日秀忠、使者として土井利勝を駿府に遣わす。同 % 同月同日幕府、三河刈屋城主水野勝成を大和郡山に移 9 月四日家康、関東に放鷹せんとして、駿府を発し、江 し、三万石を加増する。 戸に行く。同男 ウィリヤ 7 月日家康、参議中院通村等の「源氏物語」の講義を 9 月是月イギリス船長ラーフ・コビンドール、 ム・アダムス等、駿府にいたり、家康に謁す。 7 月日家康、諸宗本山・本寺の諸法度を定める。 月 9 日家康、相模神奈月冫 ーこ着く。秀忠、これを出迎え 7 月日家康、畿内の諸社寺の所領を安堵する。 る。同 7 月日鷹司信尚、関白を罷め、二条昭実、関白とな 2 月日家康、江戸城西の丸に入る。同・ る。 月Ⅱ日陸奥仙台城主伊達政宗の老臣片倉景綱卒す。子 7 月日秀頼の後室徳川氏 ( 千姫 ) 、江戸に帰る。 重綱嗣ぐ。 8 月 4 日家康、駿府に帰らんとし、京都を出発する。 月日家康、江戸城西の丸で浄土宗の法問を聴く。同貌 同月同日秀忠、江戸に着く。帽 月四日家康、下野足利学校の神珠の法問を聴く。い
のべて徳川氏との和を保つことを勧める。秀頼 ことを報告し、家康・秀忠に大仏殿上棟式に参 及び生母浅井氏 ( 淀君 ) 、これを不快とする。 列することを求める。 7 月日京都の人角倉了以 ( 光好 ) 歿する。子与一嗣ぐ。 7 月日片桐且元、大仏開眼供養を 8 月 3 日に、堂供養 9 月幻日畿内及び諸国に伊勢踊流行する。この日、禁中 に伊勢踊を行なう。 を 8 月日に行ないたい旨を、家康に報告する。 同月同日家康、高山等伯 ( 長房・右近 ) ・内藤徳庵等のキ 家康、これを許す。既 リスト教徒百余人を海外に追放する。・ 7 月幻日家康、山城方広寺の鐘銘と上棟の期日が不吉で 9 月日織田常真 ( 信雄 ) 、大坂城を退去し、山城龍安 あると怒る。Ⅳ 寺に仮寓する。Ⅲ 7 月日家康、鐘銘の文辞不吉をのべて供養の延期を命 じる。 3 乃 9 月日秀頼の臣石川貞政、大坂城を出て、片桐且元の 摂津茨木城に入る。 8 月 2 日大工頭中井正清、方広寺の鐘銘の写を家康に進 める。 川月 1 日片桐且元、弟貞隆等一族をあげて大坂城を退去 し、居城摂津茨木に入る。 8 月 4 日大工頭中井正清、方広寺大仏の棟札の写を家康 同月同日所司代板倉勝重、大坂の騒擾を駿府に報告す。 に進める。 家康、大坂討伐を決する。諸大名に出陣を命じ 8 月 5 日家康、板倉重昌を京都につかわして、五山の僧 に鐘銘の可否を批判させる。 月 6 日秀頼、大坂城を修理し、牢人を集め籠城の準備 8 月日片桐且元、方広寺鐘銘等の弁明のため駿府に行 をする。真田信繁 ( 幸村 ) ・長宗我部盛親・後 藤基次等、大坂城に入る。 8 月加日家康、駿府に来た片桐且元に、本多正純・金地 川月 8 日家康、藤堂高虎を先鋒とし、大和より大坂に進 院崇伝をして方広寺鐘銘・棟札について論じさ めさせる。この日、高虎、駿府を発つ。Ⅲ せ、また大坂方が多くの牢人を召し抱えること 川月 9 日家康、肥前唐津城主寺沢広高に命じて、長崎奉 を詰問する。 行長谷川藤広と共に、キリスト教徒の追放とそ 8 月四日大坂の使者大蔵卿局、駿府に入り、家康に謁 の動向の警戒を厳重にさせる。 す。 同月同日家康の臣本多正純、信書を肥後人吉城主相良長 9 月 7 日幕府、西国の諸大名に誓書を提出させる。 毎におくり、従軍を止めて、その封地を守らせ 同月同日茶人千宗淳 ( 小庵 ) 歿す。 る。 9 月日片桐且元・大蔵卿局、大坂に帰りて秀頼に家康 川月川日家康、駿府に参集の諸大名を謁見し、それそれ の意を伝える。且元、これについて三つの策を Ⅱ 4
