・流一一一口の由にござりまする」 「後の雁とは何のことだ」 「フン、そうして、その伊達の共謀者は松平忠輝か。もう 「伜勝隆がいよいよ駿府から、殿の許へご使者に参るらし いので」 たくさんじゃ」 しかし、重勝は、そのまま引きさがるほど若くもなけれ「なに、駿府から勝隆が」 ば押しの利かない男でもなかった。 「さよう。将軍家では、殿のご処分は出来かねる : : : そう 彼は、馬でやって来たらしくゆっくりと襟あしの汗を拭見てとって、大御所さま、御自からの使者でござりましょ きながら、 う。まことにこれは汗の出まする成行きで」 「殿も、このあたりで、もう少し人生を味わい直す、余裕そういうと、不意に重勝はクスンと一つ鼻を鳴らして、 をお持ちなさらねばなりませぬ」 汗と涙を一緒に拭いオ 「なに、予に余裕を持てと」 「はい。人の一生は、大きな眼で見まするとまことに公平 ・ : 決して、殿だけが、格別の大波を喰うわけではありま 「そうか。お父上が直々に乗り出されたか」 いよいよ待ったものがやって来る : : : そう思うと、忠輝 せぬ。みなそれぞれ、何度かは波をかぶって、そして見事 は、いのしこりが解ける気がした。 に泳ぎぬく。余裕の無い者だけが溺れまするので」 「フン、又爺の説教か。よかろう、退屈で困っていたのだ「爺が泣くほどの事はあるまい。わしは、陰気な空に一点 の晴をのそいた気がするぞ」 聞こ、つ」 忠輝は癇立った様子で振り返って、しかし思わず失笑し しかし、重勝はそれには答えず、 「噂を噂のままに終わらしそうな、もう一つの噂もなくは 松平重勝の上体をかがめて額に湯気を立てている様子ござりませぬ」 が、湯口に現われるガマの姿そっくりに見えたからだ。 いよいよ前かがみに身をのり出して鼻をかんだ。 「何だと、噂を噂のままで : : : ? 「爺、よほど急いで来たと見えるな」 「はい。戦にはなるまいという噂 : : : これが出所は、市井 「は、。後の雁に先になられては困ると思いまして」 9
3 月是月大原雪斎の斡旋により、武田晴信の女を北条氏正月巧日松平元信、駿府において今川義元の姪関口親永 康の子氏政に、氏康の女を今川義元の子氏真に ( 義広 ) の女鶴姫を娶る。築山御前とよばれる。 婚縁させてお互いに和睦する。 ( 弘治二年とする説もある ) 4 月 2 日毛利元就、大内義長を長門勝山城に攻め自殺さ 十四歳 弘治元年 ( 一五五五 ) せる。 Ⅱ月 2 日織田信長、弟信行を殺害する。 2 月 7 日相良晴広、法度を定める。〔相良家法度〕 Ⅱ月日毛利元就、隆元・吉川元春・小早川隆景の三子 3 月是月松平竹千代 ( 家康 ) 、駿河府中の今川義元の館 に一味協力を訓誡する。 で元服し、松平次郎三郎元信と称した。 この年松平元信、この年から永禄元年にかけて、名を 7 月四日甲斐の武田晴信 ( 信玄 ) 、越後の長尾景虎 ( 上 元康と改名する。 杉謙信 ) と信濃川中島に戦う。 川月 1 日安芸の毛利元就、陶晴賢を安芸厳島に滅ばす。 十七歳 永禄元年 ( 一五五八 ) 川月日改元する。 2 月 5 日松平元康、今川義元の命により三河寺部城の鈴 月是日茶人武野紹鵐歿す。 木重辰を攻める。〔家康の初陣〕 3 月是月三河岡崎の老臣本多広孝・石川清兼・天野甚右 川月川日大原雪斎寂す。 衛門等、駿河に赴き、今川義元に、松平元康の 岡崎帰城を請願する。許されなかった。粥 弘治一一年 ( 一五五六 ) 十五歳 この年木下藤吉郎 ( 秀吉 ) 、織田信長につかえる。 4 月日美濃の斎藤利政 ( 秀龍・道 = l) 、子の義龍に殺 この年エリザベス女王即位。 