思い出したように甚左がすすりあげた。 かっかと寄っていって政秀の死骸を両手で抱き起した。 むろん手にも裾にも血のりはついたが、 信長はそうした 信長はいぜんとして立ったまま、政秀から眼をそらさな ことに頓着なかった。抱き起して、まだしつかり刀にかか っている右手の指を一本すつはすしていった。 「五郎右衛ーー」 し」 「恐れおおい、殿 ! そのようなことは私たちがいたしま する」 「遺書をもて ! 」 「遺書 : : : と仰せられますと」 五郎右衛門があわててそばへ近よると、信長は乱暴に五 郎右衛門を突きのけて、刀をはなした指と指とで合掌を組 「たわけめ ! 机の上にあるではないか」 「えっ ? 」監物の方がびつくりして机上を見た。 ませてやった。 信長は舌打した。男兄弟三人あって、父の死の心も解さ 監物も甚左も末座で平伏したままおびえきってながめて いる。狂死ーーーといわなければ組暴な信長が、怒りに任せぬ。爺が哀れでならなかった。 五郎右衛門はこれも遺書のうわ書を見てまっ蒼になっ て家禄を召上げ、自分たち兄弟は追放されるのではあるま た。「凍状ーーー」と書いてある。何という父であろうか。 いかと、それを怖れていたのである。 この暴君に諫めなど、爆薬を火に投じるにひとしいこと。 合掌させると、信長はそっと遺骸を仰向きに寝かせてか これでわが家も取りつぶされるーーーそう思うと信長へ差出 ら、突立って「香 ! 」とどなった。 す手がぶるぶる震えた。 甚左があたふたと香を焚きだすと、 信長は諫状ーーーとかいたうわ書をひと目見ると、 「監物、花 ! 」とまたいった。 「よし、そのままおぬし、そこで読め」 べつに自分で手は合せなかったが、 と、きびしい声で五郎右衛門にあごをしやくった。 : と見てとって、 「申訳ござりませぬ」 花を供えながら監物がつぶやくと、信長はまたキラリと 五郎右衛門は震える声で遺書を読んだ。 鈩い一をくれたが、、へつに叱りはしなかっこ。 怒っている様子もな 140
しくかこっている彼の性格ーー大将たらずんば生き得ぬ気「何の帳面でござります」 「これから味咐を買いに参る」 性。それに藤吉郎は眼をつけている。 信長が藤吉郎の持って生れた「運ーー、、・」を試そうとして「ははあ、味ならばだいぶ仕込んでござりまするが」 いる以上に藤吉郎は信長の「運ーーー」に深い興味をもって「足らぬ足らぬ」 藤吉郎はかんたんに首を振って、 「籠城じゃ。御大将の腹は籠城と決まったのだぞ。そうな したがって、信長がこの場合に「ーーー , ・・ひとたびは今川冫 ると城外のお家来衆の家族までがみな城に入って来る。米 降って : : : 」 などといい出したら、彼はさっさと信長を見捨てて他所麦はまずよかろう。が、味が足らん」 へゆくつもりであった。そんなところに木下藤吉郎の人生 と、生まじめにいった。 の「賭け場挈ーーー・」はなし 「それではすぐに大豆を煮て、早作り : ところが信長は、藤吉郎が考えていたとおり降るよりは 「いやいかん。大豆は大豆で入用もあることゆえ、百姓町 「死ーーー」をえらんだ。 家から細かく味咐をわけて貰わねば相成らぬ。帳面を作っ 3 信長の気性ゆえ、黙っては籠城はまずすましカ言 、。 ; 、 , 可ってく、れ」 て出る機会がっかめなければ、あるいは、自分は城の中で 宗久は呆れたように藤吉郎の顔をながめていたが、やが ほんとうに寝たまま討たれる気かも知れなかった。それほて美濃紙をたたんで、一冊の帳面を作りあげた。 ど信長は人のした事のあとを追うのが嫌いであり、藤吉郎 「うむ。これでよし。硯をもって来い」 が買っているのもその点だった。 宗久が言われるままに硯箱をはこんでゆくと、平素文字 「おもしろくなって来たそ」 など書いたことのない藤吉郎が、めすらしく筆をかんで表 藤吉郎は信長の前をさがるとすぐ又台所の炉のふちに帰書をした。 って来て、 みそかいにん足帳 0 「これこれ、宗久、帳面を作ってくれ」 それをうやうやしく頂くようにして、べつに取出した矢 賄方の小久井宗久を手招いた。 立と結び合せて腰につけた。
