存じ - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 3
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1. 徳川家康 3

「まあ、蔵人とはそのように軽いお役で」 「それゆえ、いつもそれを口惜しく想う。が、岡崎と京で 「奥方さまはご存じで : : : 」 はつでもなし : 祭壇を飾りおわったお万がひとりごとのように口をすべ ふと駿府を憶う顔になったが、しかしお万が案じるほど らせた。 ~ 。いかげは享さなかった。 「竹千代さまと織田家の総領姫とはこの三月いいなずけの 岡崎〈着いてすでに四月になろうとしている。どのようお約東を遊ばしましたそうで、おめでとう存じまする」 に見すばらしい片田舎かと思って来たのが、案外立派な町 であり、城であった。 そして瀬名母子のためにわざわざ城の北の築山に新しい 「何とお言やる。竹千代どのと織田家の総領姫とが」 御殿がつくられてあった。いまその御殿の名をそのまま瀬瀬名に訊き返されてお万ははじめてその方を振返った。 名はみんなに築山どのと呼ばれている。 はっとしたのは瀬名の形相のすさまじい変化を見たから よ ) つつ 0 本丸に廊でつづいた大奥を期待して来たのであったが、 そこではあまりにむさ苦しい。それゆえ新に御殿を建てて 「この春とはいつのことそ」 おいたと言われてはうかつに不満はロに出来なかった。 : はい、三月だとか : 「誰に聞いたのじゃそなたは ? 」 長いひとり暮しから解きはなされて、しばらくは元康を 自分のそばから離したくない瀬名であったが。 ( 今宵はそ「あのう、花慶院さまおっきの可禰という腰元にでござり の元康もやって来る ) まする」 指をくるとこの前通うて来てから八日目だった。せめて 「可 : : : というのは、殿に愛されたとか愛されぬとか噂 三日に一度は渡らせられたら : : : そうした不満も、今宵来のあった女子ではないか」 「はい。その噂の真偽をただして来よと奥方さまに言いっ ると告げられると忘れていった。 机四つに燈台九本、教えられた型どおりに庭へならべてけられ、三の丸へ参った折にききました。むろん、奥方さ まもご承知のことと存じ : : : 」 一年に一度会う織女と牽牛の二星の伝説を想い浮べたと 104

2. 徳川家康 3

「なに蔵人家康とな ? 」 築山御殿には殆んど男はおかなかった。 瀬名はそれを元康の嫉妬心からと思っていた。そして何「はい。元康の元は故義元公の名のりの一字。駿府とはっ か大事な用のある時には石川数正の叔父、彦五郎が呼ばれきり手の切れた今日、元の字はお返ししたいと仰せられ ・ : 家康 : : : この康は祖父清康の康でござりまするが、家 て奥家老のような役目をしていた。 石川彦五郎家成の母は、於大の方と同じ刈谷の水野忠政と名乗られたは、誰の力も借らずに、松平の家やすかれ と、わがカにたよる覚悟のほどかと存じまする」 の娘で、家成と元康とは母系の従兄弟にあたっている。 彦五郎は、侍女に呼ばれて築山御殿へやって来ると、ま瀬名はまた一つ不満の種を聞かされて、眼の前がまっ暗 になってゆく想いであった。 だ日暮前なのに眼のふちから頬へかけてほんのりと酒気の 義元の姪。 紅をうかべていた それが今まで彼女を支えて来た誇りであり、元康に気押 「お呼びでござりまするか」 居間へ来て襖ぎわにすわると、瀬名は目ざとくその酒気されずに済むこころの柱でもあった。 その義元の元の一字も消えてゆく。そして自分は元康に に気がついた。 「本丸では昼から酒を喰べていやるか。今日は七夕、女子とっては何のはばかりもないただの女房にされてゆくので はなかろうか : の祭りであろうに、男たちが : : : 解せぬこと」 「家成」 家成は扇で・ハタ・ハタと胸へ風を送りながら、 「実は今日、殿の改名祝いに本丸では一献ご酒下されがご 「こなたは竹千代どのと織田家の一の姫の縁談をご存じ ざいましたので」 力」 「えつに何と言いやる。殿が名を改められたと」 ・「はい。今日からは松平蔵人家康さまと仰せられます。築「はい承って居りまする」 「それならば : : なぜわらわにそれを聞かせてはたもらぬ 山殿もご記憶あらせられまするよう」 のじゃ。殿も殿、何でお聞かせなさらぬのやら、三の丸の 家成は豊かな眼もとに微笑をうかべておだやかに言っ はした女までが存じて居ることを」 つ」 0 106

