思う - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 2
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1. 徳川家康 2

のうわさからは、美しい幻想はわきようがなかった。 ないようにな」 とにかくとほうもない大馬鹿者だそうじゃ。嫁いで 、女はたよりなげな眼をあげてうなずいた。 きわ 年は十八歳。斎藤道三はこの姫の才気をこよなく愛していったらの、その大馬鹿者の性根をはっきり見究めさっ し」 いたのだが、こんどの婚礼にはまるで他人のように冷淡だ つ ) 0 父の道三は濃姫にこの縁談を承知させるとき、歯に衣を 自分でわざわざ送って来れる時節ではなかったが、重臣きせぬいい方で、 一人っけてよこさず、両家のためにと使いに立った平手政「ーー・・・しかし、どこかに見どころのある馬鹿であろうよ。 秀」、 でなければ織田信秀が、まさか後継にもすえまいでな。わ 「ーーすべておことにお任せ申そう。わしと織田家の間柄しはおぬしとよい取組みと思うのだが」 ゆえ」 道三もむろん信長に会ってはいない。その言葉を要約す 戦って戦って、戦いつづけて来た好敵手の手にはじめかれば、 ら娘一人を捨ててかかるロぶりだった。それだけに、生れ ( そなたは美濃の間者として那古野へ嫁いで行くのだそ ) た城を出るときから濃姫のそばには他人ばかりであった。 そうさとしているのだと、姫にははっきり分っていた ただ三人の侍女たけが心のたよりで、自分よりも三つ年下「これツ」 の「那古野のうつけ者」に嫁ぐ覚橋をしなければならなか いきなり耳のそばで声をかけられて、小さく坐っていた ったのだ。 濃姫はハッとしてその声の主を仰いだ。 「さ、こうおいでなされ」 「おぬしが美濃の濃姫か」 信長の居間は京風に改築されていたが、本丸の大広間は 無礼な奴。いったいこれは何者であろう ? 六尺近い大 がんじし - : フ いかにも古風な岩乗一方の木組みであった。 男が、よごれた脛をむき出して、いきなり姫の前にどっか その正面に、白あやの小袖をまとい、波打っ胸をおさえと坐ったのだ。 て坐ると、思わす涙が出そうになった。 「なぜ返事をせぬ。まさかおぬし唖娘ではあるまいな」 渼濃まで聞えた那古野の大うつけ者。まだ見ぬ自分の婿 それが信長の濃姫にかけた最初の言葉であった。 すね きぬ 3

2. 徳川家康 2

も、おぬしたちには歯がたつまい 「久 ! 」と浴びせかける。久六はびつくりして顔をあけ しなことよ」 た。それほど馴々しく呼びかけられるとは思いも寄らなか 傍若無人に笑ってのけて、それからびたりと笑いおさめったのだ。 ると、もうまたいつもの鷹の眼だった。 「おぬしは佐渡が掘り出しものじゃそうな。平手政秀に会 「大千代」 うて来たか」 し」 信長の質問の意味がわからず、久六はしばらく考えてい 「佐渡が家臣をこれへ通せ。そしてそちも姫も、信長が応た。 対を肝に銘じて見ておくのだ」 「政秀に会うて来たかときいているのだ」 じき / 、 「では案内いたしまする」 「はい。若殿直々に、お目通りをねがい出て宜しきや否 大千代が一礼して立ってゆくと、 や、そのことだけ伺いに参上 : : : 」 女 ! 」と、信長は新妻をふりかえった。 「嘘を申すな」 「よッ 「今日限りじゃ。奥へ男どもは通すまい。その代り、男ど もを見損うて、この信長の邪魔立てせぬよう、よいか。し「話の内容もたずねすに、政秀がおぬしをわしの所へまわ かと見ておけ。男はおぬしの父御ばかりではないものそ」すと思うか」 その声のはげしさに濃姫は思わすハッと胸をおさえた。 「恐れ入ってござりまする」 「おぬしが申したことに、政秀は同意した。そしてその事 五 は、政秀が取次ぐよりも、直々わしにいわせた方が効目が 大千代は以前の落着いた動作にもどって竹之内久六を案ある : : : そう考えたゆえ、わしの所へまわして来たのた。 内して来た。 久六は次の間の嗷居ぎわに平伏した。 信長はそれを弾き返すような視線でにらんで、いきな 「おぬし、おやじに義理を立てに参ったか」 「と、仰せられますると : : : 久六とんと殿の仰せが分りま

