うごいたような気がして、家康はまたおかしくなった。 呼べばわしの、い労はふえるばかりだ」 「そうか、あのふびんな最期をとげたおふうの妹がの : お愛はちらりと家康をうかがって、その顔に微笑の浮い そうか、会おう、すぐにこれへ連れて来い。おふうは仲々 ているのを見ると、自分でもかすかに笑った。 の容色よしだったと言うが、妹もさぞ美しかろう。すぐに 「私の身勝手でございました。お詫び致しまする」 「ほほう、そちの身勝手か どのような身勝手だったの呼べ」 お愛は家康の揶揄に気づいたのか気づかぬのか、しとや かに一礼して出ていった。 「お万の方を呼び戻さぬは私と、家中の者に思われたくは : そうした、いがどこかにありました。お館さまのお 四 言葉から、はじめてその身勝手さに」 家康は、奥でこうしてお愛とくつろいでいるひと時を、 家康は声を立てて笑った。 「そうか、今はじめて気づいたか。うまく言いのがれた近ごろしみじみ楽しいと思うようになっていた。 わ。よいよい、わしも身勝手、こなたも身勝手、身勝手同家康が、何を望み、何を希って生きているかを、お愛が 志ゆえ、フまく馬が合う、のであろう。、、 躰で感じとっているからであろう。 むろん家康の大望がそのまま果されるものかどうかは別 お愛はそういう家康に慎しんだ羞らいをみせて赧くなっ ていた。 問題であった。あの用心深い武田信玄でさえ、上洛の途中 で斃れるまでわが運命は分らなかったのだ。 食事がすんだ。 お愛がまたしみぶかく、おふうの妹を案内してやって お愛はふたたび音を立てぬ静かさで膳を下げさせると、 「お申付けの客が、滝山から到着致して居りまするが」 「ほほ、つ、そちが妹か」 「なに滝山の城から」 「はい、奥平の家臣、夏目五郎左衛門どのの娘御にござり家康は眼を細めて顔中を笑いにした。 まだ卞三歳のおふうの妹は、日蔭にのびた山桔梗のよう まする」 にかばそかった。 そういった時、ちらりとお愛の表情に、嫉妬めいた色が 294
かされているのに、その信康にあやしい側女が出来た上、 武田の手までが及んでいるという : そう考えて濃夫人は信長が表広間の酒宴に出てゆくと、ふたたび猪 奥のことでは、決して良人を類わすまい 来ていながら、時代の波は、濃夫人の小さな意志をいつも子兵助を呼んで事情をたずねた。 きびしく乗越えて打って来る。 「兵助どの、こなたはもっと詳しく知っていよう。信康さ まに、側女をすすめたは誰であろうの」 今いちばん気がかりなのは小谷の城にある市姫のことだ 万一両家の決戦となったら、市姫と三人の幼い姫「はい、築山御前の由にござりまする」 はどうなろうか。 「わざわざ御前がの : : : 」 「はい。拙者のもとへの知らせでは、御前は徳姫さまをひ 戦を避ける力は女にはない。 どくお憎しみの由にござりまする」 ( 何とぞして四人の生命だけは ) そしてその事を、岐阜の屋敷に住んでいる、秀吉の妻女「して、信康さまは、どうであろうの。姫にむごい仕打な を通じて虎御前山の砦まで言い送った。秀吉の妻女はかつど : 「それが : : : 」 てお八重の愛称でよばれていた浅野氏、寧々夫人である。 と兵助はロごもって、 寧々がそれを伝えると、秀吉からは助ける手だてはあろ うゆえ、もし助けたら、市姫を自分にくれまいか : : : そん「なにぶんお若く、だんだん周囲のあらぬ噂さなど聞かさ れて」 事を仄かに匂わした手紙が直接やってきた。 : とい、つ一」とか ? ・」 濃夫人は苦笑しながら、しかしどこかでホッとした。秀「うとんじられだした : : はい。以前ほどに睦じゅうは」 吉には家中で今楠木とあだ名されている竹中半兵衛がつい 「そうか。わかりました。が、これはお館のお耳に入れぬ ている。二人が助ける気ならば、救い得ないものでもある よう。はげしい事は仰せられてもお心ではのう」 「十 6 、 0 。しよく存じて居りまする」 ところが岡崎の徳姫には、そうした頼りになる者がなか った。築山御前と信康の間で、小さな心を痛めていると聞「それからこなたの手で、誰そ一人、ご城下へ、小侍従の 6
