の誓書を請取らせる。 で、本多正純・安藤重信に残務を監督させ、山 月日織田有楽・大野治長、摂津茶臼山において家康 城伏見城に凱旋する。剛 に謁す。 3 正月日秀忠、伏見より二条城に入る。 同月同日家康、蜂須賀至鎮等の戦功を賞す。 正月日大坂方の将大野治長、京都に入る。 同月同日家康、和泉堺奉行柴山正親を罷め、肥前長崎奉正月日秀忠、京都を発ち、江戸に向かう。 行長谷川藤広をして、これを兼ねさせる。 2 月 1 日家康の老臣下野小山城主本多正純、遠江中泉に 肥月日家康、本多正純・成瀬正成・安藤直次を摂津茶 着き、家康に、大坂城取りこわしの状況を報告 臼山に留め、二条城に凱旋する。 する。 同月同日秀忠、摂津岡山に留り、大坂城の取りこわしを 2 月 7 日秀忠、遠江中泉に着き、家康と会見し、密議す る。 監督する。 月日今川宗間 ( 氏真 ) 、江戸に卒す。 2 月Ⅱ日家康・秀忠上洛するとの流言、西国に伝わる。 月四日幕府、陸奥仙台城主伊達政宗の子秀宗に伊予宇 和島十万石を与える。窈 同月同日家康、駿府に帰り、秀忠、江戸に帰る。 この年家康、対馬府中城主宗義智に命じ、書を朝鮮に 2 月日摂津味舌の織田有楽 ( 長益 ) 、使を駿府におく おくり、来訪を促す。朝鮮、これを拒否する。 り、大坂城を退去したい旨をのべる。 3 月日所司代板倉勝重、大坂方が再び兵糧・火薬・牢 元和元年 ( 一六一五 ) 七十四歳 人等を集め、兵を挙げる準備をしている旨、駿 河に報告する。 8ä 正月 1 日家康、禁中に鶴を献上する。 3 月Ⅱ日美濃加納城主松平千松 ( 忠隆 ) の祖父奥平信昌 正月 2 日家康、本多忠政・松平忠明等に、秀忠の摂津岡 卒す。 山の陣を警衛させ、松平康安・水野分長・松平 3 月日大坂方の使者青木一重・常高院・二位局・大蔵 勝隆等に大和郡山を警衛させる。 郷局等、駿府にいたり、家康に謁す。 正月 3 日家康、駿府に帰らんとし、二条城を出発する。 3 月Ⅳ日織田常真 ( 信雄 ) 、駿府にいたり、家康に謁す。 家康、常真に故大久保長安の旧居を与える。 同月同日対馬府中城主宗義智卒す。 3 月日秀忠、老臣下総佐倉城主土井利勝を駿府につか 正月Ⅱ日片桐且元・弟貞隆、摂津茨本城を退き、大和法 わし、家康と密議せしむ。 隆寺に閑居する。 3 月日駿府に伊勢踊流行する。家康、これを厳禁する。 正月四日秀忠、大坂城取りこわし工事がほば完成したの この春幕府、書院番頭牧野信成を大番頭となし、山城
羽柴秀吉、これを斬り、京都六条河原に梟首す 3 月日美濃兼山の森長可、尾張羽黒に出陣する。家康 る。田Ⅱ の先鋒酒井忠次等これを破る。 5 月幻日織田信雄、前田玄以を京都の奉行とする。 3 月日紀伊根来雑賀の一揆、秀吉の属城和泉岸和田を 同月同日家康、物を贈り、秀吉の戦勝を賀する。田 攻める。城将中村一氏、これを撃退する。Ⅷ 6 月 2 日秀吉、山城大徳寺に信長一周忌の法会を行な 3 月日秀吉、尾張に出て楽田に陣を進める。家康、清 う。 9 沸より小牧に出陣する。 7 月 7 日秀吉、近江に検地を行なう。 4 月 9 日秀吉の将三好信吉 ( 秀次 ) ・池田勝入 ( 恒興 ) ・ 8 月日北条氏直、家康の女督姫を娶る。 