無二直隆に斬ってかかった。 直隆はしかしその二人を斬ろうとしなかった。彼はすで に彼らしい死を考えていたのである。 六郎は太刀をふりかぶって真柄直隆のうしろに回った。 どちらも手傷を負っている式部と五郎を見比べて、 直隆はかっと眼をひらいたまま自分で自分の兜をはね、大 「道を知る奴、惜しくはあれど : 依山の頂をぐっと睨んだ。乾いた返り血と肩から噴きだす そうつぶやくと、よろよろと立上って、刀をぬいた。い自分の血とで、直隆の半身はベトベトだった。 ちばん深傷の五郎次郎の上に、かっと豪刀をふりおろし 六郎は「だっ ! 」と叫んで太刀を振りおろした。そして 眼を開いたままの直隆の首級を、もとどり損んで高くさし 五郎次郎の体は声もなく真ッ二ツにわれ、ザザザと音たあげ、 てて血がしぶく。その瞬間に、末弟六郎の十文字槍は直隆 「音に聞えた越前の豪の者、真柄十郎左衛門が首、三河の の肩の肉に喰い込んだ。 向坂兄弟が討取ったり ! 」 : 」と ~ 阯隆は入った。 川瀬を圧する声で叫んで、それからその首級に両手を合 「あつばれー せて瞼を閉じさせた。 いざ鬼の首を討ち、手柄せよ」 がらりと太郎太刀を投げ出して、熱く灼けた地べたへ崩直隆が討取られたと知って、乱軍の中の朝倉勢から一騎 れるようにあぐらを掻いた。 の騎馬武者が矢のように走り出した。 すかさず六郎は槍をふるった。ぶすりと脇腹へ突立った 直隆の子の十郎三郎直基だった。 が、直隆の体はうごかない 「うぬ、のがさじ」と立ちふさがるのを、直基は蹄にかけ 「兄上、首級を早く ! 」 て太刀を振った。 うすで が、式部は薄傷を負って手許の狂うおそれがあった。 「父に劣った次郎太刀なれど、うぬ等が細首おとすに惜し 「六郎、そち討て。勇士の首そ。笑われるな。心して討 道をひらけや ! 」 サッと開く雑兵の中を父討死の場所まで一気にかけた。 そういうとがつくりと砂の上へ膝を突いた。 「父上 ! おあとを」 32 り
が想われて、姫は体をひきかけた。すると、なぜであろう 四 か、自分でも思い設けぬことなのに、ポトボトと涙が膝へ 次郎三郎が、子供のような動作をすると徳姫は悲しくなおちて来る。 「おや ? 」 次郎三郎はめざとくそれを見つけて、 八つからあしかけ四年間一緒にいて、 「何が悲しいのだ。おれが何かわるいことをしたのか、 これは良人なのだ ) そう思いこんで暮して来たせいであろう。もう次郎三郎 うしろから頬をよせて訊いてくる。 と離れた人生は考えられず、父の信長にくらべてみても、 「泣くな姫、知らねば知らぬでよい。もうきくまい。泣く 生母のお類の方、正室の濃御前に比べてみても、次郎三郎 の方が親近感は深くなっていた。 いいえ ! いいえ ! 」 去年の秋の 2 以前にはよくすねたり怒ったりしたのだが、 次郎三郎が、また子供に返りそうな口調なので姫ははげ 2 深まるころから、めつきりと大人びて、ふさぐことが多く よっこ 0 しく首をふった。 次郎三郎と姫の結婚を、築山御前がよろこんでいない事「三郎さまが、お聞きなされたので泣いたのではありませ 情もわかって来たし、夫婦とはどうして暮すものかもひとぬ」 「では、ほかに何が悲しい。のう姫、今日はめでたい元旦 りでに知って来ていた。 次郎三郎が何気なく近づいて、うしろから眼かくししたそ。わけを聞かせ。誰か姫にむごい仕打ちをしたというの 力」 り、頬やえりあしに触れたりすると、ドキンと胸が波打っ いいえ ! 涙はうれしい時にもこばれまする」 「ほほ、つ。では、それは嬉し涙か」 もう何かしら体で待っているのである。 「はい。三郎さまが、やさしく梅を髪にかざしてくれまし それなのに、次郎三郎は、いつも待つものに触れかけて は、いたずら好きな子供にかえる。今日もこのあとの失望た故」 つ、 ) 0
