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検索対象: 徳川家康 3
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1. 徳川家康 3

る。たとえ家康が歯ぎしりしても、聞えぬふりして我の通 家康は押さえる口調で作左にいった。 「殿は黙って居られませ。曲者を調べるは見回りの役でごせるのは作左一人であった。 ざる。可禰 ! 」 家康はそれがうるさくて、いつも苦笑して従って来たの だが、今日は堪忍出来なかった。 「その方は、帰るのは嫌であろう。殿のお傍にいたいであ「さ、何を証拠にそのようなことを申す。申し開きに依っ ろ、フ」 ては断じて許さん ! 」 フフンと作左は嘲った。 「と言って、それは許されぬ : : : とつおいっ考えて、その 「殿 ! 左様のこけ脅しは余人になされませ。断じて許す 方は不届至極にも、殿を殺して自分も死のうと覚悟した。 の許さぬのと、そのようなことでロをつぐむ作左ではな それに相違なかったな」 い。作左は殿に仕える最初の日から生命は捨ててかかって : なんと」 いる」 こんどは家康がとびのくように一歩さがって奇声をあげ 「うぬツ、予をあなどるのか」 「あなどって気に喰わずばいつでもお手討なさるがよい。 べつにお手討はとめませぬ。と言って、言うべきことを途 中でやめる作左でもない。これツ、可禰」 「可禰が、予を殺して自分も死のうとしたと。作左 ! 戯「は : れは許さぬそツ」 「嘘は通らぬ。通させもせぬ ! さ、はっきりと申せ。そ さすがに家康の声は尖った。額にすーっと描いたような なたは殿を殺して自分も死ぬ気であったろう」 癇筋がういている。 可禰の顔色は鑞のように変っていった。それが哀願の震 が、そうした癇筋などに頓着する作左ではなかった。 えと怯えで、家康を見やり作左を見やっている。 一向一揆の最中でもそうであったが、いったんこうと家康はたまらなくなって、また脇からロを出した。 思い込んだら、閉した門扉のようなかたくなさを持ってい 「可禰、はっきり申せ。そのようなことはなかったとはっ 177

2. 徳川家康 3

お万の伯母は鬼作左とは一族の本多半右衛門の家に嫁い 「知らぬ : : : 作左。おぬし、自分でそうして担いで来なが でいたのである。 ら知らぬで通すつもりか。いや、おぬしはそれでよかろ 伯母があわててお万の体へ小袖を着せかけているそば 本人がげんに吾家にいるのでは、おれの言訳は通 で、半右衛と作左の低いがしかし罵りあうような交渉の声るまい」 がひびいていた。 「半右衛、いよいよおぬしはとばけたの」 「では、どうあっても受取れぬというのか」 作左はそこでいまいましげに舌打して、 そう言ったのは鬼作左で、半右衛門の声は作左より少し 「よいか。おれは知らぬが、本人はここへ来ている : : : と やさしかった。 いうことは本人が自分で訪ねて来たこととはならぬか」 「築山殿のもとで不都合のあった者、この夜中にしかも裸「おぬしはそれで済もう。が、おれの方はそれでは済ま の女子など受取れるはずはないではないか」 「落着きなされ。おぬしも、そんなこととは知らなかった 「半右衛 ! 」 : ただそれだけでいい。あとの始末は殿にさせよ」 「なんだ」 「取に : : : ? それで家臣のっとめが済むか」 「おぬしもだいぶとばけたの」 「とばけているのはおぬしじや作左。考えても見よ。人間「済む ! 」と、作左はわめくように言い返した。 ひとりが消えたといって、そのままに済ます築山殿か。草「おれは殿の女出人をさばくために禄は食まぬ。自分のふ ぐりの垢は自分で掻けと殿に言え」 の根わけても探し出せとなるは必定。その時、おぬしが担 ぎ出して、おれがかくまったなどとわかったらどうなるの 十二 「どうにもならぬ。大体これは殿の阿呆さから来たこと「作左、おぬしは、思い切ったことを一一一口う男じゃの」 「言うだけではない。する男だぞ。覚えておけ半右衛」 じゃ。お互い、殿の阿呆さなどは自慢にすまいぞ半右衛」 「いったいあとを殿に任せて : : : どうなると田 5 うのだ。こ 「では、かくし終せるとい、つのか」 こだけの話じゃが、築山殿は、類いのないジャジャ馬じゃ。 「かくすも隠さぬもない。おれもおぬしも知らぬことだ」 171

