信長の耳に人れるからでもあった。 鏡磨きがせっせと背を丸めて鏡面をこすっているわきま で来て、ふと信長は足をとめた。 その朝信長は、朝市のはずれに店をひろげた魚売りの前 で馬をおりた。そして馬回りの小者頭、藤井又右衛門に手その隣りに、少しばかりの針をならべてじっと信長を見 上げている若者の顔つきが、あまりに世のつねの顔と変っ 綱をあずけて、ぶらりと雑閙の中にまじった。 季節はすでに青葉の候で、魚の中にはまだ鰹は見当らなているからだった。 かったが、湾内で魚獲されるせいごのうろこにすがすがし 信長は足をとめると思わず相好をくずして、 い初夏の香りがふくまれていた。 「これこれ針売り、その方の生れ年は猿年であろうが」 中には信長と知って丁寧に一礼する者もあったが、およ そは彼の顔を知らない。彼の身なりがひところのような奇と、声をなげた。 矯さから、質素な落着きを取りもどしている故でもあった し、市場回りの時だけは、わざと眼立たぬように用心して いるからでもあった。 信長に声をかけられても、奇怪な容貌の若者は笑いもし 2 よ、つこ 0 ュ / , 刀 / 「どうじゃな、今年の野菜の出来は」 「野菜はこれからじゃ。まだ菜種の取入れ時だでな」 「いかにも拙者は申の年じゃが、おぬしは午年じゃな」 「そうか。もう種は播いたであろうが、雨のめぐりが少い 信長はフフフと笑った。自分の生れ年を当てられたと思 ようだな」 うよりも、自分の顔の長いことを言い返されたと思ったの 「なあに、これからさ。尾張とい、フ国にや、特別おてんと 様のお恵みがござらっしやる」 それにしてもこの若者はまた何というふしぎな皺を顔に 「そうか。特別にな」 走らせているのだろうか。 魚売りの並んだ次に野菜市が立ち、その奥には、古い武ちらりと見ても猿に見えたが、よく見ると、いよいよそ 具の類から、弓、太刀、陶器と店が並んで、その間をそろうと、うなずきたくなってくる。 「わしは午じゃ。よく当てた。が、おぬしは猿もただの猿 そろと人が流れている。 ざっとう 06 ) 0 さる
よりの公卿、家中の諸将一統が御所の表御殿に参集して義 雪はまだ小さく降りつづいている。この分ではこのまま 」仗に人るであろう。 元に賀をのべる。そして義元から下される屠蘇の酌は、義 振返って見ると竹千代の仮寓の門を、まだ旅装をとかぬ元お気に入りの鶴姫、亀姫がもう三年もつづけてやってい 阿倍新四郎が、内から閉ざすところであった。 ( あの尼僧はまだ帰らずにいるというのに、いったい何者それだけに鶴姫は、未明から起出して、髪をととのえ化 粧をほどこし、新しく調えた小袖をまとって父より先に登 なのであろう ? ) 鸛姫は小首をかしげて、それから激しく首を振った。 ( 乂城する。小袖の模様はこれも松下に丹頂を染めなした義元 の言葉に暗示されたせいであろうか、そういえばたしかにの下されもので、むろん駿府の自慢の一つでさえあった。 竹千代の顔は妙に眼に残る顔であった。すぐれて典雅でも なければ、、、 とこに賢さが匂っているというのでもない。そ れなのに、同じ年ごろの従者の顔は一つも思い出せないの 正面上段の間に義元、その右には義元の叔父にあたる執 に、竹千代だけが憎いほどはっきりと臉の裏に残ってい 権雪斎長老が、戦勝の初春とも思えぬ静かな表情で控え、 る。 左には義元の義父、甲斐の武田晴信の実父信虎入道が、こ れは猛々しく眼をいからしてあたりをにらんでいる。 ( 腹を立てているせいに違いない ) そして、その下にひらけた二百畳にあまる大広間へは、 鶴姫は、あんな童に不快を感じる自分が更に不快になっ 小田原の北条氏康からの戦勝の使者をはじめとして、きら て、館へ入ると、いそいで居間に京土産の香箱をならべだ びやかに蕭かざった諸将の姿が、自慢の侍女たちを巧みな そして、いっとはなしに竹千代のことは忘れてしまって色どりに配りまぜて、入側まであふれている。 前面の戸は好晴ならば開け放たれるのも恒例だった。開 いたのだが、正月元日の御所の賀宴で、ふたたび竹千代と 顔を合し、思いがけない情景を見せつけられることになっけ放っと泉石の配置の上に元日の富士がそのままどっしり と雄姿を加えて来るのである。 うじざね 元日は恒例によって在府の諸大名、被官はもとより、都 嗣子の氏真が姿を見せないのは、風邪のためだったが、 8
