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検索対象: 徳川家康 4
173件見つかりました。

1. 徳川家康 4

し力」 玄はこれまた日本中に鳴りひびいた大将 : : : われらずれで 「それゆえ申上げるのでござりまする。減敬の銭は利かぬは、とんとお力がわかりません」 : などと仰せられては立っ瀬がござりませぬ」 いっか減敬は御前の方に向き直って、また新しい茶を注 いでやっている。 「わるかった。もう言わぬ」 と、廊下へ侍女の足音がして、 「減敬は、こうしてご寵愛を受くる御前のおんためなら ば、生命もささぐる覚悟で居りまする。いや、それなれば 「大賀さまがお見えでございまする」 こそ、一人娘のあやめまで、若君のお側へ差上げたのでご襖の向うで唄うような声がした。 ざりまする」 十 「わかっている。わかっていながら、つい愚痴が多うな る。 ・ : 減敬」 「おう、彌四郎どのか、これへと申せ」 築山御前はそういって減敬の方へ手をのばした。 「女子はつくづく詰らぬものよのう」 「減敬、起してたもれ」 「で : : : ごギ、りましよ、フかな」 減敬は御前のうしろへ回って、夜具の中から両肩へ手を 「思うても見よ。殿は、あれこれとわらわが知るだけでも 、けた。御前はその手を上からしつかりおさえて、 五指にあまる女子どもと戯れて、何の不自由もなくお暮し 「よいぞ。そなたも同席しゃれ」 あるに、わらわは自分で病いを求める哀れさじゃ」 溶けるようなながし眼で減敬を斜めに見あげる。減敬は 「恐れながら、それゆえお館さまは、濶達に戦ってござり二人だけに通ずる眼で、かすかに首を振ってみせた。 まする。女子も近づけられぬようなお方では、このお栄え 「よいと申したらよいのじゃ」 は思いもより・ませぬ」 「戦と言えば、 : そちたちの眼には何と映りまする。こ 「そなた嫉いていやるのか、彌四郎は家来ではないか」 んどの武田方との一戦は」 そう言った時に、すっと襖が開いて、 「さあ : : : お館さまは日の出の勢い : : : といって甲斐の信 「ご免下されませ」

2. 徳川家康 4

トセ寸電 , まるくふくれた姫の腹部をいたずららしく見やってその 場へすわると、 「おのれは出すぎた奴じゃそ」 「片づけよ」 、、上寸にこ、つこ 0 「はい。恐れ入ります。つつしみまする」 「おのれはこの間、わざわざお父上に告ロしたと聞いてい 小侍従はよく聞えなかったと見えて、ちらりと姫へ視線 る。まことか」 をむけた。 ト侍従はハッとした。家康にへいはしたが、それを信康 「片づけよと申したのがわからぬのかツ」 はどうして知ったのであろうか ? 信康の声が大きくなると、 「なぜ返事をせぬ。耳がないのかツ」 し」 : お目にはかかりましたが、告ロなど思いも寄り イ . イはまた姫を見やって指図を待っ顔になった。 ませぬ」 「小侍従」 信康はまたじっと小侍従を睨んでいった。小さな感の 信康はパッと香函を手ではらった。 「あっ・ : 」と低く小侍従はさけんで、あわててそれを片不満が、なぜかじりじり大きくなった。 づけだした。 小侍従の勝気な面かげに、織田家の威光がにじんで見え 信長からの贈物ーーーそれを乱暴にあっかわれたことへのる。口さきでは詫びながら腹の中で軽んじているのがわか るよ、つだ。 不満が、姫の顔にもト侍従の顔にもあった。 「ト十寸」 言康はきりりと眉をあげて、二人を睨んでいった。 し」 「よ、 4 倉行はようやく香具をしまって、言康の前に両手をつ し」 「こなたは、この信康にさから、つのか」 落着きはらった動作が、またぐっと信康の癇の虫にふれ 、片づけさせて居りま え、興無げに存じましたゆえ てくる。 する」 0 8