3. 徳川家康 3

お万の方は昨年の暮に流産して、ひどく顔いろがすぐれ「そなたの所にその後何かたよりがあったか築山どのか なかったが、元日の賀詞をのべに起き出して来たものらしら」 : 」と言って、またお万は苦しそうにさしうつむ 家康が振返らないので自然お万の方もその場にたたずんいた。お万の方の流産を伝え聞いて、自分の想いでも、そ なたなどに満足な子は産ませぬと、ひどい手紙が届いてい で、初日を仰ぐ姿勢になった。 た。しかし今日は元日、そうしたことを口にするのは避く 「万千代」 家康はしばらくして、お万の方を無視して万千代に声をべきだった。 「若君さまにお子がお出来かも知れぬとめでたい知らせで ′」ざりました」 「岡崎の三郎も十五歳になったか : 「なに、予に孫が」 「はい、おめでとう存じまする」 「三郎から年賀の使いが来ると思うかどうじゃ」 「お勇ましい若君、必ず使いをお遣わしになると存じます「そうか、徳姫がみごもったか」 「それに、若君さまへ新しい側女があがられましたとか」 「三郎に側女を : : : 誰がすすめたのだ」 「三河に敵を迎えていながら、平然と正月出来ればまずま 「大賀さまのおすすめで、あやめ様とか申すそれはそれは ずじゃが。来まいの。万はどう思うぞ」 お万は、ハッとしたように顔をあげてうろたえた。お万おきれいな方とこれは徳姫さまおっきの腰元衆から知らせ には岡崎で築山殿が家康の敗戦をよろこんでいそうな気がでござりました」 してならなかったのだ。 「うむ。彌四郎が世話したとか。それならば、素姓は正し いものであろう。そうか、三郎に子がのう : 「万、なぜ答えぬ」 徳姫が妊娠したので別の側女を : : : と、軽く考えて家康 : あのう、時が時でございますれば」 「来いとい、つのか」 の頬ははじめて崩れた。 と、そこへまたお愛の方もやって来た。いまお万の方は し」 8

4. 徳川家康 3

陽がのばりかけて、空も地上もあざやかに紅がさしてい いた。本多作左衛門がすすみ出て、 る。冷たい風が肌にせまって、ここでもあやうくむせびそ「まず以っておめでとうござりまする」 うになった。再び見ることのない人の数がふえているのに その言葉につづいて、声をそろえて、 頬白どもがはじけるように囀っている。 「おめでとう存じまする」 「お館さま、歯がための用意が出来ました」 具足の袖がかわいた音をたてていった。 うしろで澄んだ声がした。 お愛であった。家康は軽くうなずいて室内へ引っ返しす ぐに武装にかかっていた。平服で迎えられる正月ではな 歯がためが済むと、それぞれがもはや平日同様の忙しさ きりり・と袖をしばり・ながら、 であった。 「お愛、負けたのう」 武器をみがくもの、米や馬糧を倉におさめるもの。節期 と、笑ってみせた。お愛は大きく眸をみはって、 の年貢を城内へはこぶものなど。 「何が : ・・ : でごギ、りまするか」 家康はそれらの人々の間をぬって城の東方へやって来 「去年の戦だ。よい経験になったそ」 「愛は負けたとは存じませぬ」 ようやく空の初日がのばりかけているのである。家康は 「、ふん」 その日に対して大きく胸をひろげたまま、しばらく凝然と 動かなかった。 家康は笑って広間へ出ていった。 広間にはすでにきびしい武装で諸将がずらりと並んで待「お館ーーー」 っていた。彼等の顔色はようやく生気をとり戻し、どれも とうしろで太刀をささげていた井伊万千代が声をかけ 一層以前より不敵な面魂になっている。 家康はひとわたりそれを見回して、 「お万の方がいらせられました」 「今年はわれ等が運命の決する年ぞ」 家康は聞えたのか聞えぬのか黙ってそのまま立ってい と、重くいった。みんな、胸をたたくようにしてうなずる。