3. 徳川家康 2

竹千竹はまっすぐに亀姫を見やって、髪から膝まで観賞 するように眺めわたした。竹千代の眼にはこの姫の方が美 竹千代の言葉で、居並ぶ人々は期せずして二人の姫の容 しく眼に映じた。 色を見比べた。 鶴姫の皮膚はすでに大人であった。色白でなめらかで、 ふっとたれかの乳房を想わすものがあったが、それだけに 鶴姫はすでに柔かく熟れだした感じであったし、亀姫は まだ堅い。だが、あと二年も経ったら竹千代のいうとお 自分とはかけ離れた感じであった。ところが亀姫にはよう やく色づきだした桃のようなうぶ毛があった。そのうぶ毛り、亀姫の方がすぐれた美しさを見せそうに思われた。 ふくいく 亀姫にはどこかに毅然とした小柄な端麗さが想像される に頬をすりよせたら、たぶん馥郁とした香気が彼をつつん のに、鶴姫はその反対だった。自我は強そうだったが、柔 でゆくに違いない。 ほ・つ , ゆっ かくはすんだ肌の女性の姿が彷彿する。 「天しいー・」 「どうじゃ、おぬしならばいずれを所望せらるるな」 この場合の美しいというのは自分に近い感じをいったの であろう。 「さよう、わしはやはり鶴姫じゃ。肌の色、ゆたかなしし おき : 「そうか。阿亀の方が美しいか」 「拙者は竹千代どの同様、亀姫がよいと思うな。あの眸の かがやきには貞節と智慧の光りが無限にやどっている」 「気にいったら、いっかお許に取らそうかのう」 若者の多くは、すでに大人の鶴姫をはめ、女性には不足 し」 亀姫はおもしろそうに竹千代を見返しているのだが、鶴のない壮年の人々は亀姫をとった。 そうしたさざめきまでが鶴姫の耳に入った。鶴姫は座を 姫はもう顔もあげていられなかった。元日の大広間で、出 て来たばかりの三河者にこのようなあらわな言葉で、竸い立って、どこかで声をあげて泣きたいような屈辱を感じ とは田いもよらなかっ 相手の亀姫と比較されよう 「そうか。竹千代はこの姫の方がすきであったか。では改 めて、姫の手からもう一つ屠蘇を祝うか」 8

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見せてゆくに違いない。信長も権六もその意味では今年の せっせと手習いをはじめたころから宗牧、信秀などと、 葉ーーと、政秀は思った。 連歌の遊びに興じた文雅な過去までがふしぎなものに客観 政秀自身も、若いころには信秀にあきたらなかった。こ された。 んな主君のもとでは、生涯うだっはあがらぬぞと、冷たい ぶーんと墨の芳香が鼻をついた。 計算をした日もあった。 すべては今日、この一枚の遺書を書くための手習いであ それがいっからか信秀に引きつけられ、ついにはよろこり、文雅であったのかと思うと、またフフフ : : : と笑いが んで、い服して今日におよんでいる。 胸にこみあげた。 信長にしても同じであろう。柴田権六ずれを心服させる 墨を擦り終って、政秀は燭台の丁子を切った。ポーツと 力がなくて何ができよう ! あたりは明るくなり、紙の白さもまた匂うようであった。 ( それは自然に任すがよい : 政秀は筆をとってゆっくりと穂さきをおろした。 といってそれをどこまでも消極的な諦観とは思いたくな家人はそろそろ休むころであろう。邸のうちはシーンと つ 0 ん子 / 竸まり返っている。 「ーー・・・・吉法師はおぬしに頼むそ ! 」 政秀はまず「諫状ーー」と二字、上書きの文字をしたた そういわれた信秀に め、その墨韻に眼をほそめた。 引受けました」 五 と、答えたのだ。その誓しオレ。 、ごナよ、この身のあらん限 り、つき貫かずにはおけない武士の意地であった。 いちど心を決するとあとは澄みきった自在の世界の独歩 泣くだけ泣くと政秀は顔をあげた。 であった。さまたげるものもなければ、さまたげられる乱 もうその表情には、悲哀や悲愁は片鱗もなかった。彼はれもない。 あたりを見回して嬰児のようにニコニコし、それから硯を 「ーー、・度々の諫言おん用いなきこと政秀が身の不肖、よっ 引きよせて、ゆっくりと墨をすり出した。 て腹かき切って自害致し候者也。あわれ拙者が死をいくば 何か人生が楽しくもあり、おかしくもあった。 くたりと不愍に思召し候わば、次に認めおき候条々その一 ちょうじ 136