3. 徳川家康 4

「その合図を待って、勝頼公みずから岡崎へご出陣ありた 四 い。いや、城攻めをせよと申すのではない。途中でそれが 彌四郎の妻女が、若党とともに膳をささげて出て来たと しが道案内に立とうと心得る」 「なるほどのう」 きには、減敬はもはや神妙な医者にかえって、彌四郎の首 「夜に入って大手前へ到着し、殿が長篠攻めの陣中より帰すじに鍼を打っていた。 : これは声高にそれがしが城内へ触れようと打合すべきことは完全に打合せた。 城されたと : 、い得る。そこで勝頼公は粛々と入城なされば、一兵も損ず家康のこれからの動きは逐一わかっていったし、彌四郎 ることは、こざるまい」 の戦略は減敬が考えてもまさに至妙と称するに足りた。 減敬はそっと庭の明るさに眼をそらした。すでに暮色は信康を初陣に出したまま一兵も血ぬらすに岡崎城を手に うす紫から黒に変って、厩の屋根に星がチカチカと見えだ 入れる。家康にとって岡崎城は心のよりどころであり兵糧 した。まだ出て行くには少し早い。減敬はまた膝をすすめ倉でもあった。 これを占領しておいて、あわよくばその子信康も質にす 「すると、その時には信康どの、われ等に同心されているる。 こうなってはいかに強情我慢な家康も、甲斐の膝下にひ とのご計算であろうか。あのご気性では、たとえ入城され れ伏すより他になくなろう。 たあととて一戦せずばやまぬお方と心得るが」 「お待ちなされ。もう一つ手土産」 「ほんとにひどい暑さで。さ、おひとっ」 足軽だったときの習わしで、彌四郎の妻女はみずから減 「ほほう、これはまた鄭重な」 「されば、その折には、それがしから殿にすすめて、若君敬の前へ銚子をささげていった。 には必ず初陣をおさせ申そう。年若ゆえ初陣は武節か足助「これは恐れ入りました。奥方さまのお酌では罰があたり : とすればこれも留守ゆえ間題はござるまい」 まする」 減敬は大形に手を振って辞退した。その代りに飯だけは 彌四郵はとろりと言って眼を細めた。 四たび替え。 100

4. 徳川家康 4

しかし房姫は姿を見せず、やがて村娘たちの手で膳が運 女子と、殿にひたすら感謝している女子と、二人あったら いずれを取るか。盲目の意志の働きゅえ : : : やはり絶えざばれ、酒が出た。 窓外はその頃から暗くなった。汀にささやく波の音がか る分別が : すかに聞える。 秀吉はもう一度手を振った。 「やめろや軍師どの、おぬしは、まるでこの家の姫が、わ虎之助以下の若ものたちは酒を遠慮して、むさばるよう に飯を食べだした。 しを昔フてでもいるかのよ、つに一一一一口いくさる」 そこへ洗足をとり終った若者たちがそろそろと入って来秀吉はいっかニコニコと笑顔になって、 「心尽しの鯉、これが美味いぞ。みな頂くがよい」 そう言ってあとでふっと大きな耳に手をあてた。 十 十三絃の琴の音が別室からもれて来たのである。 半兵衛はちらりと秀吉を見やって、ひとり言のように言 みんなが秀吉を取巻くようにして座につくと、この家の あるじ若童子丸が、村の娘たちに燭台を持たせてやって来った。 きんきよく 「あの琴曲は雲井のようでござりまするなあ」 前髪を残したまま、まだ仲びきらぬ稚なさを額にみせて「なるほど : 挨拶する。さすがに名門の末だけあってどこか気品が感じ「姫は名手と聞いていましたが、わざわざ座をはずしての 歓待と見えまする」 られたが、服装は姉とちがって粗末であった。 「、フし」 「そうか、お身が若童子丸どのか」 秀吉は、軽く挨拶をうけながら、この場〈再び房姫の現秀吉はことりと汁椀を膳において、若童子丸をふり返っ われて来るのを待った。 「どうじゃの、姫はここで弾いてはくれまいかの」 ( 信長に推挙して、家名再興を計ってやってもよいのだが 半兵衛もそのあとから、 「殿がご所望じゃと姫にお伝え下さらぬか」 それをこの若い当主よりも姉に話してみたかった。 っ ) 0 すす おさ 255

