「さ、又十郎さま、笑って見なされ」 その若者はいつも腰に何かをぶら下げてやって来た。い と、あやしていた。 や、時には馬上で握り飯をほおばりながら人って来て、竹 この子供が、自分の子であると同時に織田信秀の十二男千代といっしょにそれを食べたり、縁先から放尿したり、 であるということが、ひどくふしぎな気がしてならない べッペッと瓜の種を吐きちらしたりした。 事実、ここ二、三年間のあわただしい自分の変化は、自 やがて竹千代がいなくなると、その若者も来なくなっ 分でも信じられないようなことばかりだった。 た。そして竹千代が帰るおり、二、三度訪れて伯父と何か 堅苦しい神職の家に生れ、信秀にお側へ出よと言われる打合せていた信秀に見出されることになった。はじめは古 までは、自分の美しさにすら気づいていなかった。 渡の城へ召された。だがそこに住んでいる二人の側女たち 以前にいちど伯父の加藤図書の家で、連歌の集いがあっ の嫉視にあい、間もなく、この城に移されて来たのだが、 たおり、信秀の前へ菓子を運んだことがあったそうな。そ例のむさ苦しい乱暴な若者が、実は信秀の嗣子の信長だっ たと知ったときには、あり得ないことのように思えてびつ の時には、まだ岩室殿は十か十一で、全然信秀に見覚えは なかった。 鹹主の若殿ーー ただ伯父の連歌の友として古渡の城主があると聞かさ それは身だしなみから、動作から、乙女の胸に美しい幻 れ、伯父のために誇らかな気持になった程度であった。 ところがその交りがもととなり、三河の松平竹千代が伯を描かせる。 ( あれがほんとに若殿だったのだろうか : 父の家にやって来た。 その時にも大名の子というのはどんなものかと興味は持 ところがこの末森の城に移されて来てみると、そこには ったが、べつに近づこうともしなければ、近づけるものと彼女の幻に描いていたと同じ若殿が住んでいたのである。 も思っていなかった。 端麗な顔。正しい礼儀。美々しい衣裳。言葉づかいもみ いたわ ただ岩室殿は、時折り竹千代を訪れる、ひどく乱暴やびていたし、家来たちへの労り方も行き届いたものたっ な、むさ苦しい若者を見かけて眉を寄せたのを覚えてい る。 ( これがあの若者の弟御 : : : ) 104
「竹千代どのはこの姫がお気に入り、のう」 い姫〕の膝か・ いわれてみると、そこに亀姫も坐っている。 とにかく竹千代は、長湯のあとに似たけだるさで、うつ 鶴姫はいちど竹千代を亀姫の体にぶつけるようにして、 とりと彼の理性のうすれてゆくのを見つめている。甘えた しかし、自分はそれより近くに竹千代を引きつけた。 いような、そのくせ怒ってみたいような : いっか手だけではなく、まるい肩を抱くようにして、竹姫はそうした竹千代にかかわりなく、竹千代の身の上を 千代の肘はいやでも柔かい姫の膝にのってゆく。 誇張しきってみんなに話した。祖父の清康が、尾張まで攻 竹千代はポーツと頬の赤らむのを、ふしぎなものに経験め人りながら二十六歳で守山の陣中に刺されたこと。その 父もまた二十四歳の若さですでに亡く、竹千代は熱田から この駿府へようやく取りかえされた客であることなど。 みんなはそれに思い思いの想像を交えて聞き入った。 寉姫は竹千代を袖のうちへつつむようにしてみんなにい 中には、ため息したり、涙ぐんだりして竹千代を見るも っ一 0 のさえある。 「竹千代どのよ、、 をしまに、海道一の弓取りになられるそう障子にまた鮮かな光りが映えた。新春らしい明るさが部 こ満足し 屋いつばいにみちみちてゆく。姫は自分の説明、 それはあざ笑っているようにも、誇示しているようにもて、 「のう竹千代どの : ・・ : 」 とれる媚びで、 「でもいまは、私の家で預った大切な御所さまのかかり頬と頬のふれ合う近さで、竹千代の顔をのぞき込み、 人、のう竹千代どの」 それからついっと、竹千代の体を膝からわきへおしのけ 竹千代はこくりとうなすいて、全くべつのことを考えてた。 いつの間にか竹千代は自分の膝で、陽だまりの猫のよう それは、、 しままでに経験したことのないふしぎな情感の に眼を細め、あろうことか鶴姫のとなりの亀姫にうっとり せんさく 詮索だった。蘭麝の匂いがそうさせるのか、それとも柔かと見人っているのではなかったか ? ひじ