して、「星いーーーー」と一一一一口った 0 「これで予の心はわかった筈じゃ」 し」 「では、な、さっきのこと」 亀姫と聞いて氏真は聞きとがめた。 「卍姫のこと」 「そなたは岡崎の竹千代か」 「よいか。今宵でなくば予は出られぬ。ここで待ってい る。連れて来いよ」 「ここへ来てみよ。何と申した ? 亀姫とそなたと恋を語 鶴姫はふたたび冷水を打ちかけられた。飛びのくように っていたとか」 氏真を突きはなして、蒼白く浮いて来た相手の顔を見つめ竹千代はのこのこと二人のそばへ降りて来て丸い顔を月 てゆく。 にさらした。そういえば、近ごろめつきり体が出来、そろ 「早くな。予はここで待っているゆえ」 そろ活力は異性を求める身丈になっている。 と、その時だった。築山の上のあたりで、「あーあ」と 「恋ではない」と竹千代は答えた。 大きなあくびの声がしたのは。 「ただ月を待って、あれこれと語っていた」 「あっ ! 」と、鶴姫は氏真に飛びついたし、氏真は、もの 「あれこれと語った : : : そなたはいくつになった ? 」 憂そうな声をいくぶん尖らして、 「十一」 「誰じゃ ! 」と、上をふり仰いだ。 「十一ならば : 「はい。竹千代ーー」 氏真は自分の記憶を呼び起す顔になって、 答えといっしょに、これも今宵招かれて来ていた竹千代「恋は出来る ! 出来るとも」と鶴姫を見やった。 がのこのこと築山からおりて来た。 鶴姫はさすがに面を伏せて、消えも入りたい風情であっ 「月が出ました。でもわしは一人になった。姫の声が聞えた。 たゆえ、わしの相手はいなくなった」 「するとそなたは阿亀が好きなのじゃな」 「相手とは ? 」氏真が尋ねると、 「姫も竹千代が好きだといった」 「亀姫」と竹千代はひとかどの若者らしい口調で答えた。 162
いま改めて信長の命を伝えていったら配膳方は面喰っ 「では、い掛けにかくるところがあった節は」 て、どんな膳を作って米るかわからなかった。 「お、いのままに」 もちろん信長はそれを知っていて命じている。信長と同 信長はフフンと笑って、巧みに狼狽をつつんでゆく藤吉 じ膳など持って来られては一大事たった。 郎をみまもった。 林佐渡や、柴田、佐久間などの重臣にない天衣無縫さを し」 猿はもっている。人の心をそらさず、かといって軽薄すぎ 「賭をしよ、つか」 る感じもない。つけつけと言うべきことを口にしながら、 「何なりといたしまする」 い相手の心をつかむ。 「膳のことじゃが」 しばらく彼の上役だった藤井又右衛門のいうところで 信長はニャニヤと頬を崩して、 は、これでひどく女たらしたということでもあった。 「その方、きちんと配下に心得は教えてあろうな」 「ーーー・あの顔で、まさかと存じて居りましたところ、足軽 「申すまでもないことにござりまする」 どもの女房、娘などで、こそこそとあれが長屋に惣菜を運 「それにしてはちと顔が蒼い。あの鮎の霜降りに毒でも焚ぶ者がござりまする。困ったことで」 きこめてあったのか ? 」 几帳面な又右衛門はそういったあとで、 「御大将 ! 」と、藤吉郎は生まじめに顔を撫でて、 「ーー・ .. ー八重にも心するよ、つ厳しく申し渡しましてござりま 「毒は御大将のロにござりまする」 するが」 「何を賭けよう、猿」 と、つけ加えた。 「さよう、もし藤吉の心掛けに過ちなくば、今川勢との合 その藤吉郎に信長はいま一つのことを命じたものかどう 戦の折りに、この猿にも一隊の指図お任せ下さるよう」 かと迷っている。こうした乱世では生き残ってゆくのに幾 藤吉郎ははらはらしながらも、機会をとらえては押すこ つかの条件が必要だった。 カそれにはすでに とを忘れなかった。その性格が信長にはおもしろくもあり その第一はむろん能力手腕だった。 ; 、 小癪でもあった。 藤吉郎は及第したとみてよかった。 353