られた七尺あまりの石垣、三方は土塀であった。その北に すぐ眼の下に前兵の隊列はあった。騎乗の人は馬を降り つづいているくぐりをあけると、急に視界がひろくなった。 て水をのませ、徒士は槍をついて足を休めながら本隊の近 利家は川原を通る黒い影に小手をかざして元康のいる本づくのを待っている。 隊は、どのあたりかと目測した。まっ先に騎馬が二騎、そ 話し声は手にとるように榛の木陰まで聞えて来た。 、れからしばらく徒歩の兵がつづいて更に七、八騎一団にな ほんとうに刈谷の水野が夜襲であったろうか ? 」 っているところがある。 「ーーーでなくてどうするものか。われわれはそれを町りぬ ) ( あれだな ) けて来たのだ」 と田 5 ったときに、前兵は行進をとめた。 「ーー・・・斬りぬけては大げさすぎる。わしは敵の影は見たが 竹之内波太郎の一隊が追撃ちしないと見てとって、この あたりで隊列を整えるつもりだったが、利家にはそうした 「ーーー・ー以らっしや、 伯父甥の間柄じゃとて、水野家は ことはわからなかった。 尾張方じゃ。いちども軍勢を出さずに通したとあっては済 彼は本隊をおとずれて、母と子を十余年ぶりに再会さむまいが」 せ、尾張の好意をそれとなく元康に印象させれば足りるの なるほど、それで斬りぬけたか」 「ーーー左様、ひどい苦戦であった」 いや、そうすることも一つの謀略ーーーと思っていたの 会話の意味は利家にはのみ込めなかった。Ⅱ 不家はただこ が、いっからか、うしろに従う不運な母の心になりきつの木陰で本隊の到着を待っている。「松平元康に物申すー て、自分でも不覚に涙ぐみそうな気持になっていた。 ー」そう言ってから生母がこれに来ていることを告げるつ 怪しまれて近づく前に遠矢を射かけられてはと、彼は五もりだった。元康母子がどんなに喜ぶかと想像するだけ 六本堤に生えた榛の木らしいもののかげからまっすぐに行で、若い利家の胸はいつばいになってくる。 列に近づいた。 と、とっぜん於大の方が小戸で利家の袖をひいた。 「前田さま、見せるものとは、この行列でござりまする 力」 、 4 ) 0 340
な恍愡から恍惚を追う生活にひたろうとするに違いない 元康はそうした会話を聞きながら、瀬名の髪の香りをか ところが、この居間の外では、生き残るためにどんなに いでいた。薄く紅をつけた瀬名の耳には、そうした窓外の 激しく戦おうかという切実な風が吹きすさんでいる。 会話すら入っていない様子であった。 「ーー・わしはな、こんどこそ兜首をあげてみせるぞ」 自分の幸福だけをひたすらんではなすまいとする。こ などと早まって、わざわざ死地に飛び入るな。こん の世に自分だけの幸福などあるものではないと気づかない どの戦は無事に兵糧を大高城へ入れるのが目的なのだ」 「ーーそれは分っている。が無事に入れるためには戦わな女の哀れさ。 「瀬名 : : : 」 ければなるまい」 「あい」 「ーーー戦わなければならぬが、しかし一兵も損じたくない 「わしが出陣したあとで御所のもとへ参ったら、元康は盤 というのが殿の肚だ」 瀬名の居間の庭まで馬をつなぎに来たらしい。一人は阿石の自信をもって出陣したと告げなされ」 「ソて、れはも、フ」 部正勝、もう一人の声は天野三郎兵衛らしかった。 「この元康が、どんな手だてで敵をさばくか、よくご覧ぜ 「殿が損じたくない肚だからといって、われらが勇まずば られるよう。元康は他人の戦法のあとは踏まぬ。万全の構 それこそいよいよ損ずるであろうが」 「ーーー勇むなというのではない。沈着によく考えてぬけ駈えでしかも敵の意表をついてみせると告げてくれ」 「頼母しいそのお言葉、淋しい留守を、そのお言葉でまぎ けなどしよ、つと思うなといっているのだ」 「 : : : わかった。が、若い者は、それがしたくてならぬららせまする。身辺に心きいた者どもに人垣を作らせて、流 しい。本多の鍋もいよいよ元服してついてゆく。初陣で兜れ矢などにあたってたもるな」 元康は子供をあやす気持でうなずいた。 首をねらっていたぞ」 「心配するな、さ、ではこれから軍議をひらく。お許は酒 「ーーーあれも後家に似て気が強い。そうか。元服するか」 もはや名乗りは決まったと鼻高々だった。本多平八井の叔母などと話し合うているがよい」 「殿、約東は忘れまいなあ」 郵忠勝というのたそうじゃ。たた勝つ。何者にもただ勝っ 326
