客観出来る距離へはなれた。 う、そうであろう」 自分で自分を突きはなし、離れて眺めた自分のために泣 いてやる : : : そ、フすることがいちばん淋しさをまぎらすこ とであった。 信康とあやめの小さな愛情の争いは間もなくとけた。 一つの果実しか手にしなかった少年が、次の果実を与え 信康は一刻あまりして戻って来た。 徳姫と祝膳につき、そのあとで広間へ集まった家臣たちられ、これこそ美味と思うた時は、はじめの果実は遠ざけ られる。 の賀を受けて戻って来たのである。 徳姫よりそなたが : 「あやめ、何をしょんばりしているのだ。面白かったぞ広「 そう言われるとあやめの不安は幼い歓びに変っていっ 間で」 た。そのあとにどのような波瀾が残るか、その計算はつか 「若石さま、あやめはお願いがござりまする」 よ、つこ 0 学 / ー刀ュ / 「改って何ごとだ。おれはこれからそなたと二人、楽しく 大賀弥四郎が四月に浜松から戻った時には、信康はあや 過すつもりで戻って来たのに」 めの部屋で彌四郎を引見した。 「若君さま ! あやめにお暇を下さいませ」 彌四郎はいかにも謹厳な面持で部屋に入り、寄り添うよ 「なんじゃと。暇をくれと ? 何故じゃ。わけがあろう。 申してみよ」 うに迎えた二人を仰ぐと、 「あやめは不東で、君のお気には召しませぬ。大きなそそ「おお、この若君を : : : 」 、つのない、っちに退りと、つ存じまする」 言いかけて言葉をのんで平伏した。 「おれの気に召さぬ : : : して、退ってどうするのだ」 「彌四郎 ! 何としたのだ。父上に変事でもあったのか」 「はい。髪をおろし、世を捨てとうござりまする」 平伏したまま涙ぐんでいると知って、信康は身をのり出 無心な媚はそれなりにまたおそろしい。信康はかッと血した。 の逆流を覚えて眉をあげた。 「いいえ、何でもござりませぬ。何でもござりませぬ」 「姫がこなたに辛くあたったのだな。そうであろう、の 「気にかかる、なぜ途中で言葉を濁すのだ。そちの眼にう
そこへ信康はあらあらしく戻って来た。 「お父上に申したとおり述べてみよ。何を言ったのだ」 : ただご機嫌よくいらせられますようにと : : : ご「来い ! あやめ : : : 」 あやめは信康に手をとられて、その場へ突き倒されるよ 挨拶申上げただけでござりまする」 「それが出過ぎたことだと気がっかぬか。この前はあやめうにすわっていった。 に何と申した」 「あやめ ! 」 「姫のもとへもお運びあるように : : : そう言って指図した 「こなたはこの信康をたばかったな」 のを忘れたのか」 : なんのことで、こギ、りましよ、つ」 しいえ、決してそのような指図など」 「こなたは小侍従が、姫のもとへも来るように : : : そう申 「せぬというのだな。よし、ではあやめが嘘を申したのだしたと信康に告げた。小侍従はさような指図はせぬと申 : これへ呼んで糺明しよう」 す。どちらがまことか、嘘は亠、ぬ。はっきり一一「ロ , ん」 信康は挈、、つ一一一一口、フと、 「申上げまする」 「あやめ ! あやめ : : : 」 と、小侍従はあやめをかばう形になった。 すっくと立って声高に廊下へ出た。 「つれづれの話柄に、あるいはそのようなことがあったか も存じませぬ。お許しなされて下さりませ」 「なにツ ! ではその方が指図したのではないか」 「いいえ、指図などというものではござりませぬ。ほんの 血相かえて出ていった信康を見ると、 つれづれの : : : 」 「小侍従 : : : 」と、姫はふるえた。 、。、ツと信】康の手が、つ、こいた 「默 ~ れー・」とい、フと 「こなたどうする気じゃ、あのように怒らせて」 「あっ ! 」と、小侍従はうしろへのけぞりながら髪をおさ しかし小侍従は冷静だった。 「何か誤解を遊ばしておられまする。よくお詫び申しますえた。 信康の無意識に振った太刀の鞘がふれて、指の間から黒 るゆえ、お案じなされまするな」