5. 徳川家康 3

ったゆえ、しばらく一人でおいてくれ。みなの前へ出る は、大事な股肱をみな引きつれて死んでいった。予は父上 と、泣く自由すらない予をあわれと思わぬのか」 をうらむ。予は父上の野心の犠牲にされてしまった : 「若君さま ! 」 氏真の言葉は真実だった。氏真ばかりではなく一族み さすがに瀬名の声もとがった。氏真自身の立場からは確 な、義元の野心の犠牲になったのかも知れない。が、その にそうであったとしても、この混乱の中で、そのようなた 真実を氏真の口から聞くのはたまらなく頼りなかった。 よりない放言は許せなかった。 いったいそれでは残された家の子たちは、どうすればよ 「伺いとう存じまする。葬い合戦は、御所なきあと若君さ しとい、つのか。 「お察し申し上げまする。が、たオ , こ御所さまを怨み参らすまは総大将にござりまする」 だけでは済みませぬ。葬い合戦はいっ頃にござりましよう 五 瀬名の語気に思わず不満がこもってゆくと、氏真はじろ 氏真は怨めしそうに瀬名を見返したまま、しばらくまた りと瀬名を見やったまま、またいらいらと膝をゆすった。 無言であった。 「そなたもやはりそれを言うのか」 「まさか、このまま物ますお心ではござりますまい」 「わらわばかりではござりませぬ。良人を討たれた後家た 「鶴 ! 口が過ぎよ、フ」 ちの心もまた同じ想いにござりまする」 「では、ご胸中お明しのほど」 「、つーゞ廴」 「こなた、予を怨んでいるな。いっかの事をまだ根にもっ 「さっきも飯尾豊前どののご内室が、若君さまにお許しをているな」 願い、男になって戦い死にたいと : 氏真の眼は蛇のように底光って、歪んだ笑いが唇尻の肉 「わかった ! 」 をひきつらせた。 瀬名はカーツと怒りがこみあげた。 と氏真は不機嫌に膝をたたいてさえぎった。 いっかのことーーーそれは、元康との婚礼の前日に、さん 「氏真はな、はじめは父の犠牲 : : : 後には家臣の犠牲にな ざん瀬名の体を弄んだあの時のことを言っているのに違い って、修羅の場に生命をおとせばそれでよいのじゃ。わか 2

6. 徳川家康 3

そう思うと、勝頼の血潮は沸々とわき立った。 それにしても勝頼と知って名も名乗らず、父に会おうと 「左藤太、そちは暫く遠慮いたせ」 は何という不遜さであろうか。 父に会わせる前にまず二人だけで会って話しておきたか つ 0 ぐっとこみあげる怒りをおさえて勝頼は笑った。 「大切な御使ゆえ、この勝頼が取次にまかり出た。貴僧の 左右に猛虎を描いた襖をひらかせ、勝頼はただひとりで 々つは ? ・」 使者の間へ入ってゆくと、 「ご苦労だった。北陸はすでに雪が近かろう。予は勝頼「ご覧のとおり僧侶ではござりませぬ」 「なるほど、身なりは法衣にあらず俗服だったの。して姓 じゃ。して越中、加賀の動向は」 名は」 「これは四郎勝頼さまでござりまするか」 「名乗りましてもご存じあるまい。が、わざわざのおたず 密使は勝頼をじろりと一暼しただけだった。一目で僧侶 とわかる。それがわざと髪をのばし、医師か俳諧師と見えねゆえ申上げまする。加賀は安宅の医師にて藤野勝楽と申 るように装いを変えていた。面魂も尋常ではなく、左の手しまする。南無阿弥陀仏」 勝頼はきりりと眉をあげて、 首に信仰を示す数珠があった。 「本願寺法嗣よりの大切な密使にござりますれば、まずお「藤野勝楽と申すか。控えて居れツ」 そう言うと荒々しい足どりで出ていった。 父上信玄公にお目にかかりとう存じまする」 信廾の武将によければ京へわるく、京へよければ領民部 相手は勝頼を無視して、うそぶくように庭へ視線をそら 将の風当りははげしくなる。 していった。 勝頼はふと父の死後を思った。 九 恐らく父が亡くなったら、本願寺の宗徒も思うままには 動くまい。すれば、今はじっと堪忍して、とにかく中央に 勝頼はむっとした。 ここでも血縁の反目はまざまざと生きている。諏訪家に武田菱の旗を立ててしまわねばならぬ時 : 信玄は依然として要害山に向って坐っていた。 つながる自分を、本願寺方では快く思っていないのに違い 348