Ⅱ月日家康、摂津住吉に陣を取る。 等に命じて、陣中より城に向かいて地下道を掘 Ⅱ月日家康・秀忠、摂津茶臼山に会合し、大坂城攻略 らせる。 の軍議を開く。諸所に付城を築かせる。 月日大和吉野北山・紀伊熊野の土民、蜂起して大坂 Ⅱ月日前関白左大臣従一位近衛信尹夢ず。 方に応じる。この日、北山の一揆、紀伊新宮城 Ⅱ月日佐竹義宣、摂津今福に、上杉景勝、鴫野に陣を を襲、フ。 取り、進んで大坂城柵に迫る。城将木村重成・ 月巧日家康、織田有楽・大野治長の示す講和条件をよ 後蒔基次等、今福に出て戦う。重成等破れて退 ろこばない。 月日家康、砲術のすぐれた者を選び、城内を砲撃す 同月同日大坂方の番船、摂津野田に出る。志摩鳥羽城主 九鬼守隆、これを撃退する。 同月同日大坂方の将塙直之等、船場の陣に夜襲をかける。 Ⅱ月日家康、伊勢安濃津城主藤堂高虎に命じて、大坂 月四日家康の側室神尾氏 ( 阿茶局 ) ・本多正純、若狭 城西南の櫓を砲撃せしむ。 小浜城主京極忠高の摂津今里の陣において、常 高院と会見する。家康の提案した講和条件に秀 Ⅱ月是月家康、関西諸大名家臣の人質を山城伏見城に収 容する。 頼が賛同し、誓書を出して和を修めることを約 月 1 日大坂の兵、船場方面の諸橋を焼き、高麗橋に迫 束する。・ これを撃退する。 る。美濃大垣城主石川忠総、 月日秀頼、常高院・二位局・饗庭局等を摂津茶臼山 貶月 3 日家康、織田有楽に書をおくり、和議を計らせ に遣わして、家康の誓書を請取らしめる。 8 / 0 ウ [ る。この日、有楽、使を遣わして、幹旋するこ 1 よっムっ乙 とを答える。 月幻日秀頼、木村重成を摂津岡山に遣わして、秀忠の 月 4 日松平忠直・前田利光 ( 利常 ) ・井伊直孝等、大坂 誓書を請取らせる。 城城壁に迫る。城兵と激戦し、死傷者多く出る。同月同日家康、大坂攻めの諸軍に命じて本陣に退かせ 月 5 日秀忠、日を期して大坂城攻撃をなさんことを具 る。また九州よりの諸軍を本国に帰らせる。 申する。家康、これを許さず。 〔大坂冬の陣〕 月 8 日織田有楽・大野治長、家康の臣本多正純に書を同月同日家康、松平忠明・本多忠政・本多康紀等を大坂 おくって講和の条件を講す。 城取りこわし普請奉行とし、諸大名をして、こ 月日家康、矢文を城中におくり、降服する者は皆許 れに助力させる。 すことを告げる。 月日家康、側室神尾氏 ( 阿茶局 ) ・板倉重昌を大坂 月Ⅱ日家康、佐渡の代官間宮直元・甲斐代官島田直時 城中に遣わし、秀頼とその生母浅井氏 ( 淀君 ) っ 0
正月川日秀頼、秀吉の遺命により、伏見城より大坂城に 川月是月一加藤清正、慶尚道蔚山に築城する。 移る。 五十七歳 慶長三年 ( 一五九八 ) 正月四日家康、伊達政宗・福島正則・蜂須賀一茂 ( 家政 ) 等と婚姻の約束をする。この日、前田利家・字 正月 1 日加藤清正、慶尚道蔚山に苦戦する。 喜多秀家等、家康及び政宗に、秀吉の遺命に背 正月 2 日秀吉、陸奥会津の蒲生秀隆を下野宇都宮に移 くことを責める。 し、越後春日山の上杉景勝を会津に移す。Üä 2 月四日石田三成等豊臣氏五奉行、家康を除かんと図る。 3 月日秀吉、秀頼と共に山城醍醐寺三宝院に花を見 この日、前田利家、家康と和解する。 る。