しかとそなたに命じまするぞ。三郎どのが戻ら ているのじゃぞえ。この上わが胎を痛めた三郎どのにまで「よいか。 憎まれたら、それこそ生きるも詮ない身。わらわの身を哀れたら、姫のお側に行くほどならば、このあやめに暇を下 れと思うなら : : : のう、あやめ、三郎どのだけしつかりそされと言いなされ。いや、ただ言うだけではならぬ。事実 暇を取ってわらわのもとへ戻るがよい。そなたが、それだ なたの腕の中にしばってたもれ」 けの力もない女子ならば、三郎どののお側においても無駄 そういうと、こんどは御前がさめざめと泣きだした。 なことじゃ」 あやめはぐさりと心臓を刺された気がして答えもロへ出 よ、つこ 0 あやめは狂ったように泣きつづける築山御前に慰めてい 「よいか。しかと申渡しましたそ」 いのか詫びていいのかわからなかった。 いかに打ちひしがれた少女とは言え、信康をひとり占め築山御前はそういうと、裾を鳴らして急ぎ足に去ってゆ したい女の感情はどこかにあった。が、正室の徳姫は、織 あやめはしばらくひれ伏したままでいた。信康を姫のそ 田信長という甲府の御館さまにも匹敵する御大将の一の姫 : そう聞かされるだけで、女の感情よりも怖えの方が先ばへやるなという意味よりも、暇をとって戻って来い そう言われた言葉の方が、悲しく強く胸をうつ。 立った。 ( まだ安心して住める巣は、あやめの上に作られてはいな 信康の機嫌はそこねても、あとで取返しがっきそうに思 かった : : : ) えたが、徳姫の感情を損ねたらそれで自分の憩いの巣は粉 そう思うあとから、はじめて知った信康への思慕が、せ 粉になりそうな予感がする。 その怖えがついあやめを控え目にしてゆくのだが、築山せぐるように感傷を衝いて来る。 殿はそれが堪らなく歯痒ゆいらしかった。しばらく身をも ( 不幸な子 : : : ) ( 可哀そうな巣のない小鳥 : : : ) んで泣いたあとで、築山御前はすーっと立った。 その小島は、やがて居間の窓下にしょんばりと坐り込ん 「あやめ」 だ。涙ぐんだまま、あやめといういじらしい娘の、淋しく
ト侍従は徳姫のついて来るのをかたくこばんだ。そして「減敬は : : : あのう、甲斐の生れでございます」 あやめに助けられて自分の長局にもどってゆくと、そのま ま布団をしかせてやすんだ。 「減敬は、勝頼さまから、築山御前のもとへ使いに寄こさ 傷口へは血どめ草をはり、その上を手拭でかたくしばつれたお人でござりまする」 ツ」と、小侍従はさえぎった。が、それは、はじめ 「もう血はとまりました。お引取り下されませ」 て知った異性への至純なこころを披瀝しようとする、あや あやめに言った。あやめは枕辺を動かなかった。なぜ動めのロをおさえることは出来なかった。 かないのか自分にもわからない。が、、いのどこかで、 「減敬は、築山御前からのお手紙を勝頼さまに届けまし ( このままには済まされぬ : : : ) た。何と書いてあるかは存じませぬ。が、それはたぶんこ そんなあせりがじりじりと燃え立つのをどうすることもの城を : : : 」 出来なかった。 ツ」と、また小侍従はあやめの膝へ爪を立てた。 それを小侍従は、、い配してのことと思って、やさしく笑「、、 しえ、申します ! 」 って見せたりした。 あやめは憑かれたように首を振って言いつづけた。 : ほんとうに若君 「小侍従さま、あやめは : : : あやめは : 「お案じ下されまするな。もう小侍従は笑っています。 え、よく知 さまのお味方になりたいのでございます。いい さ、お引取り下されませ」 っています。小侍従さまも奥方さまの姫さまも、みんな若 「小侍従さま」 ついにあやめは包みきれなくなった。 君さまのお味方、あやめも : : : あやめも そう言った時に、 「あなた様の胸ひとつに畳んでおいて下さりましようか」 「あやめは居らぬか、あやめ ! あやめ ! 」 「何のことでござりまする ? 」 と、廊下で信康の声がした。 「あやめは : : : あやめは : : : 減敬の子ではございません」 あやめはハッとして口をつぐむと、小侍従と眼くばせし カそれなり言葉は 一瞬小侍従の眼はキラリと光った。 ; 、 てすぐに立っていった。 口に出さす、労わるようにうなずいてみせていた。 8