3. 徳川家康 3

「掛けよ」 二人の方から先に立去らなければ、おそらく、いつまで 居間のくっぬぎをあがると、家康はまっすぐに視線を作 もこうしているに違いない。 左に据え直し、 それがわかるだけに、作左は、 「その方は、予に女子の講釈を聞かせたな」 「最 ! 」と、また言葉をつよめて家康をうながした。 作左はわざと明るさを増す空へ視線をそらして、一段下 家康はこれも別れぎわに何か言いたいことが出て来たら しい。二度はどあとを振返って、しかし、そのまま作左のの足許に腰をおろした。 「その方の女話、あとを聞こう。どこでそちは女を知っ あとについていった。 二人はしばらく無言で歩いた。 本丸の曲輪に入ろうとするあたりで、きって落したよう 「なんじゃ」 な小鳥の囀りがわき立った。それが家康と一緒に移動し 「作左は殿に言ったのではない。あの女子に聞かせたの て、そのままついて来るように思われて、多門のくぐりを だ。でなくば、あの女子は自害する」 通る時、ふと羞恥がをかすめた。 「なに、自害する : : : どうしてそれがその方にわかるの 作左はその門番に「ご苦労」と声をかけて先に通った 、寝所の庭先へかかると足をとどめて、 「男でも惚れた主君に別れるは辛いもの。ましてあれは思 「・暫くご休息を」 いつめた女子のこと。感情よりも義理が重いと思案させね 頭は下げずに小さく言った。 ば、、いのふんぎり・がっきます亠よい」 家康は自分がふとみじめになって、 「巧者らしく ! 」 「もう休まぬ」と、首を振った。 家康は強く舌打したが、 しかしどこか心で、つなずいても 「そちに訊きたいことがある。縁まで来い」 いるのだった。 作左は苦笑してあとにつづいた。年下の主君の負けぎら 「はっきり申しておくがな。予はこれからも女など慎しま このままで済まされぬこだわりが、おかしくもあり悲 しくもあった。 ぬ。男と女は合うべきように神の創った自然なのじゃ」 180

4. 徳川家康 3

と、作左は怒鳴り返した。 き、いつもさりげなく守護してゆく作左であったが、今朝 はいつもと坐る場所が違っていた。 「本多作左衛門、主命によって城内の警護にあたる。今ご 中から開く木戸を背にしてどっかりとあぐらをかいてしろかかる場所をうろっく曲者、引っ捕えずにおくものか」 まった。それからだんだん白んでゆく東の空を仰いで、時「作左 : : : 予じゃと申すに、声がたかい」 時、こくり、こくりと舟をこいでいる。眠るでもなく眠ら 「声の高いのは生れつきじゃ。神妙にしろツ」 ぬでもなく、朝の露の一滴に溶け入ったような姿であっ 「これ、無法をするな。離せ」 「離すものかうぬツ」 と、やがて可禰の部屋の雨戸がくられた。 わざと大きく小突きまわして、 空の中心はすでに白かったが、足許はまだ暗い。人影カ 「おや ? これは殿ではないか」 二つもつれるように庭へ出て、またしばらく一つになっ 作左衛門は真顔でもう一度つかんであった家康の帯をゆ すった。 きぬぎめ 後朝の名残りを惜しむ可禰と、可のなすがままになっ ている家康と。 その家康の足音が木戸に近づくと、舟をこいでいた作左「何というあぶないところであったか。もう少しで斬りす はのそりと立って、木戸に背をつけて立ちふさがった。 てる所であった。いったい殿は、何をなさりにかかる場所 中から戸がひらいて、トンと家康の顔が作左の背にあたへ」 知りすぎるほど知っている相手に、けろりとして真顔で 「無礼者 ! 何奴じゃ」 たずねられると、さすがの家康も答えようがなかった。 怒鳴ったのは家康ではなくて作左であった。 「作左、戯れもほどほどにせよ」 ツ」と家康はあわてて相手のロを封じようとして、 「何と仰せられました。戯れ : : : これは聞き捨てならぬこ 「一じゃ。さわぐなツ」 と。戯れに不寝の警護がっとまりましようや」 「だまれツ」 「わかったわかった。声が高いと申すに」 つ、 ) 0 つ」 0