森長可等、三河に出撃せんとする。家康、これ 8 月日秀吉、摂津大坂に城を築く。この日、前野長泰 を尾張長久手に襲いて破る。〔小牧・長久手の に石材運搬の条規を与える。 合戦〕出 9 月日家康第五子信吉、浜松に生まれる。母は秋山氏。 5 月川日秀吉、尾張竹ケ鼻城を攻める。電 月 2 日相模の北条氏政老衰し、子氏直嗣ぐ。吉田兼 6 月日ポルトガルの商船、肥前平戸に来航する。 見、氏直のために武運長久を祈る。 7 月是月家康、異父妹久松氏 ( お亀 ) を信濃高遠の保科 肥月日家康、領国内の一向宗を復活させる。 正直に嫁がせる。 8 月 8 日秀吉、大坂城新亭に入る。 この年女真人ヌルハチ、満洲に挙兵する。 8 月Ⅱ日筒井順慶卒す。 8 月片日秀吉、京都の諸寺社に指出を提出させる。 天正十二年 ( 一五八四 ) 9 月日秀吉、尾張より美濃に撤退する。 2 月是月家康、織田信雄に使を遣わす。 9 月日家康・織田信雄、清洲に引き揚げる。 3 月 3 日家康、三河・遠江に徳政を行なう。 川月日家康、酒井忠次をして尾張清洲を、榊原康政を 3 月 6 日織田信雄、徳川家康と謀り、その老臣を斬り して小牧を、菅沼定盈をして小幡を守らせ、つ て、秀吉と絶っ。 いで遠江浜松に帰る。 Ⅱ月日秀吉、家康・信雄と講和する。この日、秀吉、 3 月川日秀吉、大坂より入京、ついで近江に出陣する。 信雄と伊勢桑名付近で会見する。 3 月日家康、兵を率いて尾張に進み、織田信雄と清洲 Ⅱ月日秀吉、権大納一言従三位となる。 に会見する。 % 月日家康の二子於義丸 ( 義尹・秀康 ) 、秀吉の養子 同月同日美濃岐阜の池田元助等、織田信雄の属城大丸を となる。この日、浜松を出発する。 攻める。燗 四十三歳
その封地に帰り、兵備を整え、軍令を待っこと を命じる。 月Ⅱ日家康、常陸水戸城主徳川頼房をして駿府城を留 守せしめ、自ら諸軍を率いて、駿府を出発す る。Ⅲ 川月日家康、遠江掛川に着く。大野治純・片桐且元の 使者、大坂城内の状況を報告する。所司代板倉 勝重も亦、大坂の情報を知らせる。 川月昭日秀頼、薩摩鹿児島城主島津家久に信書をおくり 助力を求める。この日、家久、これを辞退し、 秀頼よりの書を家康に提出する。 川月日陸奥仙台城主伊達政宗、兵を率いて居城を発 し、下野小山に着く。秀頼よりの使者、政宗に 調停を依頼する。政宗、これを秀忠に具申する。 川月日家康、三河岡崎に着く。この日、尾張名古屋城 主義利 ( 義直 ) 、兵を率いて名古屋を出発する。 同月同日秀忠、奥羽の諸大名が結集したら、速かに江戸 を出発したい旨、家康に請願する。家康、その 意に任せる。 月日家康、越前北荘城主松平忠直を山城西岡・東寺 に、加賀金沢城主前田利光 ( 利常 ) を淀・鳥羽 に在陣させる。 月四日家康、中国・西国及び四国の諸大名に兵を率い て大坂に参集することを命じる。 月日大坂方、人を遣わし、二条城を焼き、家康を狙 撃せんとする。所司代板倉勝重、これを捕え、 家康に報告する。 川月日家康、京都二条城に入る。