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敏感な彼の感は、言外にあふれるものに圧倒されて、 いっか素直な少年にもどっていた。 姫を迎えこ、 。しったあやめが、お茶をささげて人って来 うやうやしく家康の前にそれをおいて、ずっと下って信 康のわきに座をしめると、 「これこれ」 家康は茶碗を掌でつつむようにして、おだやかにあやめ をたしなめた。 「奥方がお見えじゃ。奥方は奥のあるじ、そなたは退って いようぞ。姫、これへ来られい」 「おお姫か : 姫のうしろに控えていた小侍従が、ホッとしたように家 家康のほおははじめて豊かに崩れた。 「めでたいめでたい。その子がの、次の竹千代であってく康を見上げたが、誰もそれには気づかない。 あやめはあわてて敷居ぎわへ引きさがり、小侍従に手を れるように祈っているそ」 とられた姫が、しすかに信康と並ぶまで、家康は眼をほそ 恵姫はつますきそうになって縁の端へ両手を突いた。 「お舅さま、いつに変らぬお元気なお姿、およろこび申上めて茶をすすっていた。 「三郎」 げ蓴よ , る」 「これこれ、堅苦しい挨拶はぬきじゃ、にしゅうてのう、 「姫も、お〕屋も聞くがよい」 奥まではなかなか顔も出せぬ。が、今日は三郎が思いがし ぬ孝行をしてくれたわ」 「戦っづきの今の世では、会うが別れの始めゆえ、申して 座にもどった信康は、そっとわきを向いて唇をかんだ。 おくが、こうした世にいちばん大切なは家臣じゃそ」 ( やはり父は父たった : : : ) 「おぬし達は、予に遠慮して、三郎を叱らなすぎるようだ の。叱ってくれよ」 ーっと大きく嘆息したとき、廊下 語尾をかすらせて、ふ を急いで徳姫がわたってきた。 徳姫の胎はもう誰の眼にもそれとわかるほどまるくふく れ、青葉に照りかえされた顔色が紙のように白かった。 6

6. 徳川家康 4

「阿呆なのか、それとも優れた生れつきゅえ、選ばれた女 おふうの顔にようやく血色がもどって来た。 「勝頼公は武勇は父に劣らぬが、思慮では遠く及ばぬゅなのか」 え、人質はおふうで勤まりまする。おふうはまず甲府へ送「殺されるように生れついた女だと、牛伏せの姥が申しま 、ハッキした」 っておいて、それから浜松の家康公へ味方すると 「牛伏せの姥とは誰がことそ」 リお心を決められるようにと : 「なるほど、その策略もおもしろい。それでそなたの父「作手の里の占いの上手な巫子でございます」 は、そなたに何と言った。甲府へ死ににゆけといったか」 勝頼は思わずはげしく舌打した。 をし」 五 「死ぬ気でそちは来たのだな」 「はい。それもただの死ではなく、火あぶりか、のこぎり勝頼は、こんな無抵抗な感じで、こんなにはげしい抵抗 びきか : : : それゆえ覚悟をするようにと」 に逢ったのは始めてだった。 おふうが相変らず他人事のように言うと、勝頼は急に胸斬られるどころか、火焙りも覚悟しているという。その 2 がわるくなった。 癖その覚悟は一人の巫女の言葉によって決定されている様 「そちはそれが布ろしくはなかったか」 子なのだ。 「いいえ、怖ろしゅうございました一 ( 一体この女を感動させる急所はどこにあるのであろうか 「それをなぜ引受けた」 「仕方のないことでござります」 「おふ、つ」 「仕方がないとは、親の命ゆえ仕方がないと申すのか」 し」 「いいえ、子にそうしたことを命じなければならない親「この世に何か申し残すことはないか」 は、もっと哀れ : : : やはり仕方がないのでございます」 「べつにございません」 「その方は : : : 」と、言いかけて勝頼はごくりと癇癖をの 「あったら勝頼が取次いで遣わそう。両親でもよし、貞能 みこんだ。 でも貞昌でもよいが」