5. 徳川家康 3

「今のお一語を承れば、何も申すことはござりませぬ。死「なに、何と申した作左 ? 」 ねと仰せられる場所で、それぞれ死んで行きましよう」 「いいえ、これは年寄の取越苦労で。若返りすぎて、織田 家康はそういう作左衛門をじっと睨んで、それからお愛の援兵も来ぬうちにわざわざ危険を求めねばよいがと、思 に眼をうっした。 わず愚痴がこばれましたので」 「作左め、みんなが死ぬと申す。おかしな奴た」 家康は眉をしかめて苦笑した。 お愛はだまっていたが、これも作左の言葉に一層何かを 「うぬの言葉はいつも後で冷水をかけて来る。それほど豪 かき立てられているらしい。 気な予ではないわ」 「予は勝敗の外に立つのだ。生死は神仏に預けておいて、 「どう仕りまして。見上げたものでござりまする。この上 やるべきことはやってゆくのだ」 は、そのご決意を、下々雑兵まで、きびしく行きわたらせ まするよう、お願いしたく存じまする」 「なんだ作左」 家康はうなずいた。 家臣の空気の大勢を、それとなく説いている作左衛門。 「作左は殿をもっと腰抜けかと存じていました」 言葉が過ぎようぞ作左」 余程きびしく、甲州勢は一人もここは通さぬ覚悟とみなに 「いいや、まことのことは、まことのまま申上げまする。 見せなければならぬと思った。 若いうちに老成されて、生涯を賭けるほどの戦は出来まい 「よしツ、これで決まった ! 」 家康はきびしい表情で立ちあがると、つかっかと縁に出 てきっと夜空を見上げていった。 「つけつけ吐すわ。この年寄」 「ところがそれはわれ等が誤りでござりました。一度に若 すでに恐れも惑いもなくなって、外の野分がそのまま心 くおなりなされて、豪気あたりを払うばかりでござりますを吹きすぎた。 作左はその家康を見ようとせず、とぼけた表情で、お愛 そういうとふたたび以前のとばけた表情にもどって、 を見やったり天井を見上げたりしている : 「この上は若返りすぎねばよいが : 361

6. 徳川家康 3

いた女子の、だれが仕合せになられましたぞ」 さげて入って来た。 二人が黙っているので、万千代も何も言わずに縁へすわ「ふーむ」 「みな心を傷つけられて去ってゆく。そのことはいちばん 殿がよく御 ~ 仔じ」 いぜんとして冬の風が松の梢を鳴らしている 家康は作左衛門から眼をそらした。 「万千代、さがっていよ」 この城で自刃していった吉良御前の面影から、築山殿、 しばらくして家康は万千代をあごで退らせ、 可禰、お万といちれんの女の顔が瞼をよぎった。 「子を生ませよと言うのか作左」 それは相手の身心を傷つけたたけではなく、家康自身の と、低い声だったが真顔でいった。 心へもまた重いしこりを残していった。 「御意、先殿に殿というお子がおわせばこそ、ここで浜名 「作左、女子の扱いを予は知らぬな」 湖も眺められる道理、駿府の氏真に、よい兄弟があられた 「もはや、覚えられませ」 らまだまだ滅んでは居りますまい。が殿、今までのような 「無理を申すな。労ってやろうと思うて悲しませる。そち 2 女子の近づけ方は愚かすぎる」 の言うとおりだった」 家康は苦笑しかけて、すぐまた以前の真顔になった。 色恋にも算盤持てと言った作左の言葉が、チクリと心を「殿 ! その労ろうと思召す : : : それが実はむごい遊びと 刺して来る。表向きの婚儀は一切が算盤すくめの政略だつお心づきなされませぬか。もっと非情におなりなされま たが、どこの大名も側女となると素姓も賢愚も問わなかっせ」 「なに情をかけるなと」 「・もと・もと・女「十は : : , 」と、また作左はひとり言のよう「御意。女子というはわが子を産んで、それを健かに育て てゆくが最上の望み。当人が気づこうと否とではござりま せぬ。天地自然の理は人の情では動きませぬぞ」 「男の玩具に生れて来ているのではない」 オカまだその眼は深く 家康はふたたび作左を振返っこ。。、、 「というと、予は女子をもてあそんだと申すのか」 「殿はそうではなか 0 たと思召しまするか。殿のお手のつ惑っている。それに気づくと作左はまた体をにじらせて、 っ ) 0