鵬 同月同日秀忠、松平忠輝・鳥居忠政・最上家親を留守と さだめて軍を率いて江戸を発し、相模神奈川に CD 0 1 よ・ 0 ′】 川月日家康、藤堂高虎・片桐且元に、大坂城包囲の先 鋒を命じる。高虎、河内の国府に進み、小山に 陣を取る。 1 間月日家康、秀忠に使を遣わし、大軍なるが故に、行 軍を徐行するよう命じる。げ 同月同日和泉堺の市民、家康に銀を献上する。 月是月幕府、東海・東山両街道の要所に関所をおき、 通行人を検閲する。 川月是月所司代板倉勝重、近畿の諸社寺・村落に禁制を 掲げる。 Ⅱ月 4 日摂津茨木城主片桐且元、大坂付近の地図を家康 に呈出する。 Ⅱ月 5 日藤堂高虎・松平忠直・前田利光 ( 利常 ) 等、摂 津安倍野・住吉の間に陣を進める。 Ⅱ月 7 日備前岡山城主池田忠継、摂津神崎川を渡り、中 島の敵を攻め、大和田を奪う。その他の諸将も 中島に進む。 Ⅱ月 8 日武蔵仙波喜多院の南光坊天海、上京し、家康に 謁す。 Ⅱ月 9 日家康、諸大名に命じて兵粮船及び商船を和泉堺 に回囀させる。 Ⅱ月Ⅱ日秀忠、京都二条城に入る。 g ・ Ⅱ月日家康、二条城を発して大坂に向かい、奈良に着 く。秀忠も伏見を発して河内枚方に至る。
を主将に迎え、家康を討っことを論議する。国 慶長五年 ( 一六〇〇 ) 五十九歳 7 月肥日増田長盛、佐和山城の会合を家康に報告する。 2 月日家康、下野足利学校の元佶をして「貞観政要」 を刊行させる。 7 月日吉川広家、安国寺恵瓊の、石田三成・大谷吉継 3 月日オランダ船 リーフデ号、豊後に漂着する。家 等と上杉景勝との夾撃による家康攻略に反対 康、同船のイギリス人ウィリアム・アダムス等 し、毛利輝元の出陣を阻止せんとする。国 を大坂城に引見する。国ル 7 月新日毛利輝元、石田三成の招きに応じ、大坂に着 3 月是月陸奥会津の上杉景勝、石田三成と謀り、陸奥会 津城の西南神刺村に築城する。越後春日山の堀 7 月日毛利輝元、家康の留守佐野綱正に大坂城西の丸 秀治、これを家康に報告する。Ü* を明け渡させる。正綱、家康の側室を山城淀に 3 月是月上杉景勝の臣藤田信吉、景勝が石田三成と接近 移し、伏見城に入る。国 するのを諫言し、老臣直江兼続と衝突して、会同月同日豊臣の奉行長束正家・増田長盛・石田三成等、 津を去る。甥 家康の罪科十三ケ条を挙げ、家康を討っことを 4 月 1 日家康、伊奈昭綱を陸奥会津に遣わし、上杉景勝 諸大名に告げる。い の非をさとし、速かに入京することを勧める。 同月同日石田三成、会津征伐に従軍の諸大名の妻子を大 坂城に入質にしようとする。この日、丹後宮津 6 月 2 日家康、大坂城西の丸に諸将を集め、会津征伐の の長岡忠興 ( 細川忠興 ) の室明智氏 ( ガラシャ 軍議をひらく。 7 夫人 ) 、これを拒み、死去す。 6 月日家康、兵を率いて大坂を発し、山城伏見に入同月同日黒田長政の母・加藤清正の室等、大坂よりひそ る。同 かに逃れる。 6 月日家康、伏見城の留守を鳥居元忠・松平家忠等に 7 月四日石田三成、伏見城の明け渡しを要求する。留守 守らせる。国 % 鳥居元忠、これを拒否し、変を家康に報告す 5 月日家康、近江石部に泊る。