おふうはまだ自分が放たれやしないかと思い、ここに新 死が怖ろしいのではなく、それでは、頁昌に、何の しい死場所を見つけたと思った。 ための死か分らぬと思うと、そんな死は無意味だった。 じゅんし 若し勝頼に放たれたら千丸のお供に殉死する。 勝頼の本陣のうしろ、小荷駄の前で、お伽衆の中にまじ った旅であったが、三日目に一行は鳳来寺へ到着した。 ( これでよかった 鳳来寺へ到着すると、おふうは直ちに本陣から引離され そのおふうに千丸はまた喜ばそうとして思いがけないこ とを告げた。 て、ここにとどめ置かれた貞能の末子千丸と引合わされた。 「こなたや、われらの手柄でのう、ただ無事に父や兄が敵 千丸は竹矢来を組まれた金剛堂の中に囚われていた。 千丸一人ではなく、一族の奥平周防勝次の子の虎之助もの手をのがれたばかりか、家康さまのお褒めに預っての、 一緒であった。 三千貫の加増と、それに亀姫さまを賜ったそうな」 「え : : : 卍姫さ寺 ( とは ? ・」 千丸はおふうの顔を見ると、 「こなたも殺されに連れて来られたか」 「家康さまの一の姫、それを兄上の御台所に賜った : 2 丸い頬へ笑いをうかべてなっかしそうに手招いた。 何も知らない千丸は歌うような口調で言ってニコリと笑 「あ、千丸さまもここへ」 「おふう、どうやらわしは父や兄の為めになれたようじゃ」 「と、仰せられますると、大殿さまや若殿さまはご無事で おふうはその夜、まんじりともしなかった。同じ堂の中 やす 「家康さまの御援軍により、やがては長篠の城を守るようへ千丸をはさんで虎之助と三人で寝んだのだが、臉の裏へ になろうと、甚九郎が告げてくれたそ」 は貞昌の顔と、見たこともない亀姫の顔とが浮んでは消 「それは何よりでござりました」 え、消えてはうかんだ。 「おふう、こなたも不運なくじを引当てたが許してくれ それにまだ生き残っている虫の音が、哀れに耳について くる。あと幾ばくもない生命を、鳴き通す虫 : : : そっと首 「はい : : : 分って居りまする」 をあげてみると、細い燈芯の光の中で、千丸も虎之助もす つ ) 0
「千丸さま ! 」 「お願いでございます」 足許に坐って甚九郎は声をふるわせた。 とっぜんうしろの群衆の中から太い男の声がした。 「爺はあなた様にお詫び申しまする。あなた様ばかりは殺 「なんだ、なんだ、近よってはならぬそ」 「それがしは、奥平家から千丸さまに従って来た黒屋甚九しませぬ。この甚九郎もお供致します」 「爺 : : : それはならぬそ」 郎重吉にございます」 「これはしたり、何でならぬと仰せられます」 「それがどうしたのだ」 「無駄なことだ。わかるであろう : : : のう、生きて働いて 「御大将勝頼公のお許しを得て参りました。最後の名残り こそ : : : 死ぬは無駄じゃ」 を千丸さまと」 「千丸さま ! 」 おふうはそれを聞くと不意に涙がこばれていった。 甚九郎の声が、前より一層猛くふるえた。 「あなたさまは、ご病死でもなければ、罪あって殺される 、も。り・や・、 のでもござりません」 黒屋甚九郎は千丸の傅役だった。 幼い時からお傍にあって、恐らく親のような親愛感を抱「それゆえ、爺は生きてくれと言うのだが : 「罪なくして殺される ! 笑えと言ったのは爺が誤り、そ いているのに違いない。 それが今ごろどうしてここへ姿を現わしたのかと、おふれに腹をお立てなされませ。憤って、憤って鬼にならせら れませ。理のないところで殺される : : : この甚九郎めも、 うは腹が立って来た。 甚九郎が現われて来たことで、改めて両親を想い出すのそれゆえ憤死の供をするのでござりまする。千丸さまの魂 はおふうばかりではあるまい。千丸にしても虎之助にして魄とひとつになって、この理不尽な現世のさまを、八百よ もおなじであろう。 ろずの神々に訴えにゆくのでござりまする」 「爺 : : : 」と、こんどは千丸の声が耳に入った。 「黙れツ」 「長い間、世話をかけた。千丸は爺の教えて呉れたよう と、誰かがあわてて叱った。声たけではなくて、二三人 、笑って死ぬゆえ案するな」 が甚九郎におどりかかった様子であった。 275