目弸 3 月Ⅱ日家康、大坂に行き、前田利家の病床を見舞う。 6 月日秀吉の平癒をり、臨時御神楽を内侍所に奏す る。目 前権大納一 = ロ従三位前田利家薨ず。Ü 3 月 3 日 7 月新日秀吉、諸大名をして秀頼に忠節を誓わせる。 壬 加藤清正・黒田長政等、石田三成を除かんとす っ 0 月 -4 「凵 8 月 5 日秀吉、秀頼を徳川家康・前田利家等の五人の年 る。この日、三成、大坂より伏見に逃れ、家康一 寄衆に托す。家康・利家、石田三成等の五奉行 を頼る。 と誓書をとりかわす。川 4 月新日勅使を山城阿弥陀峰の仮殿に遣わし、社号を豊 8 月日太政大臣従一位豊臣秀吉薨ず。 ( 歳 ) 子秀頼嗣 国大明神とたまう。ロ川 ぐ。 4 月日山城豊国社正遷宮。 8 月日家康及び前田利家、秀吉の喪を秘して、徳永寿 4 月四日豊国大明神に正一位をさずける。 昌・宮本豊盛を朝鮮に遣わし、諸将の帰還を命 6 月 7 日家康、大坂城において秀頼に会う。第 じる。 % ・ 9 月日秀吉の後室杉原氏 ( 高台院 ) 、大坂城西の丸を Ⅱ月日明の水軍、日本軍の帰還を阻止する。朝鮮水軍 出て京都に移る。鈊 の将李舜臣、戦死す。Üa 9 月日家康、大坂城西の丸に移る。・ 月是月家康、島津龍伯 ( 義久 ) ・長岡玄旨 ( 細川幽斎 ) Ⅱ月跚日家康、不受不施の説を唱える妙覚寺前住持日奥 等の伏見の亭を訪問する。は を流罪に処する。 貶月是月日本軍の朝鮮撤退ほば完了する。 , 」の冬家康、加賀金沢の前田利長が異心あるをきき、 , 」の年「豊臣家蔵納目録」成る。 これを討たんとする。利長、家老横山長知を遣 わして弁明する。 慶長四年 ( 一五九九 ) 五十八歳
3 月 2 日秀吉・拾丸、宮中より刀剣・馬をたまわる。目蹶 7 月 5 日秀次、秀吉に誓書を呈出する。目 7 月 8 日秀吉、秀次の行跡修まらないのを責め、関白・ 左大臣の官職を奪い、高野山に追放する。目 7 月日秀吉、福島正則を高野山に遣わし、秀次に切腹 を命じる。国 7 月是月徳川家康・毛利輝元等、秀吉・拾丸 ( 秀頼 ) 父 子に異心なきを誓う。目 8 月 2 日秀吉、法度六ヶ条を定める。翌日、九ケ条を追 加する。家康、これに連署する。 9 月日秀吉、故浅井長政の女達子を徳川秀忠に嫁がせ る。目 Ⅱ月 8 日秀吉病む。目 この年家康第八子仙千代、伏見に生まれる。母は清水 氏。 五十五歳 慶長元年 ( 一五九六 ) 正月日秀吉の奉行長束正家・石田三成・増田長盛・前 田玄以等、秀吉の子拾丸 ( 秀頼 ) に忠誠を誓う。 5 月 4 日明の冊封日本正使李宗城、釜山より逃亡する。 明王、揚邦亨を冊封日本正使とし、沈惟敬を副 使とする。目ル・川 5 月 8 日家康、内大臣正一一位となる。目 5 月Ⅱ日加藤清正、秀吉の命をうけ朝鮮より帰る。伏見 に着き讒せられて屏居する。目 7 月日家康の老臣本多重次卒す。子成重嗣ぐ。 7 月 4 日朝鮮正使黄慎・副使朴弘長等、釜山を発し日本 に向かう。臼 7 月日畿内大地震、伏見城こわれる。、ル 同月同日加藤清正、地震により秀吉のところに馳せ参じ る。ついで、秀吉、清正の屏居をゆるす。目 同月同日家康、明との交渉について秀吉に反省を求め る。目 同月同日山城方広寺の大仏の首、地震により落ちる。 9 月 1 日秀吉、明使揚邦亨・副使沈惟敬を大坂城に引見 する。 9 月 2 日秀吉、明の国書を相国寺の承兌に読ませる。明 の違約を怒り、朝鮮出兵を決める。