: とも思わぬが、ちと甘 にした。まん更愚かな生れつき : るほど大きく猛く光っていた。 やかして育て過ぎたうらみはある。こなた、どんな時にも 「そちは誰の子じゃ」 「はい、奥平美作守貞能の子でござりまする。そして : : : 」笑われぬよう、よく叱ってやって呉れ」 「かしこまってござりまする」 と賢しげに長兄の方を見やって、 「千丸 : : : 」 「奥平九八郎貞昌の弟でござりまする」 「フーム。ではたずねるが、その父や兄は、義を知り意地「はい」 「いま聞くとおり、そちは当分甲府へ預ける。しかと修業 をもった武士と思、つか」 「山家三方衆の中に鳴りひびいた名誉の武士と心得ますをして参れ」 きびしい表情で言い渡されて、千丸はそっと両手をつい ていった。 「フーム」と美作はため息して、 すでに人質とわかったらしい。娘のように澄んだ眸が、 「少し、こやつに訓えこみすぎた。小利巧になりすぎてい じっと父の視線にからんで、はげしい鼓動が聞えそうであ る : : : では、父が訓えた切腹の仕方は忘れまいな」 っこ 0 そう言われて、さすがに千丸の頬はしまったっ : この千丸も思いまする」 「忘れては武士ではない、と : 「千丸 : : : 」とこんどは兄の貞昌だった。 「そうか。それだけ聞けば十分じゃ。父や兄の名をけがす「甲府はな、ここよりもまた山深い。寒さも暑さもきびし ことはよもあるまい。実はの甚九」 いゆえ、体をいとえよ」 美作ははじめて黒屋甚九郎に眼を移して、 し」 「こなたに一骨折って貰わねばならなくなった」 「これ、涙をおとす奴があるか。父上がいつも言われる、 「殿 ! あとは仰せられまするな。甚九郎、覚悟は決めて男は眼顔で泣くものではない ! 」 ご、りまする」 「、い得て居りまする。泣いたのではござりませぬ」 「そうか。いや、それは分っていた。 入って来る時のそち 「そうであろう。奥平の家に泣虫はいぬ筈。よいか、母上 の眼つきでわかっていた。千丸をのう、甲府へ預けること にお別れして、元気よう行って来い」 、か 162
ていった。 は眼をかがやかせてうなずきつづけた。 信康の姉までを贈ってわが地盤を固めようとしている家親の慾目かも知れない。が、 決して凡庸な出来とは思え なかった。 康。その家康の足元で、怪しい火がくすぶりつづけてい る。 勇ましさでは却って父にまさっているかも知れぬ。 それを黙って見ているのは耐えられない恐ろしさであっ ( 鍛え甲斐のありそうな子ぞ ) ひそかに思いながら、 「姫さま。しばらくお休みなされては」 「今年は三郎に初陣さしようかの」 「いや、も、フしばらくこ、つしていよ、つ。ほらあのグイを打 そういうと、信康は顔中を笑いにして答えた ち込むっちの音、あれがひびくたびにややが動く。ややの 「吉田の城へやって下されお父上 ! 」 お城が出来ると、胎の中で気負っているのかも知れぬ」 家康は高らかに笑った。 開け放った縁から流れ込む風が産毛のように柔かかっ 「吉田の城でもし敗れたら何とする。岡崎が裸になってゆ くではないか」 「いいや、岡崎にはお父上がござればよい。信康は、お父 上に笑われるような戦いはいたしませぬ」 「三郎 : ・ : はやるものではない。そちの前冫 リこよ長い春秋が あるであろう」 「と、仰せられまするが、十五歳の時は、信康生涯に二度 とは、こギ、りませぬ」 家康は本丸南やぐらの上に立って風呂谷から籠崎、船小 家康はハッとしたようにわが子を見直した。 屋と指さしながら信康に、戦略の説明をつづけていた。 、初陣は守備ではならぬ、攻めて見るの 万一敵が南から攻めよせて、菅生川にかかった橋を扼し だ。吉田、岡崎の二つの城を背にして、戦法自慢の甲州勢 た場合 : : : の仮想のもとにあれこれと説いてゆくと、信康とどれだけの戦が出来るかやらせて見よう。さ、やぐらを っ ) 0 「」 0 暗雲動く 7