「しかしおぬし、その構えで、この新八郎が突き伏せられ「やめた」と新八郎はいった・ 「各 ~ と突きあうのはやめにする」 ると思ってか」 「卑怯者めツ。そっちでやめてもこっちで槍がひけるもの 「いうなツ、勝敗はおれの知ったことでないわ」 力」 「ほほう、勝敗のない戦というが世間にあるか」 「あるゆえ槍を出している。恥辱をうけたままは戻れぬゅ「わかっている。わしも大久保党の首領じゃ。わかってい る」 え、遠慮のう突いて来いツ」 何を思ったのか、新八郎はがらりと槍を投げ出した。そ 「フーム。すると負ける覚悟でかかって来るのか。なるほ してそのまま大地へあぐらをかくと、 ど : : : それもあるかも知れぬな。では行くそツ」 「おれは、、 しま、ふっと人生が分ったわい。人間の一生は 新八郎の声がびりりッと冬の空気を破ると、相手はハッ と眼をつむった。ジューンと胸板をつらぬく熱鉄の衝撃をな、悲しい意地だとわかったわい。おれはいま一生の意地 を貫いた。おぬしたちはそれで意地をふみにじられた。よ 予想して : かろう。さ、勝手に突いて、勝手におれの首を持ってゆく 十五 取巻いていた武士たちが思わず顔を見合って、また一歩 新八郎の、戦にあけ、戦にくれた生涯の中で、こんなこ さがるはど、それはあっさりとした述懐であり態度であっ とはかってなかった。 ふびん 眼をつむった相手の顔が、不愍とも哀れともいいようのた。 「ただ一つ、おれは各 ~ に何の恨みもないのだということ ない感じで彼の腕をしばっていった。 たけは分ってくれ。おれにはな、竹千代さまへの忠義のほ 繰出していたらむろん一突きで突き伏せていたに違いな それを手元へおさめて次の者に構える余裕も十分にあかには何もないのだ。その竹千代さまを無事に返してくれ た。これでよい。これで満足して、のこのこ地獄へ出かけ ったのに、何かが彼をしばって動かさなかったのだ。 案のごとく若者は、眼を開いて槍をうごかして、信じらるわい。さ、突いてくれ」 「よしツ」と一廴 . がいっこ。 れないという表情を顔いつばいに見せて来た。
元康は雅楽助のそばへ来ると、何となく立ちどまった。 雅楽助はわざと声をかけなかった。 関口御前がすぐ城中で義元に言われて来たことを話すに 違いない。それにこの若い殿がどんな反応をしめしてゆく か ? 黙って見ていたい雅楽助だった。 「雅楽助、ーー」 元康の方から呼びかけられては仕方がない。 「おお、これはお帰りなされませ」 雅楽助は籾ざるを抱えたまま顔をあげた。 午後の日が、掘りかえしたまっ黒な土の上に、門、 : の松の影を這わしている。元康の顔がその土と影の対照で いかにも柔弱な白さに見えた。 「蹴まりというはなかなか面白いものであった。そなたは 見たことがあるか」 「ござりません。また、見たいとも思いませぬ」 「なぜじゃ、なかなか風雅なものそ」 る。「そうか。いよいよ瀬ぶみされる時が来たか」雅楽助「われわれには縁のない都ぶりゆえ、何の興味もござりま せん」 がふたたび畠へ立って、籾ざるをとった時、当の元康が、 供の平岩七之助とのどかな表情で門を入って来るのが見え 元康はちらりと傍の平岩七之助と顔を見合って、 「そちはひどくじれているの。いま七之助と話しながら来 たところだ。たぶん爺にこう言ったら、こう答えるであろ うとな。その通りであった」 雅楽助はちかりと上眼で元康を見たまま答えなかった。 「無理もない。元康も十八歳じゃ。岡崎から人質に差立て られた時が六歳、十二年の歳月は短こうもない。そしてま だ、いつの日岡崎へ戻れることやらわからぬ身 : : : 」 元康はそこでふっと言葉をきって、 「わしはいま、どうしてじれずに春の次に来る、夏を待と うかと工夫をこらしている。自然はあせらぬ。今日も城内 の森では鶯どもがよい声で鳴きおった。といって、自然は な、いつまでも鶯を鳴かせておきはせぬ。のう爺」 「そちは蹴まりを、そちに縁のない都ぶりと申したな」 「申しました。無縁の遊びにござりまする」 「わしはそうは思わぬ。わしは陽当りのいい庭で、うつ ら、うつらとしながら、そちたち皆に見せてやる日を想う ていた」 、一 0 268