かかることで楽になれると思、つのかツ」 がっかりさせたりして、諸将の登城をおくれさせている原「 因だった。 いってみたが、重休を叱ったところでどうなるものでも むろん、昨十八日中、鷲津、丸根の砦からは援軍を乞うなかった みんな顔を見合って嘆息した。胴丸をぬいで風を入れた て来ていたし、今となっては誰の眼にも籠城する他になか っ一 ) 0 が、涼しさよりは薄ら寒さがひしひしと身にせまった。 しかも夜になると、信長はかたびらの袖をまくった湯上 いかに剛愎な殿であっても今日は指図せずば居られ 亠まいて」 り姿でやって来て、 みんなは期せずして物々しい甲胄姿で登城したのが昨日 「ーーー今宵はみなそれそれの家に引取って休むがよい」 だった。すると昼近くになって、、 姓の岩室重休が紙を下 と、申渡したのだ。 げて奥から出て来た。 怒るよりも気がぬけた。何の必要があって、わざわざみ 「ーーーそれツ、指図書ぞ」 んなの意気をこれほど沮喪させるのか : 誰がどこの城門を固めるのかとワーツと掲示の前へ寄っ 「ー・・・・・殊によると、籠城 : : : 死ーーと考えて、今宵だけの てみると、指図書どころかこの皮肉な貼紙だった。 命ゆえ、家族と名残りを惜しむようにという労りではある 岩室重休は先殿の寵姫、岩室殿の弟で、加藤図書助の甥まいか」 である。 帰途の玄関先で吉田内記がそういうと、林佐渡は星を仰 これ重休、何としたことぞこの貼紙は ? 」 いで吐き出すように応じた。 いずれにしろ滅亡じゃ。そのような思いやりはもう まっ先に林佐渡が叱りつけた。 遅い」 私は存じませぬ。殿の仰せでござりまする」 いかに殿の仰せとはいえ、敵はすでにひた押しに城それで今朝は、夜が明けきってもまだ数えるほどしか詰 めて来ていなかった。 へ迫っているではないか」 「ーーー , 迫ってもよい。暑いゆえ、これを貼ってやれ、みん「また小鼓の音でござるの」 なが楽になると仰せられました」 「今日はとりわけのどかじゃ。 いまごろ、丸根の砦では戦
( こんな子供と、どうしたのであろうか ) 元康の覚忸を強固なものにさぜておこう。 それがだんだん意地に似た想いで手離せないものとな 元康はまたこの年長の妻の言葉にはよく従った。従わせ り、婚礼の前には自分からすすんで元康のために氏真をた なければおかぬ瀬名の気性もあったが。 ずねて、さんざんな目にあった。 「ーーー・殿のおためを思えばこそーーー」 一言いうと、十八歳の元康は老成した人亀姫を懐妊しているとわかったとき、瀬名は人生がまっ 瀬名がさいごに 暗になったような狼狽を感じた。どうしてもそれが元康の のようにうなすくのが常であった。 胤とは思えず、氏真の子のような気がしてたまらなかった 「これ姫、鶯と花、よく見ておきなされ、今年はお父上 のである。 にいよいよ春がおとずれましよ、つぞ」 待たしてあった乳母に亀姫を抱かせて玄関を出ると、瀬ところが今はそんな不安は消えはてて、自分ははじめか ら元康のためにあったような安定の中にいる。 名は上機嫌でわが子を花の下であやしながら歩いた。 年下の良人というひけ目もなかった。婚礼前から交って 表ではどうやら蹴まりが終ったらしく、こんどは笛と小 鼓の音が聞えたしている。 ( 殿はいつごろ退出なさるであいたことへの羞らいもなかった。 良人ーーーと、思うだけで、疼くように愛おしい。あるい ろうか ) は四囲の事情が、元康の若い体に無為を強いているので、 女としては一時も元康をそばから離しておきたくない矛 この夫婦の交りは世の常のそれより遙かに濃かった故かも 盾もある瀬名姫だった。 知れない。 四 元康も絶えず瀬名をもとめたが、瀬名もまた元康がそば にいないと安眠出来ないほどだった。 というものはふしぎだったが、女という生きものも、 そうした仲で、間もなく二人目の子供が生れる。これは 思えばっくづくふしぎな気がした。 最初には竹千代時代の元康を、からかう以外の気持はな何のうしろめたさもない元康の胤であった。 瀬名は浮々と馬屋曲輪をまわって西手門を出た。 かった。それがもののはすみで契ってしまい、契った当座 ま 0 父」毋しこ。 日当りのいい堤の桜はすでに七分どおりひらいて、若草 2