次郎三郎はこくりとうなずいて、 次郎三郎はそう言うと、つかっかと立っていって窓をひ 「よし、そちは退れ。おれは姫に話がある」 らき、若い活気を扱いかねる恰好でその外に咲きこばれて 「はい。程なくこれへ祝膳が参りまする。それまでお二方 いる梅の小枝を折って来た。 「まあ、窓辺の梅などを手折られて、そのまま眺めておわにて」 七之助が退ってゆくと、これもついて来ている小侍従 すがよろしゅ、つ、こ、さりまする」 「姫、おれはな、時々太刀をぬいて、このあたりの木をみ 「そちも座をはずせ。二人だけで話があるのだ」 んな斬りはらってやりたくなる」 「では、ご用の節はお呼び下さりませ」 「おお布い。どうしてそのようなお、いになられまする ? 」 ういじん 「お父上は、おれが初陣したいというのをさせぬからじゃ。 次郎三郎は二人だけになると、開け放った窓がまちへ乱 親吉、親吉 ! 」 暴に腰をおろして、 次郎三郎は気のうごくまま、二人について退って来てい 「来てみよ。この梅一輪、こなたのお髪へさしてやろう。 る平岩七之助を呼び立てて、 「今年は初陣をお許し下さるよう、そちからもお父上に頼羞らうな。二人だけじゃ」 姫は言われるままに近づいた。と、次郎三郎は小腰をか んでくれ」 がめて姫の髪の匂いをかぎながら、 「はい。それはお願い申しますが、まだ若君のご馬術が心 「姫、こなたほんとうにどうすれば子が出来るか存じて居 もとない。今しばらくはご鍛練が大切でござりまする」 「うむ。そうか。では昼食をすませて早速ひとむちあててよう。な、おれの耳ヘロをよせて答えてみよ」 と、また言った。姫は肩へおかれた次郎三郎の手へそっ 来るか」 と自分の手を重ね、 「いけませぬ。本日は元旦、武道始めは明二日、お父上さ 「存じませぬ」 まの決められてあることを自ままな変替えはなりませぬ」 怨めしそうに首を振った。 平岩七之助が真面目に言うと、 「そ、つか」 231
「・なンだ。そうならそうと早く言うがよい。おれはびつく 五 りしたそ」 次郎三郎はそう言うと、乱暴に姫の体を自分の方へ向け 「なにをなされておいでなのじゃ、三郎どのは」 させて、懐紙を出して姫の涙を拭きとった。 築山御前は声をとがらせた。 「われらは夫婦じゃそ。のう姫」 あれなり家康に顧みられぬ御前の血は、このあどけない し」 者の抱擁にもクラクラするほど激しい強い刺激をうけた。 「夫婦は仲睦まじゅうせねばならぬ。そっちの手も出せ。 「三郎どのは、この城の御大将そ。御大将は御大将らし おれがしつかり抱いてやろう」 く、きびしい威厳がなければならぬ。お離しなされ、姫を」 姫はカーツと全身が熱くなった。なぜ熱くなるのかわか 「いやじゃ。井止 , 六ぬ」 らなかったが、こうして、二人はほんとの夫婦になれる : 次郎三郎は無邪気に首を振った。 ・ : そんな羞らいと期待が本能的に感じられた。 「姫はおれの御前じゃ。抱いたとてふしぎはない。なあ姫」 3 「姫 ! 」次郎三郎はしつかりと姫を抱きすくめて、耳のそ「姫 ! 」と、こんどは御前は徳姫に言った。 「みだりがましい。母の前で、お離れなされ」 ばで六、さやいた 「いや、よいと一一一一口、つに。姫、離れるな」 「おれは、姫を愛しく臥、つ : 「姫も三郎さまを」 しかし徳姫はまっ赤になって次郎三郎の手をふりほどい そう言ったときだった。廊下からこの居間の前に立っ 築山御前はまだ部屋に入ろうとせす、あらい呼吸で突っ 「三郎どの、何をなされていられるのじゃ」 立っている。 そこへ老女たちが祝膳をはこんで来なかったら、おそら 震えをおびた声で呼びかけたのは、これも賀詞をのべに く御前は狂態に近い声で罵声を投げたに違いない。 来た築山御前であった。 さすがに人が来たので御前はふるぶる唇辺の肉をふるわ 「ああ母上」 せながら中へ入った。 次郎三郎は、姫を抱いたままのどかに母をふりかえった。 て、 つ」 0