言いかけて六兵衛の馬のわきに手綱を寄せ、 「はい。千丸は元気よう行って参ります。父上も兄上も : 「よいか。これはわしにとっても見納めの景色になるやも 知れぬ。と、言って早まるなよ」 「よいよい、甚九、では頼んだぞ」 「、い得てござりまする」 貞昌の眼も、自分の眼もうるみそうになったと見てとっ 「黒瀬へついたら、わしは武田信豊を呑んでかかる。そな て、美作はかるく言った。 「では、千丸さま、爺がお供を致しまする」 たも全身を胆にせよ。どんなことがあっても顔色を変えて 甚九郎は千丸をうながして立上った。 肚を読まれるなよ」 「はい。この六兵衛もあなた様の一門、しつかり肚は決め 六兵衛は顔をあげ得ずにうなだれたまま泣いている。 寺 6 した」 「やれやれ腹が減ったぞ」 足音が聞えなくなると、美作はおどけた声で腹をたたい 「かならす、こなたにも、いろいろな言葉の罠を投げて来 るに違いない。。、、 カわが主人にかぎって徳川方へ内応する 「湯づけを掻っ込んで、黒瀬までひと鞭、馬を飛ばすとすようなことはない ! そうした構えで相手になるな」 るか。六兵衛、そちも行くのだ。腹ごしらえをしておけ 「しかと心得て居りまする」 「それからのう、或いはこの美作が、内応のことを白状し : などと言うかも知れ た、それゆえすでに斬って捨てた : ぬ。その時にも笑っていよ。よいか、わしのこの首を見る までは、決して死んだと思うなよ」 美作が作手城の二の丸を出たのは五つ ( 八時 ) ごろだっ 六兵衛はそういう美作の眼が長い眉毛の下で笑っている た。山霧の吹きはらわれたあとは、すでに秋の香りをたた のを見ると、自分もそれにならおうとしてみたが、それは えた空の高さで、そこここに薄の穂波がまっ白だった。 笑いにならなかった。 「秋じゃのう六兵衛」 一足先に鳳来寺へむけて送り出された千丸と黒屋甚九郎 「仰せのとおり」 「千丸の眼にも、この秋景色はのこったであろうが : の後姿が、またかっきりと臉にのこっている。 すすき わな 163
し、足を投出して雨やどりしている雲水が声の主だった。 「覚えていろ ! 」 雨はだんだん冷くなって背へとおり、山から谷へは日暮「なあンだ。坊さまか。びつくりしたそ」 あわてて握飯をのみ込んで、 れの霧がわき出した。 「もう何刻であろうかの坊さま」 森の中へかけ込んで、無意識に乾いた杉の木蔭をさがし 「かれこれ、七ッ半 ( 五時 ) になろう。それよりこなた ながら、山田八蔵重秀はウワーンと大きく声をあげて泣き は、百姓ではないようじゃな」 「そ : ・・ : それがどうして分る。何に見える ? 」 「さよう、愚僧は人相、骨相、手相などをよく見る上に易 山田八蔵は、泣くだけ泣くと急にはげしい空腹を覚えてを学んだ。したが 0 て天地間のことは凡そわかるが、こな たは武士、それも大望を抱いている身 : : : と、見たがいか つ」 0 力」 そう言えば今朝、百姓家で炊かせてつくった握飯がまだ 「ふーん、これはたまげた ! 」 手つかずに腰にある。八蔵は杉の根元に腰をおろすといそ あじろがさ 八蔵は改めてその雲水の顔を見直した。網代笠に破れわ いでその包みをひらいた。 黒い八分づきの両側に味咐をぬ 0 た焼飯だったが、それらじ、墨そめの袖からのぞいた腕がたくましく、一文字に 結んだロはひどく大きかった。 を二つに割るとググーツと腹の虫が鳴って来た。 年齢は二十七八であろうか、それとも三十五六になって ( 飯を喰ってからゆけばよかった ) ト、つ、か 0 空腹の気のあせりが、つい事を急がせて失敗に終らせた 「すると坊さまは、拙者の運不運が分ると言われるのか」 ような気がして、パクリとそれに喰いついた時だった。 「運不運ばかりではない。愚僧がここにこうして居れば、 「これこれ百姓衆」 うしろから呼びかけられて八蔵はキ , ロキ ' ロとあたり前世から所縁のある者、この森の中に現われ、食を献じよ 、フほどにここを動くなとお告げがあった」 を見廻した。 「お告げ : : : 誰が告げたのじゃ」 やみそうにもない雨脚の向う : : : 幹の太い椎の木を背に ユ 73