目 月日家康の老臣酒井忠次卒す。 Ⅱ月日秀吉、耶蘇教徒二十六人を捕え長崎に処刑する。 貶月日秀吉の子拾丸、元服して秀頼と名を改める。 五十六歳 慶長二年 ( 一五九七 ) 正月日加藤清正、朝鮮慶尚道多大浦に着く。 2 月日秀吉、朝鮮出征の諸将の部署を定め、出征の条 規を下す。目 3 月 7 日秀吉、五人組・十人組の制を定める。 3 月 8 日秀吉、山城醍醐三宝院に花見を催す。家康も同 行する。目・ 5 月日徳川秀忠の長女千姫、山城伏見城に生まれる。 母は浅井氏。 7 月新日小西行長等、朝鮮の水軍を巨済島に破る。 8 月日前室町幕府十五代将軍足利義昭、大坂に薨ず。
Ⅱ月日家康第九子五郎太丸 ( 義直 ) 、伏見に生まれる。 母は清水氏。 この年家康、堺奉行をおく。 この年家康、主要な鉱山を直轄地とする。 この年イギリス、東インド会社設立。 慶長六年 ( 一六〇一 ) 正月是月家康、東海道の伝馬の制を定める。国捌 正月是月家康、譜代の家臣を各地に封ずる。国 7 3 月日秀頼、権大納言となる。翌日、秀忠も権大納言 となる。圓蘚 3 月是月家康、関東諸国に検地を行なう。 4 月日秀忠、山城伏見を発ち、江戸に向かう。 5 月是月家康、山城伏見に銀座を置く。また大里屋常見 に命じて白銀の品位を定め、さらに金銀貨幣を 改鋳させる。 7 月幻日陸奥会津の上杉景勝、越前北荘の結城秀康をた よりて家康に罪を謝する。この日、景勝、老臣 直江兼続等を率いて入京する。国 8 月幻日家康、上杉景勝の陸奥会津百万石を没収し、出 羽米沢三十万石を与える。 8 月日家康、陸奥会津の六十万石を、下野宇都宀呂の蒲 生秀行に与える。 8 月是月家康、板倉勝重を所司代とする。 9 月日秀忠、その女珠姫を加賀金沢の前田利長の養子 利光に嫁がせる。国 Ⅱ月 5 日家康、江一尸に帰る。 Ⅱ月 2 日江戸駿河町より出火、大火となる。国躓 この年家康、山口直友を丹波郡代、松平親宅・鳥山精 俊を三河代官、中西実清を信濃伊奈代官、大久 保長安を甲斐代官、小泉吉次を武蔵稲毛・川崎 の代官とする。 六十歳慶長七年 ( 一六〇一 l) 六十一歳 正月 6 日家康、従一位となる。 正月是月家康、秀忠に関東の地二十万石を与える。 2 月 1 日近江佐和山城の井伊直政卒す。子直勝嗣ぐ。 2 月Ⅱ日家康、山城伏見城に入る。 2 月是月家康の生母水野氏 ( 於大の方 ) 、上京する。国 3 月 7 日家康第十子長福丸 ( 頼宣 ) 、伏見城に生まれる。 母は正木氏。圓 4 月日連歌師里村紹巴歿する。 5 月 1 日家康、諸大名に二条城の経営を命じる。 5 月 8 日家康、佐竹義宣の常陸五十万石を収め、出羽秋 田二十万石を与える。 8 月日家康の生母水野氏 ( 於大の方 ) 、山城伏見に卒 する。 川月日備前岡山の小早川秀詮 ( 秀秋 ) 卒す。嗣子な く、所領没収される。国 月日家康、下総佐倉の武田信吉を常陸水戸に移し、 松平忠輝を佐倉に移封する。師 月 4 日山城方広寺大仏殿火災あり。Ⅲ この年オランダ、東インド会社設立。