従が考えても、もうそろそろ春の来るころだった。 ってゆく」 「では、今日のめでたいささ機嫌で、老女どもにでも頼んが、それを意地わるく妨げているものがある。 次郎三郎の生母築山殿であった。 でゆくかの」 築山殿は、はじめ無邪気な徳姫に好意を見せていたのだ そこへ徳姫づきの、小侍従という腰元が銚子をささげて が、次郎三郎が本丸へ移り、本丸の奥へ徳姫が入ってゆく 来たので、 と、がらりと態度は変っていった。 「これ、こなたは姫におっきの者であったな。どうじゃ。 次郎三郎と共に本丸へ移り、奥の主人は当然自分と考え 若殿は姫の閨へ通わせられるか」 ていたからに違いない 常源は老人の無遠慮さでたすねていった。 「 , ーーわらわは家康どのの正妻、わらわをさしおいて姫が 大奥のあるじとは」 その不平を家康に申送ったが、家康は取り合わなかっ 小侍従はすぐにその間いの意味をとりかねて、 : ? 」と、首を傾げて訊きかえしてからポーツと赤た 「ーー若い者には重い荷を負わし、こなたは気楽にすごす くほおを染めた。 カよし」 「どうじや通わせられるか」 事実そう思っているのではなくて、次郎三郎にいつまで : いい ) ん」 も築山殿の愚痴を聞かせておきたくない家康らしかった いいえではわからぬ。まだという意味か」 「↓よ、 0 が、そうしたことがあってから築山殿は、しげしげと奥へ 。しまだそのようなことは」 次郎三郎をたずねて来た。そしてそのたびに、まだ姫を近 「ないというのか。べつにお仲がわるいわけではあるまい づけるのは早いと聞かせてゆくのである。 にの、つ」 十五六歳までは、男よりも女の育ちの方が早かった。近 「それはもう : そう答えて小侍従は困ったように銚子を前に差出して面ごろの姫には、すでにそれとない色香のめばえが感じられ る。それだけに織田家から姫について来ている小侍従はひ を伏せた。 229
次郎三郎が立って縁へ出ようとすると、こんどははっき 「よい。 ( 厄いことは、いしたが宜しゅ、つ」ギ、りまする」 「夏にな 0 たら、また菅生川の出口で泳ごうぞ。鷹狩と泳りと北の空から頭上〈紫のいなすまが走り、つづいて大地 ぎ、お父上は、この二つで体を鍛えられたといつも仰せをふるわす雷鳴た 0 た。 「あっー こわい・ じゃ。おれとて父上に負けはせぬ」 徳姫はわれを忘れて次郎三郎の腰にすがった。 言いかけて何を想い出したのか、 「こなたの父上信長どのな」 「は、、美農の父上が・ 「おれの父上に泳ぎを教えたのだそうな。こなた、それを春雷は二三度鳴って遠のいた。 空はいぜんとして暗く、次郎三郎にすがった徳姫はいっ 知っていたか」 までもその手をゆるめなかった。 「いいえ、存じませぬ」 ( なぜいまごろ雷が : 「そうか、では聞かせてやろう。父上が熱田にあられたこ はじめはそうした怖えであったが、縋った肩に次郎三郎 2 ろ、こなたの父上がたずねて来られての、寒中泳ぎをさせ の手がやさしく置かれると、恐怖は消えて泣きたいような られたのが最初だったそうな」 感傷と嬉しさとが胸いつばいになっていった。 「まあ寒中に : 風はまだひょうひょうと鳴っている。 ようやく姫の機嫌は直った。寒中の泳ぎと聞いて姫がや 次郎三郎は次の雷鳴を待つもののように、姫の肩へ手を さしく眉をしかめたとき、元旦から空で異様な音がした。 そう言えばあたりはだんだん暗くなり、松の梢で風が鳴りおいたまま固く立ちはだかって動かない。 「南へいんだな雷は : だしている 暫くしてポツンと次郎三郎がつぶやくと、 「おや ? い まごろ雷のようだな」 「雷 : ・・ : 風でございましよう。雷は夏のものとかるたの歌「いや : : : 」 姫は離れまいとしてまた両手に力をこめた。 にも、一」ざい・まする」 「姫は雷がこわいのか」 「いや、たしかに麕のようであったそ」