りまする。何とぞお聞きとどけのほど」 、かたわらの親吉を見やって、 信康はけげんそうに 「ど、つしよ、つ」 「八」 と小声でたずねた。 「若殿だけに申上げたいことがあるのか」 「そのことならば二度申すと許さんぞ。うぬらは何かと言 と、親吉が訊いた。 ねた えば彌四郎が出世を嫉んで不埓な奴だ ! 」 「恐れながら若殿だけに申上げとう存じまするが : : : 」 とんでもござりませぬ若殿、これは確たる証拠の 「よい、聞いてやろう、居間へ来い」 あることにござりまする。いや、それがしも一味と見せか 「ありがたき仕合せ : : : 」 、、目こ預りましたことなれば : 居間に入ると信康は内ふところの汗を拭きながら、八蔵けて、細力し本談レ 「黙れ ! 」信康は一喝した。 のいかめしい顔に笑いをこらえて、 「その方は震えているの」 「まこと彌四郎が謀叛を企てたら、その方などに相談する 「はい。一大事を言上に参りましたので」 と思うか、たわけ者。あまりその方が、うつけゆえ、から : よいよいさ、聞こ 「一大事は震えるものか。ハハ ( かわれたのだとは思わぬか。退れッ ! 」 うそその一大事を」 そう言うと信康は、いちどしやがんだ火桶のそばから立 上って、さっさと小納戸へ着換えに入って行ってしまっ 火桶を引きよせてその向うへあごをしやくった。 「遠慮はいらぬ。言ってみよ」 「は、ツ、実は、この城内に敵に内通する者がござります 八蔵はしばらく呆然としていた。 彌四郎は絶対に事は成就すると言いきっていたが、よく もこう信用させたものと、今更のように感、いした。 信康はそれを聞くと急に険しい顔になって、 これ以上、ここで何か言いはって、逆に彌四郎でも呼び 「その事か」と、わきを向いた。 、いたと申せ。それは大賀彌四郎と、築山にやられては一大事たった。 「違うていたら る」 御前にかかわりあることであろう」 若殿にはもうご存知でいらせられまする 力」 こなんど 358
が蔭ロしてござりました」 「なるほど、それまでは三郎への諫言も遠慮したであろう な : : : そうか。では第四に、いよいよ彌四郎が申したとい う言葉じゃが、彌四郎は武田勢が勝っと、自信をもって言 ったのか」 ・ : 、ツキリとそう言いまし「確にそう申したのだの七郎右」 「狂った自信でござりまするカノ 家康の目が、不意に鋭く光りたしたので、忠世は思わず 「それから、このわしが彌四郎に劣ると、これは狂乱の体ドキリとした。 領民に意志を問うたら、殺せという者は一人もあるまい でロ走ったのか、それとも冷静な態度で申したのか」 : そう言った言葉が、それほど強く家康にひびくのだろ 「殿 ! 」と、忠世は歯痒ゅそうに、 「もともとあやつは狂って居りました。慢心が高じたもの 忠世はそれよりも、家康をさして、彌四郎に劣ると言っ 3 ・と存じます。それゆえ、いかなる時も、憎いほど落着きは た事の方に激怒を予想していたのである。 らって居りました」 家康はふっとそれに微笑したが、その笑いはわずかに歪「はい、それは確に申しました」 「そうか、憎い奴だ彌四郎は」 んだ。 「殿 ! それからこれは彌四郎が妻女のことにござります 「で、彌四郎は、わしの思うままに処刑せよと、豪語した るが、妻女はそれがしが召捕りに向い、引立てて行くまで のだな」 「はい。ただそれだけではなくて、これが殿お一人の裁き何も知らずに居りましたが」 でなく、下士や百姓、その他の領民をもまじえて協議させ 「幼い者も多いことゆえ、何とか殿にご憐愍を願おうと存 たら、恐らくこの彌四郎を殺せという者は一人もあるまい じ、嘆願の書面を認めよ、取次いでやろうと申しました とをえ一一 = ロいました」 が、ついに書きませなんだ : 「なにツ、領民に意志を間うたら、殺せという者は一人も あるまいと ? 」 今迄おだやかだった家康の表情が、この一語で、急に険 わしいものに変った。