「彌四郎さまがおっしやったとは」 「というと、小侍従めが、そちにそう一一一口えと指図したのだ な。誰が姫の腰元ずれの指図に従う : : : 今日あたり顔を見あやめはう 0 とりと眼を閉じて、自分の唇がどう動いて いるかさえ意識しなかった。 せようかと思うていたが止めにする ! 」 なぜこんなふうになるのだろうか ? 「それでは : : : それではあやめが困りまする」 自分の顔に信康の視線がおちていると思うだけで、唇も 「案ずるな。そちにはこの信康がついている : : : そうそ う、それからあの出過ぎ者め、ほかにも何か言ったであろ耳も眼もひとりでに媚びてゆくのである。 信康はまた乱暴に、頬のほくろに唇をふれた。 う。大賀彌四郎やそなたの父の減敬から聞いていることも 「小侍従はな、あらぬ噂を姫にささやく不届きな女だそう ある、申したとおり述べてみよ」 「まあ : 十寸従さまが」 あやめは、もう信康の言葉は聞いていなかった。 いや、姫とそな 「そうだ。あるいは信康とそなたの間・ 肩へまかれた腕から、だんだん甘いしびれが全身にひろ たの間を割こうと企んでいるのかも知れぬ」 がって、うっとりと意識がかすんでゆきそうだった。 . いいらん : : : いし 、え、あやめは若君さまのおそばを離れま 「あのう : : : 小侍従どのは、そうそう甲州の信玄さまが せぬ」 お亡くなりなされたのを知っているかと申されました」 「わかっている ! 小侍従ずれのざん言に、瞞着される信 信康はハッとしたように、あやめの顔をのそきこんだ。 そしてそのままそっと唇をあやめの上気した頬にふれて康ではない。が、あ奴め、母上とそなたの父が武田方に心 を通じているとか、大賀彌四郎がそれに味方して、わざわ ゆきながら、 ざ姫と信康が仲をさくため、そなたを信康に近づけたと言 「やつばりそうか : : : 彌四郎の言ったは事実だったか : いふらしているそうな。姫に附けられて来た者でなけれ 小侍従め ! 」 ば、と、つに手ュちにしているところだ」 おしころしたはげしい語気でつぶやいた。 あやめは答える代りに布ろしいという身ぶりで一層つよ 四 くすがっていった。 6 6
「お控えなされませ」 性分だ」 そう言って、築山御前をたしなめて差支えない平岩親吉 「恐れながら : : : 」 の立場であったが、彼の温厚さと思慮とがそれを許さなか 親吉は額ににじむ汗をおさえて、 った。もしたしなめたら御前は狂乱したように嘆きだすに 「世の中には身分、順序というのがござりまする。奥方さま は岐阜のお館の一の娘、あやめの方は名もない町医の : : : 」違いなく、親吉もまた責任上一歩もひけなくなるからだっ 「黙れツ」 ( 情無い ! ) と親吉は思う。 信康ははげしい一喝とともにトンと畳を蹴りつけた。 「そのようなこと、改めてそちに聞かせられねばならぬほ 家康と築山御前の不和ーー・それだけがこの城に暗い陰を ど愚かなおれと思っているのか。誰が姫の上座にあやめをおとしている。その陰をこれ以上深めたくないと思えば、 据えよと申した。ただ仲ようさせるために、同席許すと申沈黙するより他になかった。 「平岩どの」 した意味がわからぬのかツ」 築山御前は一層皮肉な嘲笑をふくめて、 「分りました。天晴れじや三郎どの」 いか、正室 親吉は自分の後に思いがけない築山殿の声を聞いて思わ「正室と妾の同席はならぬというそこ許が正し などは顧みすに妾だけを近づけるお方が正しいか、そこ許 ずぎゅっと唇をかみしめた。 。さ、あやめ、三 「平岩どの、三郎に奥の順序を説くは少しばかり僣越のよから浜松の殿のもとへ伺うて見るがよい うじゃの。父上を見られるがよい。今川治部大輔の姪のわ郎どのが許すと仰せられる。お供してゆくがよい」 らわをしりぞけて、名もない者の小娘にうつつをぬかす。 一座は一瞬白け渡って、いわれたあやめまでが消え人り それに比べて正室、側室の和をねがう三郎どの : : : 天晴れそうに震えている。と、それまでじっとみんなを見回して じゃ。三郎どのあやめの同席、この母も許しまする」 、宀に一一一一口康 - は、 親吉は唇をかんで黙っていた。 「なるほど、これはおれが悪かった。親吉、許せ」と、思 いがけないことをいった。 「あやめを同席させると言ったのは、おれの我儘であった一