害される。ロ曰跖 4 月幻日越前守護朝倉義景、加賀一向一揆と講和を結ぶ。 永禄二年 ( 一五五九 ) 十八歳 6 月日松平元信、三河大仙寺に寺領を寄進する。〔家 3 月 6 日松平元康の嫡子竹千代 ( 信康 ) 生まれる。母は 康の文書の初見〕 関口氏。 ( 築山御前 ) ロ この年松平元信、三河岡崎に帰省し、父の法要を行な 5 月日松平元康、駿府より岡崎在住の家臣に七ケ条の 領地を巡検する。 定書を与える。 弘治三年 ( 一五五七 ) 十六歳
は、登場人物は殆んど間違っていないのだが、最初に「別 この乞食坊主父子が信州の林の郷に流れついたとき、林 人ーーー」と思いこんだところから異説に入ってしまったら藤助という者が元日に兎の吸物を食べさせて呉れた。 流浪の徳阿弥にはこれがよほどうれしく、美味にも感じ られたのであろう。そこで徳川家では将軍になってからも 当時は侍であろうが長者であろうが、戦乱のためにいっ たん故郷を離れると、賤民の群に入る : : : というよりも賤代々正月には兎の吸物で祝うのが嘉例になっている。その 民のかげにかくれて賤民同様の暮ししか出来なかったの徳阿弥が信州から三河に入り、はじめは碧海郡大浜の称命 やはぎ だ。それよりも松平家の先祖の中に、すでに世良田を称し寺にとどまり、それから、矢作の光明寺にもいたと言われ た人があるのを知らなかったらしい ているが、それから更に坂井 ( 酒井 ) の郷に来て、酒井五 世良田というのは松平氏の祖徳阿弥親氏の故郷で、上野郎左衛門の家に居候をしていて娘に男の子を産ませたらし 新田郡の村の名なのである。 。この五郎左衛門は或いは徳右衛門、又与左衛門、与四 郎などとも伝えられているが、この徳阿弥の産ませた子の 与四郎広親が、酒井氏の祖先なのである。 父の長阿弥の死んだ場所ははっきりとはわからない。 上州の世良田郷を故郷とする親氏は、時宗の僧となり、 この酒井の家を出た徳阿弥がやがて松平村へ流れて来て 徳阿弥と名乗って諸国を流浪していたらしい。これはまさ郷主の松平平太郎左衛門信重の聟になった。そして松平家 しく乞食坊主と呼ばれるにふさわしい生活ぶりであったろを継ぐとともに近隣を斬り従えてその地に根を張っていっ う。一種の流民とも想われるし、何かわけがあって故郷か たのだが、その徳阿弥親氏の六代目の子孫が家康の祖父の ら長い草鞋をはいていたのだと考えてもよい 清康なのである。 どうやら徳阿弥は父子連れたったらしく、父の名は長阿 この清康は、一時はっきり世良田二郎三郎清康と名乗っ 弥有親。 ている。松平家の子孫であるというよりも、父祖の語り伝 3
永禄三年 ( 一五六〇 ) 二十一歳 十九歳永禄五年 ( 一五六一 l) 正月是月幕府、耶蘇会宣教師ガスパル・ビレラに布教を正月是月三河岡崎の松平元康、尾張清洲に赴き、織田信 許す。 長と盟約する。曰朧 2 月 4 日松平元康、三河上郷城を攻め鵜殿長照を斬る。 5 月日今川義元、大軍を率いて駿府を出発する。 ついで長照の子を駿府の今川氏真に送り、駿府 5 月絽日今川義元、尾張田楽狭間に出陣する。 在住の元康の妻子と交換する。曰 同月同日松平元康、義元の命により鵜殿長照の守る尾張 大高城に兵粮を入れる。 ( 弘治三年説、永禄二年 4 月是月土一揆蜂起、洛中に徳政行なわれる。 9 月四日今川氏真の兵、松平元康の属城三河御油を攻め 説もある ) Ü・ る。元康これを破る。ついで三河牛久保の牧野 5 月四日尾張の織田信長、今川義元を田楽映間に奇襲し 成定、元康に降る。 これを斬る。