その封地に帰り、兵備を整え、軍令を待っこと を命じる。 月Ⅱ日家康、常陸水戸城主徳川頼房をして駿府城を留 守せしめ、自ら諸軍を率いて、駿府を出発す る。Ⅲ 川月日家康、遠江掛川に着く。大野治純・片桐且元の 使者、大坂城内の状況を報告する。所司代板倉 勝重も亦、大坂の情報を知らせる。 川月昭日秀頼、薩摩鹿児島城主島津家久に信書をおくり 助力を求める。この日、家久、これを辞退し、 秀頼よりの書を家康に提出する。 川月日陸奥仙台城主伊達政宗、兵を率いて居城を発 し、下野小山に着く。秀頼よりの使者、政宗に 調停を依頼する。政宗、これを秀忠に具申する。 川月日家康、三河岡崎に着く。この日、尾張名古屋城 主義利 ( 義直 ) 、兵を率いて名古屋を出発する。 同月同日秀忠、奥羽の諸大名が結集したら、速かに江戸 を出発したい旨、家康に請願する。家康、その 意に任せる。 月日家康、越前北荘城主松平忠直を山城西岡・東寺 に、加賀金沢城主前田利光 ( 利常 ) を淀・鳥羽 に在陣させる。 月四日家康、中国・西国及び四国の諸大名に兵を率い て大坂に参集することを命じる。 月日大坂方、人を遣わし、二条城を焼き、家康を狙 撃せんとする。所司代板倉勝重、これを捕え、 家康に報告する。 川月日家康、京都二条城に入る。鵬 同月同日秀忠、松平忠輝・鳥居忠政・最上家親を留守と さだめて軍を率いて江戸を発し、相模神奈川に CD 0 1 よ・ 0 ′】 川月日家康、藤堂高虎・片桐且元に、大坂城包囲の先 鋒を命じる。高虎、河内の国府に進み、小山に 陣を取る。 1 間月日家康、秀忠に使を遣わし、大軍なるが故に、行 軍を徐行するよう命じる。げ 同月同日和泉堺の市民、家康に銀を献上する。 月是月幕府、東海・東山両街道の要所に関所をおき、 通行人を検閲する。 川月是月所司代板倉勝重、近畿の諸社寺・村落に禁制を 掲げる。 Ⅱ月 4 日摂津茨木城主片桐且元、大坂付近の地図を家康 に呈出する。 Ⅱ月 5 日藤堂高虎・松平忠直・前田利光 ( 利常 ) 等、摂 津安倍野・住吉の間に陣を進める。 Ⅱ月 7 日備前岡山城主池田忠継、摂津神崎川を渡り、中 島の敵を攻め、大和田を奪う。その他の諸将も 中島に進む。 Ⅱ月 8 日武蔵仙波喜多院の南光坊天海、上京し、家康に 謁す。 Ⅱ月 9 日家康、諸大名に命じて兵粮船及び商船を和泉堺 に回囀させる。 Ⅱ月Ⅱ日秀忠、京都二条城に入る。 g ・ Ⅱ月日家康、二条城を発して大坂に向かい、奈良に着 く。秀忠も伏見を発して河内枚方に至る。
7 月 3 日駿府城修築完成する。家康、これに移る。 康、これを許し、朱印状を与える。 1 月日駿府城火災あり。 7 月四日安芸広島城主福島正則、居城を修築し、家康の 意を害す。正則、これをこわす。 慶長十三年 ( 一六〇八 ) 六十七歳 8 月是月オランダ、肥前平戸に商館を建設し、ヤッグ・ スペッグスを館長とする。 正月Ⅱ日幕府、西洋・安南渡航の朱印を出す。相国寺の 9 月是月前フィリビン太守ドン・ロドリゴ・デ・ビペ 西笑承兌寂するにより、円光寺閑室元信をして ロの乗船、上総田尻に漂着する。 朱印状を作らせる。 川月日信濃松代城主松平忠輝の老臣等、忠輝の不行跡 正月是月幕府、火災による駿府城再建を諸大名に命じる。 を訴える。家康、老臣等を改易する。 2 月Ⅱ日幕府、水野重仲を常陸水戸城主徳川頼将 ( 頼 ポルトガル船を長 月 9 日有馬晴信、家康の命に従、 宣 ) の傅とする。 崎に捕え、荷物を没収する。 3 月Ⅱ日駿府城の再建成り、家康、これに移る。 月是月家康、常陸水戸城主徳川頼将 ( 頼宣 ) を駿府・ 6 月 4 日狩野光信歿す。 遠江五十万石に封じ、安藤直次をその傅とす 月 8 日幕府、永楽銭の通用禁止を再び令する。 る。また常陸下妻城主徳川鶴松 ( 頼房 ) に水戸 この年幕府、山城伏見の銀座を京都に移す。 城二十五万石を与える。