7. 徳川家康 4

「とめるな。とめると、いよいよ腹の虫があばれるわい」 うな女子と、私を思うてか」 「思われたくなくば、余計な口出しせぬことじゃ。御身、 徳姫はきっと信康の裾をつかんで引戻した。 お父上が母の御前を遠ざけられたわけ、まだ気がっかぬ 「ここは殿の奥の居間、帰るとはいずれにお帰りになられ 力」 「何ごとも口にすなとは、舅御さまとて仰せられませぬ」 まする」 信康は癇癖らしく首を振った。 「またはしたない、案ずるな、あやめが許へ行くのではな 「ええ、黙らぬか。母の御前はな、気性の強さにまかせ 。表の寝所へもどるのだ」 て、表向きに口をはさむ。それがお父上の勘案を誤らせる「表へ参られるなら、この身もお供致しましよう。私はま ゆえ遠ざけられた。御身も母の御前の轍をふもうぞ。信康だ細かく大事な話をしてありませぬ。話さずに出陣させて は、女の道が立ちませぬゆえ」 はな、差出たこなたの指図はうけぬわ」 「なに女の道たと : ・ : 」信康は刀架から太刀をとると顔を その言い方が、あまり激しかったので徳姫はわなわなと 震え出した。 ゆがめてあざ笑った。 事の次第を岐阜には告げさせず、じっと心を労して来て「嫉妬が女の道だとは思いあがった言い方、姫 ! 御身 いるだけに、今は口惜しさが先に立った。 は、実家の威を笠に着て、この信康を軽く見る気か」 ( あやめに、うつつをぬかして、これほどの大事にも耳を 「もし、 ~ 右殿さま : 傾けぬ : : : ) 聞きかねて、ついに小侍従は二人の間へわって入った。 二人が血相を変えているので、小侍従は銚子をささげた まま固くなって居竦んでいる。 不央さに耐えられなくなったと見えて、 「あすの出陣をお控えあそばしてこのお争い、御台所もお 「おれは帰る ! 」 静まり下さりませ」 と、信康は立ちあがった。 小侍従は、そういうと、すぐにまた銚子をとって、 「ル又ー 「お願いてござりまする。ごきげんをなおされまするよ 319

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紙子の単衣に半武装で、胸元からは汗に光った疎毛がの 「お万の方さまがご懐妊のよし、そのお祝いでござります そいている。 「作左衛門どの、若君からの注進はお聞きでござりましょ 「お祝い : : 」と、おうむ返しにきき返して、 「フフフ、お祝いではあるまい。殺して来いといったろうな」 彌四郎は作左に対してはひどく言葉が鄭重だった。「そ う、困ったお人じゃ」 れがしに、小荷駄を引立て足助と武節の中ほどまでまいれ そこで軽く舌打して、 とのお指図でござりまするが」 「そうか、来なかったか、作左衛門どのは」 作左衛門は答える代りにじろりとまゆ毛のかげから彌四 そういうと、またあわただしく去っていき、入れ違いに 郎をにらんで、 御前は御殿へもどって来た。 「それで出向かれるのだな」 まだたかぶりは去らぬらしく、遠くから、 「癇癖の強いお方ゆえ、もし遅れましては : 「喜乃、喜乃」とわめく声が聞えて来る。 作左はみなまで聞かす、 二人はあわてて入側に出迎えた。 「能見の次郎重吉さまや、野中五郎では止めきれぬか」 「喜乃、姫の許しは得て来たはどに。さ、きようのうちに 「なかなかもってご武勇のお方ゆえ」 そなた岡崎を出発しゃれ。わらわも首尾を聞いたうえにて 作左衛門は相手のいうことなどきいてもいない様子で、 ここを発ちたい」 坐る間ももどかしげに、築山御前は手文庫から路用を出みけんのシワを深くした。 「七之助 ( 親吉 ) はお側にいない。わしが一緒に行くべき しかかるのだった。 五 「いや、そっ儀ならばご心配はござりませぬ。足助を一挙 にけちらした、あの勢いですぐに武節も落されることと存 浜松からわざわざ岡崎の留守居に回されて来た木多作左 衛門重次は、武器蔵の前で大賀彌四郎によびとめられ、ロじまする」 「彌四郎」 をへの字にして無愛想に振り返った。 ユ 24