〔桶狭間の合戦〕ロ弸曰ル内川 5 月日松平元康、その本城三河岡崎に帰る。曰 永禄六年 ( 一五六三 ) 二十二歳 5 月是月松平元康、生母於大の方を尾張阿久居の久松俊 勝の館に訪ねる。ロ朧曰 9 3 月 2 日松平元康、嫡子竹千代 ( 信康 ) と織田信長の女 この年松平元康の長女亀姫生まれる。母は関口氏。 徳姫の婚約をする。曰既 ( 築山御前 ) 7 月 6 日三河岡崎の松平元康、今川氏の支配をはなれ て、名を家康と改める。曰 永禄四年 ( 一五六一 ) 二十歳 この秋三河佐崎の上宮寺・野寺の本証寺・針崎の勝鬘 寺以下の一向宗の諸寺院・信徒等、一斉に蜂起 2 月 6 日松平元康、三河刈屋の水野信元の兵と尾張横根 する。松平家康の一門・家臣等もこれに参加す ~ 戦、つ 0 る者多くあり。「三河一向一揆〕曰盟 3 月日越後守護代長尾景虎、上杉憲政の譲をうけて関 この年三河の一向宗徒等、岡崎城を攻める。大久保一 東管領となり上杉氏をつぎ、名を政虎と改める。 族小豆坂に防戦する。家康、城を出て大久保一 この春松平元康、織田信長と和睦する。曰 族を救援し、蜂屋半之丞と戦う。国 5 月Ⅱ日美濃稲葉山城の斎藤義龍卒す。子義興嗣ぐ。国 9 月日越後の上杉政虎 ( 謙信 ) 、甲斐の武田信玄と信 二十三歳 永禄七年 ( 一五六四 ) 濃川中島に戦う。〔川中島合戦〕曰 この年木下藤吉郎 ( 秀吉 ) 、八重を娶る。曰 正月Ⅱ日松平家康、一向一揆と三河上和田で戦い、銃弾
天文十四年 ( 一五四五 ) 四歳 この年一カルヴィンの宗教革改 天文十一年 ( 一五四一 D 8 月是月今川義元、北条氏康と駿河に戦う。甲斐の武田 晴信 ( 信玄 ) 、義元を救援する。 7 月 4 日信濃の諏訪頼重、甲斐の武田晴信 ( 信玄 ) に降 9 月日三河岡崎の松平広忠、安祥城回復のため出兵 り、甲斐に赴き自殺する。曰 し、織田信秀の軍に破られる。 8 月川日今川義元、織田信秀を攻め三河小豆坂に敗れて この年三河岡崎の松平広忠、三河田原の戸田康光の女 かえる。 真喜姫を娶る。 ( 田原御前とよばれる ) い 8 月日美濃の斎藤利政 ( 秀龍・道一一 l) 、その主美濃守護 土岐頼芸を攻めて破る。頼芸、尾張に逃れる。 五歳 天文十五年 ( 一五四六 ) 月 % 日徳川家康、三河岡崎城に生まれる。幼名松平竹千 月 5 日京都に土一揆起こる。幕府に徳政を要求する。 代、父は松平広忠、母は水野氏。 ( 於大の方 ) 斟 月日足利義藤、室町幕府第十三代将軍となる。 二歳 天文十二年 ( 一五四三 ) この年尾張の織田信秀の子吉法師、元服して名を信長 と改める。 7 月日三河刈屋の水野忠政卒す。子信元嗣ぐ。 8 月川日三河岡崎の松平広忠、叔父の松平信孝を三河三 六歳 天文十六年 ( 一五四七 ) 木城に攻める。信孝、尾張の織田信秀をたよる。 8 月日ポルトガル商船、種子島に漂着し鉄砲を伝える。 6 月是月武田晴信 ( 信玄 ) 、家法を定める。〔甲州法度〕 8 月 2 日三河岡崎の松平広忠、その子竹千代 ( 家康 ) を この年地動説を発表した天文学者コペルニクス歿す。 人質として今川義元のところへおくる。途中、 三河田原の戸田康光、これを奪って尾張の織田 天文十三年 ( 一五四四 ) 三歳 信秀におくる。 ( 川月という説も多くある ) CD 0. 8 月幻日松平長親 ( 家康の玄曾祖父 ) 卒す。 っ丿 2 ノ 9 月日尾張の織田信秀、斎藤利政 ( 秀龍・道三 ) を美 9 月 5 日松平広忠、今川義元の命により三河田原の戸田 濃稲葉山城に攻める。利政、越前の朝倉教景の 康光を攻める。 援けを得てこれを撃退する。 9 月日織田信秀、斎藤利政 ( 秀龍・道三 ) を美濃稲葉 9 月是月三河刈屋の水野信元、織田信秀に通じる。三河 山城に攻めて破る。 岡崎の松平広忠、信元の妹である室水野氏 ( 於 0 9 1 月 1 日織田信秀、松平忠倫に命じて三河岡崎の松平広 大の方 ) を離別し、信元と絶交する。日 忠を攻める。広忠、忠倫を殺す。