れた。 「ありがとうござりまする」 「ーー・ー竹千代などの成長が待てるものか。おれはじかに今 「追ってその日は、尼どの庵まで知らせることとして、今 川家の家来になってこの土地を手に入れるのだ」 日はこのままの」 だまれ。おぬし一人のものにはさせぬ。石川も天野 もいる。とれるものなら取ってみろ」 一礼して立ちかけると、また呼びとめて、 「じゃが尼どの、日々の素行、くれぐれも注意されよ。眼 ( なるほど、みのる土地ゆえ、争いの種にもなろう。争わ せぬには何がいるか ? ) 立たぬこと、眼立たぬこと」 焦土にするか。 「、い得ました。では : いや、竹千代への信 ! 尼に連れられて竹千代は方丈を出た。出てもまだ胸の中 竹千代は自分がいっかわが仮寓の前で、祖母の手から雅 で、雪斎の顔が大きく眼をあけている。頭の中のどこかが 楽助の手に渡され、更に、関口親永の家の門をくぐって式 じりじり熱い気がする。 ( 食があっても信がなければ、その食は争いの種にな台に立っていることまですっかり忘れていた。 「これ若ッ ! 」 と雅楽助に注意されて、ハッとすると、眼の前へは昨日 その一つの発見が小さな胸でさまざまな空想に形を変え よりも更に美しく着かざった鶴姫が、両側に侍女をしたが てゆくのである。 やはぎ え、じっと自分を見つめたままで立っていた。 ひろびろとひらけた矢矧流域の田。その田の穂波がメラ メラと焔の舌に焼きはらわれて、見る間に焦土と変ってゆ「お待ちしていました。竹千代どの、さ、奥へ来られよ」 言葉はすすやかだったが、眼も頬もけっして笑ってはい く。すると、その焦土はもはや争いの種にはならなくなる なかった。 かと思うと、何の関連もなく、自分を岡崎で父の墓前を ぬかずかせた鳥居の爺と、酒井雅楽助と斬り合っている姿 が見えたりする。 ( なぜ斬り合うのか ? ) と、思うと、二人の声まで空想さ 「おめでと、フござりまする」 9 8
んおじゃる。お方はこの尼が、なぜお方に別れに来たか気華陽院のいうとおり、熱田にあれば母の於大が、駿府へ がっかれぬか ? 」 ゆけば祖母の手が、秘かに竹千代の身におよぶ。 「あ : ・・ : 」と、於大は眼をみはった。 「母さま ! 」と、於大は華陽院の前に両手を突いた。 「母さまは駿府へお移りなさると申された : : : それではそ「葉をおとして春を待っ枯野の木々のこころ : : : わかりま れは竹千代の : : : 」 して、こギ、りまする」 華陽院は手をあげてあとの言葉をさえぎった。 華陽院はうなすいてまた数珠を頂くと、そっと薄く眼を 「熱田におればお方や殿の情をうけ、駿府に移ればこの尼閉じた。 の手がとどく。どちらにしても竹千代は運強う生れて来た 母のこころはようやく娘に通じたらしい 子と見えまする」 て、 於大は息をのんで母の顔を見つめていった。 「お方はしあわせじゃ」とつぶやくようにいいだした。 はじめて肉親の兄、今は竹之内久六と名乗る藤九郎信近「田原御前はの、産まず女ゆえに、お方の苦しみも味わえ か人質交換のことをいいだした心の底がわかりかけた。 まいが、歓びもまた知らぬ。岡崎の殿のないあとは、自殀 「竹千代が運強い : に枯れるのを待つばかり。それに引きかえ、お方はまた久 憑かれたようにつぶやきかえして、こんどは於大があわ松の血筋の中にも生きぬける。不幸と思うてはなりませぬ ててあたりを見まわした。 ぞえ」 「お方やこの身は女の中の仕合せ者じゃ。その身は枯れて ( あるいはこの母と兄との間には、何かの連絡があったのも、いすれは血筋に春が来まする」 ではあるまいか ? し」 兄は交換を条件に織田家から和議を提案させようとして「どのようなことがあっても、この仕合せは手離すまい。 いるし、母は駿府へ移ろうといっている。 生れる児をのう、よい子に育てて下されや」 おえっ そうなれば於大の心はどんなに軽くなることか。 於大はふたたび畳に手をついて、しばらく鳴咽をかみし