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喜乃とお万の方が同時にさけんだ。 「お部屋さまも、声をお発てになりませぬよう」 よろめき倒れるお万の方のうちかけの肩が二つに裂か まだ喜乃をおさえたままでお愛はいった。 れ、肩越しにのびた喜乃の手首を、お愛がっかんでいた。 「本多さま、作左衛門さま、事のう済みましたゆえ、あと お万の方はよろよろッと奥へのめった。 のおさばきを」 「ええ、離してッ ! 」 障子の外で軽い咳払いが聞え、縁先から太い手が出て喜 つかまったと知って喜乃は狂ったようにその手を振っ乃の短刀は拾いとられた。 かみこ 胴丸つけて紙子頭巾をかぶった本多作左衛門が、草鞋が 事実、刺そうとした一瞬、お愛がどこにいたかも眼に入けのまま縁の障子をあけはなして室内の灯りの下〈顔をさ らなかった喜乃である。 らしたのはそれからだった。 入口にとろりと坐って、喜乃の胸さわぎなど遠く聞えな 作左はべつにお万の方は見やりもせずに、お愛に向って、 い位置にいるそんな安心が、もののみごとに裏切られてし 「もうよい。離しておやりなされ」 まったのだ。 そういうと、むつつりと縁に腰をおろして、 「お騒ぎなさいまするな」 「お前はたしか藤川久兵衛が妹娘、親の名までわかってい もがく喜乃の躰を抱くようにして、お愛は小さく耳許で るゆえ、舌を噛みきったでは済まぬそ」 叱りつけた。 と、重く言った。 「騒いではあなたのためになりませぬぞ」 五 そう言ってからびしりときびしい手刀が喜乃を打った。 喜乃の手からポトリと短刀が畳におちると、お愛はそれを お愛に手を離されると喜乃はよろよろとよろめいた。そ 音たてて障子に蹴りつけた。 して、作左とお愛にはさまれた形で畳に突っ伏すと、声を お万の方は、自分が何をされようとしたのか ? まだは あげて泣きだした。 つきり分らぬらしい。ポカンとした表情で、大きく肩を波「困ったことだ」 打たせている。 しばらくして、作左はお愛にあごをしやくった。一応は 物 ) 0 わらじ 239

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「仰せのとおり、されば家康は殿が、わざわざ浜松の守備 ところだった。 を見に来たものと断じ、侮るどころか、さすがは甲州勢と 「ご思案がっきましたか」 またしばらく黙って風音を聞いていた美濃が静かに促し舌を巻くに違いござりませぬ」 勝頼は、もはやその言葉を聞いていなかった。 ( 無念な : : : ) 「ここでこのまま引揚げると、家康は驚きましよ、つな」 しかし、それ以上に、自分を前へ押したしてつ と田心い 「美濃」 まずこうとする見えないカの動きを恐れてじれていた。 「よしツ」と、勝頼は、その見えない力をにらんでいっ 「家康の驚く道を選ぶとしようか」 「それが上策と心得まする」 「引けば無傷、進めば、浜松を得るか味方の大半を失うか 「だが、ただ引揚げたでは済まぬ。おぬしならばどのよう じゃ。あせるまい。時を待と、つ」 な手当をして引揚げるそ。それを勝頼に打明けよ」 「それが上々、早速触れさせましても」 美濃守ははじめてほおをくずし、勝頼にはっきり分るう 「よかろう。呼べ、大炊を」 なすき方でほっとした。 美濃守は、急いで幕の外へ出て、大声でお使番を呼び立 ここはどのようにいさめても引揚げさせねばならぬと、 てた。 心を決して出て来た信房だった。 まだ木枯は薄陽の平地をひょうひょうと吹きまくってい 「さよう、この美濃ならば、天龍川のガンザウ瀬を渡っ すくもたわら やしろやま て、社山を越え、甲州の蛸田原に陣しまする。そして金谷 台の築城を促し、二股、大居、光明、多々羅の諸城の制法 を定めて家康に、甲州の武備の抜くべからざるをよく頭に 刻み込ませ、しかるのちに甲府へ引揚げ、兵を休養させま する」 「なるほど、いったん社山を越えて退くか」 309