この華陽院を主人公として「戦国御前」という戯曲を書い ている。歌舞伎座でこれが上演されたとき中村歌右衛門の 華陽院、松本幸四郎の松平清康 ( 家康の父方の祖父 ) 、市 川中車の華陽院の前夫水野忠政という配役で名古屋でも上 演された。 この戯曲の中で、私は水野忠政が妻で四児の母であった 華陽院を、戦勝者の松平清康に、妻に呉れとせがまれて、 離婚して贈るところを書いている。これはそのまますべて : というのは四 が事実ではないが、 さりとて嘘でもない : 児か五児の母であった華陽院が、水野家を去って年下の清 康の許へ嫁ぎ、そこでもまた一男一女を産んでいるのは事 実である。 この祖母は宮の善七秀成という、あまり身分の高くない 家康の母や祖母も、前項の「家康をめぐる女性」の部に地侍の娘であったが、美貌のゆえに大河内左衛門尉元綱の しかしここでは一養女とされ、そこから刈谷の水野忠政に嫁がせられたこと 書き加えておいてよいのかも知れない。 になっている。 応別にして、小説執筆にあたっての筆者の想い出もまじえ ただこれだけでも、宮から大河内、水野、松平と渡って て、書きおとした部分を記しておきたい。 家康が戦国の被害者だったことを書いたおりに、母方のいるのたが、実はこれだけではないらしい。あちこちの寺 けよういん 祖母の華陽院のことにも触れた。この祖母は美しかったたの過去帳に華陽院の名が散見されるところから、私は、誰 か勝者に所望されるたびに、大河内家へいったん引きとら めに転々と贈物にされねばならなかった女性である。私は 家康の母と祖母 246
るし もう一つの異説は、家康の出生にまつわるものである。 そこで私はこの「史疑」の著者と私の調べた年代の相違 これは「週刊文春」に著者の肉親の榛葉英治氏が書いてい だの、著者の錯覚だの、往時の民衆の殆んどが流民一歩手 る「史疑」という村岡素一郎という人の著作がそれであ前の、乞食同様の生活ぶりだったことなどについて、縷々 る。これが出版されたのは明治三十五年で、出版社は民友説明しなければならない破目になった。 社というのだから、筆者の榛葉英治氏がびつくりもし、興 この「史疑」の異説は、家康は松平家の嫡子ではなく 味も持っ筈である。 て、世良田二郎三郎元信という全くの別人であるというの この「史疑」は南条範夫氏の「三百年のべール」というである 小説の材料になっていて、実は私も大阪で思いがけない奇その別人の家康が、松平家の嫡子になり済まして家康に 襲を喰ったことがある なったというのだ。そして幼時の住居、母、祖母などのこ 大阪のある経済団体から、家康の話をしろというので引 とを熱、いに調べあげて証明しようとしているのだが、しか 3 つばり出され、講演を終ったときに、その司会をしていた し世良田二郎三郎元信というのだから、松平家とは関係の 某大学の経済学者から、 ない別人だというような説は、私が最初にあげた家康の研 いま先生の言われたような見方もあるし、この三百究家で、その生涯をこれに捧げた元岡崎市立図書館長の柴 年のべールのように家康は乞食坊主の子だという説もあ田顕正氏の研究で、錯覚であることはとうにハッキリして る。