大賀 - みる会図書館


検索対象: 徳川家康 4
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1. 徳川家康 4

そう言うとこんどは房の大炊をかえりみて、 しえ、小さくはござりませぬ。勝っためには見のがす 「この密使、湯づけを振舞うて本人の申す場所まで送って べからす、突くべき急所でござりまする」 甚左は、 いよいよ急きこんで、小さな眼をしきりに瞬かとらせ」 「はツ、ではご案内仕ろう」 せた。 二人が去ってゆくと、勝頼は腕を組んでもう一度舌打ち 「すでに築山御前は大賀さまの思いのままに動きまする。 これと計って次々に徳姫さまをなぶりまする。さすれば、 大賀彌四郎からは、この前なぜ武節まで来てくれなかっ 姫の御不満は織田のお屋形に筒抜け : : : わが愛姫がいじめ たのかと不満をのべ、長篠で決戦となれば、当然また信康 られているとわかれは 。、、かに織田のお屋形とて : ・・ : 」 も出陣するであろうから、その時には前の打合せのとお 左が唇の両わきに白い唾を乾かせて言いつのると、 り、岡崎を先に衝かれたいと書いてあった。 「控えろ ! 」 何と言っても岡崎は家康にとって穀倉であり、根の城な 5 と、苦々しげに勝頼はさえぎった。 8 のだ。ここを衝いて占領し、万が一の、織田の援軍を喰い 「そのようなことは改めて説明はいらぬことじゃ」 とめなければと、書いてあった。 し」 書いてあった限りのことでは正しかった。 「築山どのはおたっしやか」 「はい。近ごろは少しお気が弱まりました : ・ : と、家中で織田の援軍に三河侵人の機会を与えてはならない。その ためには中国、四国の兵を京へのばらせたり、本願寺の信 は見て居りまするが、これも大賀さまのご計略、大事をさ とられまいとして、そのように見せかけて居るのでござり徒を煽ったり打たねばならぬ手は幾つかある。 まする」 ( それなのに彌四郎は、嫁いじめの手が有効たなどと : : : ) そう考えて来ると、いちど勝頼の心耳にひびいた、人間 勝頼はまた舌打した。 「大賀彌四郎は、よくよく策略をめぐらす男だ。まあよ本来の声はあとかたもなく消え失せて、性来の闘魂がこれ に変った。 密書のおもむき、勝頼はしかと承知したと戻って伝え

2. 徳川家康 4

相談相手になる者を」 「心得ました」 「よいか。くれぐれもさとられぬように、それから、先刻 こなたの言いかけた、甲州へ通する由の人、その名をわら わに洩らしてくれぬか」 「はい。お蔵方の奉行をして居りまする、大賀何がしと承 、り・寺した」 あやめは自分の部屋の裏庭から、青葉の中にたくましく 「大賀 : : : 」濃夫人はわが心に刻むようにつぶやいて、 ひびいてゆく木槌の音を聞いていた。 「徳川家はそのままわが家の東のおさえ、よく心して大事家康が、四月の終りからこの岡崎城〈や 0 て来て、夜に の起らぬようにのう」 日をついで城の修理にとりかかったのである。 「よ、 し」 城というものが、この戦国で、どんな意味を持っている 「姫を大事に : : : 姫が不幸とわかっては、両家の間にひび ) 、 レカわからなかったが、毎日つづく手斧のひびきは、何か が入る。両家のひびはどれだけ大きな世の悲嘆を招くかわしらある切迫を感じさせる。 りませぬ。この道理を小侍従によく伝えてたもれ」 「もし、あやめさま」 そういうと濃夫人はそっと胸を抱くようにしてため息し と、うしろで声がした。 、」 0 : 」と答えて振返ると、縁に徳姫づきの腰元、小 徳姫と信康の不仲、はげしい良人の気性と想い合せて、侍従が、手に盆をささげて立っていた。 それが大きな悲劇の芽になりそうでたまらなく不安な濃夫「奥方さまからの下されものでござりまする」 盆の上には青笹につつまれた粽が十二、三のっていた。 「これは、ありがと、フ存じまする」 正室から側女への贈物、それを小侍従は十分に意識にお いた言葉づかいたた 女の戦い 2