5. 徳川家康 2

瞬きもしなかった。二人の少年の眼は火花の散るはげしさ こんでお会いなされませぬ。そちたちの苦労、この竹千代 で空間に斬りむすんだ。 にはよく分っている。辛抱してくれとなぜ一言仰せられま 「一兀忠 ! 」 せぬ」 し」 そういうと元忠はきびしい姿勢のままポロリと膝に涙を 「そちは、家臣が、わしのためを想うて、駿河衆に気をかおとした。 ねているというのであろう」 竹千代はプルプルと震えながら、しばらく無言であっ つ」 0 「違いまする ! 」と、元忠ははね返した。 「君のためを想うだけで、あのような屈辱に甘んじられる 今にして、鳥居のじい ( 忠吉 ) が、わが子の元忠をわ。さ ものではござりませぬ」 わざ駿河によこした意味がうけとれた。 「これは異なこと。ではたれのための辛抱じゃ」 「家臣一統に借りのある主君を暗君といい 家臣にすがら 「戦があれば先陣をいいつけられ、父を失い兄を送り、子れ、その信にこたえてゆくを明君と、この元忠は存じます を討死させながらその日の食に事欠いても、歯を食い縛っる。それでも代りに会えと仰せられ、また借りを重ねます て駿河衆に土下座する : : : 戦野では一方の勇将が髪結のもるか」 とゆいまで節し、藁で東ねて鍬を揮う : : : その姿が君には竹千代はそっと元忠の視線を避けてわきを向いた。そう 見えませぬか。これをただ君のためとご解釈なされまするだ。ただ想われるだけでは借りになる。縋られて、縋り甲 か。元忠はそうは思いませぬ ! わが君のお心に希望をつ斐のある君ならば、これこそ自然の君であろう。 」と竹千代の声は和らいだ。 ないで、縋っている姿 ! 縋るものがあるゆえに出来る我「元忠 相以と存じまする」 「国許からの使いというのはだれだ」 「よこッ ? ・」 「はい。本多忠高が後家にござりまする」 「よ」ツ、 「わが君のためではのうて、わが君が、家臣一統と同じく 本多の後家 : : : 」 ご辛労なされている。それをよくご存知と思えばこそ、先 に希望もつなげる道理。その家中からの使いに、なぜよろ

6. 徳川家康 2

隊列は小石ヶ原から上流へむけて動きだした 6 利家はそっと庭下駄をはいて外へ出た。天心にかかった 後兵の指揮者石川彦五郎家成と連絡がついたと見え、そ弦月が彼の姿をかっきりと地上に描いて、川原を上流へす の一隊が、巧みに川原へ横に展開して、見えない敵の進撃すんでくる人馬の姿が墨絵のように鮮かだった。 にそなえた。 もはや疑う余地はない。 雲のわれ目に弦月が顔を出したのは、それから間もなく 元康は、鵜殿長照ととも城に籠って、織田勢と戦う愚を よ ) つつ」 0 さけ、糧食を入れてすぐに引返したのに違いない 九 と、つぶやいて急いで利家は家の中へ引っ返した。 前田又左衛門利家は時ならぬ人馬の音を聞いて、パッと ( どんなに会いたかろうか ) 布団を蹴っていた。 そう思うだけで於大の部屋へ入るのに逡巡はなかった。 まだ松平勢が引きあげて来ようとは思いもよらない。 「お方、お眼ざめ下され」 が、引きあげた後になっては於大の方を連れ出しても無意於大の方はもう眼ざめていたとみえ、 味になるーーーそう思ってわざわざ輿を急がせて東浦までや「何ごとでござりまする」 って来て、その地の豪士、仙田惣兵衛が父と交りのあるの すぐに布団の上へ起き直った。 を頼ってその家に仮泊していたのである。 「お目にかけたいものがござる。急いで外へ」 「ーー乾坤院へは明早朝」 於大はすでに利家の心を読みきっていた。黙って立って 於大の方と阿松は別室へ休ませて、自分は一人で次の間身づくろいして利家のあとにしたがった。 へやすんでいた。 於大のわきに寝ている阿松はあどけない寝顔で無心に夢 ( おかしい ! ) 路をたどっている。 彼は刀架の太刀をとって、そっと雨戸をあけてみた。宵 利家は於大に履物をすすめて自分でははだしになった。 からの雨雲がいっか千切れて、槇の葉の生垣ごしの眼の下「拙者がついてござればご安堵あって急がれえ」 に、境川が銀色に光っていた。 於大はうなすいてついてくる。一方は川原から積みあげ 339