うめ 今年十三になった末子の千丸は、美作にとって文字どお それは一瞬、呻くような声になったが、すぐそのあとで り掌中の珠であった。 は頑なな笑いに変った。 読み書きは人にすぐれてよく出来、武芸では弓が衆にぬ 「、ツ、ツ、ツ、そうかいや、武田方にも用心ぶかいお きんでていた。容色は兄弟中でいちだんだったし、末子の 方がおるわい。といっていっこうにおどろくには当らぬ つねで、老父に廿える駈引きがこの上なく愛らしかった。 のう貞昌、貞昌の卦にちゃんとそう出ていた」 「父上 ! 」 「えっ卦にそれが 「なんだ」 「そうだ。よし、千丸をこれへ呼べ。奥はいま病臥中ゆえ 治り次第に差出そう。千丸に黒屋甚九郎を附添わせて、わ「千丸を殺しにおやりなされまするか」 「たわけめ、なる堪忍は誰もするわい」 しより一足先に発たしてやろう」 そこへ千丸と黒屋甚九郎が、六兵衛に案内されて入って 「父上」 たまりかねて貞昌が言ったが、美作はきかなかった。 いまここで差出す人質は、すでに貞昌の妻として出して老臣の黒屋甚九郎はすでに六兵衛に何か聞かされている ちんき と見えて、その眼に沈毅な光りをやどし、ぐっと結んだロ あるおふうと共に殺しにやるのと同じであった。と言っ て、ここで逡巡しては家康への意地が立たぬ。すでに家康辺に覚悟のいろが見てとれたが、千丸はまだ何も知らない は長篠城へ総攻撃をかけているに違いないのだ。 「父上、兄上、お早ようございます」 ( 三千貫が末子の生命に変ったのか ) ぐっと熱いものをのみ込んで、 そういって父と視線が合うと、ニコリと頬へえくばを刻 「呼んで来い、黒屋甚九郎と千丸を」 んで甘えてみせた。 十 奥平六兵衛はしようぜんとして立上った。言い出したら 後へひく美作ではない。それにしても何というむごい戦国「千丸 : : : 」 の風であろうか。 さすがに美作の声は震えていたが、眼は反対にハッとす ふう 161
山霧を肩からあびた勝頼の姿は絵のように鮮かだった。 で不安に思っていたことが、いつの間にかあべこべになっ 「それがしも奥平貞能が子、ご念には及びませぬ」 ていた。 「よしつ、では改めては申聞かさぬ。父の謀叛、見せしめ ( 亀姫を一度見たい : 見たらき 0 と憎むだろうーー・そう思いながら、そんな希のための刑は重いぞ」 →なーりつけ 「釜ゆでなりと磔なりと、お心のままに」 いがいっか胸へ入れ変っていた。 「わかるであろうなおふう。われ等が、笑われては、奥平「よく申した。小童めが」 の家中すべてが笑われることになる。立派に死んで見せよ勝頼はそういうと、そのまま左手の坂道をのば 0 てい 0 、つな」 おふうはばうぜんとして、千丸のうしろからそれを見送 おふうはとっぜん声をあげて泣きだした。と、そこへ、 何時もは香の物だけ添えた膳をはこんで来る足軽の一人 0 た。 勝頼は千丸の処刑のことだけいって、虎之助や自分のこ が、勝頼の見廻りをふれて来た。 とには触れなかったのだ。 九 ( あれほどハッキリ助けてやるといったのだから、助かる 勝頼は凛々しい甲胄姿で、手に鞭をさげて竹矢来の向うのかも知れない ) そう思うと、急に千丸の顔がまぶしくなった。 に立ちどまった。 やがて朝の膳が運ばれた。 「あれが貞能の末子か」 いつもの通り、一椀の塩汁に香の物、それを千丸も虎之 従亠須にぐっと ~ 顎をしやくると、 助も、ゆっくりと噛んで食べた。 「千丸はそれがしです」 「これが名残りじゃのう」 千丸はつかっかと堂の縁に出てきて、はっきりとした声 千丸がそういうと、 で答えた。 「おふ、つどの、心の用宀思はよろしゅ、つござるか」 「よし、その方は今日処刑する。何のために処刑されるか おふうと同じ年の虎之助は蒼白んだ微笑をうかべて胸を 存じて居ろうな」 っ ) 0 2 2