どちらが正しいかは、みなさんのご判断に」と、やら いるのである。 れたのだ 柴田氏は、村岡氏などよりもすっと便利になった世の中 そう言う異説もあるという話ならばとにかく、私に散々で、一々足にまかせて資料を求め、各寺院の過去帖を照合 歴史の話をさせておいて、いきなり小説を持出して聴衆のしながら立派な年表を作りあげている。「史疑」の方では、 頭に水をかけ、さっさと逃げ出していったのだから人がわ家康を賤民の子とし、駿府における祖母との暮しなど、実 るる
を、つける。 仏兵火にかかる。 月幻日織田信長、子奇妙丸 ( 信忠 ) のために、甲斐の 2 月日三河一向宗徒、松平家康に降る。曰 6 月日松平家康、今川氏真の部将小笠原鎮実を三河吉 武田信玄の女と婚約する。曰ル 田城に攻め、これを陥れる。家康、酒井忠次に 川月是月織田信長、美濃加納を楽市とする。 Ⅱ月是月織田信長、天下布武の印を用いる。曰国 吉田城を与え東三河を守らせる。国 二十七歳 永禄八年 ( 一五六五 ) 二十四歳永禄十一年 ( 一五六八 ) 3 月 7 日松平家康、本多重次・高カ清長・天野康景を三 2 月是月織田信長、北伊勢を経略し、子三七丸 ( 信孝 ) 河三奉行とし、民政・訴訟等をあっかわせた。 に神戸家を嗣がせる。曰既 5 月四日三好義重 ( 義継 ) ・松永久秀等、将軍足利義輝 9 月 % 日織田信長、足利義昭を奉じて入京する。ル 2 月日足利義昭、征夷大将軍となる。国ル・笏 を殺害する。国 この年松平家康の二汝督姫、岡崎に生まれる。母は鵜 0 1 月是月信長、摂津・和泉に矢銭を徴収し、諸国の関所 殿氏。 を撤廃する。 肥月日甲斐の武田信玄、駿府に入る。今川氏真、遠江 永禄九年 ( 一五六六 ) 二十五歳 掛川に逃れる。 月絽日家康、遠江引馬 ( 浜松 ) を攻略する。国・ 4 月 3 日駿河の今川氏真、富士大宮の市を楽市とする。 肥月日家康、今川氏真を遠江掛川に攻める。 8 月四日足利義秋 ( 義昭 ) 、近江より若狭に移り武田義 月四日武田信玄の部将秋山信友、遠江に侵入する。家 統をたよる。さらに越前の朝倉義景をたよる。 康、信玄の違約を責め、信友を駿河に退かせ 月四日三河岡崎の松平家康、徳川と改姓し、従五位下 三河守に任ぜられる。曰ル この年肥前の大村純忠、耶蘇教会堂を大村・長崎に建 てる。 二十六歳 永禄十年 ( 一五六七 ) 二十八歳 4 月日近江の六角義治、家法を定める。〔義治式目〕 永禄十二年 ( 一五六九 ) 5 月日家康の嫡子信康、織田信長の女徳姫を娶る。曰 3 月 1 日信長、撰銭令を出す。 月巧日織田信長、斎藤龍興の美濃稲葉山城を陥し、こ 4 月 8 日信長、耶蘇会宣教師ルイス・フロ , イスの京都居 こに移る。曰・ 住を許す。 月川日松永久秀、三好三人衆を奈良東大寺に破る。大
いる家に嫁いで来て、愛児をあげてホッとした時には、もの信元が、どのような気性であり、何を考えているかを見 うそこを追われなければならなくなっているのだ。 抜いていた。 同じ風は一族の形原の松平家にも吹き寄せていた。形原 ここで信元に松平家の家臣たちを殺させては、残して来 の松平家広は、これも水野忠政の娘を妻にしていたのだ。 た愛児家康の代になって、両家の怨みは解けがたいものに つまり家康の生母の於大の方の異腹の姉である。 なる。そう考えて、於大は自分の輿が刈谷領にかかると、 この姉も離縁になったのだが、 兄の水野信元は、自分がそこへ輿を捨てておいて、みんな急いで帰るようにと命じ 織田家につけば、松平一族も織田家につくものと思っていていった。 