ないませぬ」 三けに、つねに徳川家の人々と姫の和合に心をくだいて、 し」 かりにも対立することのないようにつとめて来た。 「ですが、時折お顔を見て、わが児の父と : : : その安堵が それが近ごろ崩れかけている。自分でも信康や築山御前 何よりの胎教かと思いまする」 を憎みだしているような気がしてかなしかった。 し」 ( なぜこんな気になったのか : 「この小侍従は、わざわざ尾張からっかわされた召使い それは自分の内にこもった愛情が、ふしぎな現われ方を する故らしい。あるいは徳姫の体を通じて、ひそかに小侍身勝手と思わすに若君へおとりなし下され」 あやめはあどけない表情で小侍従を見返したままうなす 従も信康を愛していたのかも知れない。 信康に抱かれて、うっとりしている徳姫を見ると、彼女 ( たぶん若君に、奥方さまのもとへお運びあるよう : : : ) 心もゆたかに溶けた。 そう言えばよいのであろうと受取って : それがあやめの場合はぜんぜん逆であった。 あやめを抱きしめている信康を見ると、信康も憎くあや「奥方さまは、時おり淋しそうにしょんばりと空をながめ て居られまする。そんな時に小侍従は、辛いご奉公 : めも憎い。 それはただ憎んでいてよいことではなかった。自分と、しみじみ泣きとうなりまする」 あやめはまたこくりとした。 の憎む心が、どこかで相手にわかると見えて、いよいよ信 勝気な小侍従の眼に光るものの浮いているのを見てとる 康は徳姫をうとんじる。 と、つい彼女もホロリとしたのだ。 徳姫のしおれた姿を見ていると、じっとしていられなか 高い足音がうしろでした。 さらっと襖が勢いよく開いて、 「あやめさま、小侍従は、あやめさまにお願いがござりま 「あやめ ! 」 する」 思いがけない野袴姿の信康だった。 「改まって : ・・ : 何なりと・ 信康は部屋の中に小侍従の姿を見ると、ぎくりとしたよ 「奥方さまはご懐妊のお身ゆえ、若君さまに添い臥しはか つ ) 0
「いいえ、前例の有無にかかわらず、ものにはけじめが大 切、今日の祝膳には誰も同席は相成りませぬ」 中ではこれも男の情を知ったばかりのあやめが、全身を あやめはあわてて信康に取られた手を離し、 「私はご遠慮申しまする」 熱くして汗を拭いたり着物を着せかけたりしているらし と、小さく・なった。 信康は舌打した。 「どうだ逞しい腕であろう」 「親吉 ! 」 し」 「触ってみよ、爪も立つまい。が、おぬしの腕はまた何と 「昔から妻妾が争うと奥はみだれると聞いている。おれは い、つ一柔か六、だ」 「あ、ごめん遊ばしませ。腕が折れまする」 そのような事のないよう、二人をよく親しませておこうと : そうしてしかめた眉がいちばん愛しいわい。 思う。おれの考えに誤りがあると言うのか」 いっそ折ってつかわそうか」 「恐れながら、それは突飛に過ぎまする。ご夫婦とはその 「ごめん遊ばしませ。あ : : : 」 ようなものではござりませぬ」 たまりかねて次の間から、 「ではどのようなものだというのだ。聞こう親吉」 「若君 ! 」と親吉は叱る声になっていた。 そういうと信康は爛々と眼を光らして親吉に詰め寄っ 「年寄は、そんなところに居たのか。すぐに参るぞ。さ、 あやめ、そなたも参れ」 親吉は情無かった。このような逸脱こそ奥のみだれの因 「若君 ! それはなりませぬ」 になると分っていながら、それを分らせる弁舌が彼にはな っこ 0 ー刀 / 「なに、何がならぬのじゃ」 「あやめのお方のご同席は相成りませぬ」 「なぜ黙っているのだ。二人が親しんでなぜ悪いのだ。ど 「これはおかしな事を申す : : : おれが許すのにそちが成らちらもおれの想い者、二人ならべて膳を祝って悪いいわれ ぬとは : : また前例か、堅苦しい年寄じゃ」 が呑み込めぬ。呑みこめぬことには従わないのが、おれの