「こ ) 亠丿ッ . をイ , ビ 十郎左衛門直隆はそれをくるりと乗りしずめて、 家康の額にあぶら汗がういて来た。彼は手の織田勢が 「平八郎か退けツ」 浅井勢へ斬り込むのを待っているのだ。 「十郎左か退けツ」 ひた押しに押して来る勢いは如何なる力でもとどまるも 平八郎は怒鳴りかえした。 のではない、かえって押させておいて、ホッとした時、そ「おれの進む邪魔になる。おいばれ退け」 の時こそ水勢のにぶる時なのだ。 「ふーむ。それが三河の小僧の挨拶か」 それに織田勢が川を渡っておれば、敵はうしろも気にか 返り血を浴びた四角の顔がニッと笑った。 「行くそ小僧 ! 織田勢の先鋒が川を渡った。 「行くそおいばれ」 「殿の・ハカ ! 」 四ツの眼ががっきと空間で斬りむすぶと、三河勢の足は 平八郎が槍で鞍をたたくのと、家康が、鎧をふんで立つようやくとまった。 原を圧してひびいている。 敵味方の法螺目 ( が川、 のとが一緒であった。 カカ、れツー・」 采配は朝の光の中で躍った。旗下を崩して戦う : : : それ はもはや一歩も退かぬ決戦の証拠であった。 真柄直隆は真向うに大太刀をふりかぶった。越前の千代 旗下の弓勢が射かける箭のあとから、平八郎の馬が、糸鶴が、有国、兼則などの刀匠にはかって鍛えたこの五尺二 ひくように河原へ走った。 寸の大太刀を、千代鶴の太郎と呼ぶ。 千代鶴には次郎があって、次郎は四尺三寸、これは真柄 伊賀八幡の宮司が作った鹿の角の前立つけた兜は、これ もまた三河勢の名物として近辺になりひびいている。 の子の十郎三郎が持ってこれもどこかで暴れ狂っているは 彼はまっすぐに真柄直隆の前へ馬をとばして、 ずであった。 「三河の鹿だ ! 」と怒号した。 本多平八郎はその太郎太刀の前にびたりと槍をつけてじ びたりと鼻尖に槍をつけられ、真柄の馬は立ちかける、 りじりと馬を左にまわした。 37 7
「ああ」と、姫は悲鳴をあげて上半身をもたせて来た。 「ええ」 次郎三郎はカーツと頭が熱くなった。どんなに両手にカ 「おれは怖くはない。あの音を聞くと、いつも武者震いを をこめても、支えのないほど柔軟な姫の体だった。そのた 覚えてゆく」 「それは : : : 三郎さまが勇ましいご気性ゆえでござりますよりない柔かさにふれると、一層猛々しく雄心はあおられ る。 る」 「痛くはないか」 「姫はいさましくないのか」 「ええ」 「女子でございますものを」 「これでもか、これでも参ったと言わぬか」 : 女子はやさしいもの。そうであったな」 姫は、次郎三郎の胸にうずめた首をかすかに振ってゆく。 「三郎さま、じっと二人でこうしていたし」 黒髪がおとがいの下でゆれて、そのわきにのそいた耳朶 「やくたいもないこと : 笑おうとして次郎三郎はび 0 くりした。のどがからからが紅梅の花弁のように赤か 0 た。 次郎三郎は、その耳朶を見た瞬間にふーっと気が遠くな に乾いていて、自分の声がまるで誰か他人の声のようにか すれていた。 った。いや遠くなった意識の向うで、自分でささえきれな い神秘な好奇心の跳梁を感じた。 ( なぜであろう ? ) 「よしツ。ではこ、つしてやる」 と、首をかしげてみてもそれの解ける年ではない。むく 平岩七之助親吉だっ と、その時廊下へ足音が近づしオ むくと夏雲のような感情の猛りが胸につまって、吐く息が あらくなった。 親吉は次の間の襖ぎわに、固くなって坐っている小侍 従を見ると、なんとはなしに異様な空気を感じとり、 「ご機嫌はなおったか」と声をひそめた。 と、三郎・はさけぶよ、フに一一一口った。 そして小侍従が湯上りに似たうなじを見せてさしうつむ 「姫の体が折れるほど抱いてやろう」 あらあらしく膝をついて肩の上からぎゅっと両手を締めくと、 てゆくと、 「て、つか」 つ」 0 3