: とも思わぬが、ちと甘 にした。まん更愚かな生れつき : るほど大きく猛く光っていた。 やかして育て過ぎたうらみはある。こなた、どんな時にも 「そちは誰の子じゃ」 「はい、奥平美作守貞能の子でござりまする。そして : : : 」笑われぬよう、よく叱ってやって呉れ」 「かしこまってござりまする」 と賢しげに長兄の方を見やって、 「千丸 : : : 」 「奥平九八郎貞昌の弟でござりまする」 「フーム。ではたずねるが、その父や兄は、義を知り意地「はい」 「いま聞くとおり、そちは当分甲府へ預ける。しかと修業 をもった武士と思、つか」 「山家三方衆の中に鳴りひびいた名誉の武士と心得ますをして参れ」 きびしい表情で言い渡されて、千丸はそっと両手をつい ていった。 「フーム」と美作はため息して、 すでに人質とわかったらしい。娘のように澄んだ眸が、 「少し、こやつに訓えこみすぎた。小利巧になりすぎてい じっと父の視線にからんで、はげしい鼓動が聞えそうであ る : : : では、父が訓えた切腹の仕方は忘れまいな」 っこ 0 そう言われて、さすがに千丸の頬はしまったっ : この千丸も思いまする」 「忘れては武士ではない、と : 「千丸 : : : 」とこんどは兄の貞昌だった。 「そうか。それだけ聞けば十分じゃ。父や兄の名をけがす「甲府はな、ここよりもまた山深い。寒さも暑さもきびし ことはよもあるまい。実はの甚九」 いゆえ、体をいとえよ」 美作ははじめて黒屋甚九郎に眼を移して、 し」 「こなたに一骨折って貰わねばならなくなった」 「これ、涙をおとす奴があるか。父上がいつも言われる、 「殿 ! あとは仰せられまするな。甚九郎、覚悟は決めて男は眼顔で泣くものではない ! 」 ご、りまする」 「、い得て居りまする。泣いたのではござりませぬ」 「そうか。いや、それは分っていた。 入って来る時のそち 「そうであろう。奥平の家に泣虫はいぬ筈。よいか、母上 の眼つきでわかっていた。千丸をのう、甲府へ預けること にお別れして、元気よう行って来い」 、か 162
の法ー 1 の と鬼おかとそ群甚で言他鬼はしそ , 口に黙か勝邪 心にふら指れ衆九はう人にじた とう叶れッ頼 になう、図ツが郎千とのなめ。まだなっッ 田 、ろは熱の俄が丸又眼るてでッた がて つうカ鉄声か腹さゲにぞ自 聞 、殉御おす にまラは鬼分 い殉死大許る ッ突聞ざ刀、ゲ気にのて死な将しな ときえわを露ラがな死 とのが め突払と狂るに おはじ許 をま錆ききい笑 ひれ槍出立 うわれを甚 らたのすて免だと が はれた い痛穂中たし見い と等は う郎 てみ先でら たえ つに ぬの 、がは たぜそ古等声 し た もお見 でのんの来がが うふえ あか十死の邪応 ろも字が 慣じ 度をに う知架 れのな おな上ず通よ り ふ か し、 し、 れな ら るのと 笑場 は 作 そ え砕 そな人けも うし、々去・う はっ眼 だ 。甚いては 鬼九よ、見 に郎いあえ なもよとな ろ千どへか う丸よはつ もめ灰た 虎く色 之様の明 助子暗る もでとい 意あ渦秋 識っ紋の ながひが く なそがチ れっン たもたと う色 奥平千丸以下の処刑が終るまで群衆は息をこらして震え ていた。 いちばん先に息の絶えたのは虎之助で、千丸、おふうの 順であった。 ーっと白く眼 千丸の柱の真下では黒屋甚九郎重吉が、か をむいて、のどを貫いて死んでいた。 足軽たちの手で柱が倒されると、寺から二人番僧が出て 死体に水をそそいでやったが、甲州勢をはばかって、読経 の声はくちびるの外へはもれなかった。 勝頼が再びそこへやって来たときは、すでに千丸の死体 は運び去られて、黒屋甚九郎の顔に、秋のハエが群がりた 声なき声 276