「まあ : : : 信広さまは敵の手におちたのでござりますか」 「ーーー人間わずか五十年 : : : 」 あつもり 信長はもう一度いまいましげに舌打ちした。安祥城をお と、いわれぬ先に敦盛をうたいだした。 とされたのも、上野の城に入った雪斎が父信秀のもとへ軍 信長は舌打ちした。開きかけた扇をびたっと閉ざして、 使をつかわし、信広と竹千代の交換を条件に休戦を申し出 「おぬし、おれに戦いをいどむ気か」 て来たことも、知りすぎるほど知っている濃姫なのだ。 い」と、濃姫ははっきり答えた。 その濃姫が、わざと信長の神経へいどんでゆくのは、自 「人生は戦いじゃと、これは殿おみずからの訓えでござり 分より三つ年下の信長が、事ごとに自分を圧倒しようとし まする」 て来るからであった。 「夫婦はちがう ! 」と信長は畳を蹴った。 傍若無人は信長の性格らしかったが、時にはあどけな 「夫唱婦随も事による。先まわりして興をそぐな」 く、時には意地わるく、時には仇敵のごとく、時には蜜の 「と、仰せられましても、今日の舞いは興ではのうて、ご ように囁きかける信長が、濃姫にとっては小面贈い感じで 不興をまぎらすための舞いと存じましたが」 あった。 信長は己 5 々しげに舌打ちした。 現に初夜の契りの時までそれであった。 「おぬしは、下げてくるものを間違えて出て来たわ」 さあ参れ」 「下げて来るものとは : しゅ、っち みじんも羞恥の色を見せす、老成ぶって懐をあけてお 「なり余った物を下げ、男になって出て来るところを、な きながら、濃姫が人ってゆくと、 り足らぬ女の姿で出てまいった。あわて者め」 「ーーーそなたにも流儀はあろう。思いのままやってみよ」 濃姫は笑う代りにわざと神妙な顔つきで、 そして、濃姫が何も知らぬ生むすめとわかると声をたて 「実家の父もつねづねそれを申されました。困ったことに て笑った。 存じまする。して、父上さまご機嫌は ? 」 「ーーー。やれやれ、十八にもなっておぬしも働きのない女 信長はポンと扇を放りだして、その場へすわると、 「おぬしならば何とするぞ。今日の相談、安祥城で敵の手じゃ」 そのくせ自分ではぬけぬけと、動物の性態ならば知って におちた信広がことであったわ」 ふところ 9
義元は相手に自分の度量を見せるつもりのほかに、このの ? 」 落着きはらった小倅から女の秘密をのそいてみたい興味も竹千代は小さな頭の混乱をどう整えようかとあせりなが あった。 ら、ロでは、 。い」と答えてしまった。 というのは義元自身の奥方もまたかなりな厚馬で、時々 ひどく手を焼かせた。 「そうかそのようにおとなしい : : : で、最初はお許の方か 甲斐の鬼といわれた武田信虎の娘で、父の猛気をうけつら言い寄ったか、それとも姫か」 「さあそれは : いでいるせいであろう。 「姫であろうの。年がちがう」 「ーーーわらわなどより小姓に戯れられたがよい」 「いいえ : : : 竹千代がさきに」 不機嫌な時には、そういって平気で義元を拒むという。 寺院育ちの義元が男色を好み、多くの小姓を愛すからで岩の上であくびをして : : : といおうとして、ようやく、 その言訳はいまはすまいと、しぶといものが胸の中であぐ もあったが、その結果はしみじみと女は度しがたいと、か らをかいオ えって男色へ追いやることにもなっていた。 小姓たちの恋はそれこそ献身的で奴隷的で、一筋に主君自分の背後には流民のような暮しに耐えて、じっと光を を課、、 主君を慕うが、女は決してそうではなかった。っ待っている家臣がある。うかつなことを言い出して、義元 ねに術策を弄すばかりか、むら気で陰険で、思慮がなかっ の怒りを買ってはならぬ。それを義元がよろこぶというの た。それゆえ今では氏真までが、 なら、誤解もよかろ、つ、偽態もよかろ、つ : : : そ、つ、いに田 5 い 「ーーーー男がよい」と、そろそろ女に飽きだしている。 きめると、次の言葉は案外すらすらと口を衝いた。 そうした義元にとって、だんだん成長してゆく鶴姫は、 「竹千代は忘れ易い性分にて、よく覚えておりませぬ」 典型的な女のように眼に映った。それを三河の小倅は、 「こ奴が : : : 」と義元は笑った。 「分別臭い翁のようなことを申す。お許の家臣どもがいし 易々として乗りこなしたという。 「どうじゃ。最初はおとなしかったであろうが、今も同じつけたのでなければ、忘れることなどないものじゃ」 とはゆくまい。それとも竹千代の申すことならかくべつか