近江水口の長束正家、 る。伏見在城の木下勝俊、元忠と別れて城を脱 明日、城内に饗応せんことを申入れる。家康、 出する。この日、三成等の諸将、伏見城攻撃を 夜半、急に石部を出発する。国幻 はじめる。国得 7 月 2 日家康、江戸に入城する。囲・ 7 月日家康、下野小山に出陣する。鳥居元忠の報告を 7 月日大谷吉継・増田長盛・安国寺恵瓊等、石田三成 うけ、諸将を召集してその去就をただす。黒田 と近江佐和山城に会合し、安芸広島の毛利輝元 長政・福島正則等、誓言を提出する。い・ 116
のべて徳川氏との和を保つことを勧める。秀頼 ことを報告し、家康・秀忠に大仏殿上棟式に参 及び生母浅井氏 ( 淀君 ) 、これを不快とする。 列することを求める。 7 月日京都の人角倉了以 ( 光好 ) 歿する。子与一嗣ぐ。 7 月日片桐且元、大仏開眼供養を 8 月 3 日に、堂供養 9 月幻日畿内及び諸国に伊勢踊流行する。この日、禁中 に伊勢踊を行なう。 を 8 月日に行ないたい旨を、家康に報告する。 同月同日家康、高山等伯 ( 長房・右近 ) ・内藤徳庵等のキ 家康、これを許す。既 リスト教徒百余人を海外に追放する。・ 7 月幻日家康、山城方広寺の鐘銘と上棟の期日が不吉で 9 月日織田常真 ( 信雄 ) 、大坂城を退去し、山城龍安 あると怒る。Ⅳ 寺に仮寓する。Ⅲ 7 月日家康、鐘銘の文辞不吉をのべて供養の延期を命 じる。 3 乃 9 月日秀頼の臣石川貞政、大坂城を出て、片桐且元の 摂津茨木城に入る。 8 月 2 日大工頭中井正清、方広寺の鐘銘の写を家康に進 める。 川月 1 日片桐且元、弟貞隆等一族をあげて大坂城を退去 し、居城摂津茨木に入る。 8 月 4 日大工頭中井正清、方広寺大仏の棟札の写を家康 同月同日所司代板倉勝重、大坂の騒擾を駿府に報告す。 に進める。 家康、大坂討伐を決する。諸大名に出陣を命じ 8 月 5 日家康、板倉重昌を京都につかわして、五山の僧 に鐘銘の可否を批判させる。 月 6 日秀頼、大坂城を修理し、牢人を集め籠城の準備 8 月日片桐且元、方広寺鐘銘等の弁明のため駿府に行 をする。真田信繁 ( 幸村 ) ・長宗我部盛親・後 藤基次等、大坂城に入る。 8 月加日家康、駿府に来た片桐且元に、本多正純・金地 川月 8 日家康、藤堂高虎を先鋒とし、大和より大坂に進 院崇伝をして方広寺鐘銘・棟札について論じさ めさせる。この日、高虎、駿府を発つ。Ⅲ せ、また大坂方が多くの牢人を召し抱えること 川月 9 日家康、肥前唐津城主寺沢広高に命じて、長崎奉 を詰問する。 行長谷川藤広と共に、キリスト教徒の追放とそ 8 月四日大坂の使者大蔵卿局、駿府に入り、家康に謁 の動向の警戒を厳重にさせる。 す。 同月同日家康の臣本多正純、信書を肥後人吉城主相良長 9 月 7 日幕府、西国の諸大名に誓書を提出させる。 毎におくり、従軍を止めて、その封地を守らせ 同月同日茶人千宗淳 ( 小庵 ) 歿す。 る。 9 月日片桐且元・大蔵卿局、大坂に帰りて秀頼に家康 川月川日家康、駿府に参集の諸大名を謁見し、それそれ の意を伝える。且元、これについて三つの策を Ⅱ 4