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( 起出す時刻 , ーー ) と、思ったが、なぜか竹千代は、いっ お側の石川与七郎がきちんと坐って声をかけた。 ものように元気よく夜具を蹴って起きる気にはなれなかっ あまりに鮮かに亀姫の顔が瞼の裏に残っているからだっ朝の修業がはじまった。 裏の的場で三十射。そのあとで木刀を体が汗ばむまで振 って、それから小さな仏壇の前に坐った。 眼を閉じたまま小声で呼ぶと、ふたたび全身へうら悲し ここで気息をととのえて、朝の食膳はそのあとだった。一 い女々しいものが脈打 0 て、ほんとうに涙が出そうにな 0 汁二菜。玄米を少しかために炊きなして、一口四十八回そ て米た。 しやく、二椀食して、菜皿までをきれいにすすぎ、石川与 ( わしは姫が好きなのだ。これは色恋かも知れぬ : : : ) 七郎か、松平与一郎を供にして智源院におもむき、そこで そう思うと、ふいに大伯母の緋紗の顔が見えたり、熱田 読書を住持の智源に学ぶのである。智源の教え方はしんけ 9 の加藤図書がもとで見た姪娘の顔がちらついたりした。そんだ 0 た。月に二回竹千代が、雪斎長老のもと〈招かれ、 してそれはだんだん現実的な身近なものになって、本多のその学力を試されるからであった。 後家と、鶴姫、亀姫とが、じよじょに明るくな 0 てゆく瞼ところがその日は智源院に赴いて一刻あまり経っと、内 の裏で、三つの水玉のようにくるくるとうごきだした。 藤与三兵衛が迎えにやってきた。 本多の後家は哀れに思えた。愛してや 0 てもよいと思御所が竹千代に会いたいゆえ、すぐに連れて登城するよ う。鶴姫はちと腹立たしい。そしてや 0 ばり : : : 亀姫の妄うにとのお達しがあ 0 たのだ。 想が、いちばん強く竹千代をしめつける。 竹千代は館へもどって衣服をかえた。 ( よし ! ) といって竹千代は眼を開いた。 館へは本多の後家がとどまっていて、竹千代の着換えを 亀姫を氏真などに渡すものか。これも一つの戦いではな手伝うのだったが、着せられた衣服は新しか 0 た。 : パッと夜具をはねのけた時、 「これは ? 」と、竹千代がたずねると、 「お眼ざめなされませ」 「お立派でござりまする。もうご元服 : つ」 0 っ ) 0 : と申してもお差

8. 徳川家康 2

草につけられていた半面にはべっとりと黒い血潮がついて 藤吉郎はそう一「〕ったあとで、 いる 「、フわっ これは見事な斬られ方だ。左の首すじから乳 新助はあわてて額にさわってみて、 の下までただ一刀だ」 「おろせ、運ぶに及ばぬ」 「つべこべ言わすに早くむしろへ包んでしまえ。それから と低く言った。 そちたちに聞かしておくがな、ロはつつしめよ。十阿彌と 日ごろの怨みにたえかねて、ほんとうに前田又左は十阿 いうやっ、殿の恩寵になれて、誰彼の見さかいなく毒舌を ふるいすぎる。それゆえ、とうとうこういうことになっ彌を斬ってしまった。殿に大切なご用を言いつけられた、 その途中で : : : そう思うと新助はもはや事実を信長に報告 た。おれも一度足蹴にしたいと思っていた位だ」 新助は十阿彌が死んだまねをしていると思っているのするよりないと思った。 で、ロの利けない時にうつぶんを晴らすつもりだった。 「急げ ! 持って来た屍体をそのまま不浄門から運び出 し、急いで門を閉めてしまえ ! 「はいはい充分ロはつつしみます。が、これは余計なこと 少くとも主命に反して朋輩を斬った利家。そのまま逃が ながら何で屍体をすり変えますので」 してはならなかった。 「そんなことはその方たちの知らぬことだ」 まだ城の外へは出ていまい。急いであちこちの門を閉じ 「それにしても何とまあ : : : それ首がおちる。首が。首が させ、それから利家を引っ捕えねばならぬ。 半分以上斬られているわ」 言われて新助は、 信長がそれをどう裁くかは新助のかかわり知ったことで はなかった。 : ? 」とそばへ寄って来た。 「首がおちるとはどういうわけだ」 藤吉郎ともう一人の足軽とは言われるままに、たんかの 藤吉郎の抱き起した十阿彌の顔へ近づくと、かがみこん上へ、一度おろした罪人の屍体をのせて駈けだした。 で、「あっ ! 」といった。 前田又左衛門利家は、自分の前をかけ去ってゆく三人 銀粉をまぶしたようなおばろの光に、はっきりと歯をくを、むつつりと見送っていた。 背の花嫁にはまた事情がわからぬと見えて、 いしばってこと切れている十阿彌を見たのである。しかも 313