「新玉のおんことぶき、めでたく申し納めまいらせます「はい」 「たとえ信長殿の姫じゃとて、その見識のすさまじさ。わ る」 らわは三郎どのの母、家康どのの正妻じゃ」 「うんめでたい。 母上もご無事で」 し」 「三郎どの」 「そのわらわに出す膳まで、一々こなた様は指図する。そ 「はい、なんじや母上」 のようではこれから先が思いやられる。ちとお慎しみなさ 「わらわも、ここでお膳を頂きとう存じまする」 「うん、母上にもお膳を差上げよ。のう、よいであろうれ」 姫は何を叱られているのかわからなかった。次郎三郎 姫」 がわざわざたすねたので答えたまでなのに、何という怒り 「三郎どの ! 」 ようかと、ちらと見返したまま黙っていた。 し」 それが一層御前の癇にさわったらしい 「なんでそのようなことを姫におたずねなされまする。三 「なぜ答えぬのじゃ姫は。滅びかけた今川家の出とあなど 2 郎どのはこの城の御大将ではござりませぬか」 って、わらわに楯つくお気持か」 すると次郎三郎はまたすっかり子供にかえって手を振っ そこへ平岩親吉が大きな咳払いをしながら人って来た。 「さ、今日はお二方お揃いの祝膳、われ等がお給仕つかま 「違う違う。いかに大将でも、奥のことは奥でするもの じゃ。奥の大将は姫じやほどに、姫の許しを得ねばならつろう。小侍従、銚子をこれへ」 ぬ。のう姫、よいであろう母上にお膳を」 「はい。お気遣いなく遊ばしませ。姫が、これへ運ばせま する」 徳姫がそういうのと、築山御前が、姫に向き直るのとが 一緒であった。 「姫 ! お控えなされ」 あらたま 平岩七之助親吉に給仕をされては築山御前も、はしたな く徳姫をののしるわけにはいかなくなった。 御前は時々七之助を睨み、姫を睨み、次郎三郎を睨みな がら食事をした。
このような豪刀にふれては人も馬もひとたまりもあるま 「その弟五郎次郎」 「同じく六郎三郎。その敵、われら兄弟が引受けました」 隙を見つけてさっと槍を繰出すと、直隆はニャリと笑っ 「おお、見事にやれ。任せたぞ」 て右にかわし、一挙に馬を煽って来た。 平八郎はすでに浮足をとどめる役目は果した。真柄直隆 その瞬間たった。 を向坂兄弟に任して、そのまま前線に馬を飛ばした。 「平八を殺すなっ。うぬらは腰ぬけかツ」 と、その頃から右翼の織田勢の旗色が悪くなった。 かずまさ それにつづいて駆け出して来た家康の声ーーーと思ったと 浅井勢の一番隊磯野員昌が、織田方の先手坂井右近政尚 きにワーツとおめいて旗本の若武者どもと平八郎の手兵が と、その子の久蔵を討取って、池田信輝の第二陣へ破竹の いっせいに二人の間へなだれ込んだ。 ように殺到しだしたのだ。 楙原小平太の顔がある。加藤喜介がいる。天野三郎兵衛 だんだん日は高くなった。姉川の河原も水田も、血しぶ がいる。彼等は本多平八郎を救うというよりも、家康の人きと白刃でいつばいになり、法螺と太鼓と怒号で満たされ つ」 0 垣になるために、期せずして割って入ったのだが、これは 三河勢に猛反撃の勇気を与えた。 浅井長政は磯野員昌が、信長の本陣近い木下勢にかかっ 「退くなツ。後詰の織田勢に笑われようそ」 ていくのを見きわめて、総攻撃を命じた。 家康の声がまたひびいた。酒井忠次の一番隊、小笠原長家康はそれを見て、ついに楙原小平太康政まで、自分の 忠の二番隊は、この声にはげまされて、ドッと敵をおし返手許から離して、 すと、見る間に川を渡ってゆく。 「小平太、織田勢へ加勢と見せて朝倉が本陣の右をつけ」 本多平八郎は一度行きちがった馬をまわして、ふたたびと命じた。 真柄に襲いかかった まず朝倉勢を混乱させ、大勢を決した上でみずから信長 「本多どの、その敵、われ等に」 のそばへ馳せつけるつもりであった。 さきさか 小平太は手兵をひきつれ、水しぶきをあげて川を渡っ 「誰だツ、向坂兄弟か」 「いかにも向坂式部」 318