言いかけて六兵衛の馬のわきに手綱を寄せ、 「はい。千丸は元気よう行って参ります。父上も兄上も : 「よいか。これはわしにとっても見納めの景色になるやも 知れぬ。と、言って早まるなよ」 「よいよい、甚九、では頼んだぞ」 「、い得てござりまする」 貞昌の眼も、自分の眼もうるみそうになったと見てとっ 「黒瀬へついたら、わしは武田信豊を呑んでかかる。そな て、美作はかるく言った。 「では、千丸さま、爺がお供を致しまする」 たも全身を胆にせよ。どんなことがあっても顔色を変えて 甚九郎は千丸をうながして立上った。 肚を読まれるなよ」 「はい。この六兵衛もあなた様の一門、しつかり肚は決め 六兵衛は顔をあげ得ずにうなだれたまま泣いている。 寺 6 した」 「やれやれ腹が減ったぞ」 足音が聞えなくなると、美作はおどけた声で腹をたたい 「かならす、こなたにも、いろいろな言葉の罠を投げて来 るに違いない。。、、 カわが主人にかぎって徳川方へ内応する 「湯づけを掻っ込んで、黒瀬までひと鞭、馬を飛ばすとすようなことはない ! そうした構えで相手になるな」 るか。六兵衛、そちも行くのだ。腹ごしらえをしておけ 「しかと心得て居りまする」 「それからのう、或いはこの美作が、内応のことを白状し : などと言うかも知れ た、それゆえすでに斬って捨てた : ぬ。その時にも笑っていよ。よいか、わしのこの首を見る までは、決して死んだと思うなよ」 美作が作手城の二の丸を出たのは五つ ( 八時 ) ごろだっ 六兵衛はそういう美作の眼が長い眉毛の下で笑っている た。山霧の吹きはらわれたあとは、すでに秋の香りをたた のを見ると、自分もそれにならおうとしてみたが、それは えた空の高さで、そこここに薄の穂波がまっ白だった。 笑いにならなかった。 「秋じゃのう六兵衛」 一足先に鳳来寺へむけて送り出された千丸と黒屋甚九郎 「仰せのとおり」 「千丸の眼にも、この秋景色はのこったであろうが : の後姿が、またかっきりと臉にのこっている。 すすき わな 163
って寝ていった・ そらした。 「次に、奥平貞昌が内室、おふう ! 」 どうやら彼等はおふうも共に処刑されると、田 5 っている おふうはそう呼ばれた瞬間に、がくっと縁へ膝を突いて、 「私は貞昌さまの妻ではない ! 何が妻であるものかツー おふうは答える代りに、かすかに頭を垂れていった。 千丸たちを引立てに、十七、八人の武士がやって来たの貞昌さまの御内室は、徳川亀姫さまなのだ : それが畜生に生れなかった不幸を嘆くおふうの最後の叫 は、陽がのばってすっかり霧が霽れてからだった。 びであった。く / ラバラッと足軽たちがおふうに飛びつい おふうはそれを見てハッとなった。 彼等は三寸角ほどある十字架を三本小者に担がせて来たた。 のである。 彼等はそれを矢来の外に立てると、 おふうは半ば以上眼を白くし、唇をかんで相手のなすが 3 「奥平千丸、出ませい」 とどなった。千丸はおふうと虎之助に蒼白な頬をむけてままになっていた。 心の中には恐らく不満と不信がハチ切れそうに詰ってい 笑ってから、 るのに違いない。荒繩の下で呼吸のたびに乳房が大きく浮 「ご苦労」といって陽のあたっている外へ出た。 , 犹した。 その顔は、笑顔であって泣き顔以上に切なかった。 わめ 「こやっ詰らぬことを喚くかも知れぬ。ロの中へ何か押し 足軽たちが寄って来て、千丸を倒した十字架の上に寝か せ、両手、首、胴、足と、荒繩でくくりつけた。その間千込んでおけ」 指揮者らしい二十七八の武士が言うと、おふうはあわて 丸は、細く眼をひらいて、じっと青空を見ていた。 て首をふった。 「次は奥平虎之助」 「何も言いません。言うものか : ・・ : 言ったとて何うにもな 「おう勝手に致せ」 虎之助はぐっと相手を睨みつけながら、肩を張り、胸をらぬと、もう分った : そらして十字架に近づくと、自分からその上にふんそり返「どうしましよう ? 」