3. 徳川家康 4

「はい。あまりお忙しそうに見えましたので、ついご遠慮 今夜は美しい星空であろうと計算しながら、その、夜に なるまでのかわたれ時がいちばん警戒を要する時刻に思わ申上げておりました」 「そうか。今日はゆっくりしてゆくがよい。わしも御用を れた。 減敬は門を出るとくるりと方向を変えて本丸の方へ歩き終ってようやくホッと一息したところだ。これ、あとで一 緒に食事をするゆえ、用意を申しつけて来い」 もし信康の刺客が途中で彼をねらっているとすれば、本彌四郎はそう言って傍の者を遠ざけると、 丸の方ではない。濠のふちか町屋の入口あたりへひそむで「いよいよ殿は自滅の戦に手をかけたそ」と声をおとして あろう。 笑ってみせた。 「大賀どの」 減敬はその計算から更に、もう一度、大賀彌四郎に会っ 減敬は急にきびしい眼になって、 てゆくべきだったと気がついたのである。 「拙者は本日岡崎を退散しようと思う」 彌四郎の屋敷はいまは城内にあって、減敬が、危険なか 「ほほう、それはまたどうしたわけだ」 わたれ時をすごすには最も安全な場所であった。 「信康さまに気づかれた」 あのへつらい者が、また、成上りの家老のもとへ」 「どっちを ? 色事か陰謀か」 そんな蔭ロはきかれても、これが岡崎城覆滅の最後の相 彌四郎ははじき返すように言ったあとで、ニャリと片頬 談などとは誰も気がつくはずはない。 をゆがめて笑った。 減敬はとばとばと大賀彌四郎の役宅の門をくぐった。 「おぬし、少しばかり御前のお情をありがたすぎていたか 彌四郎はいま、吉田城への兵糧積出しの手筈を終って、 らの」 わが家へもどって行水を終ったところであった。 減敬はわざと小さく舌打して、 「減敬が参ったと。恰度よい、ひと鍼やって貰おうかの」 奥から聞えよがしに彌四郎の声がして、減敬はそのまま「大事はせまった。御前のもとへご親書は届いたのじゃ」 「なに届いたと ? 」 居間へ通された。 「何も彼も御前の希望のままに聞き人れられる。おぬしも 「暫らく顔を見せなんだが元気であったか」

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それを裏切ろうとする。が、まあよい。おぬしがおれを見しかし謀叛となれば間題はべつであった。 込んでの相談といったに免じて怒るまい」 「そうであろうの、若殿はおぬしが言ったでは信じられま 「そう願、 したい ! 」と、八蔵はすがる眼ざしで頭を下げ 「近藤どの、若殿はきっと大賀どのに、 このことを生ロげら 「この山田八蔵が、大賀どのに近づいたは、あれこれ、考れるに違いない。八蔵のうつけ者が、こうこう申したゆ え、叱ってやったと言われるに違いない。そうなると、こ えあってのことでござる」 の八蔵の忠義は通らず、逆に大賀どのに殺される仕儀とな 「考えが無うて近づく奴があるものかツ」 「されば : : : 近づいてみて、こんどの陰謀を相談された : る。ご相談とはこの事、なにか思案がござるまいか」 : それがしは仰天した。そこで早速若殿にこれを申上げた 近藤壱岐は、愚かしい八蔵の髯面に廃を吐きかけてやり が、お取り上げに相成らん」 たいような嫌悪をおばえた。 「なに、若殿に申上げたと : この男の相談はこれもまた恐怖と打算。 「さよう。すぐさっきの事でござる。ところが若殿は、大 信康が彌四郎の謀叛を信じなければ、こんどは彌四郎に 賀彌四郎にその方はからかわれたのだ。若し事実謀叛を企裏切者として殺される : : : しかし、それを正直に打明けて てるほどなら、その方如きうつけ者に何で大事を洩すもの震えているところに却って事件の真実性はいよいよ強くち りばめられていた。 かと」 「そうか。それは困ったの」 近藤壱岐は刺すような眼でじっと八蔵を見つめながら、 嫌悪をおさえて壱岐はむつつり腕を組んだが、やがてポ ( これは嘘ではない ! ) ンと八蔵の肩をたたいた。 と直感した。 彼もまた彌四郎と築山御前の関係も、あやめと徳姫の奥「よしツ、おれが引受けた。この壱岐が必ずおぬしの忠義 の確執も耳にしていた。 を立てさせてやる。それまで、おぬしは知らぬ顔をして彌 しかし彼の豪直な性格は、そうした事にかかわることを四郎に近づいているのだ。よいか、彌四郎にさとられる 許さなかった。それでいつもそ知らぬ顔で過して来たが、 と、それこそおぬしの首はないぞ。裏切者に、汚名を着せ 361