( 起出す時刻 , ーー ) と、思ったが、なぜか竹千代は、いっ お側の石川与七郎がきちんと坐って声をかけた。 ものように元気よく夜具を蹴って起きる気にはなれなかっ あまりに鮮かに亀姫の顔が瞼の裏に残っているからだっ朝の修業がはじまった。 裏の的場で三十射。そのあとで木刀を体が汗ばむまで振 って、それから小さな仏壇の前に坐った。 眼を閉じたまま小声で呼ぶと、ふたたび全身へうら悲し ここで気息をととのえて、朝の食膳はそのあとだった。一 い女々しいものが脈打 0 て、ほんとうに涙が出そうにな 0 汁二菜。玄米を少しかために炊きなして、一口四十八回そ て米た。 しやく、二椀食して、菜皿までをきれいにすすぎ、石川与 ( わしは姫が好きなのだ。これは色恋かも知れぬ : : : ) 七郎か、松平与一郎を供にして智源院におもむき、そこで そう思うと、ふいに大伯母の緋紗の顔が見えたり、熱田 読書を住持の智源に学ぶのである。智源の教え方はしんけ 9 の加藤図書がもとで見た姪娘の顔がちらついたりした。そんだ 0 た。月に二回竹千代が、雪斎長老のもと〈招かれ、 してそれはだんだん現実的な身近なものになって、本多のその学力を試されるからであった。 後家と、鶴姫、亀姫とが、じよじょに明るくな 0 てゆく瞼ところがその日は智源院に赴いて一刻あまり経っと、内 の裏で、三つの水玉のようにくるくるとうごきだした。 藤与三兵衛が迎えにやってきた。 本多の後家は哀れに思えた。愛してや 0 てもよいと思御所が竹千代に会いたいゆえ、すぐに連れて登城するよ う。鶴姫はちと腹立たしい。そしてや 0 ばり : : : 亀姫の妄うにとのお達しがあ 0 たのだ。 想が、いちばん強く竹千代をしめつける。 竹千代は館へもどって衣服をかえた。 ( よし ! ) といって竹千代は眼を開いた。 館へは本多の後家がとどまっていて、竹千代の着換えを 亀姫を氏真などに渡すものか。これも一つの戦いではな手伝うのだったが、着せられた衣服は新しか 0 た。 : パッと夜具をはねのけた時、 「これは ? 」と、竹千代がたずねると、 「お眼ざめなされませ」 「お立派でござりまする。もうご元服 : つ」 0 っ ) 0 : と申してもお差
「若君さま ! 」 光をみとめて、とっさに声さえ出なかった。 姫はもうじっとしていられなかった。このままではわざ 「鶴 ! 」 わざ出て来て、結果はかえって逆になる。次郎三郎へ、氏「は : : はい」と、また一膝下りながら本能的に姫は氏真 真の憎悪が向けられるということは、決して松平家のためと氏真のうしろの刀架を見た。もしそれに手がかかったら、 ではなかった。 果してこの場から遁れ得るであろうかと。 「若君さまはこの鶴のこころをご存知ない。元信さまがか 「そなたは出すぎた女だな」 れこれ申されたのではなく、当日お出でないようにとは : 「お気に障ったらお許しを」 : この鶴のお願いでござりまする」 「気に障らぬと思うて来たか」 「するとそなたは予の顔を見るがいやとでも申すのか」 「はい。若君さまはお心のひろいお方ゆえ : : : 事をわけて 婚礼の日だけは」 お願いしたらと : 「フーン。以前とは変ったな。そなたも」 氏真は癇性に首を振って、 2 「亦夂りました。 ( 右君さまより一兀信さまに」 「申すなツ ! 」とさえぎった。さえぎったあとで薄い唇が 「心が傾いたと申すのか」 ひきつるような笑いに変ったのは、氏真の怒りが、残忍な 事の処理に思い到ったからであった。 こんどは氏真の顔からサッと笑いが消えていった。 「この婚礼、氏真がこわしてやる」 「よく申した。ハッキリと、よく申した。予の前で」 「一えっ ? ・」 そういうと、氏真はじりじりと片膝立てて姫の方へ寄っ 「そなたをそのように苦しめる : : : 父に申してこわしてや て来た。 ぐっとまた一膝距離をつめて氏真はついっと姫の肩をつ かんだ 「お許しを : ・・ : 」 姫は思わず膝でうしろへ下った。 氏真の眼の中に、かって見たことのないねばった憎悪の姫は身をすくめて横にのがれた。なんでこのように氏真