「器が違うようじゃの。上総介さまとは」 「それだけに、輔佐する者も生命がけでなければならん 政秀の眼はひたと和尚の額にすわった。 輔佐する者が遅れては、上総介さま、さそや駆けにくかろ 「見どころありと仰せられるか ! 」 う。おわかりかな」 「さすがは、政秀どのお見立てほどあっての。しかしこの 平手政秀はハッと、いに思いあたることがあった。 ます 「ご教示かたじけない」 殿は、世間の小さな桝でははかれますまい」 丁寧にあいさっして屋嗷に帰ると、彼は紙と硯を机上に 「何といわれる ? 大きな器と和尚もごろうぜられるか」 和尚はこんどはうなすく代りに叱るような口調になっ並べて、その前にひっそりと坐りだした。 「今更迷うは不忠でござろう」 「誰に ? ・」 「ーー , 輔佐する者が遅れては上総介さま、さそや駆けにく かろ、つ」 「亡くなられた万松院さまに」 : と隸 政秀は息をのんだ。ここにも一人味方があった : そういった大雲和尚の言葉が、平手政秀の心へダニのよ うに食い人っている。 うと、熱いものが胸にこみあげ、とみには言葉も出なかっ 「ーーー輔佐する者も生命がけでなければならぬ」といった し、 「政秀どの」 し」 「ーーー、 , ・今更迷うは万松院さまに不忠であろう」ともいっ 「上総介さまは、理外の理を見てござるそ」 「理外の理とは ? 」 大雲和尚は俗縁では信秀の伯父であった。その動作、一一一一口 語は柔かだったが、 「事々無礙の法界へすでに片足かけてござる。父の位牌に 内には信秀以上の鋭い気魄をかくして 香を投じたあの気鋒、あの気鋒こそ、一切を認めるがゆえいて、今川義元に対する雪斎の位置に似ていた。 たいゅう に一切を破壊もする、大勇の窓でござるそ : : : 」 雪斎が時には陣頭に立って義元をたすけたのと反対に、 そういってからまた微笑を頬にきざんで、 大雲和尚は、裏から信秀の信仰、思想を培うに役立った。 っ ) 0 732
信秀はいつになくはげしい情熱で岩室殿の愛撫にこたえ そのくせ、時々ふっとおし黙ってばんやり天井を見つめ ていたり、思い出したように呼びかけてみたりもする。 冫ししオしことがあるらしいと田いっ 岩室殿は、何か信秀こ、、こ、 こ。しかし、自分の方からきいてゆこ、フとはしなかった。 もしたすねたら、きっとまた信長の名が出そうな気がす るからだった。 0 信一長さよはきらい・ けんお 一度心に印象された嫌悪はなかなか消えそうもなかっ た。いや、その嫌悪のかげに、 信行や権六や右衛門などの イ長評が大きな支えになっているのだが、岩室殿はそれに 気づいてはいなかった。 信長があとを取ると瞬く間に織田の家中は争乱にまきこ きょす まれる。実力では信秀におよぶべくもなかったが、清洲、 岩倉、大山にはまだそれぞれ本家筋にあたる織田の一族が しもうさ 住んでいたし、信長の生母土田御前の生家の土田下総も、 あき 神保安芸も都築蔵人も山口左馬助もみんな信長を嫌ってい ると聞かされている 恐らく信長の姉婿、大山の織田信清など信秀が亡くなっ たら直ちに叛旗をひるがえして那古野の城へ攻めかかるに 違いないとも聞かされた。 ( そんな信長に、なぜ殿は後をゆずろうというのだろ さつかく これは信秀の錯覚に違いない。いずれその誤りに気づい て、 「ーーーやはり、後は信 ( 打に」 そう言い出すときが来るであろうと、秘かに思っている だけに、これ以上はっきりと信長のことは訊ねたくなかっ 丑の刻 ( 午前二時 ) を告げる見廻りの柝の音が静まりか えった域内の矢倉のあたりでひびいていた。と、すでに眠 ったと思った信秀が、また、 「岩ーーー」と、岩室殿に呼びかけた。 そして答えの代りに岩室殿が、 「おお、寒い : ぐっとつよく縋ってゆくと、 「信長・ : ・ : 」と、また信秀は言い出した。 「何と仰せられました ? 殿・・・・ : 」 「、つ、、つ、つ・ 「殿 ! 夢をご覧なされましたか」 「岩室 : : : 」 たす 111