3 月 2 日秀吉・拾丸、宮中より刀剣・馬をたまわる。目蹶 7 月 5 日秀次、秀吉に誓書を呈出する。目 7 月 8 日秀吉、秀次の行跡修まらないのを責め、関白・ 左大臣の官職を奪い、高野山に追放する。目 7 月日秀吉、福島正則を高野山に遣わし、秀次に切腹 を命じる。国 7 月是月徳川家康・毛利輝元等、秀吉・拾丸 ( 秀頼 ) 父 子に異心なきを誓う。目 8 月 2 日秀吉、法度六ヶ条を定める。翌日、九ケ条を追 加する。家康、これに連署する。 9 月日秀吉、故浅井長政の女達子を徳川秀忠に嫁がせ る。目 Ⅱ月 8 日秀吉病む。目 この年家康第八子仙千代、伏見に生まれる。母は清水 氏。 五十五歳 慶長元年 ( 一五九六 ) 正月日秀吉の奉行長束正家・石田三成・増田長盛・前 田玄以等、秀吉の子拾丸 ( 秀頼 ) に忠誠を誓う。 5 月 4 日明の冊封日本正使李宗城、釜山より逃亡する。 明王、揚邦亨を冊封日本正使とし、沈惟敬を副 使とする。目ル・川 5 月 8 日家康、内大臣正一一位となる。目 5 月Ⅱ日加藤清正、秀吉の命をうけ朝鮮より帰る。伏見 に着き讒せられて屏居する。目 7 月日家康の老臣本多重次卒す。子成重嗣ぐ。 7 月 4 日朝鮮正使黄慎・副使朴弘長等、釜山を発し日本 に向かう。臼 7 月日畿内大地震、伏見城こわれる。、ル 同月同日加藤清正、地震により秀吉のところに馳せ参じ る。ついで、秀吉、清正の屏居をゆるす。目 同月同日家康、明との交渉について秀吉に反省を求め る。目 同月同日山城方広寺の大仏の首、地震により落ちる。 9 月 1 日秀吉、明使揚邦亨・副使沈惟敬を大坂城に引見 する。 9 月 2 日秀吉、明の国書を相国寺の承兌に読ませる。明 の違約を怒り、朝鮮出兵を決める。目 月日家康の老臣酒井忠次卒す。 Ⅱ月日秀吉、耶蘇教徒二十六人を捕え長崎に処刑する。 貶月日秀吉の子拾丸、元服して秀頼と名を改める。 五十六歳 慶長二年 ( 一五九七 ) 正月日加藤清正、朝鮮慶尚道多大浦に着く。 2 月日秀吉、朝鮮出征の諸将の部署を定め、出征の条 規を下す。目 3 月 7 日秀吉、五人組・十人組の制を定める。 3 月 8 日秀吉、山城醍醐三宝院に花見を催す。家康も同 行する。目・ 5 月日徳川秀忠の長女千姫、山城伏見城に生まれる。 母は浅井氏。 7 月新日小西行長等、朝鮮の水軍を巨済島に破る。 8 月日前室町幕府十五代将軍足利義昭、大坂に薨ず。
止する。 8 月 2 日家康、尾張名古屋に着く。徳川義利 ( 義直 ) に 美濃の地三万石を加増する。 2 6 月 3 日飛騨高山城主金森可重、山城伏見に卒する。 8 月日家康、駿府に入る。 6 月日幕府、諸大名に命じて、各居城以外の城塁をこ 8 月日筑前博多の商人島井宗室歿す。 わさせる。〔一国一城の制〕 9 月 8 日家康、秀忠の使者小姓組番頭水野忠元を謁見す 6 月四日越前北荘城主松平忠直・陸奥仙台城主伊達政宗・ る。同 7 加賀金沢城主前田利光 ( 利常 ) 参議となる。 9 月日これより先、家康、越後福島城主松平忠輝の驕 壬 6 月幻日秀忠、参内する。