本多平八郎の後家も、再びきびしい以前の顔にもどっ 「それはまたもったいないー この通り、ばばもお礼を申 て、次の間へひっそりと向き直る。どちらも母娘の心を察しまする」 した計らいだった。 華陽院はうやうやしく数珠をささけて、その手でそのま 「母き、十 ( : ま涙をおさえた。 みたび そ、フぼ・つ 於大の声は三度ふるえた。 いっかきれ長の双眸に、しっとり露がわいていたのだ。 「安祥の城が落ち、織田信広さま、今川方の手に捕えられそれを見ると於大も悲しさがこみあげた。 たことご存知か ? 」 「母さま ! 」と、抑揚のない声で呼びかけ、 「捕えられましたか ! それはそれは : 「信広さま今川方の手におちて、竹千代の身には何の累も 華陽院はまだそのことを知るはずはなかった。 及びませぬか」 大きく瞳をひらいてあたりを見て、 華陽院は複雑な表情でじっと娘を見返した。 「雪斎禅師さま、自信をもっていいきられましたが : : : そ「及んだらばなんとしまする ? 」 れはそれは」 「ではやつばり : 於大はそのつぶやきをききとがめた。 「人質交換と今川方から申し越されて、織田の殿は何とな 「と、仰せられると、母さまは前もってそのことを : : : 」 さるか、父子の情ゆえよもや拒みはいたしますまい」 「おう、知っていました。それで急に、お方をたずねる気於大の眼はあやしい光りを帯びて来た。 になり・ました」 華陽院はっとめて冷静を装いながら、 華陽院は静かに答えてふたたびあたりを見まわしなが「織田の殿がご承知なさると、竹千代は熱田を発たせられ ら、 「お方は熱田の竹千代どのへ、何くれと心を通わせていら 「 ~ 打く先は ? ・母さまお心山ョり」ざ、りましよ、つか」 れたそうな。それを久松の殿はご存知か」 華陽院はうなずく代りに、ふと視線を庭の住持の背に移 して、 と、声をおとした。 こがらし 「はい。今では、於大の子は、佐渡が子とも仰せられ : : : 」「木枯の吹くままに、葉をおとしては春を待っ木もたくさ 6
いきなりうしろから義元の巨驅に組みついていった者が腰はくずれた。どっと地べたへ倒れた。倒れたはずみ ある。 に、敏捷な新助は、たくみにからんだ手を解いて義元の胸 「無礼者寄るなツ ! の上になっていた。 義元は体をふって怒号した。怒号しながら酔ったと思っ 「おのれ下郎が : た。股から流れる血のおびただしさもその故なら、大地の 義元ははね返そうとしてもがいた。が、まだ雷雨は霽れ 揺れる感覚もそれであった。 てはいない。まともに打ちかかる雨滴のために、義元はわ また紫電が頭上で十字の花を描いて消えた。 が身の上に馬乗りになっている武者の顔がよく見えなかっ 「うぬは誰の手の者だ」 といって、こんなところに自分の死の罠が用意されてあ 「毛利新助 ! 織田の家中だ」 ろうとは思いも寄らず、 「なに織田 : : : さてはここへまぎれこんで居ったな」 毛利新助秀高は、それに応えず、胴に巻いた右手をぎゅ 「誰ぞ。曲者を早く : ・・ : 」 はね汳一旱、、つとしながらもがいた っと力いつばいに締めていった。 脇楯のつぎ目か 義元の巨体はよろよろっとよろめいた。 「ええ見苦しいッ ! 」胸の上の武者は雨すだれの上で唇を ら、下腹へかけてジーンと熱鉄を突き込まれるような痛みゆがめてわめいた。 が背筋へ走ってゆく 「今川の屋形ともあろう大将が、素直に首を渡し候え」 「おのれ、抜いているな」 鎧通しを突き刺されたのに違いない 義元はその時はじめて相手がすでに脇差を抜いているの 「ウーム」 と、痛みをこらえてもう一度はげしく新助の体を横に振に気がついた。 学 / 諸ん ( ここで死ぬ : : : そんなバカなっ ) ~ しよいよ両手で胴をしめ 新助は離れる代りこ、、 っ ) 0 相手の刺そうとする脇差の下で、鎧の重みのもどかしさ にカーツとなった。そして、ロのそばにあった相手の拳 振られた新助はかろく空を浮いてゆくのに、振った義元 に、おはぐろつけた高貴な歯でがぶりと噛みついた。舌の は、わが身と新助の二重の重さでつるりとすべった。 392