9. 徳川家康 2

( こんな子供と、どうしたのであろうか ) 元康の覚忸を強固なものにさぜておこう。 それがだんだん意地に似た想いで手離せないものとな 元康はまたこの年長の妻の言葉にはよく従った。従わせ り、婚礼の前には自分からすすんで元康のために氏真をた なければおかぬ瀬名の気性もあったが。 ずねて、さんざんな目にあった。 「ーーー・殿のおためを思えばこそーーー」 一言いうと、十八歳の元康は老成した人亀姫を懐妊しているとわかったとき、瀬名は人生がまっ 瀬名がさいごに 暗になったような狼狽を感じた。どうしてもそれが元康の のようにうなすくのが常であった。 胤とは思えず、氏真の子のような気がしてたまらなかった 「これ姫、鶯と花、よく見ておきなされ、今年はお父上 のである。 にいよいよ春がおとずれましよ、つぞ」 待たしてあった乳母に亀姫を抱かせて玄関を出ると、瀬ところが今はそんな不安は消えはてて、自分ははじめか ら元康のためにあったような安定の中にいる。 名は上機嫌でわが子を花の下であやしながら歩いた。 年下の良人というひけ目もなかった。婚礼前から交って 表ではどうやら蹴まりが終ったらしく、こんどは笛と小 鼓の音が聞えたしている。 ( 殿はいつごろ退出なさるであいたことへの羞らいもなかった。 良人ーーーと、思うだけで、疼くように愛おしい。あるい ろうか ) は四囲の事情が、元康の若い体に無為を強いているので、 女としては一時も元康をそばから離しておきたくない矛 この夫婦の交りは世の常のそれより遙かに濃かった故かも 盾もある瀬名姫だった。 知れない。 四 元康も絶えず瀬名をもとめたが、瀬名もまた元康がそば にいないと安眠出来ないほどだった。 というものはふしぎだったが、女という生きものも、 そうした仲で、間もなく二人目の子供が生れる。これは 思えばっくづくふしぎな気がした。 最初には竹千代時代の元康を、からかう以外の気持はな何のうしろめたさもない元康の胤であった。 瀬名は浮々と馬屋曲輪をまわって西手門を出た。 かった。それがもののはすみで契ってしまい、契った当座 ま 0 父」毋しこ。 日当りのいい堤の桜はすでに七分どおりひらいて、若草 2

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「わしは正直なところ、この婚儀、お許のために避けたか いわれるままに枕辺へ回っていって、 「ご病気いかがでござりまする」 「と、仰せられますと : 雪斎は、しすかな声で、 「わからぬか。お許の重荷がもう一つふえたのじゃぞ。今 「よい天気じゃ。あれを見られよ」 ー家への義理という、大きな重荷が」 いつばい小春日をうけて、梅の枝をかっきりうっしだし 次郎三郎はうなすいた。 た吊鐘窓へ眼を投じた。 「かっての義理はの、お許の父と、今川家とのいわば相対 「こ、つしてここに一授ていると、わし自身がお陽さまになっ 一族から、正室を迎えると、次の子 の掛引きだった。が、 たり、梅になったりする。快い」 ハは血〔褓じゃ」 窓に描かれた梅にはすでに三枚の葉しか残っていなかっ っ ) 0 「そこでわしははじめには反対たった : 「春がおわると夏がくる。秋が終ると冬にうつる。自然の 賛成したわ。わかるか」 することは大きいの、フ」 「わかりませぬ」 「長老さま、ご病気は ? 」 「お許もよく申したようにの、人生の荷は重いほどよいと 「知らぬ。冬が来たのじゃ。わかるであろう」 悟ったからじゃ。その重荷に耐えることが、すっと大きく し」 + ( それに負けない強さをもってい 「そこでな、春の近いお許に生命の種、志の種を残さねばお許を育てる : : : お許 ( る。よいか 相」成らぬ」 やつれが眼立った。ニコリと笑った笑いのうらに、すみ「はいッ こそのこと . 何と説き 「そう思うて賛成したが、さて、お許ー とおった冬の空のきびしさがにじんでいた。 「わしもお許の婚儀を祝いたかったが、婚儀は来春じやで聞かそうかと、しばらく迷った」 次郎三郎は、鋭い語気のあとで、はげしく波打ちだした ・ : 一兀信」 純白の夜具を見ていると、死期はすでにせまっている : が、考え直して あいたい 210