鰤 惰を憤り、駿府大番頭松平勝隆を越後に遣わし、 7 月 7 日家康、金地院崇伝 ( 以心 ) 等に命じ、諸法度を これを譴責し、勘当を命じる。この日、勝隆、 制定させる。この日、秀忠、諸大名を山城伏見 駿府に帰り、これを復命する。ついで、忠輝、 城に集め、武家諸法度を定める。 2 ・蛎 居城福島を去りて、武蔵深谷に屏居し、後にさ 7 月日元和と改元する。 2 眄 らに上野藤岡に移る。 2 ル・同 7 月Ⅱ日幕府、諸大名を国に帰らせる。 9 月日家康、曹洞宗の法問を聴く。同 7 月日禁中公家諸法度を定め、前左大臣二条昭実・秀 9 月幻日長門萩城主毛利宗瑞 ( 輝元 ) の子秀就の江戸屋 忠・家康、これに連署する。・ 敷、火災あり。陸奥仙台城主伊達政宗等の屋敷 7 月四日秀忠、江戸に帰らんとして山城伏見を出発する。 も延焼する。 9 月日秀忠、使者として土井利勝を駿府に遣わす。同 % 同月同日幕府、三河刈屋城主水野勝成を大和郡山に移 9 月四日家康、関東に放鷹せんとして、駿府を発し、江 し、三万石を加増する。 戸に行く。同男 ウィリヤ 7 月日家康、参議中院通村等の「源氏物語」の講義を 9 月是月イギリス船長ラーフ・コビンドール、 ム・アダムス等、駿府にいたり、家康に謁す。 7 月日家康、諸宗本山・本寺の諸法度を定める。 月 9 日家康、相模神奈月冫 ーこ着く。秀忠、これを出迎え 7 月日家康、畿内の諸社寺の所領を安堵する。 る。同 7 月日鷹司信尚、関白を罷め、二条昭実、関白とな 2 月日家康、江戸城西の丸に入る。同・ る。 月Ⅱ日陸奥仙台城主伊達政宗の老臣片倉景綱卒す。子 7 月日秀頼の後室徳川氏 ( 千姫 ) 、江戸に帰る。 重綱嗣ぐ。 8 月 4 日家康、駿府に帰らんとし、京都を出発する。 月日家康、江戸城西の丸で浄土宗の法問を聴く。同貌 同月同日秀忠、江戸に着く。帽 月四日家康、下野足利学校の神珠の法問を聴く。い
月 9 日北条氏政・氏直父子、家康に和解の斡旋を依頼 6 月Ⅱ日前田利家・上杉景勝等、武蔵鉢形城を陥れる。 する。 肥月川日家康、聚楽第で秀吉に謁し、在京の諸将と北条 6 月日北条氏の老臣松田憲秀、秀吉に内通する。氏 氏征伐を議定する。の 直、憲秀を捕える。 月日家康、天皇より練香を賜わる。の 6 月日秀吉、相模石垣山に陣営を築き、小田原城内に 大砲を打ち、城兵を威嚇する。の 天正十八年 ( 一五九〇 ) 四十九歳 7 月 5 日北条氏直、秀吉に降る。秀吉、氏直を高野山に 蟄居させ、氏政・氏照及び老臣大道寺政繁・松 正月日家康の子長松丸 ( 秀忠 ) 上洛する。の・ 田憲秀等を切腹させる。の 正月Ⅱ日家康の室豊臣氏 ( 朝日姫 ) 、聚楽第に卒する。 7 月川日家康、小田原城に入る。の 正月日家康の子長松丸、元服して秀忠という。 7 月Ⅱ日北条氏政・氏照、田原安清の家で切腹する。の 正月幻日秀吉、織田信雄の女を養い、徳川秀忠に嫁がせし 7 月日秀吉、小田原に入る。家康の領国三河・遠江・ める。この日、その婚儀を聚楽第で行なう。の 駿河・甲斐・信濃を収公し、関東八ヶ国と近 同月同日秀吉、徳川家康を小田原征伐の東海道の先鋒と 江・伊勢等の十一万石を家康に与える。の する。