5. 徳川家康 4

りまするが 「まだ何か整わぬ所があるか。大賀彌四郎がいることゆ 冢康は手綱をしぼって馬を停めた。 え、小荷駄のことは任してよいと安心していたが」 時が時たけに、狼藉者では : : と思い、一瞬ハッとした 「お屋形さま ! その大賀彌四郎のことにつき、実は、申 上げたい儀がござりまする」 「お屋形さま ! 近藤壱岐にござりまする」 「なに、彌四郎がことで : ・・ : 」 家康は馬上で豊かに頬をほころばせて、 感慨をこめてあげた相手の顔を見ると、ホッとした。 「壱岐か、だしぬけにびつくりしたぞ」 「彌四郎は、そちたちと違っての、戦場で生命を的にはせ 「お召しにより岡崎より浜松へ赴く途中、お屋形さまが鷹ぬ男だ。といって、敵に立向うも背後を固むるも、苦心は 狩りに見えて居られることを、勢子の者にききましたゆひとつじゃぞ」 え、ここでお待ち申上げました。轡を取らして頂きとう存言いかけてふと考え直したように、 じまする」 「話があったら、城へ戻ってから聞くとしよう」 家康のうしろで本多作左衛門が、 「はツ」と、壱岐はあとの言葉をのんで、 ( それでもよい ) 「壱岐らしいわ。殿、取らしておあげなされませ」 と、はやり切っている自分自身に言いきかせた。 「そうか。では、供に加わって来るがよい」 大殿も、やはり彌四郎にまるめ込まれている。 壱岐はその声の終らぬうちに、びたりと馬に背をつけ て、轡を攫んで歩きだしていた。 ( それだけに、この話は相手に納得させにくいが : ( ここで出会うとは何たる好機 ! ) しかし、壱岐は、もう彌四郎の謀叛を疑ったり沈黙した そう思いながら、しかし、事が事だけに、彌四郎謀叛のりは出来なかった。 ことをどこから話しだしてよいかわからなかった。 山田八蔵に大事を打明けられてから、その真偽をたたす ために心を砕いて、 「壱岐、岡崎でも、すでに準備は出来ているであろうの」 「よツ。すべて手ぬかりなく : ・ : ・ と、申上げたいのでござ 「ーよし、ではその方の宅へ同志を招いて話してみよ」 365

6. 徳川家康 4

三方ヶ原ではさんざん信玄に翻弄された家康が、半歳あ 敵の城兵がしきりに攻撃にそなえ、城内の守勢をととの まりでついに主導権をとりもどしていったのである。 えているときに、彼は、ふたたび大井川を渡ってさっさと そうした元亀三年 ( 天正元年 ) の夏 吉田城に帰っていた。 吉田城にもどると長篠附近に放ってあった伊賀衆や里人岡崎三郎信康は父家康の命によって信州から岡崎へのも たちを招いて敵情をこまかに訊くと、すぐに自身で、長篠う一つの攻入り口を、足助、武節と北進してゆくために城 を出た。 城外へ馬をすすめた。 この初陣の補給を受持つ大賀彌四郎は、信康を岩津まで 信玄の病気か卒去かで、少なからぬ打撃をうけている武 田勢を奔命に疲れさせ、家康の健在をかた印象させるた見送った。 勇み立った信康は、殆んど彌四郎など眼中にない様子 めであった。 で、彌四郎が岩津の仮陣へ挨拶にゆくと、 家康駿府へ現わる。 「彌四郎、無理をするな」と声高で言った。 家康長篠に現わる。 「まず足助城を陥すのだが、足助城には甲斐の下条伊豆が 家康、岡崎に現わる : ・ 家康がわが子信康に出陣を命じたのは、そうしたたんげ立籠っている。何の伊豆ごとき、信濃と甲斐からはこびこ いすべからざる動きをもって、山家三方衆を圧服しようとんだ兵糧をうばい取って、その方には苦労はかけぬそ」 : これで甲州勢も思い知りましよ、フ。 「お男ましい限り : する一連の策戦のためであった。 信康を城から出す : : : ということは家康が岡崎に後詰め駿河の出口は封ぜられ、吉田の前面の二俣、長篠は危機に ひんし、この足助、武節の道をふさがれては、甲州勢は手 しているものと考えるのが常識だった。 、家康はその裏をかいて、長篠城外に姿をあらわすも足も出ませぬ。彌四郎は岡崎にあって、ひたすら勝報を どうと と、直ちに、社山、河台島、渡島と、二俣城をとりまく三お待ちいたしまする」 オオカともすれば笑いが唇辺に出そ 言葉だけは鄭重どっこ。、、 カ所に向い城を築きだした。 うで彌四郎は困った。 したがって敵の眼は、駿府、吉田、岡崎、長篠、浜松、 二俣と、めまぐるしく注がれなければならなくなった。 108