血潮で、小侍従の額から頬はゾッとするほど凄惨な形相に 自分が信康に愛されているとわかると、かっての日の勝 見えた。 頼の言葉や減敬の存在がすでに恐ろしいことに思えた。 「あんまりです : : : あんまりです」 信康にあやめは武田家の回し者だったと思われることが そう言ったのは徳姫ではなくてあやめであった。 徳姫は怖えきった眸をして本能的に血から眼をそむけてたまらなく呪わしい。 はじめは何も知らなかったのだが、いまは心から信康の いる。 ために計りたい気になっている。と、いって、自分に減敬 「騒いで下さりまするな。腹のお子にもさわりましよう。 もし騒いでいるのが若君さまのお耳に入ったら、それこそを遠ざける力もなければ、そうした秘密を信康に打明ける 勇気もない。 大事になりまする」 「小侍従さま、許して下さりませ。あやめは心づかずに、 あやめは何枚も手拭をかえては自分の手をふき、傷口を あなたを誤解させました。あやめが、あなたに言われたこ ふき、更に、小侍従の顔をふいてやった。 とを、若君さまにもらしたのがわるうござりました」 そのたびに小侍従の顔はだんだん蒼ぐろくゆがんでゆく 「いいや、もうそれはロになされまするな。あ : : : めまい よ、フに見一んる。 が、あやめさま、小侍従を部屋へ : : : しばらく静かに休み ( ここで小侍従が死んだら : : : ) と、つ存じまする」 あやめは心が動顛しそうであった。 徳姫も、あわてて立とうとするのをおしとどめ、 小侍従がなみの侍女でないのはあやめにもわかってい る。これがもし織田家へもれ、織田家の憎悪が自分の一身「誰も呼んで下さりまするな。小侍従は、めまいして縁か らおちた、くっぬぎで怪我をしたと : にあつまったらなんとなろう。 こまかく心をくばられると、あやめは、小侍従を抱きお 甲斐を発つ日に会った勝頼と勝頼の秘命をおびて来てい る減敬や自分の上に破滅が来そうな気がして心がふるえこして、ワーツとその肩で泣いていった。 いや、あやめの恐れているのはそれだけではなかった 8
つけられたと琴女がどこやらで聞きだして来て告げた。 それを信康は怒りでもすることか、 なに、おれに弟が出来たと、それはめでたい、こん ど浜松に赴いたおり会って来よう。そうか弟が出来たか 男の兄弟のない身とて、わがことのように喜び、その夜 事の多かった天正元年は過ぎて、武田勢と徳川勢は緊迫は奥で、祝杯をあげたということだった。 したにらみあいのまま天正二年を迎えた。 ( お人よしが この年正月五日、家康は正五位に叙せられ、浜松の城で と、そのときも御前はひとりでじりじりしたが、もはや は盛大な祝宴が催された。 信康までが母の自由になる子ではなくなっていた。 むろん岡崎でも足軽の末にいたるまでご酒下されがあ武節、足助への初陣以来、戦場へも幾度かゆき、そのた。 り、もはや織田、徳川の同盟はいかに甲州の精鋭をもってびに父への尊敬を増して戻って来るらしい。 しても抜くべからざるものになったと、上下を挙げて喜び ( 男とはみなああしたものであろうか ) あった。 近ごろは毎夜のように武辺話に時を過し、 「ーーやはり海道一の弓取りはお父上そ」 ただそうした中で、築山御前だけは別であった。 そばめ 胸をそらして、誇らかに言い出したと、これは側女のあ 勝頼からはその後何の便りもなく、浜松から伝わる風聞 やめが告げていった。 は一つ一つが、彼女に背を向けるものばかりであった。 感情の上から耐えられなかったお万の方はどうやら家康そういえば、一日も早く男の初孫をとあせって持たせた の身辺を遠ざけられたと思うと、こんどはお愛が愛妾としあやめまでが、みごもったと知らせて来ては、また流れた て姿を現わした。 とぬか喜びばかりであった。余りのことにこの春など、わ いや、それだけではなくて、お万の方の産んだ子も、ひざわざあやめを呼びにやり、 そかにかくまわれて育てられているらしい。名は於義丸と こなた、夜のおとぎが過ぎるのではないか」 破れ雨