の籾 2 月 7 日家康の先鋒酒井家次・本多忠勝・榊原康政・平同月同日秀吉、織田信雄に三河・遠江・甲斐・信濃・駿 河を与える。信雄、尾張・伊勢の旧領を与えら 岩親吉・大久保忠世・井伊直政等、兵を率いて れんことを求める。秀吉、信雄を下野に追放す 駿河を出発する。の っ・戸ノ つんっ乙 3 月 1 日秀吉、小田原を征伐せんと京都を出発する。の 7 月日秀吉、陸奥・出羽を征伐せんとし相模小田原を 出発する。の 3 月四日秀吉、駿府に入る。の旧 8 月 1 日家康、武蔵江戸城に入る。の 3 月四日羽柴秀次等、伊豆山中城を陥れる。の 8 月新日家康、関東八州に諸将を封ずる。相模小田原城 同月同日織田信雄等、伊豆韮山城を攻める。の を大久保忠世に与える。の 4 月日家康が北条氏と内通するとの風説がある。秀 9 月 1 日秀吉、京都に凱旋する。の甥・ 吉、家康の陣営を訪間する。の 4 月日家康、武蔵江戸城を守る川村兵衛大夫を諭して月日秀吉、羽柴秀次・徳川家康を陸奥に出陣させ、 一揆等を鎮圧させる。の・昭 降参させ、この日、同城を収公する。の川・既 月四日徳川秀忠、従四位下侍従となる。 5 月 7 日秀吉、側室浅井氏 ( 淀君 ) を小田原の陣営に招 天正十九年 ( 一五九一 ) 五十歳
伏見城より河内砂に出陣する。 夏の陣〕 2 ・ 同月同日関東方大和ロの先鋒、奈良を発して、河内の国同月同日家康、二条城に凱旋する。 2 分に陣を進める。 2 5 月 9 日秀忠、安藤重信等を大坂城内の金銀の点検のた 同月同日藤堂高虎は河内千塚に、井伊直孝は河内楽音寺 めに留め、山城伏見城に凱旋する。鬮川 に出陣する。 2 5 月川日家康、諸大名を二条城に引見し、浅野長晟・松 5 月 6 日関東方の先鋒水野勝成・本多忠政・松平忠明・ 平忠直等の戦功を賞す。 伊達政宗等、河内片山・道明寺付近において、 5 月Ⅱ日秀忠、二条城にいたり、家康と密議する。 大坂方の真田信繁 ( 幸村 ) ・後藤又兵衛基次・薄 5 月肥日幕府、大坂方の残党の追捕を命じる。 田兼相等と激戦し、大勝する。基次・兼相等、 5 月日幕府、遅参の諸大名に大坂付近の道路の修築を 戦死する。 2 印 命じる。 2 同月同日大坂の将木村重成・長宗我部盛親等、河内若江・ 5 月日長宗我部盛親、山城八幡で捕えられ、六条河原 八尾に出陣する。木村重成、河内若江で関東方 で斬られる。 2 の井伊直孝と、長宗我部盛親、河内八尾で藤堂 5 月日幕府、秀頼の一子国松を京都六条河原で斬る。 高虎と戦う。重成敗北し、盛親退却する。 また一女を鎌倉東慶寺に入れる。・・・第 同月同日家康・秀忠、河内枚岡に陣を進め、翌日の進撃 5 月日幕府、後藤光次に命じて、大坂城中の金銀を点 の部署を定める。 2 朧 検させる。 5 月 7 日家康・秀忠、軍を大坂城に進める。摂津茶臼 5 月日上野館林城主榊原康勝、京都において卒す。 山・岡山付近で大坂方の将真田信緊 ( 幸村 ) 等 5 月日大和竜田城主片桐旦元卒す。 の軍と激戦する。関東方の信濃松本城主小笠原 6 月 2 日安藤重信、後藤光次と共に、大坂城内の金銀を 収納し、京都にいたる。