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っていた武田勢が引きあげたとすればのう」 ( あの坊さまは怖ろしい人だ : : : ) がくがく震える膝頭を持てあまし、彼のあとから出て来 山田八蔵重秀はもう何も言わなかった。小さく肩をおと し、眼を伏せて伊賀衆の一人に、自分が何者であるかと見た、随風たちや家人の傍をわざと離れた。 ぬかれないよう心をくばるだけでせいぜいだった。 もはや随風の言葉は、八蔵にとって批判の余地を残さぬ おごそかなものに変っていた。 ( いったい自分は何のための使者だったのだ ) そう思うと、意気地なく涙が出そうで、 八蔵が城門を追いはらわれたのは、すでに城兵が城を捨 「ではお先に」 てると決定して、薄暮を待っていた時らしい と、炉ばたを離れると、みんなに顔をそむけてうすよご事の成らぬが、却って仏の慈悲かも知れぬと随風は言っ むしろ れた蓆の上で横になった。 たが、もし、無事に城門を通され、密書を手渡していた ら、いったい自分はどうなっていたであろうか ? と思う と全身が総毛立った。 長篠城をおとした家康から、信康に城を焼いて早々に引 武節の城に火の手があがったのは、八蔵が横になって小 きあげよという命令があったとい、つのも、もはや疑、フこと 半刻ほどしてからであった。 は出来ない。 急にけたたましく野大が吠えだしたと思うと、五六軒の 「 : ・・ : 早くて今夜 : ・・ : 」と、城の焼ける時までびたりと言 百姓家から人々のざわめきが感じられた。 いあてた随風なのだ。 「火事だで、火事だで、お城が火事だで」 いったいこのあとはどうなるので : : : ? 」 そんな声を耳にして、八蔵重秀はわれを忘れて外へとび「大賀どの 八蔵はロの中でつぶやいて、あわててまた震える足をふ 出していた。 みしめた。 雨脚はいくぶん細っていたが、視野はまるきり利かなか っ一 ) 0 大賀彌四郎は、必す武田勢が勝っといった。 雨はそのまま霧になって、北の空が天心までまっ赤にな勝頼が旗本を率いて来ている筈とも言ったし、減敬は必 ってただれている。 す武節の峨にいるとも言っていた。 180

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りまする。何とぞお聞きとどけのほど」 、かたわらの親吉を見やって、 信康はけげんそうに 「ど、つしよ、つ」 「八」 と小声でたずねた。 「若殿だけに申上げたいことがあるのか」 「そのことならば二度申すと許さんぞ。うぬらは何かと言 と、親吉が訊いた。 ねた えば彌四郎が出世を嫉んで不埓な奴だ ! 」 「恐れながら若殿だけに申上げとう存じまするが : : : 」 とんでもござりませぬ若殿、これは確たる証拠の 「よい、聞いてやろう、居間へ来い」 あることにござりまする。いや、それがしも一味と見せか 「ありがたき仕合せ : : : 」 、、目こ預りましたことなれば : 居間に入ると信康は内ふところの汗を拭きながら、八蔵けて、細力し本談レ 「黙れ ! 」信康は一喝した。 のいかめしい顔に笑いをこらえて、 「その方は震えているの」 「まこと彌四郎が謀叛を企てたら、その方などに相談する 「はい。一大事を言上に参りましたので」 と思うか、たわけ者。あまりその方が、うつけゆえ、から : よいよいさ、聞こ 「一大事は震えるものか。ハハ ( かわれたのだとは思わぬか。退れッ ! 」 うそその一大事を」 そう言うと信康は、いちどしやがんだ火桶のそばから立 上って、さっさと小納戸へ着換えに入って行ってしまっ 火桶を引きよせてその向うへあごをしやくった。 「遠慮はいらぬ。言ってみよ」 「は、ツ、実は、この城内に敵に内通する者がござります 八蔵はしばらく呆然としていた。 彌四郎は絶対に事は成就すると言いきっていたが、よく もこう信用させたものと、今更のように感、いした。 信康はそれを聞くと急に険しい顔になって、 これ以上、ここで何か言いはって、逆に彌四郎でも呼び 「その事か」と、わきを向いた。 、いたと申せ。それは大賀彌四郎と、築山にやられては一大事たった。 「違うていたら る」 御前にかかわりあることであろう」 若殿にはもうご存知でいらせられまする 力」 こなんど 358