たらしい そのような分別が十四、五歳の小娘にあったという : それが本家も分家も妹を離縁して、今川方として敵に廻それが戦国の悲しさでもあり、この血が家康の躰内に生き ると決めていったのでカンカンになって怒った。敵に廻るていたゆえ、後日の成功があったとも言い得よう。とにか と見ればその力をそごうとするのは当時の常識である。そく於大はなみの女性ではなかったようだ。 こで水野信元は、二人の妹を送って自領に人って来る者 は、分家の形原の家臣も、本家の岡崎の家臣も一人も生か して帰すなといきり立ち、人数を用意し、手筈を決めて待 っていた。 いまこの稿を書いているときに、歌舞伎座ではいよ 形原の姉の方はそれに気付かず、輿をそのまま刈谷に乗よ、二月興行「徳川家康」の幕があいた。稽古から舞台稽 りいれたので、送っていった家臣はみな討たれた。 ( この古、初日、二日と見ていって原作者の私にはまことに感慨 姉の方の残していった娘が、後の鳥居彦右衛門元忠の妻深いものがあった。 で、元忠の妻と、家康は、母系の従姉弟にあたっている ) いささか脱線のきらいはあったが、私は本読みの日に俳 ところが妹の於大の方は、数え年十六歳の若さながら兄優諸氏の揃ったところでこう言った。 249
義母の戸田一族の者に誘拐されて織田家へ売られていった祭祀していることは、大樹寺の寺域を見れば明瞭なものが のだから、恐らく家康は生涯その話は側近の者にして聞かあり、更にその以前の松平家の祖先もいろいろと詮索して 祀ろうと苦心したあとがある。仏教信者としては当然のこ せたに違いない。 したがって周囲の者は誰もびつくりしないのだが、村岡とながら、とにかく家康から数えて十五代前まで明らかに さんはびつくりした。家康がそんな苦労をした人とはっゅして祀り得たので、それで徳川家の子孫も十五代栄え得た 知らなかったのである。そこで調べてみると駿府では祖母のだなどという如何にも因縁めいた迷信話さえ伝えられて るのだが、これも「史疑」で言う別人説とは人間性の面 が賤民の群にまじって、家康を育てている。当時の女性のい から言って背反する。 身分は低く、これを家康と同居はさせないし、人質のこと 何かの便宜で一時他人の名を借用したからと言って、わ ゆえ、決めた付人以外は近づけない。そこで尼になって小 さな寺の境内の一隅に賤民にまじって庵を結んで住みなが が身の実力、わが身の働きで天下を手に入れた者が、何う ら孫の成長を見まもっていたのだが、こうした戦国の惨めして縁もゆかりもない松平家の、それもハッキリしない祖 さをよく知らず、文明開化の風に吹かれて育った著者は、先まで執拗にさがしだして祀る必要があるであろう。別人 いよいよこれはただ事ではないと考えた。そして、築山殿にせよ、彼には彼の家系がある筈で、功成り名遂げた後は けんでん と家康の不和にぶつかってこれは別人だからこうむごい事必ずその方を喧伝もし、祭祀しようとするのが人間のつね が出来たのではあるまいかと疑惑しだし、次第にそれに憑であろう。 : と私ならば小説化 後に村岡素一郎という人が、「史疑」のことをあまり口 かれていったのが「史疑」であった : にしなくなったのは、ある方面からの圧迫などではなくて するだろう。 家康の祖先の徳阿弥がほんとうに新田源氏の由緒ある出実は、彼自身もまた次第に「史疑ー・・ー」を疑いだしたから であったかどうか、それはとにかくとして、新田源氏を称ではなかったろうか さて、ここでこの問題からは一応はなれて、もう一度人 した家康が徳阿弥以後の松平家八代の祖霊を、特に手厚く 335