電・釦 秀政・同忠脩父子ならびに上総大多喜城主本 多忠朝等戦死し、大坂方真田信繁等多数戦死す 6 月 8 日幕府、伊勢亀山城主松平忠明を大坂城に移し、 る。大坂方遂に敗れる。 五万石を加増して十万石を与える。鬮 同月同日大坂城焼ける。大坂方の将大野治長、秀頼の後 6 月Ⅱ日幕府、古田重然を自殺させ、家財を没収する。 室徳川氏 ( 千姫 ) を城より脱出させ、秀頼母子 6 月巧日家康、参内して物を献上する。 2 の助命を求めんとする。 2 6 月絽日和泉堺奉行長谷川藤広、堺の町割を定める。 5 月 8 日前右大臣正二位豊臣秀頼及び生母浅井氏 ( 淀君 ) 6 月日大坂方の大野道大 ( 治胤 ) 、京都で捕えられ、堺 で斬られる。 大坂城中に自殺する。大野治長・速水守久・毛 利勝永・大蔵郷局等、これに殉死する。〔大坂 6 月日幕府、喫煙・煙草の売買ならびにその栽培を禁
六十三歳 六十二歳慶長九年 ( 一六〇四 ) 慶長八年 ( 一六〇三 ) 正月是月家康、五郎太丸 ( 義直 ) に甲斐二十五万石を与 2 月 3 日幕府、毛利宗瑞 ( 輝元 ) の長門萩築城を許す。 え、平岩親吉をその傅とする。国・ 2 月 6 日家康、第六子忠輝に信濃松代十二万石を与え 3 月日筑前福岡城主黒田長政の父如水 ( 孝高 ) 卒する。 る。 2 月日家康、左大臣となり、征夷大将軍となる。国 5 月 3 日幕府、京・堺・長崎に糸割符年寄をおき、糸割 貿貿の制を定める。 6 月日肥後人吉の相良長毎、その母を人質として江戸 2 月是月幕府、下野皆川の皆川広照を信濃飯山に移し、 に送る。国 同国松代城主松平忠輝の傅とする。国 3 月 3 日幕府、諸大名に江戸市街の経営を命じ、はじめ 7 月 1 日家康、伊勢・美濃・尾張等七ヶ国の大名に井伊 直継 ( 直勝 ) を助けて、近江彦根城を築かせ て日本橋を架ける。 る。国 3 月日家康、参内して拝賀の礼を行なう。国 7 月日秀忠の次子竹千代 ( 家光 ) 、江戸城に生まれる。 3 月日幕府、百姓の逃散を禁じる。 母は浅井氏。・ 4 月日秀頼、内大臣となる。 同月同日家康、稲葉重通の養女斎藤氏 ( 春日局 ) を竹千 4 月是月幕府、小笠原一庵を肥前長崎奉行とする。国 代 ( 家光 ) の乳母とする。 7 月日秀頼、秀忠の女千姫を娶る。国跖 8 月川日家康第十一子鶴松 ( 頼房 ) 、山城伏見城に生ま 8 月日京都市民、豊国社臨時祭のために躍を催す。こ れる。母は正木氏。 の日、後陽成天皇、これを紫宸殿にみる。国 9 月Ⅱ日家康第六子常陸水戸城主武田信吉卒する。国 この年幕府、東海・東北・北陸等の諸街道を修理し、 川月日家康、右大臣をやめる。国第 一里塚を築く。国川 Ⅱ月 3 日秀吉の後室杉原氏、高台院の号をたまわる。国 この年秀頼、京都東寺南大門・摂津勝尾寺等、畿内及 Ⅱ月 7 日家康、第十子長福丸 ( 頼宣 ) に常陸水戸二十万 び傍近の諸社寺を造営する。 石を与える。国飼鰯 , 」の年幕府、肥前長崎に唐通事をおく。 同月同日秀忠、右近衛大将、右馬寮御監を兼ねる。 この年幕府、大久保長安を佐渡奉行とする。国 この年フランス、東インド会社設立。