燃える土の巻 祝いの使者なのである。 もし、築山御前から : : : といったら、或いはいぶかしむ 者もあったであろうが、徳姫からと言われると、道中で自 分を追い越していった本多作左衛門までが、馬を停めて、 「ーー時節柄ご念の入ったことよ」 むつつりした顔つきだったが、労をねぎらって通ってい ( 万一間違いのないように ) 喜乃はすでに何十度となく胸にえがいた、お万の方との 対決の手順を、改めて考え直した。 美しい松並木と白砂の浜辺をすぎて、新町へかかると行 たそがれ 手の城にしずかな黄昏の色がにじみだしていた。 喜乃はその城にむかって伝馬丁をぬけながら、何度も息 をつめてはつまずきそうになった。 あわてて調えさせた手土産を二人の小者にかつがせて、 十八の小娘に、やはり「刺客」という荷は重すぎる。女 たてらに少しばかり腕が立つなどと言われていい気になっ 徳姫の侍女の喜乃は、岡崎を出てから三日目のくれ方に浜 松の城下へ入っていた。 ていたのが悔まれた。 新居の渡しをわたるとき、さすがに胸が高鳴ったが、べ ただ年の若いせいで、やり損じた場合の不安だけはさし てなかった。 つに怪しまれるはずはなかった。 築山御前の密命で、近く家康の子を産もうとしているお 門の堅めはどこもかしこも厳重をきわめていた。胴丸っ もんび 万の方を刺しにゆく : : が表向きはどこまでも若殿信康のけた足軽がいかめしく門扉の前に立っていて、戦場そのま 奥方、徳姫づきの侍女であり、徳姫から、お万の方へのおまの空気である。大手で一度番卒に道をたずねて、通用門 客 つつ ) 0 134
「お濃、そなたならば何とするそ」 、フことが好きなのだ」 「何が : ・・ : 何を、でございます ? 」 「そ、つでございましよ、フか」 「そうよ。去年の十月から十一月は長篠、遠江と動きまわ「浜松へ援軍を送るかどうかを訊いているのだ」 って、二月には東美濃に入って来た。そして三月には遠江濃御前は、慎重に首をかしげて、 ・ : 」と指尖の力をぬかずに腰をさすっ 「私が大将ならば : へ出て引き返し、五月また家康に仕掛けて来る。これでは 軍兵がたまるまい。一度の戦に千人ずつは失うたとしてもてゆきながら、 五千人は失う道理、半年に五千人ずつ失うたら、二万失、つ「援軍を出さずとも、浜松城が陥るとは思えませぬゆえ差 控えまする」 に幾年かかる」 「なぜだ ? わけは ? 」 「ホホホ、またお館のおたわむれ、三年でございましよう 「兵の疲れを休めさせるは、いずれの大将も心掛けねばな 力」 「・ハ力な、そなたの算盤は子供のそろばん、三万の兵が一らぬこと」 「なるほど、それでおれの心は決った ! 」 万に減すれば、宿将老臣、みな離れていって滅亡するわ。 「お役に立ちましたかご思案の」 二年じゃの、あと」 「ホホホ」 「立ったそ濃、おれはすぐに援軍の出発の用意にかかる。 と濃御前は子供をあやすように笑って、 決めた ! 」 そういうと、信長はいたずららしく濃御前を見やってニ 「では勝頼さまも私のようにそろばんは下手と見えますな あ」 ャリと笑った。 「そのことじゃ。宿将老臣どもに、父に劣らぬ勇猛さを見 せようとして、逆に見放されてゆく。このように戦好きで は兵が疲れてたまるまい」 それからまたしばらく黙っていて、 「こんどは腰 ! 」と号ロってから、 四 濃御前はいつに変らぬつむじ曲りの信長の返事を聞い て、わざと眼を丸くしてみせたが、心の中では驚いていな つ、 ) 0 329