7. 徳川家康 3

とは申して居りませぬ」 鳥居四郎左衛門忠広が入っていっても、 「なんじゃと」 「何だ ? 」 たたきつけるように言っただけで家康は眼も開けなかっ 「このまま一戦いたすより、引揚げると見せかけて、この っこ亠寸 た。鳥居忠広は家康と共に育った元忠の弟で、剛男さでは不利な崖際での戦をさけ、敵が堀田あたりへかか に、、つしろからドッと一度に襲、ってやったらいかがでござ 兄にゆずらず、その分別は父の忠吉をほうふっさせた。 りましよう。それとて勝利はおばっきませぬが、それで十 「お館 ! ひどくご機嫌がわるげに見えまするな」 分武士の意地は見せられまする」 「余計なことを申すな。用は ? 」 「四郎左は戦目付ゆえ、見たままを申しまする。今日の戦「四郎左」 冫し」 は味方に不利 : ・ 「そちはいっから家康の意見番になったのだ」 「わかっている」 「べつに : 「敵は思いの外の大軍にて、それが十数段に備えをもうけ 9 て居りまする。幾ら破っても、あとからあとから掛って来「黙れッ ! そちたちの考える道筋を、通らぬうちに采配 3 て、はてしがなげに見受けまするが」 する家康と思うて居るか、臆病者めツ」 「これはお館のお言葉とも覚えませぬ。この四郎左が、い 家康は答えなかった。いぜんとして眼も開けない。が、 頬の肉がビグビグ癇癪にうごいている。 っ敵にうしろを見せました」 「お館 ! この四郎左の見たところでは、味方が城内へ引「敵にうしろを見せぬが勇者ではない。敵の大軍を見て予 きあぐれば、信玄は戦わずに通ってゆくと存じまするが」 の采配をあやぶむ、その性根が臆病だと言っているのだ。 われ等が動揺して、織田の援軍が戦えると思うか。腰抜け 「たわけ ! 」 家康の眼はカッと開いた。 四郎左はぐっと口を結んで怨めしそうに家康を睨みかえ 「そのようなこと、半年前からわかって居るわ。小賢しい ことを申すな」 こんな血気の大将ではなかった。何かに魅人られている 「お館、四郎左はそれゆえ城内へ引揚げて、そのまま通せ

8. 徳川家康 3

いったん縁から奥へ入った半右衛が、これも妙にまぶし思うか」 「これはしたり。殿のお言葉とも覚えませぬ」 そうな表情で再び縁先へ一人の女を伴ってもどって来た。 「なに、また言葉をそらすと許さぬそ」 「お殿さま、ごなげんよろしゅうわたらせられ : : : 」 「総じてご奉公というは、命じられたことのみに没頭し それは切なさに震える、冬の池の水面のように澄んだ声 て、それで済むものとは覚えませぬ。それゆえ、ときには であった。 出過ぎたことになるやも知れず : : : が、そのときには遠慮 家康はまゆねを寄せて振返って、 のうおしかりなされませ」 「そちか」とつぶやき、それからじろりと作左をにらんで、 「と、申して、一々女子のことで : : : 」 「たっしやであったか」 : はい。お殿さまもご健勝にて」 「なんじゃ。不服そうな面構えで」 「よい。あとで会おう。休んでおれ」 「殿は、これでもはや城は取られませぬか。お子をおかね 築山殿の手きびしい嫉妬をのがれて、本多豊後のもとへ ばならぬ城は岡崎だけでたくさんでござりまするか」 身をひそめたお万は、わずかの間に見違えるはどあでやか そういうと、作左衛門は自分も縁に腰をおろしてじっと な女になっていた。 家康を見つめていった。 「半右衛もさがれ」 「はツ。では、お預りもの、おわかりなされましたので」 五 「ロ数が多い。さがって休め」 「よッ 家康はじろりと作左衛門を見たままだった。家臣の言葉 は聞くべきことと聞くべからギ、ることとがある。 お万はなっかしげに、また何かいしカレたが、い返し いまの作左の音戸には、作左ならではの必死さがこもっ たように半右衛門と二人でさがっていった。 ていた。聞くべきことと考えての無言であったが、家康が 「作左」 口をつぐむと作左もまたけろりとして黙ってしまった。 し」 去年の暮から傍小姓にあげられた井伊万千代がお茶をさ 「そちは予が、そちたちの差出たはからいを喜んでいると 244