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武田領に逃げこむことで一身の安全だけは期されよう。 あたりは雨のままだんだん暗くなっていった。 しかし岡崎に残して来た妻子の身の上はどうなろうか ? 五 弁ロでは八蔵などと比較にならぬ大賀彌四郎だった。彌 四郎は或いは八蔵を謀叛人と言いくるめ、八蔵の妻子を処 「それはそうと、こなた、今夜はどこに泊られるの ? 」 急にむつつりと黙りこんでしまった八蔵重秀に、随風は刑して事を済ますのではあるまいか : そこまで考えると八蔵は思わず胴ぶるいが出そうになっ また思い出したよ、つに話しかけこ。 「愚僧の眼に狂いがなければ、こなたはいま、大きな運のて歯を喰いしばった。 随風はそうした八蔵の迷いを読みきって、又例の当りさ わかれ路に立っている。それについて愚僧の意見も述べた わりのない予言をはじめた。いや、それは予言ではなく いが、こう日暮れになってはそれもならぬ。そろそろお別 て、握飯をせしめたこの愚直そうな男に、今夜の宿を探さ 、れしよ、フかの」 その癖べつに立上ろうとはせず、随風は人を喰った表情せる気かもしれなかった。 「では、くれぐれも大切にの。いま、こなたは、一歩を踏 で、思い沈んだ八蔵を見やってゆく。 みあやまると生涯浮ぶ瀬のない淵へおつる。つねに人生 八蔵の濃い鎌髭がビグビグとふるえだした。 は、本日只今が一大事と固く心にきざむがよいそ。ではだ 徳川方が勝っと簡単に言ってのけた随風の一言が、風采 男れする」 いぶ暗くなったでおリ とは凡そちがった、小心な彼の心をはげしく揺ぶり出した のだ。 随風が立って二、三歩あるくと、あんのごとく八蔵重秀 ( 今日の武節の城に入れなかったのは、随風のいうとおは、すがるように声をかけた。 「坊さま、待ってくれ」 り、神仏の加護であったかも知れぬ ) そう思うあとから、自分をこの大切な密使に立てた大賀「はて、まだ何か用があるかの」 「こん夜の雨露をしのぐ宿は拙者がみつける。もう少々坊 彌四郎の、自信にみちた面ざしが思い出された。 さまにたずねたいことがあるのだ」 いったいここで密書を届けたのち、戦は武田の負けとな 「そうか。それならば、こなた任せ。縁あって出おうたの ったら、自分はどうすればよいというのか。 1 / 6

10. 徳川家康 4

かしいことばかり申すので、腹が痛くなってしまったの 信康は豪央に笑った。 「色気狂いの倅とは、若君のことか大賀どの」 「留守を頼むそ。みやげは下条伊豆が首をさげて戻ってく 山田八蔵は町奉行の配下だったが、三河奥郡二十余郷の るからの」 代官にあげられている大賀彌四郎との連絡のために、絶え 「かしこまりました。足助城がおちたとききましたら、こず彌四郎の身辺にあった。 の彌四郎めも念のため小荷駄を引きつれ、また陣中でお目 「そう言ったが気に人らぬかな八蔵」 冫かかりまする」 ノ蔵重秀は、、、 しカつい顔の眉を寄せて、そっと森の中を 「おう、戻ったらな、母上にもお案じなきよう告げてく 見回した。 れ。信康はすでに信濃路の小城など、のんで進んでいった 色気狂いの倅ー・ーーそう評された信康はすでに進撃の用意 とな」 にかかって幔幕を取りはらわせている。 「こまかくご報告申上げまする」 「幸いあたりに人影はないが、大賀どの、壁に耳ありとも 大賀彌四郎は、信康の前をしりぞくとしばらく、かたわ申しまするそ」 らの森の中に立って笑いの納まるのを待った。 : 」と彌四郎は笑った。 頭上では、ここでも灼けつくように汕蝉が鳴いている。 小心な奴と心で想い、これは生涯一国一城の主になれる その蠅の声もおかしかったし、森の中におき忘れられたよ男ではないと思った。 うにある小さな石の祠もおかしかった。 「八蔵、あいにくとここは見透しの利く森の中での、耳を 彼はそのほこらの上に腰かけてまたプーツとふきだし持った壁もないわい」 「じゃと言って、主君の若君をそのような」 「何を笑っていなさる、大賀どの」 「若君をわるく申したのではない。その母を色気狂いと言 いかつい顔で近寄ってきたのは山田八蔵重秀だった。 ったまでだ」 「八蔵、おれを責めるな。色気狂いの倅めが、あまりにお「そのようなことは慎しんだがよいと拙者は思うが」 109