の氏真のすべてのように思われている。 「若君さま」 父の義元は多ににかまけて、この柔弱な御曹司の素行な 「なんじゃ」 どにはあまり干渉する様子はなかった。 「鶴は家中の姫たちの噂がこおうござりまする」 それをよいことにして、近ごろでは一族や家老の屋敷ま 「どんな噂じゃ」 - 亠うふしょ・つ・つ で出向いて来る。関口刑部少輔の館へもこれで春から二度「御所さまのお許しもないに、 若君のご寵愛をうけている 目であった。 」と」 「これへ 「よいではないか。予はだれの家来でもない。不義ではな 築山をめぐると氏真は立ったままで姫にいった。その場 いぞ」 に据えられた大きな岩に腰かけようというのである。 突っ立ったままそういったあとで、氏真はいかにも無精 姫は全身をくねらせ、両袖で顔を蔽 0 て岩の上にくず折そうに自分も岩の端にかけた。そして掛けると同時に、何 れた。 の羞恥も見せない無感動さで、ぐっと姫を引きよせた。 育ちのせいとはいえ、だれの前でもあまりに無遠慮な氏「阿鶴ーーー」 真の態度は、姫の羞恥をかき立ててやまなかった。 し」 「そなたは予が好きであろうな」 し」 また同じことを繰返されて、答えの代りに姫がひしと縋 ってゆくと、 「そなたは予が好きであろうな」 「いまさら : : : おかしいことを仰せられまする」 「それならば、そなたにひとっ頼みがある」 「予のほかにだれそ好きな男はあるか」 いかにもさばさばした口調でいってのけた。 姫はうらめしそうに顔から袖をはなしていった。 「あの、義安が姫な。あの姫が、近く飯尾豊前が倅のもと 「あるかど、つじゃ」 へ輿人れするそうな。その前に一度でよい予と会わせよ。 「いいえ、そのような : 一度でよいぞ。一度でな : 「そうか、予だけか」 160
と、きつばりいった。三人ともそれを待っ顔になって輪 「こんどの戦には三つの場合がござりましよう」 をちぢめた。 「その一つは ? 」と、こんどはお類であった。 濃姫は氷のようなまなざしでもう一度みんなを見回して「殿、討死の場合には : 「一討一北のときは ? 」 「ほどなく敵がこの城を囲もうほどに、それぞれ薙刀とっ 「このまま討死なさる場合。そして、もう一つは城へ引き て一戦のこと」 あげられて籠城なさる場合。あとの一つは : お奈々の方は大きくうなずいたが、お類の眼はあやしく そこまで言って言葉をきると微笑した。 騒いだ。子たちのことを心配しているーーー濃姫はそれにと 「勝って凱旋なさるとき」 三人は顔を見合ってうなずきあった。いや、三人だけでらわれまいとして、 「殿はご武勇の大将ゆえ、奥が乱れていたとあっては末代 はなくて、徳姫と奇妙丸とが、声をそろえて、 までの恥になります。といって、一戦のあとの指図はいた 「勝ってのう」とうなすきあった。 しませぬ。無為に降らぬ女の意地を見せたのち、討死もよ 「そうそう勝って : : : 」 し、落つるもよし : 濃姫は奇妙丸の頭へ片手をのせて、 「御台所さま ! 」 「討死のとき、退いて籠城と決ったとき、奥の指図は私が お類はきっとした面持ちで、 しまする。みなに異存はござりますまいなあ」 「その時お子たちは ? 」と身をのり出した。 きびしい声で念をおし、また奇妙丸の頭を静かになでて 「子たちは : いいかけて、濃姫は、子供の視線が、いっせいに自分の 方へ注がれるのを意識しながら笑ってみせた。 「私が最期を見とどけまする」 「とい、つと、城を枕に【」 「さあそれは : : : 敵の囲みを見とどけた上、美濃へ落すや 、つこ 0 むろん三人に異存のあろうはずはなかった。 姫はすべてを計算している落付き方で、 「それでは指図いたしまする」 3 / 9