7. 徳川家康 3

びるもの興るもののふしぎさ身にしみじみと味わい申「わしが、氏真は今では叔父御の仇ではないか。三河の殿 そういうと叔母御 に降参して、家の安泰を計るがよい 候。 仰せのごとく万千代は枯葉の霜に朽つべきものには無は、はじめ笑いました」 之と存じ候まま、三河どののお栄えに井伊谷の春を祈「何と言って笑ったのだ」 「こなたはまだ子供ゆえ大人の意地はわからぬと : : : それ りて差遣わし申候。 なにとそ末永くお目かけ賜りたく、いずれ黄泉にてのでもだんだん責めてゆくと、こんどは涙をうかべられ、こ お目もじうれしく相待申候。 の叔母が降参すると三河の殿がお笑いなさると : 気がつくと万千代の双眼からはポトボトと涙がしたたり 春霞立つ日も待たで姫小松 みぞれ 出している。 曳馬の野辺に霙するかな 「三河の殿 ! 叔母御は、殿が好きだったと洩らしまし 読み終って家康は腕を組んだ。どこにも降伏の文字はな 「そうか。そう言ったか : あるのはそこはかと悲しい感懐のうらに、きびしい冬 「はい。はじめは義元公のお声がかりで輿人れ出来ると思 を感じさせるものばかりであった。 うていた。それが出来なくなったのが、興る者と滅ぶるも 「万千代」 のの運の岐れ路。同じ雨でも春の雨と霙は違うと申されま した」 「叔母御は、こなたが降伏をすすめた時に、何とされた。 「、つも」 それをそのまま話してみよ」 亠よた・ハラ・ハラとたばしるよ、つに ~ 放が降っこ。 「霙はきびしいほどよい。もしここで三河の殿に降伏し、 いっそ冷たい雨で 生ぬるい雨であったと思われようより、 九 通そう。その方が、三河の殿のお心に残るであろうと」 家康に問いかけられて、万千代の光る眼に、燭の灯が 「、も、つよいー・」 ゆらゆらとゆれていった。 家康はあわてて、万千代の言葉をさえぎった。聞くに耐 よみ 226

8. 徳川家康 3

住まう事になるのは生駒八右衛門と中島与五郎の両人だっ 「まあ、このような珍しい鯉を」 「はい。美濃から尾張へかけて探しあぐんでようやくみつ 濃姫が調度を並べた表の広間に来てみると、佐久間信盛けた大鯉でござりまする」 がみずから目録と照合しながら、数多い品々をそれそれ長「ほんにみごとな。はじめてみました」 持に納めさせているところであった。 そうはいったが濃姫は、その鯉の大きな眼玉がギロリと 「ご苦労に存じまする」 自分にそそがれた時にはゾーツとした。唇の厚さなども人 声をかけられて、信盛はびつくりしたように濃姫を振返間のそれよりははるかに大きく、ぬめぬめとした丸い厚み が薄気味わるい 「殿のご口上では、この鯉一尾はわれ、一尾は三河守さま、 「これは御前、わざわざのお越しでござりまするか」 一尾は婿どのと思召されて大切にお飼い下さるようとのこ 筆を持つ手を膝へおろし挨拶した。 どんす 九歳の婿に贈る虎の皮があり、緞子があり、鞍ゃあぶみと。この巨大な鯉に大志を秘められた贈物と存じまする」 が積まれている。 濃姫はうなすいて鯉のそばを離れながら、ふっと何かに 2 よこしらおり つまずいたような気持になった。 「この緯白織と紅梅絹は ? 」 悪戯ずきの信長が、口上以外に何か考えているような気 姑、三河守さま奥方に五十反ずつ」 がしたのである。 農姫はうなずいてみてまわって、ふと縁先の大だらいに 時折この眼玉でギロリと家康を鯉が見る。そのたびに贈 気がついた。 主の信長を想い出してはゾーツとさせるというような。 ( 何であろう ? ) ものにはすべて限度があった。このように大きすぎると のぞいてみると、それは長さ三尺にあまる大鯉三尾が、 はみ出しそうに体をまげて頭を空へ出していた。 怪物じみて楽しい観賞の対象にはなりえない。 「右衛門尉どの、この鯉は」 「濃、ここに来ていたのか」 鯉のそばをはなれて、こんどは姫の調度の前に立ったと 「それは、殿から三河守さまご自身への贈物でござります きたった。信長は例の調子で、片手に自慢の忠光をひっさ る」