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り作左に聞かぜてやれ」 心からでごギ、りまする」 「殿はお黙りなされませ ! 」 家康はがくぜんとしてまた一歩下った。 また作左は叱りつけた。 「わかった。よく申した。が、、い配するな。これから作左 が命乞いをしてみてやる。殿 ! お聞きなされましたか。 「殿などになんで女子がわかるものか」 女子の心の凄まじさを」 「亠まだ一一一一口、つか、フぬがツ」 「死ぬまで言うといっている。いや、死んでも言うといっ 四 ている。大体、築山殿ひとり思うままに扱い得ないほどの 殿。そのようなくちばし黄色い殿に女子の心などわかるも 家康はじっと唇をかんだまま裂けるような眸をして可禰 のか。女子の手管は、武士が戦場の掛引じゃ。生きる死ぬを見つめていた。 るの境も通らで女狂い : : : で、それが危くて見ていられぬ 今まで彼の考えた生命のやりとりは怨みか、敵か、野心 ゆえ、いったんこうと思い定めて口を出した。さ、可禰ー か功名心のたぐいであった。 慕わしいゆえ殺すというのは : : : 考えてみたこともなか なぜ答えぬ、答えぬままで済ます作左ではないと、そちの 眼には映らぬのか」 「お : : : お : : : お許し下さりませ」 : 、げんに可禰はそう言った。尾張からの連絡は逐一家 「許さぬとは誰が言った。正直に申せと言ったまでだ」 康にもらしている。自分を慕うという言葉のうちに二心も なければみじんの嘘も感じられない。 「ただ殿が慕わしゅう : 「次を申せ」 にもかかわらず、たった一つ、いちばん恐ろしいことを 胸に描いて打明けなかったのだ。 「と申しても、生きてあっては主命にそむけず」 「主命とは尾張へ帰れとのことか」 「危かった ! 」と、作左がもらした。 し」 「今日かこの次かで、殿の生命はなかったろう : : : 殿 ! 」 「それで次は」 「死んで添おうと : : : お許し下さりませ。ただ慕わしい一 「この女子の申すことにみじんの嘘もござりませぬ。戦場 おなご っ一 ) 0 1 广 8

10. 徳川家康 3

「度を越えたそちの不、朝日の下で糾明する。かほどの ことがお伽の話柄か」 「殿 ! 殿はわしに言葉のすぎたを謝れと仰せられてか」 「あやまれと誰が申した。思うところを述べよと言うのだ」 七 「なるほど。それでは述べずばなるまい。殿は女子に惚れ なさるか」 「埒が明かぬとは : : : 作左 ! うぬ、それが予への言葉か」 「それは : : : わからぬ ! 」 家康はまたグラグラとはげしい怒りに声を高めた。この 「わかっている。色恋にうつつのぬかせる殿ではない。い ようなことで争うつもりはなかったが、事毎に作左の言葉 や、あるいはそうであったとしても、そのような時代でなは彼の若さに反撥する。 いことを殿はよく知りすぎている : : : 」 「さ、どこが埒もないのか聞こう ! 申して見よ」 「また予をそちの算盤で割切ったな」 作左は持て余したように眉根を寄せて、 「割切らねば答が出ぬ。したがって殿の色恋は遊びなの だ。これで城を傾け、家臣の心を失うてはならぬと、ちゃん「もうおやめなされ。遊びと生命がけの勝負の差がわかれ と計算した上の遊ひなのだ。その遊びで生命がけの女子のばそれで十分。何事によらず一度に達人になれるものでは 恋に立向う。ここが大切なところだ殿 ! 自分の方では遊ござりませぬ」 びながら、生命がけの白刃に立向って勝てると思うか殿」 一一一口いながらゆっくりと腰をあげると、 「なんと」 「待てツ、まだ起っなツ」と、家康は身をふるわして呼び とめた。 「清浄なものに遊びで近づ く、これは当然の罰だ。遊びな 「といって、作左には朝の見回りがござりまする」 らば遊びのように、相手も殿同様、色恋では身を滅ばさ 「見回りは今日はよいツ。予の算盤が浅いとは、予はうつ ぬ、算盤持った女子で十分間に合うはすだ」 けじゃという意味になるぞ。それでよいのかツ」 「というと、遊女でも部屋へ入れよと言うのか」 家康が苦々しげに問いかえすと、作左は済まして首を振「よくお心づきで」 「やれやれ。殿の算盤の浅いこと。これでは仲々埒はあく つ 0 182