「服部忠次、今川屋形に見参 ! 」 「叛乱でござるぞ。方々、謀叛でござるぞ」 義元の胸板めがけて、サッと穂尖をくり出した。 「誰が : : : 誰がそのような不埓なことを」 「下郎 ! 」 「いや、叛乱ではない。野武士じゃ。乱破の襲撃じゃ」 と、義元は叫んで、二尺六寸の豪刀、宗三左文字を抜く そういうさけびが礫のように飛び交う間で、 服部小平太の槍は穂尖を払わ より早く穂尖を払った。が、 「敵 ! 敵の来襲・ : : ・」 そう叫ぶ者もあったが、その声は多くみなまでいいきられたまま少しく下にそれて、義元の肥った股に突き立った。 「おのれツ」義元は股の傷に屈せず、ふたたび太刀を横に ずに泥の中へ突き伏せられた。 はらった。 礼の者の進物と、早暁の勝利と、思いがけない雷雨と が、ことのほかに今川軍を酔わしていた。 中には具足を脱いでいた者もあり、武器を遠ざけていた 義元の豪刀が横に流れ、服部小平太忠次は、「あっ ! 」 者もあった。 義元も酔 0 ていた。用心ぶかいこの大将が、こうした場とさけんで泥の中〈尻もちついた。片膝を断たれ、斬られ 3 所〈馬をとどめる : : : そのことがすでにあり得ないことなた槍の柄をつかんだまま。義元はその時まだそれが織田勢 ~ 礼の者のささげて来た酒樽が、ひそかに彼の隆盛をとは気がっかなかった。 酒の上の刃傷沙汰ではなく、陣中の叛乱と思ったらし 壊滅させる衰運の酒であろうとは : いまの物音は ? 」 「何じゃ、 「下郎 ! 服部とか申したな。誰の手の者だ。憎いやっ と、義元はいった。 「祝酒もよい。が 、取乱しての刃傷沙汰などもってのほめ」 服部小平太のもとどりつかんで顔を見た上、次の一大刀 取静めよ」 いいざま床几を立とうとした時だった。濡れた陣幕を蹴で首はねようとして近づいた。 と、その時だった。 わけるようにして一騎の武者が近づいた。黒の胴丸に大身 「小平太助勢」 の槍をひっさげ、馬から飛びおりざま、
信長は本街道から旧道へ首を向け、黒末川を川上で渡前線からやって来る勝報に耳かたむけながら、悠々と本 って古鳴海をめざした。 隊を進めて来る今川義元とどこで遭遇戦になってゆくか ? 本街道はすでに笠寺まで敵が進出していたし、葛山信貞その時が信長の生涯を決定するときであった。 の清洲進撃部隊五千はここを通って来るに違いなかった。 城にも妻子にも、わが心の守神と信じる熱田の宮へも、 もしその一隊との遭遇戦になっては、尾張の全勢力が釘付決して勝利を予期し勝利を願って来たのではない。 けになって身動きできなくなってゆく 屈服も籠城もできないわが性格に、性格の命するままの 四ッ ( 午前十時 ) 近いころであった。 行動をとらしめたに過ぎないのた。 「猿 ! 馬をとめよ」 「馬を停めよ」と怒鳴っておいて、 古鳴海から丹下をめざす前方の空へおびただしい火災の 「誰そ ! 」 煙のふきあげているのが見えた。 信長は敗走して来る兵の前に立った。 鷲津と丸根が焼けている。 6 二人の雑兵に助けられて落ちて来た武者が、胴丸の右を 3 信長が馬の上で背のびしたとき、前方から負傷した敗残おさえて顔をあげた。小びんから流れる血潮が頬から首す の兵が三々伍々とつれだっておちて来るのが見えだした。 じを黒くそめ、乱髪が物いう前歯に乾いてからんでいた。 鷲津の守将織田玄蕃だった。 「玄蕃か。戦況は ? 」 信長の眼は燐光を放って光っていた。しかしふしぎなほ 「殿 ! 防戦っいに叶わす、丸根の砦で佐久間大学討死仕 どに、いは平静だった。 い・ました」 丸根が燃えている。鷲津が焼かれている。しかしそれは 「、フーむ」 当然のことが、当然やって来たのに過ぎなかった。 一言長は、つめくよ、フに、フなずいて、 ひた押しに押して来る今川勢を丸根や鷲津で食いとめ得「大学だけか大将は ? 」 るものではない。信長の狙う戦機はその後にあった。 「鷲津では飯尾近江が : : : 」