9. 徳川家康 3

「何のために」 五 お万は不意に顔を蔽った。家康はその仕踵の稚さに、ま こはげしく胸をかまれるものがあった。 「なに、そなたがただの不忠者になると」 いじらし、 ししらしいことにしたのは誰 しこのよ、つこ、、。 「はい。万はしてはならぬことをいたしました。それゆえ お殿さまと奥方さまが睦まじゅうお心の溶け合うたのちにでもない、この家康自身の中の「男」と言えた。 「お殿さま ! 万は : ・・ : 万は : : : 死んでお殿さまのお傍に お暇を願い出度う存じまする。お殿さま、どうぞ今宵は : 参りとう存じまする」 「なに、予のそばへ」 家康は、じっとお万を見つめたまま、この小娘の心の中 : 好きで、こギ、りまする」 : ・万は : 「はい : : : お殿さまが : をはかりかねた。 自分を無理に築山御殿〈連れて行く気でいる。その子供家康はよろめきそうになって踏みこらえた。 悔い という軽い感じではなかった。この娘が自分の らしさの裏に、しかし主従の義だけは失うまいとするいじ 2 価値を知っていようとも思えず、性格気性を理解した上で 1 らしさも潜んでいた。 の恋とも思えなかった。言わばそれは偶然に翅をふれた者 「お万 : : : 」 への本能的な花粉のすがりなのであろう。 「お出で下さりましようかお殿さま」 ( 罪なことをした : 「こなた、二人が睦まじゅう折合ったら、暇をとる気か」 おとめ 純白な未通女のこころはふれたものの色に染って、それ 「はい。それまでは、たとえ殺されましても、非は万にご に生命を賭けかねない。 ざりまする」 そのような感じ易さをもったものと知っていたら、手を 「暇をとって、それからそなたは何とする気じゃ」 ふれるのではなかった。 いや、それは一度手をふれたことによって、もはやこの お万は、そっとっかんでいた袴の裾を離してうなだれ 娘の、いから拭い去れないものになっている。 家康は心が痛んだ。この娘への責任感が、キリキリ良心 「お暇を願い出て、それから自害いたしまする」 ) 0

10. 徳川家康 3

改めてここがわが城であったことを味わい直した。 や、やんや」 これからわしはやらねばならぬ ! わしを柱 こんどは杯は酒井維楽助のところに回った。雅楽助は杯 ( そうだー を手にすると、どっとあふれる涙で、何も見えなくなってとして、助けてくれた家人のために ) 元康は泣く代わりにニコニコと笑ってうなずいた。 元康の生母、於大の方の嫁いで来るころから、元康の生 ( きようがわしの二度目の誕生日。みな見ていてくれ。こ れたとき、於大の方の離別のとき、先代広忠の死去のときれからの元康の働きぶりを。一度死んで、大きな無の上に 立ちはだかった元康を ) と、あまりに想い出が多すぎた。 そしていまこそ嘘ではなしに、十九歳で立派に武将の面 影を備えた元康が、わが城の大広間に、どっかりと坐って 利刀鈍刀 いる それはいかにも重厚な、すわりよい巨石でもみている感 じで、先代広忠のあの神経質な危さは少しもなかった。 「それがしは : 杯を押し頂くと雅楽助はそれを持ったまま籠手で涙をふ 信長は四方の戸を開け放させ、大肌ぬぎになって、さっ いていった。 きから一ふりの太刀をとみこうみしていた。 「殿にはお祝いは申上げませぬ。ご先代さま、ご先々代さ 作法も形式も信長にはなかった。ちょうど子供が、買い ま、おめでとう存じまする : : また、阿古居におわすご生立てのおもちゃに夢中になってゆくように両手で構えてみ 母さま駿府に眠らせられる華陽院さま、ごらん下さりま たり、片手で振ってみたりしては、その焼刃のにおいにみ せ、元康さまはわが城にどっかと坐ってございまする : とれていった。 おめでとう存じまする」 濃姫はそうした信長のうしろにまわって、静かに風を送 っている。 元康はたまりかねて顔をそむけた。 雅楽助に、忘れ得ぬ人々を数え立てられて、彼もまた、 3 4