飼 この年有馬晴信派遣の商船の乗組員、マカオでポルト この年幕府、尾張御国堤の普請を始める。 ガル人に暴行される。 この年ガリレオ、屈折望遠鏡を発明する。 慶長十四年 ( 一六〇九 ) 六十八歳 この年ケプラー 「遊星運動の法則」を発見する。 六十九歳 正月日家康、西国諸大名の築城するをききて不快をあ慶長十五年 ( 一六一〇 ) らわす。 正月Ⅱ日幕府、安南・ルソン・シャム・交趾・カンボジ 正月是月秀頼、山城東山の大仏殿を再建しようとする。 ア渡航の朱印を出す。国 諸大名、米穀等をおくる。 4 月 5 日薩摩鹿児島城主島津家久、琉球の首里城を攻略 2 月日長谷川等伯歿す。 2 月是月家康、尾張名古屋城を築かんとし、北国・西国 する。 の諸大名にその役を命じる。 7 月 4 日烏丸光広等七人の公家衆、女官と姦淫により罰 壬 せられる。四 家康、信濃松代城主松平忠輝を越後福島城に移 2 月 2 日 す。既Ⅱ 6 7 月日オランダ国王、書をおくりて通商を求める。家 295
この日、大坂に着く。 1 月日家康、江戸に帰る。目川 8 月 6 日秀吉、大徳寺に大政所の葬儀を行なう。目鵬 月是月家康、藤原粛 ( 惺窩 ) をして「貞観政要」を講 川月是月秀吉、再び肥前名護屋に下る。 義させる。 文禄二年 ( 一五九三 ) 五十二歳文禄三年 ( 一五九四 ) 五十三歳 正月 5 日正親町上皇崩御。目鵬・ 正月日小西行長と沈惟敬、秀吉の表文を偽作する。こ 正月 8 日小西行長、平壌に大敗する。目 の日、沈准敬、これをもって北京に向かう。目 正月幻日日本軍、京城に退く。目い 2 月日家康、入京する。年末まで伏見に滞在する。目 正月 % 日小早川隆景・立花広家等、碧蹄館に明軍を破 2 月日秀吉、秀次と大和吉野に遊ぶ。家康もこれに従 1 ーっ乙 る。目鵬 う。 8 ・ 1 , ー勹乙 2 月日秀次、山城大原に狩猟する。目 4 月日秀次、大坂城に秀吉に謁す。目 3 月日小西行長、明人沈惟敬と会見し講和を議す。こ 5 月 3 日家康、大和柳生の柳生宗厳に新陰流兵法の相伝 の日、字喜多秀家、石田三成・大谷吉継等と講 を、つける。ハ 和の条件を論議する。 7 月加日堺の商人菜屋助右偉尸 一—、ルソンより帚り、秀士ロ 5 月新日石田三成・小西行長等、明使謝用梓・徐一貫と に麝香等をおくる。 共に肥前名護屋に着く。 8 月日朝鮮国王李松、加藤清正と小西行長の間を割こ 6 月日秀吉、講和の条件七ケ条を明使謝用梓・徐一貫 うと画策する。目 に示す。目・ この秋山城伏見城竣工する。秀吉、ここに移る。目 8 月 3 日秀吉の子拾丸 ( 秀頼 ) 、生まれる。母は浅井氏 月日明王、内藤如安を引見し、秀吉の出兵を詰問 ( 淀君 ) 。 し、ついで秀吉を日本国王に封じ、李宗城を冊 8 月 8 日秀次、京都近郊で放する。目 封日本正使とする。目 8 月昭日秀吉、在朝の諸将に帰還を命ずる。 月是月拾丸 ( 秀頼 ) 、大坂城より伏見に移る。目明 8 月日秀吉、肥前名護屋より大坂に帰る。目 この年秀吉、諸国に検地を行なう。〔太閤検地の基準 8 月日家康、肥前名護屋より大坂に帰る。目川 完成する〕 同月同日明の沈惟敬、日本講和使内藤如安と共に北京に この年家康第七子松千代、浜松に生まれる。母は山田 向かって京城を出発する。 氏。 川月 1 日秀吉、拾丸 ( 秀頼 ) と秀次の娘との婚約を結ぼ 文禄四年 ( 一五九五 ) 五十四歳 うとする。