しかとそなたに命じまするぞ。三郎どのが戻ら ているのじゃぞえ。この上わが胎を痛めた三郎どのにまで「よいか。 憎まれたら、それこそ生きるも詮ない身。わらわの身を哀れたら、姫のお側に行くほどならば、このあやめに暇を下 れと思うなら : : : のう、あやめ、三郎どのだけしつかりそされと言いなされ。いや、ただ言うだけではならぬ。事実 暇を取ってわらわのもとへ戻るがよい。そなたが、それだ なたの腕の中にしばってたもれ」 けの力もない女子ならば、三郎どののお側においても無駄 そういうと、こんどは御前がさめざめと泣きだした。 なことじゃ」 あやめはぐさりと心臓を刺された気がして答えもロへ出 よ、つこ 0 あやめは狂ったように泣きつづける築山御前に慰めてい 「よいか。しかと申渡しましたそ」 いのか詫びていいのかわからなかった。 いかに打ちひしがれた少女とは言え、信康をひとり占め築山御前はそういうと、裾を鳴らして急ぎ足に去ってゆ したい女の感情はどこかにあった。が、正室の徳姫は、織 あやめはしばらくひれ伏したままでいた。信康を姫のそ 田信長という甲府の御館さまにも匹敵する御大将の一の姫 : そう聞かされるだけで、女の感情よりも怖えの方が先ばへやるなという意味よりも、暇をとって戻って来い そう言われた言葉の方が、悲しく強く胸をうつ。 立った。 ( まだ安心して住める巣は、あやめの上に作られてはいな 信康の機嫌はそこねても、あとで取返しがっきそうに思 かった : : : ) えたが、徳姫の感情を損ねたらそれで自分の憩いの巣は粉 そう思うあとから、はじめて知った信康への思慕が、せ 粉になりそうな予感がする。 その怖えがついあやめを控え目にしてゆくのだが、築山せぐるように感傷を衝いて来る。 殿はそれが堪らなく歯痒ゆいらしかった。しばらく身をも ( 不幸な子 : : : ) ( 可哀そうな巣のない小鳥 : : : ) んで泣いたあとで、築山御前はすーっと立った。 その小島は、やがて居間の窓下にしょんばりと坐り込ん 「あやめ」 だ。涙ぐんだまま、あやめといういじらしい娘の、淋しく
、き、ん 二年前に、武田信玄の侵入にあって、やむなく降ってはんで何とする。どうじゃ、お館の誓書を受取って参ったか」 ーしこれをご覧下されませ」 いるものの、この山育ちの一徹者には、それがわが生涯の 五郎左が片膝ついて誓書をとり出すと、はじめて美作は 瑕瑾に想えてならなかった。 短躯だったが肩幅も胸の隆起も壮者をしのぐ逞しさで、槍をおいて肌を入れた。 「ほほう、新領三千貫を姫につけると書いてある。では上 長い眉毛に一二本霜がまじりだしている。 それがその下の眼をいっそう光るものに見せ、見ように機嫌であられたな」 「はい。美作の義に応えねばならぬと申されました」 よっては一癖も二癖もありげな面魂に見えた。 「そうか、義と言われたか」 「たツ」と時々奇声をはっしては虚空を突き、それをまた そういうとはじめてちらりと笑いらしいものを見せ、 眼にもとまらぬ早さで手許へひいた。 「これは義というものではなくて、意地というものじゃそ 「申上げます」 きた 五郎左」 「なんだ。湯づけならば後にすると言え、まだ朝の鍛えが 「意地と仰せられますると ? 」 済まぬ」 「夏目五郎左衛門さま、お目通りを願って居られまする「人は居まいの、声を小さくせよ。よいか。わしは生涯に やむなく一度節を屈して頭を下げた。武田方にの。それが 力」 わかるであろう。それゆえ、子孫にそのつぐ ロ粃旧しい 「なに、五郎左が、そ、つか。ここへ来いと言え」 ないをしておかねばならぬ。よしよし、これでよい。行月 そう言ったが、べつに構えは崩そうともしなかった。 やがて五郎左は廊下づたいにやって来て、槍をふるって三河守家康が一の姫を迎えたとあれば、わが家はただの家 臣ではない。徳川家の縁類じゃ。その縁類のために働く いる美作を見ると、そのまま庭へおりて来た。 昨日の百姓姿とちがって、衣服を変えると五郎左の風采それで筋がとおり生涯一度の恥辱も、少しはそそげる道理 の方が美作よりも立派であった。 そ、フいう美作は誓書をぐっと内ふところにしまって、 「殿、無事に立ちもどりました」 「あたりまえじゃ。このあたりをおれの家来が無事に通れ「では五郎左、わしもいよいよ死んで見せようかのう」 158