も計られず、あるいは誰ぞ老臣の手にゆだねることがある庭先〈片膝立ちで大息ついている半助を見おろした。 「されば城門を出すると熱田へ行けと仰せられ、そのまま かも知れす : : : 」 馬を駆けさせました」 「御台所さまは、そのあとで何となさりまする」 「つづく人々は ? 」 深雪はそれが心配らしく、以前の侍女の顔にかえって縋 「わすかに五騎、岩室、長谷川、佐脇、賀藤の面々。それ るよ、つな眼になった。 に木下藤吉郎さま、くつわをとって街道を雲を霞と駆け出 濃姫は笑顔をしめして、 してござりまする」 「知れたこと。殿のおあとを追いまする」 濃姫は胸がさわいだ。つづくものがただ五騎では : と、きびしく答えた。 っこい殿は何を考えているのであろう 「では、それぞれ用意を」 三人は硬い表情で、各自の部屋へ立っていった。と、入「よい。こなたも後を追って、こまかく見届け知らすよ れ違いに濃姫の命じておいた信長の動静を知らせる第一の 「はつ」と半助は驅け去った。 注進があわただしく庭をぬってやって来た。 「奥方さま」 藤井又右衛門に言いつけて、足軽の中から選りすぐった あとへ残ったお八重が声をかけたが、朝日を半面にあび 八人が、奥へ今日の戦況を知らせる伝令の役を命じられて た濃姫はその声さえも届かぬように、じっと虚空を見つめ いる 最初に着いたのは高田半助という以前は熱田の漁夫たっている。 た。又右衛門の娘八重がそれを案内して来た。 八重はすでに白い木綿でたすきをかけ、額に男の用いる 手には薙刀をひっさげ、手甲の紅が朝濃姫の心配の種は信長の信仰とい 0 てよいほどの「性 鉢金をあてていた。 格」の中にあった。信長は乱世を正すものは一切が「カ 日をはじいて勇ましい 」ひとっと確信している 濃姫は八重の姿に微笑をなげて、 「ーーー・家中を治めるは徳でござりまする」 「殿はいすれへ行かれしそ」 380
かかることで楽になれると思、つのかツ」 がっかりさせたりして、諸将の登城をおくれさせている原「 因だった。 いってみたが、重休を叱ったところでどうなるものでも むろん、昨十八日中、鷲津、丸根の砦からは援軍を乞うなかった みんな顔を見合って嘆息した。胴丸をぬいで風を入れた て来ていたし、今となっては誰の眼にも籠城する他になか っ一 ) 0 が、涼しさよりは薄ら寒さがひしひしと身にせまった。 しかも夜になると、信長はかたびらの袖をまくった湯上 いかに剛愎な殿であっても今日は指図せずば居られ 亠まいて」 り姿でやって来て、 みんなは期せずして物々しい甲胄姿で登城したのが昨日 「ーーー今宵はみなそれそれの家に引取って休むがよい」 だった。すると昼近くになって、、 姓の岩室重休が紙を下 と、申渡したのだ。 げて奥から出て来た。 怒るよりも気がぬけた。何の必要があって、わざわざみ 「ーーーそれツ、指図書ぞ」 んなの意気をこれほど沮喪させるのか : 誰がどこの城門を固めるのかとワーツと掲示の前へ寄っ 「ー・・・・・殊によると、籠城 : : : 死ーーと考えて、今宵だけの てみると、指図書どころかこの皮肉な貼紙だった。 命ゆえ、家族と名残りを惜しむようにという労りではある 岩室重休は先殿の寵姫、岩室殿の弟で、加藤図書助の甥まいか」 である。 帰途の玄関先で吉田内記がそういうと、林佐渡は星を仰 これ重休、何としたことぞこの貼紙は ? 」 いで吐き出すように応じた。 いずれにしろ滅亡じゃ。そのような思いやりはもう まっ先に林佐渡が叱りつけた。 遅い」 私は存じませぬ。殿の仰せでござりまする」 いかに殿の仰せとはいえ、敵はすでにひた押しに城それで今朝は、夜が明けきってもまだ数えるほどしか詰 めて来ていなかった。 へ迫っているではないか」 「ーーー , 迫ってもよい。暑いゆえ、これを貼ってやれ、みん「また小鼓の音でござるの」 なが楽になると仰せられました」 「今日はとりわけのどかじゃ。 いまごろ、丸根の砦では戦